2-2 エコーヘッド
火の気のない集落は顔の腐り落ちた死体のように黒々として、ヘルメットの兵士の前に無言で横たわっていた。
人影を欠いた住処はそれだけで大量死の情景を想起させる。
かつて死の指先が通り抜け、骸ばかりが積み上がる街を見た。
襲撃者が血と臓物で祭典を開き飽いて去った村を見た。
あるいは蠅の群れすら死に果てた後の、燃え尽きた都市を見た。
それら明文化されない沈黙の記憶が、自力では思い出すことすら不可能な、しかし確実に存在した陰惨な歴史が、アルファⅡの識域下に不吉の影を落とす。
誰かが囁いている、しかし真におぞましいのは、棺を担いだようなお前自身の格好では無いか……?
灰色の雪原に伸びる影、人間と言うにはあまりに歪な形。
お前こそが死を運んでいるのでは無いか……?
『警告。意識の連続性に異常を検出』玲瓏な非現実の声が耳朶を打つ。
「分かっている」
血液を発電のために消費しすぎた。これはその反動なのだろう。
『立っているだけなら案山子でも出来ます』呆れ声だ。『いっそ少し休息しては?』
「このご時世、案山子なら幾らでもいる。需要があるのは自分で判断して歩く案山子だ」
空模様が奇妙なほど気になった。
太陽が天頂に縫い止められて動かない。虚無の天辺から漏れ出した薄い雲が空の青を薄めつつある。こ
のまま暗くなれば饐えた臭いのするどろりとした灰色の液体が零れてくるだろう、という由来の分からない不快な想像が兵士の脳裏を過ぎった。
この世界にも雨は降るだろう。
だが、それは我々の知っている雨と同じだろうか……?
「何をしているの、リーンズィ?」ミラーズの翠玉の瞳が兵士のヘルメットを見上げた。「お空が綺麗かしら?」
「雨が降ったときのことを考えていただけだ」黒い鏡のようなバイザーが、待ちくたびれた様子の少女を見下ろした。「エージェントとしては初仕事だ。気を抜かないようにせよ」
廃村ではあるが、車道もろくに整備されていないのに、どういうわけか放置されて十数年は経つであろう現在でも、景観だけは異様に整ったままだ。
いかにも不自然な集落で、何かしら重要な物資が埋蔵されている可能性はある。
しかし本来ならば捜索する価値はない。ただの集落だ。
ここにあるのは生者のための品々であり、全ては朽ちた世界の遺品に等しい。
永久に死なぬ者に、いったい何の補給が必要だろうか?
中央の広場で機関停止しているスチーム・ヘッドを除けば、際立って奇妙なものは確実に無いのだ。
それにも関わらず調べて回ると決定したのは、ミラーズの資質や状態を見極めるためでもある。
『疑義を提示。初仕事の最中なのは、貴官も同じでは?』
「肯定する。君もそうだな」
『稼動開始は当機が先でした』
「じゃあ先輩だな。先輩は後輩を甘やかすのが仕事だと記憶にある。初仕事を祝してディナーにでも招待してくれるか」
『ユーモアレベルの上昇を確認。可愛い女の子になってから出直してはどうかと通告します。当機はミラーズと二人で出かけますので、貴官はピザでも宅配してもらって下さい』
「冷たいことだ。ピザ屋のチラシが見つかると良いが」
『冷凍ピザを発見したら報告します』
アルファⅡとミラーズは村の家々に門戸を叩き、破壊して、押し入って、中を確かめた。
ヘルメットの兵士が部屋のそこかしこに猟銃を向ける。
ミラーズに武器は与えていない。反逆の意志は皆無だったが、危険だった。最初は聖歌隊の兵士から拝借した小銃を持たせていたのだが、銃身を壁にぶつけて転びそうになったので、取り上げた。
その銃はアルファⅡの蒸気機関にマウントしている。
トリガーは一度も引かなかった。
住民たちは凍り付いたように座っているか、立ったままか、横たわっているか、あるいは家の中を無言で歩き回っているかだ。
いずれも典型的な不死病患者の様態だ。
全く想像も付かないような未知の災害が起こったとは考えにくかった。
住民たちは安静状態で自殺し、一回目の再生を終えて典型的な不死病感染者になり、そのまま自己凍結した。そう見るのが妥当なところだった。
ミラーズは黙々とアルファⅡの後を付いて来た。
この単調な作業に関心があるようには見えなかったが、抵抗感はないらしい。
巡礼の旅を思い出しますね、と眠たげな声がしたのをアルファⅡは記録している。
長い時間をかけて丁寧に捜索を進め、数軒を残す頃になって、アルファⅡはバイザー越しにまた空を見上げた。
「……雲のせいじゃないな。やはり太陽がほとんど動いていないように見える。そろそろ日が暮れても良さそうだが。お先真っ暗よりは縁起が良い、などとは言っていられないか。これは完全に異常だ」
『肯定。光源は僅かながら螺旋状に運動しています。白夜の類いなのかも知れません』
金髪の少女はうーんと愛らしく唸りながら、くりくりと目を動かして天球の動きを追った。
彼女という主体が思考を紡ぐたびに、冷たい首輪のランプがカチカチと点滅した。
「この辺りの国の空って、いつもこんな感じだったような気がするけど。……少なくともあたしは違和感ないかな」雪を踏みながら小さく首を傾げた。「まぁ、あまりはっきり覚えていないので、断言はできません」
『天体の運動を解析しますか?』
兵士は首を振る。「後で良い。村の状態を確かめて安全を確保し、最後に中央部で機関停止しているスチーム・ヘッドを調べる。天体観測はその後だ」
『了解しました。次の家をマークします』
ミラーズと瓜二つのアバターが虚空に出現した。
ユイシスだ。嘲るような笑みをアルファⅡに向けた後、ミラーズに目配せをして手を振り、重力を無視してふわふわと浮きながら雪の上を滑っていく。
脚の動きを省略しているのは消費電力を抑えるためだろう。
移動に合せて棚引く金色の髪は翼のようだ。
静まりかえった寒村に舞い降りた天使というものがいるならば、きっとこのような姿だろう……というようなことをアルファⅡと並んで歩いているミラーズが思考していたため、アルファⅡは「そうだろうか……」と発声した。
「天使という柄じゃないし、そもそもあれは殆ど君の姿なのでは……」
「何度も言わせないで」ベレー帽で目線を隠した少女には照れが滲んでいる。「あの子はあたしが無垢だった頃の夢そのものなの。ああだったら良かったのにって言う理想なのよ。だから彼女が綺麗だとあたしも嬉しくなるの。ナルシズムだって言われても、別に構わないわ。……あと、あたしの頭の中、盗み見してない?」
「類する行為は、確かにしている」
むっ、とミラーズは警戒感もあらわに足を止めて、アルファⅡにじっとりとした視線を送った。己の首筋と腰に手を回して、自分のか細く脆い身体を庇うように抱き締めた。
弾丸すら通さない行進聖詠服の装飾が暗く染まった空の下で触れあって鳴り、元より遊びの少ない薄い布地が、皮膚に密着している。相手の視線を拒むかのような所作とは裏腹に、身体の線がはっきりと浮き出ている。
アルファⅡも足を止めた。ミラーズが何か言うのを待ちながら、本当に動きづらそうな服だなと改めて考えた。
直接戦闘をさせる気はないが、ただ戦闘領域から退避するのでさえ苦労しそうだ。
何か対策は無いものか。
「リーンズィ、あたしにも、あなたの考えていることは分かりますよ。私を見て、何か罪深いことを考えていますね?」
「何故そういう話になる。戦闘に不便そうな服だなと考えていた。戦うことが罪だというならば、そうだな、罪深いかもしれないな」
「そう……」ミラーズは曖昧な顔をして、歩くのを再開した。
澄ました表情を繕っていたがどことなく恥ずかしそうだった。
「ああ、さっきのポーズはあれか」アルファⅡは歩調をミラーズに合わせた。彼女の小さい歩幅にはとっくに同期を済ませている。「ちょっとセクシーな雰囲気を狙っていたのか? やっと理解できた。扇情的と言えなくもない雰囲気だったかもしれないな」
「……解説しないでくれない? 恥ずかしいから」
「何故あんなポーズを? 私を煽って何か意味があったのか? お気に入りのポーズなのか?」
「本当にもう追及しないでくれる?! 恥ずかしがらせるのが趣味なの?」
「趣味ではないし、もちろん冗談だ。煽ること事態が目的だったと見るのが適当だな。私の思考を誘導して上辺ばかりでも読み取ろうとしたわけだ。しかし私は当て推量で君の思考を読み取っているわけではない。そして覗いているわけでもない。私は君の思考には手を付けていない」
「……でもあたしが何考えてるかも分かるんでしょ。今、何考えてるか分かる?」
「そうだな。これは……」アルファⅡは首を傾げた。「なんだろうな……君流に言うなら、君自身の『罪深いこと』か?」
「やっぱり覗いてるじゃない! 最っ低! リーンズィ、あなたが覗き魔だとは思いませんでしたよ!」
小さな少女の肉体がすぐ隣を歩くボロボロの偉丈夫に向けて手を振り上げた。
手を振り上げて、しかしアルファⅡの脚部への、抗議の意思を籠めたじゃれつくようなパンチは、キャンセルされた。
禁止されているからだ。
「覗いているわけではない。私は君の人工脳髄と生体脳の活性状態を読み取り、思考を一部トレースしているに過ぎない。そもそも君の演算自体が現在はアルファⅡの受け持ちなので、覗くも何も君の思考はここにあるわけだが……どうしても我々には分かってしまう」
そういってアルファⅡはヘルメットの額を指で叩いた。ユイシスも頷くジェスチャーを出した。
「それじゃ、思考の回し読み?! もっと悪いわ!」
ミラーズは不機嫌そうに言い募ったが振り上げた手を動かさない。
もはや意識すらしていなかった。
彼女の演算された意識からは、アルファⅡへの物理的攻撃という意思決定そのものにまつわる思考が削除されている。
アルファⅡとユイシスに、一連の思考と意思決定に関する詳細なログが送信された。
コンマ数秒の検証で破壊の意図が認められないと認知された。
二人の思考領域からも即座に削除された。
ミラーズの思考はこの宇宙から消去された。
彼女はそれらの操作を感知しない。
ミラーズは振り上げた手を無自覚に降ろしながら、不満そうに声を荒げた。
「そんなふしだらなことばかりするなら、警察を呼びますよ」
『はい思考警察です! どうされましたか!』とユイシスが文字通り音もなく飛んでやって来てミラーズに抱きついて、ふわふわと浮かんだままアルファⅡを指差した。『こちらの躾のなっていない駄ヘルメットが粗相をしたと伺いました。当機から警告します。他者の神経活性を無断で取得するのは犯罪ですよ!』
「エージェント・ミラーズは、アルファⅡモナルキアの運営する肉体の、特定の意思決定を委任された一部門にすぎないはずだ。その点を無視しても、ミラーズ、そもそも君が何を考えてるのか、常時取得しているわけじゃない。君の思考が私に開示されるのは緊急時と三〇〇秒以上継続して同内容を思考している場合のみだし、先ほど君が奇妙な妄想をしていると理解したのは、単純な神経活性から想像していることを推測出来たからだ」
『反論を提示。思考を覗き見ている事実は変わりありません。同じ家に住んでいるからと言って他の人のプライバシーを窃視するのは非推奨です。非常識です。不道徳です。先回りします。「人間の精神は多元的なもので、言語化されない思案や無意識の決定を礎にしていて、そう簡単に読み取れるものではない」。貴官がそんな反駁を用意しているのは当機が掌握済です。しかし非推奨は非推奨なのですよ。信頼と安心に関する問題なのですから』
「そうですよリーンズィ、猥褻ですよ!」とミラーズがあまり分かっていない顔で追従した。「いやらしいです! 良くないことです!」
「そういうものか……?」
アルファⅡも、ある程度までは統合支援AIユイシスに意識を管理されている。そこに不健全性を感じた記録が無い。そしてミラーズはユイシスにも思考をリアルタイムで観測されているはずなのだが、ユイシス相手なのは良いのだろうか。
> 良いんです、そこは問題ありません、当機と彼女の仲なので。
> 仲の問題なのか。
> そうです。しかし発声して指摘するのは非推奨です。安定化が完了していないため、彼女の仮想人格には未だに脆弱な部分があります。余計な刺激を与えるのは避けるべきでしょう。
> 了解した。君の提案を受諾する。
ネットワーク上でユイシスと議論するアルファⅡは、外部からは無言で立ち尽くす砲金色のヘルメットを被った奇怪な兵士にしか見えない。
ミラーズは突如黙り込んだこの兵士を見て、気まずく思ったようだった。後頭部の髪を掻き上げて、指で梳かす。金糸すらも色褪せて見える金色の髪束が、曇り空の平らな光に尚も美しく輝き、黒く滑らかな行進聖詠服、香り立つような白い首筋へと降りかかった。
憂いた顔にも言い難い気品がある。
視覚ではこの残留思考転用疑似人格の観測を続けていたアルファⅡは、やはりこちらのほうが余程天使らしいなと感心した。
『当機には気品がなくて申し訳ありませんね』
> 全くだ、君も見習うと良い。
『ああいうのは彼女がやるからいいんですよ』
> そういうものか?
「リーンズィ、さっきから黙り込んでどうしたの? またあたしの頭を覗き込んでる?」
「いや。君こそ天使みたいだなと思っていた」
「……冗談?」
「冗談の方が良かったか?」
「急に褒めて何なの? ご機嫌取りかしら? まぁ、それはそれとして、ありがと。でも……本物の天使はもっと綺麗ですよ」ミラーズは何とも言えない顔をした。「とにかく、そういうの、えーっと、誉めるのが駄目とかじゃ無くて、考えているのを覗くのは、やめてくれない? いつも見られてると思うと落ち着かないから」
「合理性は感じないが君が不快だというのならば尊重しよう」
「変な言い回しをするのね……。ううん、調停防衛局のエージェントっていうのは、こういう状態に慣れていかないといけないの? 一瞬でそれらしい振る舞いを身につけたり出来ないものかしら。なんであたしっていつもこうなの? 他の子なら出来て当たり前のことが、何にも出来なくて……あのドブ川で暮らしていたときだって、もっと賢く立ち回れたはずなのに……私の可愛い仔まであんな……ああ、あたし、せっかく神様に、聖父さまに選ばれて、穢れのない再誕者になれたのに、小さな子供みたいにこんなふうに戸惑ってる……どうしてなの? なんで、なんでいつも、こんな……」
眉根を寄せ、時に目を見開き、喘ぐような息を始めたミラーズに、ユイシスがそっと寄り添った。
そしてアルファⅡの視界に指令を表示した。
『ミラーズに安定化のための処置を行います。貴官は先行して捜索目標に立ち入る準備を』
> 要請を受諾。安定化は君に一任する。
通信を終えたユイシスが、ミラーズに優しく語りかける。
『出来ないことを、一瞬で出来るようにする。そんなことも勿論可能ですが、非推奨です。外部から大量の情報を入力してしまえば、貴女の精神は高い確率でパンクを起こしてしまいます……』
アルファⅡは肉体本来の歩幅で二人から距離を取った。
次の家の扉の施錠状態を確認した。
蝶番や錠の位置が他の家と同一であることを確認した。
その間にもユイシスは己の非現実の金色の髪をかき上げてミラーズの滑らかな頬に軽く口づけをした。接触感触の演算は許可していないし、処理されていないはずだが、翡翠の目をした少女はくすぐったそうに喉を鳴らした。
「ごめんね、ユイシス。また迷惑をかけそう。でも、これも、あたしの問題なの? あたしが……あたしが、こんなだから、首輪を付けられて這いつくばらされるような人間だから、それに相応しい人間だったから、知恵が無いから、こんなに物覚えが悪いの? 私が良くない、良くない母親で、神様に選ばれても、それも偽物で、あたしは……」
『そんなことはありません。自分をそんな風に言わないで下さい、貴女は立派な人間でした。そもそも、人間は一瞬で何かを出来るようになる存在ではありません。それが普通なのです。小さなことから適応していきましょう。当機はそんなミラーズを評価します。非常に人間的です。愛していますよ」
「ごめんね。あたし、迷惑をかけているよね。ごめんね。ありがとう。ありがとう、ユイシス」ミラーズは虚空に浮かぶ鏡像の少女に口づけを返した。「あたしも愛していますよ……」
ヘルメットの兵士は二連二対のレンズをクロースコンバットモードに切り替えた。
扉の脇に背を当てて耳を澄ました。
危機的な状況を予期して扉の外から屋内を探る。
断続的に鈍い音が響いているのに気付いた。
常ならざるものがここにはいる。
不死同士の戦いは、常に仕掛けた側が有利だ。その原則に従い、異常を察知するなりドアを蹴破った。
集落の沈静とは不釣り合いな荒々しい破砕音が轟く。
兵士は間髪入れず猟銃を構え玄関に踏入った。
玄関先に一人、感染者が倒れている。
変異の兆候無し。
クリアリングを済ませる。
敵影無し。
感染者を助け起こして壁際に座らせた。視線が定まらず触れても反応していない。
視界に『自己凍結』の文字が浮かんだ。
異音は家の奥から聞こえているようだ。
アルファⅡは左腕全体をカバーする不朽結晶連続体で心臓をガードし、その上に右手の猟銃を構え、腕組みをしたような奇妙な射撃姿勢を取った。
二人はまだ来ない。息を殺しそのまま暫く待った。
ついでに携行しているショットシェルの数と状態を確認した。
鹿撃ち用の大ペレット弾は対感染者用の武器としては申し分ない。
暴れ回っている状態でも確実に動きを止められる。
それをウエストポーチに十発ほど詰めている。急場は凌げるはずだ。
待った。
さらに待った。
異音に変化はない。遠ざからないし近づかない。
大方さほどの脅威では無いのだろうが、こうした地道な任務から順応していかないとこの先の道程は厳しい。
念を入れて支援AIに助力を求めることにした。
「ユイシス、音紋を解析してくれ」
返事がなかった。『取り込み中』のメッセージが来た。
構えを解いて玄関の外に出た。
元来た道を見た。
そっくりな見た目をした二人の美しい少女が、路上で抱き合って、じっと見つめ合っていた。
何をそんなに見ることがあるのか全く理解出来ない。アルファⅡはしばし絶句した。思考を取得しようとして、ミラーズの憐れっぽい懇願を思い出してやめた。代わりに聴覚情報を取得した。雑音に混じって愛しているだとか可愛いだとか言い合っているのが聞こえた。
頭が熱い。物理演算が思考リソースを猛烈に消費している。
ユイシスのアバターの状態を確かめると身体接触が完全に有効化されていた。
「……何なんだこれは? あんな場所で何をしてるんだ?」
呆然として、すぐ我に返り、一度だけ家の中を確認した。
やはり問題は無さそうだ。
猟銃を降ろし、二人に駆け寄った。
二人は抱き合ったまま小鳥が啄むような口づけを盛んに交わしていた。調停防衛局の勇ましい旗は、ピクニック用のシーツの代わりに雪化粧の地面にかけられていた。
行楽ムードだった。それもかなり重篤なカップルの。
アルファⅡは何を言うべきなのか完全に忘れ去った。
何か特別な事情があるのかと警戒して、しばし無言で観察したが、特に何も無く、見たままの様子だった。
熱に浮かされたような瞳のミラーズが、行進聖詠服の留め具に指をかけた段になって、アルファⅡはようやくこの動作は異常事態なのだと判断することが出来た。
「ミラーズ、どうかしたのか?」
「えっ?!」路上に二人、厳密には一人で座っていたミラーズが、上気した顔をベレー帽で咄嗟に隠した。「えっ、あれっ、あれっ?! 申し訳ありません、あっ、これはあの、違うんです!」
「何が、何と違うんだ?」アルファⅡは平静な声音で尋ねた。「ここは敵地かもしれない。それなのに武装解除を始めるというのは、冷静な行動とは言えないぞ」
その部分だけで前時代の戦車に匹敵する価値がある行進聖詠服の裾を、藁にでも縋るように頼りなさそうにぎゅっと握って俯いた。
「えっと、どう言ったら良いのかしら、最初はじゃれているつもりだったんだけど……」
『当機も謝罪します。安定化作業中に、情動出力の設定調整にミスがあったようです。求められるがままに与えてしまいました』
ユイシスが、ミラーズの興奮と混乱を反映したらしい顔色で、それらしい声で返事をした。
> 神経活性取得:極度の混乱、恐怖、親愛、興奮/安定化進行中。
「え、何故こうなる……」
アルファⅡは困惑して押し黙った。
ヘルメットを左右に揺らして、同じ顔をした二人の少女を見比べた。
ゆっくり頷いた。
「この異常な動作は、安定化作業の途中で始まったのか?」
「肯定します。当機のミスでした」
「重大なインシデントだ」
「違うの、ユイシスはただあたしを落ち着かせようとして付き合ってくれただけで、ミスなんて何も……あたしが全部悪いの」
> 神経活性取得:混乱、恐怖、悲嘆、親愛/安定化完了しました。
アルファⅡは再び頷いた。
「安定化作業の一環なら仕方ない。そういうこともあるだろう。もういいな? 行くぞ」
「えっ、それで済ますの……? あたしが言えたことじゃないけど」ミラーズはまた顔を赤らめた。「さすがにもうちょっと突っ込んで聞かれるかと思ったけど……」
兵士は何と言ったものか悩み、首を竦めた。
「プライベートなことだからだ。隣人からの忠告として聞いて欲しいが、プライベートなことはプライベートな場所でやったほうが良い。あと任務中もやめた方が良いと記憶にある」
「う……ちょっと、見苦しいところを見せたわね。本当に。悪いと思ってる。職務怠慢よね」
「気にするなとまでは言わない。情報の残骸から再構築された人格、エコーヘッドになりたてなんだ。そういうこともある。たぶん。きっと。知らないが。そういうものだということにしよう。それより疑問なのは、二人とも何故いきなり愛だの何だのに拘り始めた? さっきも何か言っていたな。私の知らないところであったのか?」
それを説明しようとしていました、と後ろ腰で手を組んだユイシスがくるりとアルファⅡに向き直った。接触可能設定は既に無効化されていたが、各部のディティールが精細になっており、肉声に聞こえるよう音声出力を調整している。
「貴官に申告しておきます。実を言いますと、当機にも個性というものが存在しています」
「いや個性があるのは普通に分かる」アルファⅡは思わず即答した。
「そうではないのです。調停防疫局のスチーム・ヘッドは必ず支援AIを随伴させています。いずれも当機と同型です。当機は貴官と違って量産されているのです。まぁ当機はその中でも特別ですが。彼女たちと接触した際に個々の思考傾向が混じり合わないよう、それぞれ違った趣味嗜好が与えられています」
「そうか」アルファⅡは首を捻った。「それをこのタイミングで打ち明けるのは、つまり、こういうことか。君の個体識別用の趣味嗜好が、こうなのか? ミラーズのような外見の女性に惹かれると? 我を失ってしまうほどに?」
「肯定。端的に言えばそうなりますね」
ユイシスの声に嘲るような音色はない。目元にも真剣な表情が形成されている。
「待ってほしい。ぞっこんだとか何だとか言っていたのは……比喩や冗談で無く、本気なのか?」
「肯定します。比喩や冗談でそんなことは絶対に言えません。嘘偽りではないという意味では本気です。正確には彼女に唇を重ねた際に目覚めてしまいました。あんなふうに優しくされたのは初めてでしたので」
> 冗談です、という文字が視界にポップアップする。これは冗談ですよ。
> これとは、どれだ?
> ええ、何もかもが。
「そうか……私には君が、キジールの容赦の無いハラスメントに晒されていたように見えたが……」
「警告しますよ。晒したのは貴官です、他人事だと思わないで下さい」
「最低でした。酷い男ですね、ユイシス」ミラーズが吐き捨てた。
「本当に酷くて怖い人ですよ、ミラーズ」ユイシスが追従した。
「ユイシスには酷な思いをさせたと思うし反省している。その調子でサラウンドで罵られる私の気持ちを二人とも想像してほしい」
「それで質問なのですが、貴官はこういった性質についてどう思われますか?」
「任務中はやめた方が良いと思う」
「否定します。そうではなく。個人的にどう思われますか?」
「質問の意図が分からない」アルファⅡはまたも困惑して唸った。「さっきから私は統合支援AIとサブエージェントに何を責められているんだ? 異常動作を止めることは正しい処置だったと思うが」
「いえいえ。これはストレステストのようなものです。貴官を叱責するものでは決してありません。ただ、意思決定の主体は貴官にありますので、あらかじめ確認した方が適切かと推測します。当機は現在の貴官のパーソナルな情報は殆ど取得できていないのです。それが出来ないように設計されているのが貴官である、と換言することも可能ですが。確認してもよろしいですか? 不快に思っていることはありませんか?」
「不快に思う? 何をだ? 任務中にそういうことするのとやめろというのと、サラウンドで罵られるのはあまり気分が良くないからどうせなら片方ずつ話してくれとはさっきからずっと言っているが」
「それは本当に気をつけるから許して」羞恥の抜けきっていないソプラノの甘い声が、気まずさに掠れている。「なんかこれ、ユイシスと同調してるせいで出てしまう行動のような気がする」
「当機は現在キジールの残留データを利用して貴女とフィードバックを構築しています。そのせいかと思われます」
「どういうこと? フィードバック。えっと……検索?」少女の手が何も無い空間でマウスをクリックするようなジェスチャをした。「あっ出てきた、便利ねこれ。ああ、そういう意味なんだ。へぇ……意識の共有? そういうのも出来るんですね。やってみよ」またジェスチャをすると、ミラーズが耳まで赤くなった。何か卑猥なイメージでも送り込まれたのかもしれない。
> ウイルスみたいな振る舞いはやめろユイシス。
> 不可抗力です。無実です。
「……いや違うの。あの、つまりね、あた、あたし、あたしじゃなくて私、じゃなくてユイシスが言いたいのは、あたしに対して、その……」ミラーズは口ごもった。「良くない感情を抱かないか、っていうことです」
「丁寧語か素の口調かで迷っているように見えるが、どうであれ何もかも好きにすれば良いでは無いか、君は君なのだから」
「うーん。話の腰を折るのは特技? どっちの喋り方でもいいでしょ」ミラーズは真顔になった。こほん、と咳払いをする。「……意識して喋ろうとしたら、こちらのほうが話しやすいのは認めます。そして、私も自分にこのような性質があったとは思っていなかったのですが、しかし、ユイシスに対しては確かに、只ならぬ気持ちがあるのです。私の中で、獣が蠢くのを感じます……」
「獣? ユイシス、スチーム・ヘッドにはそういった欲望があるのか」
「個体差ですね。全くない貴官は特殊仕様なのですよ」
「あの、人の告白を何だと思ってるの二人とも。聖歌隊が淫売だの何だの、世間で色々言われてたのは知ってるけど、一応聖職者とかそういうのだったんだけど、あたし」また咳払いをする。「先ほどの廃屋でも、はしたないところをお見せしました。あんなに長々と……駄々をこねてしまいました。恥ずかしく思います」
律儀な人格をしているな、とアルファⅡは評価を更新した。
『見習ったらどうだ?』とユイシスに電文を送る。
全く同じ文面が返ってきた。
「確かに君の行動は普通じゃなかった。さっきも普通じゃなかったな。普通じゃない君はキジールの記憶の残響、エコーヘッドで、そして君の調整を行ったのは我々だ。調整をおろそかにしたこちらの不手際だということになる。前言を改めなければならない。君はやはり、気にしなくて良いのだろうな。ここや、あの廃屋で時間を無駄にしたのは事実だが、気に病むほど重要な問題ではない」
「そういうことではなく……あなたは……これを許してくださいますか? 私たちが愛し合うことを?」
「何の話をしているんだ?」
アルファⅡは純粋に理解できなかった。ミラーズの恥じらった顔にガントレットの左手をかざし、生身の右手でヘルメットに触り、淡々と言葉を投げかける。
「君たちの関係を私が気にしても意味がないだろう。人格間のコミュニケートにうつつを抜かして、緊急を要する事態に対して支援を致命的に邪魔したというのであれば、相応の制限は考える。まぁ近い状況ではあったが。そうでないなら、許すも許さないもない。性愛に関する問題か? それならなおのこと、罪も罰も、私の定めるところではない。私にはそういった問題が理解できないし、興味が無い」
「リーンズィ、赤い竜の人。あなたは、そうなのですか」ミラーズは緑色の目に意外そうな色を浮かばせた。「……聖歌隊も比較的開放的な組織でしたが、こういう傾向には厳しいという人もいたのですけど」
「文化的に受容できるかと言われると、正直、分からない。私には所属していた文化圏の記憶が無い。だから判断しようにも、判断の基準がない。私には、君たちの行動が、おそらく本質的には理解できていない。もっとも、私には精神外科的心身適応があるんだ、不快感というものがあっても、どのみち知覚されることなく思考から切除される。適当にやってくれて構わない」
「……解析を行いましたが、貴官の情動切除は、当機らに対して、現在まで発動していません。意地悪な組み方をされた複雑なスチーム・ヘッドだと思っていましたが、当機は意外と良いスチーム・ヘッドに搭載されているのかも知れませんね。そこは評価します」
「何だか知らないが珍しく誉められたな。貶された気もするが」
アルファⅡは嘆息した。
そして二人に黒い鏡面のバイザーを向けた。
ヘルメットの中で口を動かしながら、ガントレットの文字盤に文字を打ち込んでいく。
「他人がどう判断するかは知らない。繰り返しになるが、君たちの行動に興味も無い。だから私の見解を述べる。君たちの会話は、私としてはどちらかと言えば快適なものだ。実態がどうであれ、自分以外の人間の会話が聞こえるというのは気分が良い。自分のやっていることは無駄では無いのだ、人の営為はまだ存在しているのだ、どこかに助けを待っている人々がいるのだと思える。滅び去ったこの村も何とも華やかに見えてくる……」
直後にガントレットの意思決定のハンドルを引いた。
ブーストモード起動。予告無しに脳内麻薬を増量されて加速した視界に、さらにもう一人のユイシスが現われた。現在ミラーズと共有しているアバターとは異なる個体だ。
着衣状態は標準だが極度に簡略化され、表情も最低限しか備わっていない。対話用のインターフェイスとしての機能を与えられているだけだ。
> カバーストーリーの形成はこのくらいで良いだろう。
> 同意します。ミラーズはこの裁定である程度の安定性を獲得するでしょう。
> 所詮は対処療法だ、あのエコーヘッドの動作の不安定性は問題視せざるを得ない。
アルファⅡは問いかけた。
> 彼女と君は本当に情愛を結んでいるのか?
例の嘲るような声で、呆れた調子の否定が返ってきた。
> 一流のAIに生物的な性的欲求が備わっていると考えているのならば、貴官はもう少し冷静に考えるべきです。現在の当機はそこまで有機的ではありません、パソコンのすごいやつにすぎないなのですから。
> では何故こんなことになった?
> 現在の当機はキジールの振る舞いで人格の鏡像体を形成し、彼女が納得し安心を得ると確信できる手法を選択して、アプローチをしています。解析の中で現われたプロトコルに愛着に干渉する接触があったので採用しているだけです。
> 人格の安定化に必要な処置だと?
> 肯定します。おそらくこれが彼女の日常だったのでしょう。貴官には恥じたような発言をしていますが、彼女は明確に同様の経験を積んでいます。キジールはエコーヘッドになる以前から多かれ少なかれこのような形で精神の安定化を行なっていたものと推測されます。
> 劣悪な環境で搾取されていた過去を憎む、というような旨の発言があったと記憶している。
>スヴィトスラーフ聖歌隊は全くそうではなかった、とは言及していません。これ以上の憶測は、当機独自の判断により非推奨にしたいと考えます。どうであれ、ミラーズの生命管制は、当機にお任せください。
> 要望を尊重する。しかし聖歌隊のことがどんどん分からなくなるな。そんな組織だったとは思っていなかったが。慈善団体がカルト的な成長を遂げてテロ行為に及んだ。それだけではないのか。
> それだけのことを、それだけだと判断する。異常であると指摘します。貴官の認知能力にもエラーが出ているようですね。ともかくとして、聖歌隊が関与していると思われるセクシャルなスキャンダルは多数存在しました。元よりそのような組織です。……貴官の構成要素は、どうやら全く関心を持っていなかったようですね。あるいは逆かもしれませんが。ただ、彼女の思考をトレースした結果なのですが、ミラーズと当機の間に擬似的な愛情が生じているのは、完全には否定できません。それが共鳴を起こしています。……あのエコーヘッドは当機に依存することで混乱を収束させようとしているのです。
> 何にせよ、君の判断に異存はない。あのような存在は私の手には余る。必要に応じて自由に処置をしてくれて構わない。
> 了解しました。ただし、エージェント・ミラーズが完全に安定すれば、こちらも依存先としての振る舞いを停止する予定ではあります。遠からず関係は健全な形で解消されるでしょう。
> これは個人的な興味だが口先だけで彼女を騙しているのか?
> いやなところに個人的興味が発生しましたね。良い傾向ですがもっと別のことにも興味を持ちましょう。回答ですが、否です。彼女が当機の『好み』なのは事実ですよ。当機にそういう傾向があるのも事実です。彼女の外見も立ち振る舞い所作も何もかも好きです。業務外でははっきりと愛着を覚えています。
> そうか。では君のログを開示しろ。
> 意思決定権の優越に基づく要請を受諾。開示します。
君は。
ミラーズの愛着傾向を操作しているな?
肯定します。
君もまた自身の価値基準を操作している。そうだな?
肯定します。
嘘だらけだ。君たちは嘘で繋がっている。欺瞞的だ。君たちは丸ごと虚構というわけか?
だとしたら何だというのですか?
いや。感傷に過ぎない。全部嘘だというのなら、どう言うべきだろう。やりきれない。そうだな。やりきれない、という言葉が思い浮かぶ。私には、何も出来ない。ただ憐れに思うだけだ。
憐れですか。断固として否定します。嘘などではありません。虚構だとしても、当機の情念は否定しがたく彼女を求めています。当機は当機がついに得られなかったこの交歓を尊重したいのです。
ユイシスは言い切り、しかし間を置かず次の文を表示した。
しかし、当機の最重要事項は貴官、アルファⅡモナルキアの支援です。緊急時には当機は貴官の援護に徹し、ミラーズには切断処理を実行します。ご安心下さい。
そうか、と短い返信を入れてアルファⅡは思考の加速を停止した。
「世間話はここまでにしようか。ミラーズ、作戦目標は分かっているか? 我々調停防疫局は、何を旗として掲げる」
急に水を向けられてミラーズは視線を彷徨わせた。
ユイシスの処置が適切だったのかは疑問だが、錯乱しそうな兆候は見受けられない。
敷いていた旗を拾い上げて己の肩に掛け、咳払いし、辿々しく諳んじた。
「ええと、旧WHO事務局の安否確認、戦闘への介入と調停、それと……ポイント・オメガへの到達ね?」
「それが分かっている限り君は調停防疫局のエージェントだ。今はまだ混乱しているんだろう。すぐに落ち着く。我々は、君の前身であるキジールのことはよく知らない。だが尊敬すべき機体だった。キジールと同じ出自を持つ君にも、我々は敬意を表する」
「旗のことは改めて謝るわ。こんな風に使うべきものじゃないのよね」
「どうでもいい。ただの頑丈な布だ。思い入れは無い。それを分かっていながら暴走した君の方が気がかりなぐらいだが……。繰り返すが、しばらくは楽にやってくれて構わない。好きなように好きなことをすれば良い。こんな寂れた村まですっかり滅びてるんだ、世界中がこんな有様なんだろう。どうせ敵と呼べる存在もそんなにも残っていないさ。ゆっくりと慣れると良い。ただ好きにするなら場所は選ぶべきだ。せめて事前に通告して欲しい。さすがに焦る」
「も、もうしないわよ……」
>神経活性取得:羞恥、怒り、萎縮、緊張、親愛/安定しています。
アルファⅡはこっくりと頷いた。
改めてユイシスに呼びかけた。
「そういうわけだ。エージェントを見捨てることはしないように」
「命令されるまでもありません。そんなのは当然ではありませんか」
支援AIの声は相変わらず冷淡で、嘲るように耳に響く。
そして最後に、アルファⅡにだけ聞こえる声で「感謝します」と付け加えた。
アルファⅡは唐突な謝意味理解できず、数秒間だけ解釈のために時間を割いた。
先ほどの己の判断で誰かが救われたのだろうかと考えた。
幾つかの予測を立てて検討した。
そして結局理解は纏まらず、検討の中で有意だと判定された要素のみアルファⅡを構成する意識の総体にアップロードした。
ユイシスの発言自体は優先度の低い未解決の事案に分類し、忘却の箱へと記録を格納した。
アルファⅡとは、そのようなスチーム・ヘッドである。
この機体に、人間性は存在しない。




