セクション3 エンカウンター その②(後) ネレイスの少女騎士
以前アップロードしていた版について、改稿を行ったものです。
設定や内容に変更が加えられています。
船体の震動は徐々に弱まり消えていった。不死の息すら絶え絶えにして歌声で危機を知らせていた造花人形も静かになった。
ネレイスは愛しの騎士たちに悟られないよう、反吐を飲み下す。
直ちにトラブルの影響を確認をさせるべきだ。
己の青ざめた顔を隠してくれるフルフェイス・ヘルメットに感謝しつつ、意識して声を落ち着ける。
「状況を報告せよ」と短く命令した。気分に優れないため言詞回路を起動できなかった。それでも都市を統べる者の気風は十分に帯びている。
コンテナ一基分ほどの大きさしかない指揮所には、殊更によく通った。
「了解しました!」と即座に透き通った声が調和して響いた。
統率の取れた反応に気分を良くしていると、器官飛行船の負荷が何らかの理由で高まったらしく、造花人形が混乱した調子で大声を上げた。何とも間が悪い。気分を害されたネレイスは乱暴に信号を送った。不浄なる者は沈黙した。
少女騎士の筆頭であるニノセが一瞬こちらに受光器を向けて、しばらくして、何ともないふうを装って逸らした。
……おそらく彼女も、この少女型生命機械の悲鳴を耳障りに感じたのだろう。
状況を報告するには情報解析が必要で、それには深い集中が必要だからだ。事実はそうではないと知っている。しかしネレイスは、今はそう思い込むことにした。
指揮所の構成は極めてシンプルだ。不死者が編んだ骨のフレーム、同じく彼らの細胞を培養した不滅なるの肉の装甲から成り立ち、それらをさらに外骨格で包んでいる。内側には生命機械を詰め込まれた操縦器官。後は各所から伸びる神経管だけしかない。その他主要な器官は飛行船上部の気嚢構造体に収められている。通常、情報処理能力は最低限すら備わっておらず、神経管を生体装甲に有線接続した器官兵士で補う必要がある。
器官飛行船の運行は通常の場合、大変難しい仕事である。今回は特にA2Oクラフト十一隻まで同行させているため、負荷は尋常なものではない。
それらを強力にサポートするのが造花人形だ。スヴィトスラーフ聖歌隊という、かつて人倫を冒涜した組織の、おぞましい穢れた不死の背教者を素体としている。
現在の有様は、虜囚として人口動態調整センターに取り込まれた敗戦者ほど惨めでは無いにせよ、社会奉仕系に処された罪人よりも酷い、と表現することは出来るだろう。生きている機械と呼んで差し支えない。
不死の美貌で人類を堕落させた大罪人どもの、その末路としては、相応しい姿だ。
フラワードールは各種の人形の中で最も扱いやすく、安定して生体脳を生命機械と接続出来る。便利には違いないにせよ、入力に対して機械的に発せられる空虚な歌声は、時として耳に毒だ。
普段は戯れに歌わせたり、鑑賞したら、愛玩したり、虐待したりして愉しむものだが、この狭い空間では気に障る場面の方が多い。
基本的に器官飛行船と造花人形のセットは、都市の支配クラスしか扱えない。一般市民には、船への接続権さえない。
単に市長の血を引いているというだけでも、やはり認められない。
選抜された精鋭だけが認可を得られる。
この場に至ったネレイス以外の兵士たち、少女騎士たちこそは、その数少ない支配クラスの存在だ。全員が第507クヌーズオーエ『フェイク・ヨーロピア』の議会に対して権利を有する。
ネレイスが長年に渡って育成してきた精鋭だった。
雌性・雄性問わず、市長ネレイスが相応しいと認めた市民との間で製造した生命資源。
通称少女騎士。
正式名称は『少女騎士円卓部隊』。総統の率いる十二機の不死なる聖騎士、<メサイアドール・ラウンド>に範を取る。
本家と同じ、十二という数まで隊員を増やすというのがネレイスの密かな夢だったが、運命はままならないものだ。もう刻限は来てしまった。決戦の日など来るものかと心のどこかで思っていたが、悠長に構えすぎたらしい。
とは言え、現状でも質は十分である。一つの都市、百万の命を預かる市長が、嘘偽りなく全幅の信頼を寄せる。それほどに性能は高い。光輝に満ちた五人なのだ。
確かに都市の外での活動経験がまだ不足しているし、浄化チームのようなFRF統括運営局の部隊と比べればいかにも弱々しい。
でも、少なくとも精神面での脆弱性は、自分が補ってやれば……それだけで十全に働く。事実として、ネレイスが「うろたえるな」と命令しただけで、異常事態に対して些かの怯懦も示さなくなった。現在は如何にも勇敢そうに振る舞っている。
皮と肉で構築された生命装甲で覆われて見る影も無いが、ネレイスと同じく総統から賜った美貌が、自信と活躍の意思で輝いている。
それがネレイスには透けて見えるようだった。
ネレイスは「状況を報告せよ」と命じたが、船の状態は、実のところ把握済だった。市長としての年季と浄化チームでの経験は伊達では無い。機械甲冑の情報処理能力も合わせれば、容易い仕事である。そのため、この命令は部下たちのメンタルケアとしての側面が強い。
騎士の資質がある者は、不安に駆られていても、任務を与えれば立ち所に正気に戻るものだ。それ故に命令を受け直裁に『テストされている』と解釈した娘もいるだろう。
彼女たちは生体甲冑の頭部に設けられた無数の眼球状の受光器を忙しなく走らせた。
そして母たるネレイスと似た声で応答する。
「中央司令船プラセンタ・コア、損傷無し。再チェックをかけるから、サードは自動強襲用器官飛行船A2Oクラフトをお願い。フィーアはあたしに追従して精密チェックをかけて。フンフはバックアップ。リクドーは戦術予測でもしておいて」
装甲化された肉の甲冑に包まれた少女が、生来の苛烈さの滲む口調で姉妹に檄を飛ばす。
真っ先に負荷の大きい主幹系メインフレーム神経管を接続コネクトし、神経パルスを発信して、船体の無事を確認した彼女は、N507ニノセだ。
少女騎士で最年長の個体だ。ネレイスの薫陶を受けているおかげか、得体の知れないトラブルに直面しようとも、おおよそ毅然としている。
実際は姉妹全体で最年長というわけでもないのだが、ネレイスの娘たちは口を揃えて彼女を「姉」と呼ぶ。
勇猛さと統率力、判断の的確さといった点が、自然と尊敬の念を生むらしい。戦闘能力も高く、一部の市民にしか門戸が拓かれない不朽結晶剣授与査定会、即ち総統から恩寵の軍刀を賜るための試験に何度も招かれている。獲得は時間の問題のはずだった。
……ネレイスの知らぬところで政治派閥を作り、怪しげな愛好思想を広めて私兵組織の結成を目論んでいたようだが、そうした不敵さも含めてネレイスは評価していた。
次期市長の第一候補だ。
「ふふふ、ニノセおねえさま。せかされずとも、サードはもう仕事を済ませておりますよぉ。A20クラフト全神経系接合再走査、異常なしぃ……。推進剤の精製と噴射も正常稼働中ですぅ。ふふふ、ふふ……みんなのエンブリオ・ギアも元気なようです。ああ……サードのかわいいかわいい子供たち……どうか皆を支えてあげてね」
N507サードは、姉妹の中では最も生命機械の扱いに慣れている。エンブリオ・ギアを少女騎士で最初に装着した娘でもある。
というのは、そもそも彼女が今代におけるプラセンタ・ギアの鎧株保管用の『宿主』で、彼女の体内にはとっくの昔からそれが寄生していたのだ。
人間らしい部分など一つもない寄生型生体装甲を我が子として扱う奇癖の持ち主ではあるし、些かならず、正気では無い。しかしこれまで見事にその大任を果たし続けてきた。
得体の知れぬ生命体を自身の資源としての全てを捧げまた一生を掛けて世話することには、相当な葛藤があったはずであり、結果として狂気に陥るのは致し方の無いことだ。それでいて聡明さは全く損なわれていないのだから、さしものネレイスも感服せざるを得ない。誰しもがそうなのであろう。名誉称号としての意味合いも含めて与えたサードの座について、疑念を抱く物はいない。
生命機械技師としての造詣も深く、今回の出撃にあたっては、長年にわたって実績の無かったエンブリオ・ギアの株分けまで完遂してみせた。
彼女の才智と探究心が無ければ、今回の遠征における少女騎士はもっと低レベルな装備になっていただろう。
「ニノセお姉様へ報告。司令船、やはり異常なし。自動強襲用器官飛行船A2Oクラフト全十一隻、脱落無しです。見たところいずれも本船の誘導に従っています。飛行も滞りなし。まるで湖面を滑る白鳥のようです」
「報告に無駄な情報を混ぜないで。あと、白鳥なんて図鑑でしか見たことないでしょ」
「こんなときこそ風情が必要なんです! ニノセお姉様はカリカリしすぎです」
これは広域観測鏡の神経管と接続した、N507フィーアの報告だ。
フィーアは特に感覚処理に優れており、思考にノイズが出がちな有線接続の最中でも清明な思考を維持する。
しとやかな性格に、総統の遺伝子が濃く出た美しい声と容貌を持っており、合わさって生命資源としての価値が抜きん出て高い。もしも万事上手く行けば、FRF支配クラスの上位都市へと資源として供出され、現地市長の直系子息を製造することが決まっていた。そうなれば、彼女を輩出したフェイク・ヨーロピア自体の評価も上がるのは間違いなかった。
戦闘技能も申し分なく、強権的なニノセに口答えが出来る程度には気骨もある。
フェイク・ヨーロピアの躍進を期待させる、星のような少女騎士だった。
「うーん、敵影確認出来ず。さっきの揺れは、空気の断層にでも突っ込んだのではありませんかー? カリカリしすぎなのは皆一緒ですー」
N507系フンフの、のんびりとした声が空気を弛緩させる。
ネレイスに連なるものでありながらこれといって目立つ部分は無い。しかし、牢獄のように狭苦しい司令船の中でも、斯くの如く陽気で、朗らかに振る舞える。状況に左右されない人柄の良さは紛うこと無き美質であろう。
外交や戦よりは内政向けの人材だ。市民からの相談役としても人気があり、他都市との戦闘時以外は生活レベル向上のために笑顔を絶やさず働いている。その献身ぶりと愛の深さから顔が広く、多くの者に信頼され、市長の素顔はあまり知らないがフンフのことは一目見れば分かる……という不届き者も居るほどだ。
だからネレイスは、フェイク・ヨーロピアにおける暗殺、虐殺、不穏分子粛清の実施を、フンフに任せていた。
フンフが期待を裏切ったことは一度も無かった。
「で、でも、判断材料は乏しい状況です……。観測機械は限られていて、肉眼では何事も見ること能わざる状況。いかにもふらふらと空を飛んでいるんです! こういう相手に対してこそ、奇襲を仕掛けるはず……攻撃の可能性は、否定出来ないです。だから、万が一、ということも、あるのでは……。ボクとしては、いっそ減速して戦闘陣形に変更するのも手かと……いえ、僭越なのは承知ですけど……」
N507リクドーが、弱々しい口調で焦りの気配を放射する。
するとサードが、鎧ごしでも分かるほど熱っぽい視線を、やや小柄なその少女騎士へと投げかけた。
「ふふ。ふふふ。リクちゃん、そんなに気を張っていたら、鎧がびっくりしちゃうよぉ? その鎧は生きて、宿主を本当に大事にしてくれるんだから。ほら、リクちゃんの殺意に反応して、敵はどこって混乱してるぅ……。ここで疲れさせても良いことないよぉ?」
「しかしサード姉様、今気を張らないで、いつ張るというのですか」
「そーねぇ、無事帰還した後でぇ、サードと一緒に、サードの子供たちと、サードの部屋でぇ……」
「もう、サード姉様はすぐそういうこと言う! 不規則発言はダメなんですから!」
「えー? リクちゃん、冷たいよぉ。いつもあんなに熱く抱きしめてくれるのにぃ?」
「こらこらこら! 市長の御前、しかも領域外の空よ! 二人とも、そのくだらない痴話喧嘩をこそ後でやりなさい!」
場違いな言葉の応酬に、自然、姉妹たちから笑いが起きた。
ネレイスも思わず微笑してしまった。
リクドーが恥じらい、緊張を急速に霧散させる。同時に、少女騎士たちもリラックスし始めていた。
三人が呼吸を合わせて空気を和ませたような形だが、リクドーに関しては別に連携したつもりはないだろう。
まこと不器用な人格である。
……少女騎士のうち、リクドーはネレイスの純正の娘ではない。
FRF統合運営局からの命令で、交配機械を使って製造過程を進めた生命資源だった。
事情は委細不明であり、ネレイスが初めて見た時、リクドーは既に胚の状態だった。代理製造の報酬は、ネレイスが産み落とした子、即ちリクドーそれ自体だ。
ネレイスが出産を請け負った以上、ひとまず市長に連なる生命資源なのは間違いないにせよ、厳密に血がどの家系に発するのかは不明だった。
外部から来訪した不死者を市民登録する過程で必要になったのかもしれない、とネレイスは考えている。
血統が都市内部になければ市民として認められないため、時折このような煩雑で大がかりな処理が必要になる。
祖がどの不死者なのかについては、心当たりはあった。
何せリクドーには他の姉妹には無い特性が備わっている。どう考えてもあの新参の不死者由来だ。
顔立ちがネレイスと同系統なのは幸いだったと言えるだろう。ひと目見て分かるほどの差異が無いため、ネレイスが代理製造した非純正の資源だとは、都市の支配レベルにしか知られていない。
事情を知っても、外様だと言って彼女を疎んじるのは、姉妹でもニノセぐらいだ。
基本的には、リクドーは愛される娘だ。気性が大人しく、清潔さを好む気風はいかにも涼やかだ。祖が違うなら最終的には子を成すことも可能であるため、少女騎士のみならず、他のネレイスの血統からも、たいそう可愛がられている。
若年の雄性体のようなあどけない愛らしさは、時折ネレイスすら魅惑する程だが、全体的に発育があまり進んでおらず、どこか頼りない雰囲気があった。
それでいて、フェイク・ヨーロピア最精鋭と目される少女騎士だった。その栄光について、疑問視されるのも仕方があるまい。しかし、ネレイスからしてみれば、リクドーを重用するのは極めて単純な理由からだ。
彼女は凄絶なほど優秀な剣士なのだ。
実を言えば、同等条件で十度剣を合わせれば、八度はネレイスを打ち負かしてしまうレベルだった。
非公式ながら既に浄化チームの準構成員として活動しており、定期的に統括運営局に招聘されて、げっそりした様子で帰ってくる。何をしているのかは口外しないが、消耗に値するだけの力を毎回身につけている……。そういったずば抜けた実力を持つ生命資源だった。
ここまで突出した実力を、しかしリクドーは誇示も吹聴もしない。その謙虚さはいっそ悪徳の領域ではないかとネレイスは思うのだが、そういう気質でなければ、驕慢に振る舞い、今頃は恨みを買って暗殺されていたかも知れない。
それでいて胆力があるのも確かだ。ニノセでさえ忌避感を示したギアの寄生を、誰よりも先に受け入れたのだから。リクドーは姉妹の中でも、特にサードとは密な仲にあったが、彼女が長年育成してきたものだとしても、彼女が我が子と呼んでいるにしても、あのようなおぞましい生物を肉体に住まわせるのが、恐ろしくないはずが無い。だが、堂々と少女騎士として先陣を切った。
総じて、敢闘精神に難を抱えているように見えるのは、飛び抜けて高い戦闘能力、警戒心の裏返しである。普段は市長を立てるために隠しているが、実はネレイス以外では唯一恩寵の軍刀を帯びているのだ。
彼女を侮って手を出す者があれば、その者は自分の首が地面に落ちる音を聞くだろう。
少女騎士円卓部隊の顔ぶれにネレイスは十分に満足している。
戦力としてはリクドーが極端に突出しているが、いずれもFRF運営統括局の中枢……総統の直轄である不死の意志決定機関である<ウォッチャーズ>においても、極めて高く評価されている生命資源だ。
市民レベルの最上位組織である<ウォッチドックス>には、市民として奉仕活動に出るよりも前から登録されている。全てのスコアが高水準で纏まっているため、望むのであれば次期『領域外浄化作戦チーム』に参加し、FRF統括運営局の実働部隊として長期間実績を積み、正式に運営局に席を得ることも可能だろう。
出来ることならば、ネレイスとしては少女騎士たちにもクヌーズオーエを預かる<市長>に成ってほしい。だが、支配レベルのさらなる上位を目指したいのならば、止めることはしないつもりだった。
かつてのネレイスも、そうした野心を持っていたのだから。
……もっとも、そうした評価は今回の出奔で、まるきり過去の話になってしまったが、と嘆きの言葉を飲み込む。
おそらくは全都市で、彼女たちは罪人として手配されている。
帰還が叶っても、それは英雄の凱旋では無い。
ネレイスたちは即刻捕縛され、拷問され、審判にかけられる。処刑されなくとも、使い捨ての生命資源に堕とされて、息絶えるまで人間性を否定されるかもしれない。
きっと最後はソイレント・ステーションで死骸を粉砕され、粗末な食料品に混ぜられてお終いだ。
悲惨な結末はいくらでも思いつく。成すべき事を為しても厚遇があるとは思えない。それでも彼女らの悲壮な決意や、現在の実力までもが霞むわけでは無い。
おお、己らの過酷な運命を受け入れて尚折れぬ花の美しさを見よ。
寄生対象を強力にサポートする生体甲冑、臓物に根を張りし増殖型内寄生機動胞衣の補正もあろうが、すわ墜落かというトラブルに晒されても、ネレイスの愛しい少女騎士たちは、本質的に全く怯んでいない!
敵に殺される心配など一つもしていない。
常勝の自信を感じさせる……。
事実、ネレイスたちは諸都市を見渡しても、特に武力に長じた生命資源だった。
彼女たちだけで、幾つもの敵対的クヌーズオーエを滅ぼしてきた。ネレイスを含む六人だけで運営する船団だというのに、その武力は圧倒的だ。
市民軍は別に設けているが、はっきり言ってオマケに過ぎない。頑健で精強だが温和な気性の市民が多いのが、ネレイス507号の一族が統治してきた都市の特徴だ。知的で、文明的に優れ、誇り高く、慈愛に満ちる。捕縛してきた敵対市民について、生存を前提とした肉体的拷問よりも、投薬による自我の破壊と自白の推進、然るのち安楽な処刑をと、絶命嘆願書を出してくる程だった。
ノブレスオブリージュの遂行を掲げるネレイスの一族としては、彼らの生命倫理の高さは誇らしいことだが、市民たちの資質が戦闘向きで無いのは、些か問題ではある。
それもネレイス507号の家系が長い歴史を持ち、単独での武力を洗練させてきたためで、仕方の無いことである。勇猛さには責任が伴い、責任は貴きものが負う。民草には責任が無いのだから、当然勇猛さもない。市民軍は救護団としての性格の方が強いぐらいだ。
そして領民がどうであれ、当代の市長ネレイスは、生きている者のうちでは優秀な戦士だ。
彼女が指揮を執り、『少女騎士』と武装船団が動き出せば、まさしく当千の働きをする。
そんな彼女たちは、彼女たちの都市の民衆を救うために、命を投げだそうとしていた。
名誉を捨て、生存を捨て、病魔から、民衆を解放しようと足掻いている。
……不意に、ネレイスはある種の誇らしさに打ち震えた。
先ほどの冷気と衝撃による悪心など消え去ってしまった。
それは自分がどれ程優秀な兵士を作り上げたのかという自己満足であり、またそんな彼女たちが民を深く愛し、自殺も同然の今回の任務、総統への背信という恐ろしい側面を持つこの捜索活動に、臆すること無く臨んでくれていることへの、心からの感謝であった。
「市長、如何されますか」
「データを見る限りでは運行に支障はないかとぉ。ふふ、リクちゃんの怯えが気になりますがぁ……」
「わたくしども、もはや天命を返上した身ですので、いかなる命令にも従いますー」
「市長が間違えるなんて、そんなのないない。信じますよ」
「リクは思います、あらゆる可能性について恐怖すべきです。死を招く存在は、いつも目には見えないのです。……市長もスケルトン、骸骨頭、純正人形どもの恐ろしさはご存知のはず……」
一通り報告や進言を終えて、少女騎士たちは黙して市長を見つめた。
表面を覆い尽くす生体装甲、エンブリオ・ギアに備わる無数の受光器、人間の眼球と同じ構造の生命機械がネレイスへと注がれる。不死の筋繊維と肉片の節々に埋め込まれた無数の眼球は、病に苦しむ百万の民の眼差しにも等しく感じられる。
防御か減速か。
このまま全速で前進するか。
少女騎士は、判断しない。それは市長の領分だからだ。全ては偉大なる総統より一つのクヌーズオーエを託され、<市長>の地位を賜ったウォッチドックス幹部、ネレイスに委ねられている。
ネレイスに迷いは無かった。
前進あるのみだ。
「……不浄なる骨面のものども、偽りの再生者や偽りの土巨人どもに潜境管の一部を発見されたのだとしても、総統閣下のメサイアドールでもなければ、この高度を飛ぶ船には、さすがに手が出せまい。フンフの推測通り、時空断層でも突破した際の衝撃だと考えるのが妥当だろう。よいか、目標地点への到達まで、さらに長い時間がかかるのだ。速度を落とさず前進せよ。<タワー>の庇護下に無い空間では、形無き悪しきものが、時計の針をも狂わせるという。ただ一日で、我らが都市では一つの季節が終わると思え。我らが船を走らせている間にも、我らが民は飢えと渇きに苛まれ、病魔に斃れている。真に民を思うのであれば、臆することなく突き進むのだ」
我が言葉ながら威勢だけは良い。これは闊達たる気風のあるフェイク・ヨーロピアに特有の気風であろう、とネレイスは自己分析する。彼女の都市と血族は、確固たる戦う意志を持っている。
エンブリオ・ギアのような忌み物を秘蔵してきたのもその証左だ。この寄生生物は、都市群開拓初期には広く使われていたそうだが、現在は手に入らない。市場に出回ることもない。人体に寄生させねば寿命も短く、そのくせ育成には大変なコストがかかり、万が一にも市民が手にすれば治安の擾乱を招きかねない。生物汚染災害発生の危険性まで考えれば、保有したいとも思うまい。
おまけに一度装甲化すれば解除不能となる。筋肉組織や皮膚ならともかく、臓器にまで癒着する性質があるから、剥離手術を受けたあと装着者にどんな後遺症が残るかも未知数だった。
だが、ネレイス507号の一族は、この寄生生物の宿主となることだけを任務とする『世話役』を血族から立ててまで、これを継承してきた。
高性能な割に機械甲冑のような厳重な所持制限が無く、他の生体装甲のような人体への拒絶反応も起こさず、装着者の動きを違和感無く強化・トレースしてくれる。戦闘的センスが欠けていても、すぐ戦力化出来る。エンブリオ・ギアほど決戦に適した装備は、浄化チームのギア以外だと他には存在しない。性能自体は浄化チームで働いていた時の自分の甲冑と比較しても遜色ない、とネレイスは評価している。
中央政府、FRF統括運営局の<ウォッチャー>の不死者や真性装甲者が相手でも、決して勝てないせよ、一時間は戦えるだろう。
当のネレイスも、伝家の機械甲冑を持ち出してきている。
超法規的にリミッターを解除しているため、数秒なら高倍率オーバードライブも起動可能だ。
適切な陣形を組んで地形を選べば、あるいはイモータルの一人でも、討ち果たせるかも知れない。
万全な戦力ではある。万全な戦力ではあるが、領域外では可能な限り戦闘は避けるべきだし、万に一つの危機も慎重に検討するべきだ。
しかし、慎重とは事前の準備と余裕があってこそ生まれるもの。
一刻を争うとなれば、全速力で駆け抜ける意外に活路は無い。
「従います、市長!」と騎士たちが応答の声を響かせる。
……正直なところ、彼女らの内心に全く不信感がないとは、ネレイスは思っていない。
確かに装備だけは万全だ。持ち出してきた兵器も、作戦に捧げた健康な身体という純潔も、クヌーズオーエでも貴重なものばかりだ。
例えば、強襲用自動器官飛行船。
これは都市で通常使用が可能な兵器としては規格外の性能を持つ。
絶対にして唯一の導き手、真なる救世主が治める崇高なる聖域、<クヌーズオーエ>においては、飛行器官を製造出来るのはFRF運営統括局だけだ。
これは法や戒律ではなく、技術レベルの問題である。こんなに複雑で繊細な生命機械は、他の組織には模倣すら出来ない。
即ち器官飛行船とは、地上にあって唯一の正式なる人類の後継であるFRFの技術の結晶であり、総統の威光と等号で結ばれる暴威だ。
空中から投射される圧倒的火力に抵抗することなどどんな意味でも許されない。ネレイスも、彼女の娘たちも、指定座標の住民を殺戮するという統括局からの任務を幾度となくこの船でこなした。さらには統治している『擬西洋古式再演都市』においても、敵対的都市を攻撃し、相反する思考体系の市民を、何万人と虐殺してきた。
それだけに扱いには厳しい条件がある。総統閣下の資産である器官飛行船の計画外使用は、無許可の移動よりも遙かに重い罪である。無断で使用すれば明確な反逆罪として扱われる。
統括局の実働部隊だけでなく、<ウォッチャーズ>から不死者が一個小隊差し向けられる程だ。
これだけでも大変に厳しい話だが、それと比較しても『領域外』の過酷さは桁が違う。
幸いにも、船団は変異物質を利用した無制限のバイオマス燃料の産出により、獣どもの手が及ばない安全な空中を進み続けられるが、眼下に広がるのはまさしく<地獄>の様相だ。
暗雲の如く眼下を鎖す時空断層へと潜境管を降ろす度に、凄惨さに息を飲む。
地表まで降ろさずとも惨状が理解出来る。FRFの統治する都市とは大違いの不浄な光景が無限に現れる。総統による慈悲から見放され、白痴のまま世界の終わりを待ち、あるいは共食いを繰り返す屍食鬼たちがひしめく死の都。腐れた肉体で跳ね回り、巨大な一本腕の肉塊が這いずる、名状しがたい呪われし遺物の巣……。潜境管を地表まで降ろせば、怒り狂って管を掴み、船まで登ってくるかも知れない。
そのような危険性は可能な限り回避しているが、着地地点を誤ればこのおぞましい怪物たちが襲いかかってくることになるのだ。
最も恐ろしいのは<解放軍>を僭称する偽りの魂、愚かしい肉無しの残骸、骸骨頭どもとの遭遇なのだが……これに関しては、確実な回避法が無い。彼らは都市を自由自在に移動しているし、隠れる程度の知惠はある。潜境管を這わせて走査すれば発見可能だが、もしも補足されれば手ひどい反撃を食らう。船が撃墜される現場を、ネレイスは見たことがある。
こっそりと潜境管を降ろしつつ、物資が豊富にあって、敵となる存在が見当たらない、総統の威光の照り沿うような、そんな奇跡の土地を、祈りながら探すしか無い。
まず間違いなくネレイスたちは死の瀬戸際に立っている。
だが、だが……強いられてのことではない。
己らの意思でここに至ったのだ。
命を賭けるに足る使命ならば、市長としてのさだめならば、と機械甲冑の少女は思う。
それは、確かにあるのだ。
都市を滅亡から救うこと。これ以上に適切な命の使い方があるだろうか?
「……娘たちよ、我が少女騎士たちよ。都市を病魔が襲い、総統閣下の手ですら救済が叶わないのだと悟ったとき、私は祖先が何のために戦闘に特化した後継を作ろうとしてきたのか、ようやく理解した」
周辺監視と操舵を執り行う少女騎士たちに、市長は訥々と語りかける。
「運命と戦って、勝つためだ。総統閣下の神意に背こうとも、民を救う。それが我らの責務であり、この貴き血に受け継がれてきた使命なのだ。今、それを成すべき時が来ている」
娘たちは頷いた。彼女たちとて、自分たちの統治する都市の惨状は理解している。
現在、第507クヌーズオーエ『擬西洋古式再演都市』には、正体不明の病が蔓延しつつある。感染すると突如として体温が異常に上昇し、肉体の各部位が壊死して出血し始め、最終的に感染者はぐずぐずの肉塊に成り果てて死亡する。患者の血液に触れただけでも危険なので、死骸の処分もままならない。当然、粉砕合成処理にかけて、食品に転換することも出来ないわけである。
市民を徹底的に食い潰す。そんな、史上類を見ない病だ。
それがネレイスの都市のあちこちの区画で連続的に現れた、猛烈な勢いで感染を拡大している。空前絶後の疫病の嵐と言えた。FRF市民は改良強化された免疫系によって、生涯一つの病気も経験すること無く終わるが、それだけに爆発的に死者数を増大させる病、通称『崩肉病』の猛威は衝撃的だった。
人類を滅ぼした病の一つに違いないのだが真相は分からない。
病についての知識は散逸し、検閲されて喪われている。
市民たちは迫り来る姿無き死におののくばかりであった。
……ネレイスは、当然、プロトコルに則り、都市の支配クラスに命じて、迅速に報告書を用意させた。
そして市民以上に免疫力の高い長命者としての特性を生かして、現地を視察し、病の子細な特性をまとめた。病気の媒介にならないよう徹底的に身体消毒を行い、救援を要請しにFRF統括運営局へ出向いた。
総統が間を置かず謁見を許してくださった時は、救ってくださるのだと安堵した。
だがそうではなかったのだ。
総統は、薄暗いその部屋で、充電器官付きの椅子に腰掛けたまま、眠っていた。
ネレイスのことなど忘れてしまったかのようだった。
半時間ほどが経って、ようやく総統は目覚めた。
『……おや。予定時間を随分と過ぎているな』総統がヘルメットのバイザーを向けてきた。『謝罪しよう、ネレイス507号。充電完了までの時間を計算し損ねたらしい。ああ、起きるまで直立不動で待たなくとも良かったのだ。我々と貴官の間柄だろう……。それで、病だったな。病に関する報告についてはご苦労』
救世主はいつも通り感情の読み取れない声でネレイスを労った。
『非常に憂慮すべき問題だと認識している。そのことは伝えておくべきだろう。だが市長クラスに説明できることはあまりないので簡潔に言っておく。我々はその病の治療法を知らない。これまでに観測された事例の通りに状況が進行するのであればおそらく感染は一紀年ほどでピークに達し三紀年の終わりには終息する。というのはこの病に伝染が起こった都市はそれぐらいで滅ぶからだ。事後の熱消毒ぐらいは可能だがそこまでだ。市民については残念だった。我々から伝達できる情報は以上だ』
以上?
ネレイスは呆気に取られた。
残念だった?
残念だった、とは、どういうことだろう。
まるで、まるでもう壊滅が決まっているかのような、この物言いは……。
あまりのことにネレイスが絶句していると、総統は機械仕掛けの玩具が拍子でも打つような無感情なリズムで言葉を重ねてきた。
『気持ちは理解する。もっと具体的な支援が欲しいのだろう。我々も常にそうだ。しかし仮に技官なり浄化チームなりを派遣しても病を他の都市へ伝播させる媒介になるだけで無意味だということは分かるはずだ。そうだな、我々では無くこのメサイア自身の言葉で慰めるのであれば、これは諸君らの都市への試練だと考えた方がいい。いずれにせよ貴官は座して待てばよかろう。ネレイス系の免疫なら、あれには感染しない。君の直系の生命資源が心配ならあまり出歩かせないことだ。そして過越の再演でも願い、市庁舎にでも籠城するが良いだろう。そこまでは病が拡がらないと予測されている』
過越。人類史について僅かばかりの教練を受けたネレイスは知っている。古い世界の宗教において、全ての最初の子を殺戮すると神は宣告したという。一部の選ばれし民だけは、その災禍から逃れる術を与えられていたというが……。
「……しかし、過越を含む文化は我が都市の主題ではありません」
ネレイスが震える声で言うと、総統は頷いた。
『まさしく承知している。ただその文化圏を再現していた都市は、同様の病で、まさに滅んだ直後なのだ。そこに悪性変異体、カースドリザレクター……ああ、貴官たちには変異活動体と呼ばせていたか。あれが、塔から降り注いだ。浄化作業には酷く苦労させられた……我々のバッテリーが干上がっているのはそのためだ。いや、関係の無い話をした。とにかく彼らの文化を引き継いで、本当の過越が起こるよう、心から願うと良い。一つの都市では叶わなかったが、二つの都市の人数で願えばあるいは叶うかもしれない』
要領を得ない回答だ。
「何故こんな病が起きるのですか」と食い下がる。
清浄で、清潔で、病魔の忍び寄る隙など存在しなかったフェイク・ヨーロピアに、何故。
総統は頷いた。抑揚のない声で応えた。
『何事にも理由はある。それは事実だ。しかし遺憾ながら貴官の権限では情報にアクセス出来ない。繰り返しになるがこの件についてFRF統括運営局の救援は無い。同時に貴官の責任を問う予定はない。……次の都市がある。次の次の都市がある。座して待つが良い。市長の役職は確約する。ただ、それでも苦難に立ち向かわんと欲するのであれば、奇跡などと言うくだらないものに期待するのはやめることだ。我が娘よ。聡明なる娘よ。心せよ。ここなるは人類最後の救世の都市……』
総統はふと気がついたように言葉を止めた。
『さて時間切れだ。退出せよ、ネレイス507号。寝過ごしたせいで後がつかえている……次の報告はどこの都市の誰からだ? 人格記録媒体用の予備電源は完全ではないのだ。いつシステムダウンするか予測出来ない。時間が惜しい……』
隷下の都市が病で滅びようとしているのに、自分の血族が危機にさらされているというのに、総統は超然とした、どうでもいいかのような態度を貫いた。
ネレイスは呆然としてFRF統合運営局を後にした。
そして少女騎士を招集した。
擬西洋古式再演都市を守護し、市民を、我らが領民を導き、病を滅ぼす。
それしか都市を領地を救う方法はないと熱弁した。
思いは一つだった。
自由意志によって彼女たちは戦う道を選んだ。
FRF統括運営局に、この人類最後の生存領域に救済の手段が無いのだとすれば、領域外に道を見出す他ない。喪われた時代において、人類は病を『医療』や『医薬品』というもので制しようと試み、そして二千年以上は正常な反映を維持していたとネレイスは聞かされていた。
あるいはFRFの活動圏外であれば、逆転の一手が存在するかも知れない。
……奇跡に期待するな、と総統は言っていた。この問題は自助努力によってしか解決出来ない、という助言だった可能性がある。
そうして曖昧な願望を束ねて、ネレイスたちは船団を引き連れて、当局のマークが本格的にならないうちに出奔したのだ。
遙か彼方に瞬く啓示の光だけが吉兆だった。
浄化チーム時代に蒼い炎の揺らめく土地を見つけたならば必ず探索するよう教わっていた。
『そこには必ず意味のある資源が存在するッス』
記憶の片隅でフェネキアが嘲笑する……。
『虹の根元みたいに。そこには信じられないものがあるかも』
殆ど迷信のような言い伝えだ。
しかしそれぐらいしか縋れる物がないのも、また事実だった。
出奔から既に三〇〇時間以上経過していた。まだ航行は続いていた。処刑を覚悟して船団を持ち出したのに、ろくな成果が出ないことに悩まされ、ネレイスの喉は、焦躁にひどく渇いた。
啓示の光は時折雲の切れ間から見れるのだが、時空間が歪曲したこの空では、中々上手く進めない。
飢えや渇きに苛まれる我が身を、いかにも疎ましく思う。
彼女は命と引き換えにでも努力すれば、大抵のことは出来ると信じていた。何故ならば彼女は地球最後の人類でも、特に優秀な生命資源だからだ。人類最後の希望にして偉大なる指導者である<総統>の直系であるし、実際、死の定めから免れ、長命者として<クヌーズオーエ>を一つ任されている。
しかし、悩ましいことも幾つかある。市長は絶滅しかけた人類を嚮導し、改良を重ねるという大任を背負っている。だが、その任務の遂行にあたっては、身体改造が推奨されていない。機械化には多くのリスクがある。恒常性の乱れは生殖能力に特に大きな影響をもたらす……そう宣伝されている。
自己改造の願望を押し殺し、ネレイスは総統の意向に沿って、<連邦>の人口動態調整に強力に貢献してきた。個を都市のために捧げるのは望外の喜びだ。良いことも悪いこともある。局員としてではなく、<市長>として、この終わる世界のために足掻く。不死どもに囲まれた異常なる都市で、人類を導くものとして足掻く……。
それがネレイスの選んだ道だった。浄化チームでの日々には耐えられなかったが、市長となったのが間違った選択だったとは思わない。あんな異常な戦場では、生きているのも、正気を保つのも、不可能だからだ。
……しかし、後悔はどうしても湧いて出てくるものだ。
鬱屈とした感情で息が詰まりそうになる。ネレイスは面を外して司令席から離れると、霜が溶けて、不滅の衣服の首筋に、白い肌を輝かせるその少女型の不死を見下ろした。造花人形。いっそ空虚ささえ感じさせる、過度に扇情的な意匠の、壊れず、穢されることも無いボディスーツ。四肢を拘束され、脳髄に神経管を通され、掠れた声で小さく歌を紡いでいる。賛美歌と言うらしいが、ネレイスには何を讃えるための歌なのかよく分からない。
……総統やメサイアドールを除けば、この不滅の亡者どもは世界で最も美しい。
なるほど、神を讃えるものを装い、人類を破滅させるには相応しい外見だ。
それを捕まえて、首筋に噛み付いて肉を食い千切る。血管を破り、不死の肉体から無限に供給される血液で喉を潤した。再生しようと蠢く肉片を奥歯で磨り潰す。
幾らでも再生する血肉は、定命の肉体には甘露だ。噛み付く度に、造花人形は恍惚の兆候を示した。そのように『調整』されているからだ。甘い香りを撒き散らし、肉体を破壊されて、生気の無い目に涙を浮かべるこの少女機械ほど、憐れで、愛らしく、退廃的な美を極め、そして惨めったらしい存在はいない。
この不浄の不死から衣服を剥取り、少女騎士たちにも食事をするよう勧める。エンブリオ・ギアから伸びた無数の捕食管が人形から肉を引き千切り、血を啜り、骨をこそいだ。ニノセなどは余程飢えていたのか、熱心に養分を吸い上げ始めた。
敵対的市民の公開処刑にも比肩する酸鼻な光景に、しかし、造花人形は人口動態調整センターの専属人形さながらに、意味の分からぬ安らかな歌を奏でるのみだ。
こうした造花人形は、総統の所有物と見做されている。解放軍の他の純正人形、骸骨装面者と同様に人間を脅かす危険な存在だが、総統とウォッチャーズの偉大なる御業を前にしては無力だ。真に貴き存在の前に、不浄なる者は正気で居られない。
洗礼を受けた後では、それは戦略的な生命資源、ヒトの形をした、如何ようにも利用可能な、便利な生命機械の一つに過ぎない。ひたすら人類に奉仕する存在と成り果てる。
造花人形については、見た目がただ美しいだけで、自分では何も出来ないことが多い。労働人形のように単純作業を延々とやらせるにも全体的に性能が低い。しかし生体脳髄が柔軟で扱いやすく、エンブリオ・ギアや不死者と同じく、安定性の高い不死の細胞で構築されているのが特徴だ。どれだけ消費しても、どれだけ無茶な神経接続をしても、ある程度は簡単に適合する。
少女騎士たちの摂食は猟奇的な集団による冒涜的な儀式のように凄烈で、残された残骸も見るに堪えない。手脚を失い、全身を穿たれたフラワードールは血と臓物の破片を全身から零し、ぐったりとしている。
普通なら死んで楽になるだろうが、人形は人では無いので、死ねない。そしてどんな状況でもある種の聖性すら感じさせる美しい顔は曇らない。失血状態でも陶磁の肌は赤味を帯びる。思わず魅入ってしまうような光の無い瞳と微笑で、何かを訴えかけてくる。
かつては口を利き、論理を理解し、会話が可能な存在だったはずだ。もっと宣教師然とした態度をしていたのだろう。ネレイスは正常な状態のフラワードール、即ちスヴィトスラーフ聖歌隊の純正人形を見たことがある。彼女たちと話したときに感じたことは……。
妄念を振り払う。不浄なる者はどのように消費しても構わないというFRFの方針に異存は無いが、余り長く人形と接しすぎると、このような扱いで良いのかという迷いが生じることもある。彼女たちは余りにも人類に近すぎると感じる。
どうであれ、もう処置は済んだ後だ。直しようも無い。人格が壊れれば、ただの道具以外の在り方は消滅する。嬲ってよし、喰って良し、殺して良し。排泄の世話も必要ない。おまけに放置しておくと美しい声でリラクゼーションミュージックを歌い出す。これほど便利な物はあるまい。
こうした造花人形もまた、総統から特別に目を掛けられているからこそ拝領出来るものだ。中央が主催する人口維持推奨センターや、衝動緩和処置室からの払い下げ品で、言ってしまえば機能低下の著しい廃棄物である。それでも通常は市で管理する施設においてのみ利用されるべき存在で、器官飛行船と併せての運用はあまり推奨されていない。それが認められているのはネレイスたちが特別に許可を得ているからだ。
……総統や、英雄フェネキアは、自分を優遇してくれていた。
理由がずっと分からなかった。ネレイスは自分の治世は正しいと信じていたが、他の市長より圧倒的に優れた手腕を持っているとは考えていない。通常は所持できない兵器が簡単に手に入ってしまう。
……もしかすると、支配者たちは、フェイク・ヨーロピアへの苦難を予見していたのではあるまいか。
せめてその助けにと、武器を与えてくれていたのだ。
そんな風に自己暗示を重ねるのだが、どこからか自己嫌悪の感情が滲んできた。
……だとすれば、自分のこの有様はどういうことだ。
何故こんな、不完全な、まっさらな生身でいるのだろう?
後悔が胸骨を軋ませる。こんな日が来るのならば、もっと戦闘に適した形に改良しておけば良かった。彼女は丸きり生身のままだ。手脚の一本も機械では無い。
私が臆病なばかりに娘たちにも迷惑を掛けてしまうではないか、と自分自身を内心で罵る。
健全な生命資源を製造するには、健全な母胎が必要だと言われている。身体改造者は生命として不純だ。それだから資源としてのスコアが低いのだとまことしやかに語られているが……それは、全部嘘だ。
『そちら』へ進むことを選ばなかった者たちを庇うために流布されたフェイクなのだと、全ての<市長>は知っている。身体改造者だからと言って子が成せないわけではない。現に浄化チームの隊長である英雄フェネキアなどは、生身の方が少ない程の身体改造者だが、数年おきに新たな個体を製造している。
本当のことを言えば、ネレイスは、戦うのが怖いのだ。
真実の戦いをするのが、怖いのだ。
<市長>というのは、そうした臆病者の行き着く先だ。
『総統についていくなら、この先はずっとこんな地獄っすよ』
浄化作戦、否、真なる戦いからの生還者を乗せた船の中で、フェネキアは恐慌状態から脱しきれないネレイスを抱きしめ、機械の手指で彼女を撫でて、そっと囁きかけてきた。
『分かるでしょう、君の頬に触れている、ボクのこの歪な形が。硬くて、ゴツゴツして、とっても冷たい……。手も脚もそうッス。母系血族から貰った手脚を、なんで総統から賜ったこんな物騒な機械に挿げ替えるのかっていうと、それはさっきの不毛なあれを繰り返すため。見てきたとおりッスよ。何だか分からない薄暗い穴を死ぬまで掘り続けるためッス。どこか違う世界に繋がってるかも、なんて思いながら地面を掘り続ける。馬鹿げた行いッスよね。
そんなこと堪えられないと思うなら、本当の支配レベルである<ウォッチャーズ>は絶対に目指しちゃいけない。ネレイスちゃんの望む景色はそこには無いッス。上に行くなとは言わないッスよ、でもそれなら市民階級<ウォッチドックス>の支配レベル……先代ネレイスと同じく、クヌーズオーエの<市長>を目指した方が良いっス。ああ、そうそう、戦いたくないなら身体改造はオススメしないっス。身体改造者の生命資源スコアが低いのは生殖能力が毀損されるから、なんてのは大嘘ッス。
身体改造者は、強い。
強いから、死ぬための戦い……死なせるための戦いに駆り出される確率が上がる。
死ぬ確率が上がるから、スコアが下がる。
本当はそれだけなんスよ。ああ、可哀相に、まだ震えてるっスね。そんなに縋り付いて。怖がっても世界の実相は消えて無くなくなってはくれないのに。でもそうやって媚びて、ボクの好感度を稼いで、今後の生存可能性を上げるのは賢いっスね。ふふ。恐ろしい現実を見たくないと願うのは間違いではないよ。生き残りたいと思うのも自然なこと。ネレイスちゃんは賢くて美しい。腕が立つのに、引き時も間違えなかった。そんなキミは、<市長>として次世代を育てながら、束の間の微睡みの中で過ごすべき。それがトータルでプラスっスよ……』
さあ、望みを叶えてあげる、とフェネキアが囁きかけてくる……。
ネレイスは向かう先に、啓示の光のクヌーズオーエに、敵が居ないことを祈っていた。
アンデッドを超越した存在。
FRFの、総統の、市民たちの、真なる敵……。
それはあらゆる都市、あらゆる部局、あらゆる部隊において存在を空想される怪物たち。
死してなお慰めと祝福を受けられなかった、彷徨える亡霊ども。
曰く、彼らには骨しか無い。
肉も皮も無いが、魂はある。偽りの魂。呪われた魂。
彼らはアンデッドの肉体を乗り換えて過ごしている……。
曰く、それは弔われなかった者の変異体。
どこにも行けなかった無様な精神体。
眠ることさえ出来ない体で、屍を積んで天国への階段を築こうとしている異常者ども。
それが徒党を成して行進し、妄念を抱いたまま、生者の血肉を求めている……。
彼らは生者を嫉み、蔑み、羨み、奪う。
解放軍。
クヌーズオーエ解放軍。
世界から見捨てられ、己の命すら見失った、恐るべき不死の軍勢。
死と破壊を振りまくだけの統率された軍団。
子供を寝かし尽かせるためのお伽噺として知られる彼らは。
しかし、確かに存在するのだ。
永遠とも思える時間を器官飛行艇で過ごした。実際は二百時間か、三百時間か、四百時間か……青い光が目滅する。ネレイスたちは眩惑され、時間感覚を融かされていく、青い光が明滅する……。
昼夜は夜明けや夕焼けを挟まず不規則に入れ替わった。時には太陽と月が空を渡る速度が眩暈を催すような速度に達した。
世界そのものが瞬きをしているかのような混濁。空はしばらくのあいだ忙しくなく明滅を繰り返していたがやがて究極的な一点に至りその段階では夜も昼も溶けて無くなった。
船団の周囲は仄かな薄明に満たされた。都市を焼き尽くした後のような薄暗い色彩にぼんやりと輝きそのうちに命を持つかの如く脈動する光の帯が現れたがそれは信じがたい速度で現れては消える太陽と月が織りなす天上の河であった。少女騎士の面々は息を飲んで観測鏡の映像を共有し、その凶兆とも瑞兆とも解釈できない異常な光景に見入っていた。
ネレイスも寂寂たる光芒の世界を見つめていた。
善し悪しは判断しなかったが、蠕動しながら進んでいく光の帯は己の尾を食らう翼ある蛇に似ていた。
リクドーが「ウロボロスみたい」と呟くのを確かに聞いた。
浄化チーム経験者なら、それを想起して然るべきだろう。
始まりも終わりもない円環。
FRF統合運営局の掲げる紋章にして、人類を救い得る唯一の光輝である<総統>の象徴そのもの……。
際限ない再生と破滅を暗示する異形の竜、ウロボロス……。
船団はやがて啓示の光、謎めいた蒼い炎の渦巻いていた地点へと辿り着いた。
何度も繰り返し座標を確認する。
間違いは無さそうだった。
少女騎士たちが緊張した調子で排気するのが聞こえてくる。
ネレイスは意を決し、軍刀の鞘で床を叩いた。
「これより作戦は第二段階へ移行する。各員、索敵を終了後、速やかに降下し、物資捜索を開始せよ!」




