セクション3 エンカウンター その②(前) ネレイス/第507クヌーズオーエ市長
以前アップロードしていた版について、改稿を行ったものです。
設定や内容に変更が加えられています。
管轄の都市を出港して一六〇時間後のことだった。器官飛行船の指揮所を、突如として不可解な震動が襲った。
四肢を拘束され、頸椎に神経管を突き刺された造花人形も、船体の震動に苦鳴を漏らす。この不浄なる不死は、航行補助用の生命機械であると同時に、不死のカナリアだ。言葉を知らず、霊魂の不滅を知らず、構成する全ての要素が偽りである。だが、彼女がこの瞬間に感じている苦痛だけは、本物だった。
同時に、神経管を使って船体と生体装甲とを繋げている五人の少女騎士も悲鳴を上げている。
器材の不良ではなく、本物のトラブルがこの船を脅かしているのだと知れた。
……中央で沈黙し、恩寵の大型軍刀を杖とする少女が一人。
機械甲冑でその身を固めている。
彼女の脳裏をよぎるのは、遠い昔、『浄化チーム』の一員となったばかりの頃に受けたブリーフィングだ。
浄化作業が未完了のクヌーズオーエに、不幸な一般市民が迷い込んでしまった場合、その市民は果たしてどうなってしまうのか?
この増殖する都市の群れの性質はまさしく千差万別であるが、どんなクヌーズオーエであっても、そこには必ず人で在りながら人では無い存在が跋扈する。
即ち、自由意志を持たず、永劫の時に囚われた呪われし民、器官停滞者。
そして彼らが負荷に対する度重なる変質の末に辿り着く、暴力と災禍の化身、おぞましき異形、変異活動体だ。
器官停滞者も変異捕食体も、装備や外観、果ては行動原理までまちまちだが、共通する要素が一点だけある。
『死なない生物』である、ということだ。
大抵の市民は、アンデッドと遭遇した時点で落命する。
あるいは、運が良ければ、その都市に封じられた不浄なる不死どもは、穏やかな気性かもしれない。
FRFが作成した宗教における幾つかの教義において、彼らは忌まれ人だが、また一方では祝福を受けた存在、人の形をした神の神殿である。まさしくその通りに振る舞って、沈黙して佇み、何もしてこないかもしれない。
安定したクヌーズオーエを引き当てられる確率は、そこまで低くはない。迷い込んだ市民はすぐには死なないかもしれない……。
では次の都市はどうか?
次の次の都市は?
都市は無限に続く……。
次の次の次の都市は?
次の次の次の次の都市は?
都市は無限に続く……次の次の次の次の次の都市は?
次の次の次の次の次の次の都市は……。
都市は無限に……。
『コインを投げる。連続して一回か二回、同じ面を出す。これぐらいは、誰にでも訪れる幸運っスよ』
記憶の海で、浄化チームで最も強力な部隊を指揮するその英雄は、自分たちとさほど変わらない造りの顔貌で、如何にも酷薄に、ニヤニヤと笑っていた。
『でも、無限に何回でも同じ面を出すなんてことは、誰にも出来ない。総統閣下にも出来ない。分かるっスね?』
そう、幸運は永久に続かない。
都市は無限に続く。
屍の都市は、未来の無い都市は、無限に、汚染された都市は……。
市民はいずれ狂乱するアンデッドの群れと出くわすことになる……。
すると、どうなるか。
人間は、不死身の怪物に襲われると、死ぬのだ。
『どうにか出来るかもしれない、なんて甘い考えは捨てることっス。誰だって死ぬッス。不死身の怪物と相対して、死ぬ以外に何の未来があると思うんスか? ねぇ、新兵諸君。そんなに難しい話じゃないよね、これは。分かるッスよね?』
薄ら笑いを絶やさない少女体の器官兵士。
かつての恩師である英雄が、整列した兵士たちに囁いて回ったのを覚えている……。
『連中と戦うことは出来るっスよ。例えば頭を銃で撃てば、五分か十分かは、大人しくなるかもしれない。だけど何度でも蘇って、苦痛から逃れるために、我々を殺そうとしてくるっス。不死殺しの恩寵の軍刀で切り払うにしたって、そして彼らは何万、何十万、群れを成して、その未浄化クヌーズオーエを徘徊している……』
誰かが不安そうに尋ねた。
『そ、そんな土地を浄化することが、本当に出来るんですか?』
敗北主義的なその言葉に、秩序の番人であるその器官兵士は、逆に破顔した。
『ははは、賢い。そうっスよ、出来るわけがないっスよ。
そんなところに飛び込んでいって、アンデッドと戦って、地道に殺して回って、人が住めるようにするなんて、正気の沙汰じゃないっス。だけどね……誰かがやらないといけないことだよ。人間という生命資源は、産道を通った時ではなく、都市の門を通過し、総統閣下の祝福を受け、市長によって市民登録された時にこそ真に産まれるのだから。見給えよ、ボクたちの暮らしぶりを。依然として人口は増え続けている。占領下の都市は逼迫される一方だ。だから、新しい子供たちのために、誰かが命をかけて、新しい清潔な都市を作らないといけない。
……新兵諸君。つまり、その「誰か」、保身無き献身によって、市民の未来を掴み取ろうする「誰か」こそが、総統閣下とウォッチャーズに直接仕えるボクたち。そして君たち! <浄化チーム>ッスよ。ようこそ新兵諸君、ようこそようこそ!
経験豊富な生き残りの先輩が、まぁ残ってるのは歴代の入隊者の千分の一未満ッスけど……アンデッドと出くわして死なないですむ術を、手取り足取り、教えてあげるッス。言うとおりに動けるなら向こう十紀年は死なないで済むっスよ。相当厳しい道だけど……もしも無理だと思うなら精々媚びへつらって、<ウォッチャーズ>局員クラスの生命資源製造に貢献することッスね。ただの腰抜けは囮にも使えないからね。邪魔になる前に、料理して食ってやるッス。
おそろしい、なんて酷い上官なんだ、そう怖がってくれてもいいッスよ。それなら、こっちも殺すのに躊躇が生まれなくて楽だから。だけど幸いにも浄化チームは、心優しい生命資源の集まりッス。生きて役に立つ限りは、君たちの傍で、きっと大丈夫だからと、優しく言い続けてあげるよ……』
「大丈夫、大丈夫、大丈夫だ」
機械甲冑に掻き抱かれたその娘は、まず、静かに息を吐いた。
「私たちならやれる……」
今ここに立つ少女は、最終的に栄光ある『浄化チーム』を去った。任期を満了し、偉大なる先達たちの資質を継ぐ生命資源を何人か製造し、組織に捧げて、円満に退役した。
都市を拓く名誉ある道ではなく、人類文化の維持に貢献する道へと進んだ。
浄化チーム在籍期間中に不死の亡者と戦う術は身につけた。あの地獄の最前線、人類存亡の瀬戸際で戦った経験は、決して失われていない。
英雄フェネキアと彼女の娘たち、そして様々な情念を掻き抱く狂気の兵士たちが、無数の傷とともにこの身に刻み込んだ戦闘技巧が、きっと自分たちを生かしてくれる。
否、自分が生かすのだ。
市長。
市長ネレイス。
お前がお前の娘たちを、市民を、領地を守るのだ……。
造花人形が、有線直結されているネレイスの不安を汲んでか、苦しそうに息をしながら、薄らと歌を口ずさみ始めた。鎮静のつもりなのだろうが、神経パルスを送り込んで黙らせる。
彼女は己の心が乱れないように努めた。
イメージするのは過去の自分だ。百紀年も前、浄化チームで作戦に従事していた時期の、まだ二人しか生命資源を製造しておらず、この世界の真実が一色の『善』であることを信じていた頃の自分を。
厳しい選抜試験を幾つもクリアして、浄化チームに本配属され、FRF統括運営局の正式な局員となった後で、最初に向かわされた都市では……ああ、まともな甲冑も無い状態で戦わされた!
それが浄化チームにおける本当の試験だったのだろう。半数以上の新入隊員が、不浄の不死の手で引き裂かれ、修復不能な肉片の山となった。彼らの遺骸は故郷に返還されることなく、浄化チームが現地で食料として消費した……。
だが彼女はそんな過酷な状況でも、死ななかった。
次の都市でも大丈夫だった。
次の次の都市でも大丈夫だった。
戦ったからだ。確かにコインの同じ面を出し続けることなど出来ない。しかし都市の浄化作業はコインの裏表ではない。戦うことが出来る。最期の瞬間を先送りにすることは出来る……。
そして……そして、真なる敵と出会い……。
今でも生きている。
運が良かったわけでは無い。
戦ったから……判断が正確だったから……現実を知ったから……生き残った。
昔も。今も。
知り、戦い、生き残る。
その繰り返し。大丈夫、だいじょうぶ。私は上手くやる。お前は戦える。私は戦える。お前は上手くやる。大丈夫。大丈夫。大丈夫……。そんな言葉を繰り返す。何度も繰り返す。大丈夫だと繰り返す。信じていない言葉を繰り返す。生き残れる、生き残ってきたと囁く。
偉大なる器官兵士、英雄フェネキアの幻影が唱える。君は可愛くて弱いっすね。だけど、ここに辿り着いた時点で十分に優秀な市民っス。戦う意志がある限りは。これまでも。これからも。
浄化チーム所属時代の自己暗示、かつて『英雄』フェネキアが刻んでくれた言詞回路の起動は、瞬時に完了した。
<戦士>としての精神性を確立させて、そして敵対的都市勢力に組み伏せられた生娘のような、情けない声を上げている部下たちを見渡す。
かつて所属していた浄化チームでは決してあり得ない惰弱極まる光景だ。
しかし、少女騎士の外聞も忘れて恐怖する彼女たちを、愚かしいとも、みっともないとも思わない。
彼女たちは、自分とは違う。人間の殺し方は幾らか覚えた。血河の深さは未だ知らない。大抵の生命資源よりずっと優秀であるにせよ、しかし未だ幼い雛鳥だ。総統閣下の掲げる松明の外が如何に暗いかは理解しているだろうが、その暗黒の苛烈さに耐えられるほど精神は整っていない……。
こんな状況でトラブルに出くわせば怖いに決まっているのだ。
『ファーザーズ・リデンプション・ファクトリー』の外側では、誰しもが平然としていられない。
当然だ。彼女もまた、そうだったのだから……今でもそうだ、等とは、決して言わない。言うことが出来ないが。
その上、今回の作戦行動は、総統への反逆に等しいのだ。
総統の威光も<塔>の恩恵も、一切届かない不浄の土地、それが『領域外部』、あるいは『領域外』だ。
足を踏み入れるだけでも大罪となる。未知の病原菌を持ち帰りかねない危険行為だからだ。奇病の蔓延と無制限な戦火の拡大によって旧人類が滅び去って久しい。
残存人類の生存可能領域は、総統の統治する戦略共同体に限定される。
すなわち、世界の中央に聳える<暗き塔>の恩恵を利用し、滅亡と抗う最後の文明圏……正式名称『父なる存在のための贖罪工場<ファーザーズ・リデンプション・ファクトリー>』の絢爛たる要塞と、その周辺にある数千の除染済再命名都市だけだ。
浄化も再命名も行われていないクヌーズオーエへと許可無く移動するのは、これだけでテロ行為に等しい。汚染地帯から病魔を持ち込もうとしたと見做されるためだ。
全時代の文明の生存者たちが屍山血河の果てに見出した人類の生存圏、それこそがクヌーズオーエであり、築き上げたのがFRFだ。敢えて惨禍を繰り返さんと求めたならば、即時の処刑も有り得る。そうでなくとも、ネレイスたち『市民』の都市間の移動は、非常に厳しく制限されている。単なる無許可での移動ですら、奉仕刑を含む厳罰が待つ。
……何の成果も無いまま帰還すれば、FRF統括運営局の実働部隊は、生存を前提としない拷問によって彼女たちを苛み、真実もノイズも、一つ残らず、あらゆる場所から引きずり出すことだろう。
ネレイスは誰にも悟られぬよう唾を飲み込む。今回は、今回だけは、事情が違う。上手くやれば、今回の出奔について総統も理解してくださることだろう。
僅かながら生存への道筋は残されているが、それも成果ありきだ。そしてどれほど成果を出しても、恩赦の程度までは計り知れないというのが現状だ。所属する都市を救っても、それでもやはり、処刑される可能性がある……。
先のことはどうでよい。
ひとまず少女騎士たちの当座の不安を払拭してやらねば、と憂いを切り捨てた。
機械甲冑の娘は、今度は<市長>としてのマインドセットを起動した、
「落ち着き給えよ、諸君。《・》我が娘たちよ。うろたえるな」
少女性を感じさせない完全な器官兵士と成り果てた娘は、冷厳に一喝した。
「きっと死を予感しているのだろうが、そんなのは瑣末ごとだ。死ぬことを恐れるな。そも、我々は元より総統に背を向け、命を捨てた身。落ちても、そこで死ぬだけだ。そして我らは既に死んでいる。領域外へ出た時点で、どうであれ死ぬのだ。ならば、もはやどのような災禍も恐れるに値しない」
途端、生体装甲に包まれた五人の少女騎士は、緊張を以て沈黙した。
声の主を信じたからだ。
状況は何も改善していないにせよ、指揮所の中央に陣取る彼女が冷静である限り、何もかも安泰だと、心から信じたのだ。
普段から少女騎士たちは、祖にして主人である市長、彼女には、絶対の信頼を寄せていたが、先ほどの音声はそれとは別の挙動で彼女たちの心を塗り潰した。
総統の血に連なる者だけが使える、意味増幅の言詞回路の効果だった。生来備わっていたものでは無く、市長就任時に生命管制技術局と交渉して、幾らかの生命資源を対価として発声器官へと刻印したものだ。
後付けでも機能に不足は無い。影響下にある生命資源は、彼女を信じずにはいられなくなる。
それを抜きにしても、彼女の発声には静かな力強さが満ちていた。回路を起動したのは単なる保険である。
恩寵の機械甲冑を着込む少女の名は、正式にはネレイス507号。
第507クヌーズオーエ『擬西洋古式再演都市』。
複数の都市と百万の人口から構成される、歴史ある大型クヌーズオーエの<市長>だ。至高の救世主である<総統>の貴き血を引く者の一人でもある。
過去に所属していた部隊『領域外浄化チーム』の規定により、理想的な形で完成を遂げた少女期において、成長と加齢を停止させられたが、実年齢は百三〇紀年を超えていた。
自分の遺伝子を受け継ぐ部下、フェイク・ヨーロピア最精鋭部隊『少女騎士』の五人が冷静さを取り戻したのを確認すると、ネレイスは船を取り巻く環境事態の推移をつぶさに観察した。
それぐらいしか出来ることがないからだが、情報は幾ら積んでも損にならない。
手持ちの情報が無きに等しいなら尚更だ。
何せネレイスたちの船団は殆ど何の計画も立てずに領地から飛び出したのだから。
中央官制器官から機械甲冑へと有線接続している神経管に意識を集中し、体内の解析器官に情報を回し、補助用のフラワードールにも負荷を与える。
器官飛行船の肉の外殻の向こう側にある無窮の空、即ち船を取り巻く狂気的に広大な青の空間を、脳裏に視覚化する。
他の生体構造物からの生体信号を解読するのは、ネレイスにしても得意な仕事ではない。ひどい頭痛がするし、普段は今回も同行させている適任者、サードと名付けた騎士に任せている。
ただ、その娘には自分ほど、生存抵抗の経験値がない。FRFの勢力圏から出るのも初めてだ。何が異常で何が正常かの判断がつかないだろうから、ネレイスが率先してやるしかなかった。
人形の奏でる調律言詞で器官に補正をかけているうちに、像を結ぶことに成功した。
溶け落ちてしまいそうな程に眩く輝く太陽の下に、農業用プラントで見られる穂波のような、黄金色の雲海が広がっているのが見える。こんな状況で無ければ絵の一枚でも描きたいぐらいの美しい。
この雲海の下にはクヌーズオーエが存在する。
雲の切れ間から時折、画一的なその全景が、幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも見え隠れした。
鏡像連鎖都市クヌーズオーエ。
自分自身の歪曲した複製を生産し続けるという呪詛じみた特性を持つ生命都市。
地球は丸いというのは知識として教わっていたが、ネレイスはこの無限に同じ都市が並ぶ果ての見えない平面が球状をしているなどとは全く思えなかったし、実際球状ではないということも市長に成るための教育課程で学習していた。
クヌーズオーエは外観上は隣接しているが実体としては位置関係が入り組んでいるという奇怪な空間特性を持ち、上空と地表ではさらに状態が異なる。
どうすればこの都市から脱出出来るのかというのも、千年もかかってまだ解明されていない。
……表向きは、そういうことになっている。
未浄化都市群の上空から見る風景は、浄化チーム時代の百紀年前と変わらず混沌としていた。
例えば骨で組まれた塔が伸びるクヌーズオーエ、例えば数十万のアンデッドが山を作っては崩れていくクヌーズオーエ……。肌が泡立つような、凄まじく生理的嫌悪感を煽る情景は、幾らでも無確認出来る。だが、警戒すべき空間異常性はそのような表層的な要素からは決して読み取れない。
ネレイスは、ある一点に視界を固定させた。
啓示の光が見えた付近のように思えた。
都市と空とを隔てる清廉にして不浄なるその雲海から、何か白い波が噴き出している。
似たような自然現象を過去に何度か見たことがあったので、最初は気のせいかと思った。
それは温度差や気流の兼ね合いで起こるもので、寒冷な状態で固定されがちなクヌーズオーエでは珍しくもないのだが、しかし何かがおかしい。
このような状況で信じるべきは、肉体の覚えた恐怖だ。
最も原始的な危機感知能力が、鋭敏に反応している。
白い波が四方八方へと広がり、船団へとぶつかってくるのを、確かに見た。
意志を持っているのかと思うような動きだ。
震動はこの正体不明の波が到達する先触れだったのだろう、とネレイスは直感によって理解する。あるいは人間には感知出来ないレベルで、既に気温低下が始まっているのか。極限環境下で固定されたクヌーズオーエは、呼吸をするだけで肺が凍るほどの冷気に満たされていて、新しい熱を求めて、周囲の都市にまでその破滅的な性質を伝播させ、命を吸い上げると言う。……そうした『終着点』に到達したクヌーズオーエが周辺にあるのだろうか?
全てが気温低下に起因するというなら、機体を襲う振動も解釈がしやすい。気温が極端に異なる領域に移動した際には、器官飛行船を構築する変異体の恒常性が過剰な適応を起こすことがある。
あの白い波は、冷却の『本隊』に違いない。
直撃時の影響はもっと大きいものになるだろう。
ネレイスは騎士たちに告げた。
「各員、衝撃に備えろ。おそらく熱転移が起こる。神経管をもっと奥まで差し込んでおけ」
「も、もっと揺れるのですかー!?」
怯懦に震える声に対して、騎士の一人が唸り声を上げた。「こら五番目! 市長は『うろたえるな』と仰ったでしょ!」
「ですけどお姉様ぁ……」
「ですけどじゃない!」
程なくして、さらなる衝撃と冷気の波が船体に到達した。
器官が猛烈に痙攣し、補助用の造花人形も、情報負荷に耐えきれず絶叫する。
歓迎すべき事態でもないが、ネレイスは然程動じなかった。予想の範疇だ。
「し、市長、船団の外殻の凍結が進んでおります!」
「……外殻が破裂して生体ガスに引火しなければ問題ない」
決然と言い切る。
声音は軽いが、ネレイスの言葉の一つ一つには、確信が宿っている。
鎧を脱いだ姿こそ若々しいが、市長として過ごした歳月は長く、重い。言葉にも自然と古色が滲もうというものだ。
それに、口にするのは単なる慰めではない。全ては楽観に基づかない正確な推論だ。
ネレイスは有線接続した船体の状態を完全に把握し、それらをリアルタイムで自己の経験と照応させている。
多少の異常は見受けられるが、指揮所のある司令船にも、後続の強襲用自動器官飛行船にも、恒常性のほつれは起こっていない。猛烈な冷気が迫っているのは事実であるにせよ、少なくとも言詞構造を持つ生体外殻が壊死するほど極端な温度低下は恐れなくて良い。
まず乗り切れるだろう、とネレイスは確信していた。
予想外だったのは、影響が、外殻だけでなく、船内にも波及したことだ。
凍てつく波は、機関砲弾の直撃にすら耐える観測窓を無いが如くにあっさりと透徹した。
冷気が形を持ち、目を潰された市民のようにのたうつのを見て、ネレイスもその部下も息を飲んだ。
五人の兵士たちは生体装甲に埋まる無数の受光器官で、異様なる冷気と、市長とを、交互に何度も確認した。ネレイスも内心では相当に動揺していたが、無様を見せるわけにはいかないと辛うじて堪えた。
自分が守るのだ。自分が。
自分が一番強いのだから……。
自分こそが、騎士たちの母で、市長で、総統閣下の直系なのだから……。
飛行船の内部器官を覆う組織へと一瞬だけ霜が降りるが、すぐに溶けて消え去る。
凍結と融解の繰り返しは、黴のコロニーが早回しで発生と絶滅を繰り返しながら前進しているかのようで甚だ不吉だったが、むしろネレイスは安堵する。
船の内側に入り込もうとも、やはり恒常性を破壊するほどの熱変化では無い。
「心配は無用だ。船は全く損壊していない。この程度では器官機械は壊せない。墜落の危険性は、尚も絶無だ」
冷気の正体が不明でも、少なくとも船の適応速度は、この異常現象を確実に上回っている。
吸気系が息切れを起こす可能性はあるが、大事には至るまい。
しかし、これはもしや、この冷気の動きは……と思っている間に、想像した通りになった。
冷気に纏わり付かれた造花人形が、拘束された四肢を振り回そうとして身をよじり、哀願するように呼吸を繰り返した。
肉体が氷結しているのが見て取れる。
やはり冷気は、生命も器官機械も区別してない。
むしろ人間をこそ探っているように感じられた。
超自然的な冷気の渦は、操舵系の神経管を通じて、ネレイスの纏う分厚い装甲へと伝染した。
何らかの拡充骨格の装着を前提とするこの船には、座席などというものは存在しない。強いて言うならば、船と甲冑とを有線接続するための神経管が、簡易なハーネスの代わりを果たすのみだ。
そして、ネレイス自身がある種の認証キーであるため、彼女が接続していなければ、船は浮遊・待機以外の動作を実行出来ない。
だから逃れようが無かった。
甘んじて冷気の浸食を受け入れる。
見えざる冷たい手が甲冑の内側へ潜り込んでネレイスの体を無遠慮に撫で回した。
覚悟はしていたつもりだった。
しかしネレイスはその異様な感覚刺激と温度変化に、生物として対応出来なかった。
鮮烈な刺激に、冷感に纏わる様々な記憶がフラッシュバックした。
……浄化チームへの選抜試験において行なわれた、市街全滅状況を想定した生存適応訓練では、積雪のクヌーズオーエに布きれ一枚、裸に近い状態で放り出された。試験期間は二一〇時間だったが、吐息すら凍てつく環境で、素肌を晒した状態で生き残ることなど出来ない。精々七二時間が限度だろう。
時として落命者すら出る、容易いところの無い試験だったが、普通は耐寒装備ぐらいは支給されるものだ。現に他の参加者はそうだった。
つまりネレイスは殊更に過酷な条件を与えられたのだ。
改良に改良を施された市長の血族でも堪えられないものは堪えられない。リタイアも意識したが、幸いなことに、友好都市である『循環式永続革命市議会』の顔馴染みも同日に試験に参加しており、近くの区画に配備されていた。
ギヨタンという雄性体の認可済長命者で、ネレイスも幼い頃から彼を信頼していた。
きっと助けてくれると思ったし、期待通りに「助けてあげよう」と返事をもらえた。
だからこそ失敗した。
彼は代償に無条件の服従を要求してきたのだ。ネレイスの選択肢は、従うか、凍死するか、浄化チームに入ることを諦めるかだった。
ギヨタンは試験期間中、ネレイスを保護する代わりに、敵対的都市の捕虜を扱うかのように彼女を痛めつけた。ネレイスは、ありとあらゆる権利を侵害された。試験は突破出来たが、その時、ネレイスの自尊心は、めちゃくちゃに破壊されてしまった。
裏切られたことの忘れ難い屈辱が、ネレイスの脳髄を駆け巡る。
一瞬だけ見当識を失い、かつての記憶がまさに今このとこにすり替えられ、そして己の喉から泣きそうな声が漏れるのを聞いた。
「ギヨタン、正気に戻ってよ、ギヨタン……!」
「俺は正気だ、正気なんだ。ああ、正気だとも! 俺は正気だ!」必死のような形相で雄性体が怒鳴っている。「意味も無くこんなことをするか、ええ!? ネレイス! 俺はそれほど愚かに見えるか!」
意識は一瞬で現実へと引き戻された。
嫌なことを思い出してしまったな、と内省しながらネレイスは自分の神経系を捜査した。
それにしても、今の自分の反応は明らかに異常だった。どこかがおかしい。頭がくらくらする、などというのは浄化チーム時代の経験でも稀だ。
そうして走査しているうちに、肉体の深部が異常に冷えているのを発見した。
旧世紀の人類であれば昏倒していたかも知れず、ネレイスにしたところで総統より賜った装着型機械甲冑のオートバランサーが働かなければ、無様にも膝をついていたところである。
己の情けない悲鳴を指揮所にいる部下たちに聞かれたのではないかと考えたが、船体と接続しているのは皆同じだ。
狭い指揮所に様々な風合いの苦痛に耐える声が響き渡っていた。
造花人形の上げる機械的な歌声に混じって、ネレイスの声など聞こえなかったに違いない。
冷気の波自体は不可思議な風のように船体を通過していき、残留物は何も無かった。
しかし船体の震動は継続した。
当初は許容可能なレベルだったが、次第に嵐の夜も斯くやというレベルまでエスカレートした。
器官飛行船において、ぞっとするようなトラブル自体は珍しいことでもない。強力な戦闘兵器である器官飛行船も、都市に配備される機種に関して言えば型落ち品で、製造されたのは『歴史的に』と前置きして良いほど前だ。
そのせいで、安定運用には造花人形のような不浄の生命機械を補助装置として接続する必要が出てくるのだが。
FRF統括運営局が新造艦ばかり使うのに対して、都市に回されるのは、旧式ばかりだ。運用している飛行船一隻一隻に伝説がある始末である。特に千年以上前に推進器共々同時に培養されたと伝えられている主機は、どの船でも不具合が多く、しばしばパワーダウンを起こして墜落を予感させる。保険はいくらでもあるので実際は墜落しないのだが。
パワーダウンの際の挙動は独特だ。浮力を生み出す回転翼パッケージ、『擬似フーン器官』の吸排気が乱れることから、『咳き込む』と表現される。相当に不安を催すトラブルではあるにせよ、結局のところ、そうした俗称が生まれる程度には有り触れているのだ。
それに、フーン器官が残らず死滅したとしても、ゆっくりと高度が下がるだけで、墜落はしない。
しかも、総統の威光に平伏して市民に永久の春を捧げると誓った造花人形を搭載しているのだ。彼女が器官の稼動を補助し、偉大なる不使者たちと源流を同じくする万能の不死の細胞で構築されたこの船は、総統の御意志そのものと言って良い。
それがつまらない事故で沈むなど決してあり得ない……。
自分が非論理的なことを考えていると理解しながら、ネレイスはそう信じ込む。
ただ、今回の震動には、危機感を覚えもする。
領域外のクヌーズオーエにおいて、再編災害に巻き込まれた時のような、つまり空間それ自体が乱暴に揺すられるような……そんな異様なものを感じていた。
ネレイス専用の機械甲冑が誤作動を起こし始めた。
オートバランサーが限界に至ったらしい。
フラッシュバックした記憶の影響もあろう……大昔の事件だというのに、一度蓋が開くと疑問が止まらなくなる。
当時はただただショックだったのだが、浄化チームに入れるのだから、これぐらいのことで、と気丈に振る舞おうとしていた。
その考えは、一面的には正しかった。ネレイスは浄化チームに入ってからいよいよ本格的に変質してしまったからだ。一秒一秒が彼女を追い詰め、驕慢で朗らかだった彼女を模範的市民として矯正していった。ギヨタンとの一件も『市民』としては気にするようなことでもなかったのかな、と思うようになった。
さりとて、疑問は募る、疑問は募る、疑問は募る……確かに支配クラスの市民は、下位の生命資源を大した理由もなく玩弄し、征服して愉しむものだ。
あの『英雄』フェネキアもそうだった。
だが、ギヨタンは絶対にそんなことをする人間では無かった。
そのはずだ。あの優しかったギヨタンが、半狂乱で首を絞め、自分を責め立ててくるなど……。
真意を問いただそうにも、それは出来ない。彼は選抜試験後の休暇中に祭事の関係で都市へ帰還し、伝統的であるという以外には何の意味も無い形骸化した裁判で有罪とされ、死刑を言い渡された。
その上で、罪とは全く関係のない理由で、伝統に従って、拷問の限りを尽くされ、公然と暗殺された。
バスティーユ・コートは常に華やかで劇的な文化が維持されているのだが、そういう狂気じみた側面を持つ都市だった。
都市の文化と伝統は絶対であり、尊重されるべきで、それはネレイスにも承知のことなのだが、彼女から疑念を解く機会を永久に奪ってしまったのだから、時折理不尽に感じる。
あるいは命を失うと分かっていたからこそ、ネレイスに怒りの発露を行ったのかもしれない。
もっと有り得そうなのは……ネレイスを虐待することが、彼に与えれた任務だったのではないか、ということだ。
そうであれば、仕組んだのはFRF統合運営局だろう。
否、そのような仮定は、考えること自体が罪深い。
ネレイスは瞑目する。いつでも同じことを考えている。いつでも同じ疑問を抱いている……。
はぁ、と長命者の少女はため息をつく。震動で舌を噛みそうになり、眉を潜める。
何を感傷的になっているのだろう?
今更大昔のことをくよくよと考えてどうする?
いや、全てこの寒さが悪いのだ、と思い直し、船体から甲冑への熱エネルギー供給レベルを上昇させた。
生産された熱が管を通して鎧の内部へ誘導され、少女の肉体を温める。
震動と未だ滞留する冷感とが、ネレイスを疲弊させつつある。
ただでさえ、出航から一睡もしていない。
放っておいても造花人形が自動で飛行させてくれるにせよ、それが出来ない程に、緊張している。
機械甲冑を装着した状態で彼女が精神的変調を催すのは、異例の事態であった。
ネレイス507号は歴戦の甲冑遣いだ。
象徴にして統治者たる<市長>の座にありながら、フェイク・ヨーロピア始まって以来最高の戦士である。
普段なら、至近距離で砲弾が炸裂しようが、誘導弾のレーダー波を直接照射されようが、串刺しにされて並べられた市民、我が子、同胞たちの死骸を目にしようが、全く気に留めない。
市民軍の先頭に立ったなら、大型軍刀を携えて突貫するだけだ。
恩寵のFRF統合運営局正式採用型機械甲冑の防御力は無比であり、総統の威光を知らぬなまくらなど、全く通じない。
雨嵐と鉛玉を撃ち込まれても恐怖も覚えない。
撃墜された飛行船から平然と脱出し、包囲陣形を敷いていた反逆的都市周辺者を一人で皆殺しにし、拠点を突き止めて根こそぎに駆除したこともある。
FRF、贖罪工場……<ファーザーズ・リデンプション・ファクトリー>。
その広大な支配領域の一角を統治する市長は、強くあるべきだ。
市長の肉は少女である。市長は永久の乙女である。市長は無数の生命資源の母である。
だがネレイスの本質は、鎧にこそ存在するのだ。それが浄化チームを経験して成り上がった彼女の思想だった。
誰もが彼女を称えた。戦乙女を市民たちは支持した。
弾丸や砲弾では決して傷つかない、永久に麗しい無敵の守護者を信仰した。
最強の鎧と、残存人類の救世主である総統が打ち鍛えし、不毀なる軍刀。
これこそがお前だ。お前は戦士なのだ、とネレイスは自身に言い聞かせる。くだらない感傷は捨てろ。
今回の霜の波と震動には、形が無い。防御が出来ない。どうもそれが問題のようだった。冷気は皮膚を通過して臓器、骨髄にまで達していた。
混濁した意識を無理矢理に働かせて、体温を上げなければ、脳まで凍っていたかも知れない。
危ないところだったな、とようやく事態を理解する。
加温は止めていないが、復調までまだ時間がかかりそうだ。臓物の一つ一つを撫でられるような違和感がずっとこびりついており、胃の内容物を吐いてしまいそうになる。精神状態と肉体、肉体と霊魂は連動する。やはり神経系へのダメージが精神状態に悪影響をもたらしているのだ、とネレイスは納得する。
これはどうも、機械甲冑を身につけた彼女だけの被害らしかった。
部下たちも最初は辛そうに冷気と震動に耐えていたが、ネレイスとは異なり、早々に落ち着いていった。呼吸が乱れていたのは震動や冷気ではなく、むしろ肉体に根を張る生体装甲の脈動のせいかもしれない。
機械甲冑は極めて貴重なため、彼女の部下、<娘たち>の中でも特に優秀なこの五人の少女にさえ生体装甲しか回せていない。
配備した増殖型内寄生機動胞衣は生体装甲でもかなり上位の装備だが、それでも機械式より低性能で、装備には多大なストレスがある上に、身体機能に少なからずダメージを与える。
現在のように、都市に未曾有の危機が訪れている状況でなければ、絶対に使わせない甲冑だ。
使用決定は断腸の思いだったのだが、対価に見合う価値値が現れていた。エンブリオ・ギアの装甲材は、まさに生きて活動しており、稼働時間とダメージ許容量に限界はあるが、不死である。状況適応能力に関しては優秀の一言だった。機械甲冑の装甲表面が凍るほどの環境でも、すぐに最適化を済ませてしまった。そして寄生対象である内部の娘たちをも復調させたのだ。
この生体装甲は、非常に危険な浸食性を持つのだが、装甲の外側だけで無く『内側』たる宿主をも強固に保護するようだ。
都市に使用の記録が無く、培養と管理の放送が密かに伝承されていただけで、実はネレイスもこの装備をどの程度信用したものか分からなかった。
実際、リスクに伴うだけの機能はあるということらしい。
いっぽうで、機械甲冑は、装着者にあまり頓着しない。
鎧が人間に合わせるのではなく、人間が鎧に合わせる。FRF局員の下位レベル、実働部隊などは、恩寵の機械甲冑を装備するのは勿論のこと、手脚や臓器まで機械化するのが常だ。
そうした立身出世のコースを蹴り、かつて英雄フェネキアが奨めた通り、次代を作る道を選んだネレイスは、加齢は停止しているが、おおよそにおいて完全に生身だった。
いかに鉄火場を潜り抜け、偉大なる<総統>の寵愛を受けていようとも、市長は生身でなければならない、というのが彼女のポリシーだ。身体改造は内臓を痛める。内臓を痛めれば生命資源の製造に支障が出る。都市を育成し、優秀な市民を見出し、FRFへと優秀な生命資源を提供するのは、都市を預かる者の当然として義務だから、身体改造などもってのほか。
……欺瞞に満ちた理屈だ。
現実には、そんなことはないというのに。
とにかく、幾らかの強化を施されても、三半規管のような繊細かつ生体の根幹に関わる部分までカバー出来るわけでは無い。
……激しく揺れる船内で、何故かギヨタンのことばかり考えてしまう。
意味のない幼い日の恋慕、『市民』の自覚を得てからは些細なトラブルだったと切断できるようになった痛みの記憶。捨て去ればいいのに、こんな局面で墓場から這い出てくる。
心臓まで機械に変えれば、感傷も切り離せるのだろうか。
あの英雄フェネキアのように。




