S2-12-11 たのしいまいにち⑧ たのしいまいにち
リーンズィはレアと肩を並べて歩いた。人通りの少ない道を、誰もやってこないような場所を目指した。吐く息は甘い香りをしていて、桃源郷に立ちこめる朝霧のように白く漂う。
二人は同じ方向に用事があるだけといったふうを装っていた。
しかし、太陽の投げかける光が描き出す二人の影の手のその指先がときおりそっと触れあうのを、互いに互いの熱として感じていた。
ミラーズのこともケットシーのことも忘れ果てていた。ライトブラウンの髪の少女は、幽かな体温にさえ脈動の高まりを感じてしまう。何気ないふうに何度も、ミリタリーコートで矮躯を隠す愛しい人を覗き見る。マスケット帽の下の緋の目と視線が交わる。同時に逸らす。また見つめ合う。何だか可笑しくて二人の少女は笑った。愛しい時間。ぬくもりの漂う時間。
全ての幸福な日々について記されたノートに永久に残る刹那の悦び。
レアのマスケット帽に視線を注ぐ。見たことのない帽子だった。リーンズィの個人的愛着はミラーズに依拠する部分が多く、愛の雛形たるミラーズが帽子を被っている以上、レアの帽子も気になって仕方ない。
生身で青空を仰ぐのは、この白髪の少女にとって大仕事だ。
レアは青い空とあの無遠慮な火の塊にじろじろ見られるのが不愉快で堪らないらしい。色素が欠けた彼女の赤い瞳に、容赦の無い太陽光はどこまでも暴力的で、帽子を被っているのはそのためだ。
少なくともミリタリージャケットに顎先を埋めながら白髪の少女はそう主張した。
「……違うの、違うの。リリウムやミラーズの真似なんかじゃないんだから」とレアは耳を赤く染めた。リーンズィを上目で見遣り、何か独り言のような調子だった。「ちょっとお日様の光が苦手なだけ」
「レアせんぱいは何を着けていてもよく似合う。その帽子もすごく可愛い。お花の冠をつけた猫ぐらいの可愛さがある」
「……リーンズィって帽子好きでしょ」
「……実はそう。では私のため?」
「勘違いしないでよね。他の子たちに負けたくないだけ。つまり、リゼ後輩を、他の誰にも取られたくないだけよ。戦闘は全部一緒よ、最後に立っていた方が勝ちなんだから」
「そういうことならば良かった、自棄になって、レアせんぱいが性癖ハードぴょんになってしまったわけではなかったのだな……」
「は?」
アリス・レッドアイ・ウンドワートは表情を失った。
さっと顔が青ざめるのは、手脚に血が巡り、敵対者の臓腑を抉りにいく動作を選択している証だ。「今、なんじゃと?」と一瞬だけ唸るような声を出した。
ライトブラウンの髪の少女に本能的な怖気が奔る。
リーンズィは怒っているレアせんぱいも可愛いとぼんやりと思う程度だが、肉体は別だ。
ウンドワートの暴威を刻み込まれている肉体が恐怖する。
生命管制の機能を抑制している状態なら、ヴァローナがレアに怯えてしまうのだ。
何も知らないのでいるのならば、アリス・レッドアイ・ウンドワートはあまりにも可憐だ。Tモデル不死病筐体の中でもこれほど愛らしく小さな娘はいない。その矮躯から最強の威風を読み取るのは難しいだろう。ある種の病的な神経質さ、血色の悪さが、儚さと神秘性を引き立てている。
些か外観が幼すぎる点を除けば、レーゲントのうち、特に名うての再誕者にも匹敵する美貌である。
だが、ひとたび怒りの導火線を火が這い始めれば、何もかもが変わる。
彼女の放射する殺気は、他のどんな機体よりも鋭く、息さえ禁じるような圧力がある。
ウンドワートは、名実ともに、クヌーズオーエで最も強く、最も凶悪なスチーム・ヘッドだ。
兎型の大型蒸気甲冑を脱いでいる状態でも、精神性は究極的には全く変わらない。
多くの戦闘用スチーム・ヘッドは勘付いているだろうが、鎧無しでも彼女が他のスチーム・ヘッドを破壊するのに一秒も必要では無いのだ。無意識であれ電磁場を操ることが可能な彼女は生きているケルビムウェポンにも等しい。
そんな機体が怒りを示せば、恐れるのが当然であろう。
肉体にあるべき偽りの魂、ヴァローナの人格記録媒体はリリウムに預けていて、リーンズィの手元には無い。
だというのに、肉体が生理的反応を記憶している。きっとヴァローナは怖いのだろう。その実力をよく知っている。
だけど現在演算されているリーンズィは、レアせんぱいの気質はもうすっかり知っているので、震える肉体を宥めながら、素直に「性癖ハードぴょん」と言い直した。
「せいへっ……何よ、何よ。待って。何その性癖ハードぴょんって!」
レアから殺人的な怒りが霧散したが、可愛らしい声は怒鳴ったままだ。
「誰がそんな命知らずなこと言ってるの。何度殺されても文句が言えない完全な侮蔑表現よ! 今すぐ名前を並べ立てなさい、『一人軍団』の権限で、自分自身にオーダーを発して、合法的にブチ撒けてやるから……!」
「しかし、私たちはそうやって命で贖いを求めるには不死身すぎると思うのだが……思うの……。あと物騒な気炎を上げていると、また猫の人に怒られる。彼女は怒ると大変なことになる」
「猫の人って誰よ!? 彼女!? わたしの知らない女の子!? また恋人を増やしたの!?」
「恋人はレアせんぱいだけ。猫の人は、せんぱいも知ってるひと。仲も良いと思う。だけど忘れているほうが良い。今は分からないだろうけど、とにかく冷静に。発言者を除けばアルファⅡモナルキアしかその言葉を聞いていないし、彼女も君と親しい人物だ」
「親しい人なんていないわっ!」
「私は?」
「リゼ後輩は……親しい、じゃもう足りないでしょ」
「うん……」リーンズィは目を潤ませた。「その人物にしたって、性癖ハードぴょん呼ばわりしたのは、きっと逆に君を好いているからだろう。とにかく親愛のジョークなのだ。いささかゴシップが好きすぎる嫌いはあるけれど、でもどうか寛大な心で流してあげて欲しい。発言した彼女は、君という最強のスチーム・ヘッドの度量を信頼しているのだ。しているの」
「何が信頼よ! 信じないわ、信じないわ! いくらわたしが最強のスチーム・ヘッドだからって……」腕を振り回しながら怒鳴っていたが、その威勢は尻すぼみに消え去った。「それはそうね。わたしは絶対最強のスチーム・ヘッド。羽虫の雑言で牙を汚すほど安くなかったわ」
怒りを発してから醒めるまでの時間が異様に短いのも彼女の特徴だ。
リーンズィの諌言が効力を発揮したわけでも、離れだ場所にいるスチーム・ヘッドたちがこちらを伺っているのに配慮したわけではない。
彼女は普段からこうだった。起爆までの五秒間を延々と繰り返す時限爆弾に似ている。残り時間コンマ一秒で、タイマーが巻き戻され、またカウントダウンが始まる。仮に爆発したとしても消えて無くならない。起爆の五秒前に戻るだけだ。アリス・レッドアイ・ウンドワートとは、おおまかにそのような危険な存在である。
どうすればこんな歪な人格になるのかはリーンズィ分からない。
レアは怒りと極めて親しい。その親しさときたら、リーンズィよりも余程親しいというほどだ。ある夜、リーンズィは自分がレアの怒りに嫉妬していることに愕然として、泣いたことさえある。
それほどまでにレアは怒りと関係が深い。
そしてレアは、そうして怒ることにさえすっかり慣れてしまっている。
怒りとはいつの世も劇薬で、いっとき心身を奮い立たせるには大いに役に立つが、必ず死を招く。それはたいていの場合、病による単純な落命や、過剰な神経発火による、自我の散失である。
真に強き人であるならば、心ある友に怪物として誅されて葬られる。真に弱きものであれば、孤独の中で疎まれ、蔑まれ、忘れ去られる。
だがレアは勝ち続けた。完全な狂気すら彼女を救わなかった。慈悲深い勇者も冷たい忘却も、この凶暴で憐れな乙女に訪れなかった。
ならばただ熱は失われていくのみだ。歓喜も性愛も信仰も熱情も悲嘆も後悔も一度見出されれば区別なく冷えていく。怒りとて例外ではないのだ。
この白髪の少女は、劇的な怒りの、その先にある、神に見捨てられた平原の街で暮らしていた。怒りに囚われているのに、怒りに見放されている。
誰かが彼女を見つける必要があった。怒りそのものである彼女を。
見つけられて良かった、とリーンズィは思う。
「しかし、その様子だと、違うのだな。誤解していて申し訳ない、ごめんなさい」ライトブラウンの髪の少女は声を和らげた。「性癖ハードぴょんなどでは無かった。恋人を略取されるシチュエーションを好むようになったと聞いて不安になっていた。私もレアせんぱいの前で他の機体と仲良くするのは、気が引けてしまう……。そういうのを敢えて求められても、応えられない。だから、そんなのに目覚めなくて本当に良かった。正直安心している。せんぱいとリラクゼーションをするための予習で、略取される立場になってそんな宇宙的に邪悪なコンテンツを視聴するのも、想像しただけで嫌だった」
触りたくなって、実際に生身の手で、レアの小さな手を取った。
温かさに感じ入りながら、握ったり離したりを繰り返し、親指の腹で、滑らかな手指を優しく撫でる。
どのような実力で、どのような経歴を過ごしたのか、どうしてこんな凶暴な人格になったのかは、今は関係が無い。
リーンズィはレアを大切に感じていた。
熱の一片すら余さず奪い取って宝箱にしまってしまいたいと願うほどに。
同じ気持ちだったのだろう、レアは抵抗しなかった。
黙ってリーンズィからの愛情の入力を受け入れた。
まだスチーム・ヘッドたちがうろついている地点から脱していないが、彼女は、切実に心が満たされることを望んでいる。
緋色の瞳に、凄まじい葛藤が閃いているのが見える。
「……そこまで、そこまでよ。がまん、我慢できなくなる」向き直り、背伸びをして、リーンズィのくびすじ、首輪と肌の境目に、そっと唇を当ててくる。「……邪悪なコンテンツって言うけど、そんなに悪くないのよ? なんていうか、心を直に傷つけられる感じがしてゾクゾクして、胸の奥が空っぽになるみたいで、喪失感が癖になって……って、そうじゃなくて! 何でその、そういうアレをわたしが最近よく観てたのを知ってるの?! いやそんなことはどうでもいいのよ、わたしが、そんな、わたしの大切な後輩を他人の好きにさせたいなんて、そんなこと望むわけ……リゼ後輩には、いつだってわたしだけのものになってほしいって思ってるんだから。でも、そう、コンテンツ。そうよね。ええ、ええ」
白髪の麗人は思い至って目を細めた。
「ああ、そういうことなのね。馬鹿みたい、馬鹿みたい。そういうこと知ってるのはコルトぐらいじゃない。考えるまでもなかったわ。あの覗き魔、姉みたいな顔をしてやることがこれなんだものね。もう許してやる理由が無い。人のコンテンツ視聴履歴をまた勝手に公開したんだから。今度こそブチブチに転がして串刺しにしたまま市中引き回しにしてやらないとならない」
語勢こそ荒いが、白髪の少女に先ほどまでの怒気は備わっていない。
実際のところ、コルトの問題に関してレアが本気で怒ることは無い。
二人が本当に姉妹としての意識を持っているのかは怪しいが、聞く限りではどこかのラボラトリの同郷である。他の機体とは一線を画する情の交わりがあるのは確かに思われた。
いずれにせよ、リーンズィはコルトの心配などしていない。
レアがリーンズィとのひとときを投げ出してでも誰かを殺しに行くなど、あり得ないことだからだ。
しかし誤解は修正するべきなので、素朴な感性で情報を追加した。
「コルトは確かに君の視聴履歴について私に忠告したが、君のことをそのように表現した事実は無い。冤罪だ」
「じゃあじゃあ、誰がそんなこと言うのよっ!」
また怒りを迸らせてぴょんぴょん跳ねるレアを、リーンズィはタイミングを見てさっと捕まえて、抱き上げた。
目を合わせたまま抱擁すると、すぐにレアの全身から力が抜けた。
互いの呼気が、冬の空気に白く膨らんだ。
腕の中のレアの眠気を覚えた猫のような無防備さ。
リーンズィは紅玉の瞳が水気を帯びていくのをじっと見ていた。とてもこれから眠る者のものではない瞳。ミラーズやリリウムと同じく、この輝きを守るためならば何もかも捧げても良いと思わせる、そんな静かで情熱的な海。
彼女の瞳にも、リリウムのような、相対者を狂わせる魔が潜んでいる。
「あう、あ……ま、待って、待って。言ったじゃない、我慢できなくなるって。まだダメよ。皆まだ歩き回ってる。こんなところを見せられるほど、わたしも剛毅でいられない。どこででも体を開く、清廉なる導き手のレーゲントどもじゃないんだから……」
「言っていたのはケットシー」
「え、なんて?」
「君が怒るような言い方をしたのは、ケットシーだ」
白髪の少女は不機嫌そうに喉を鳴らした。「……それ言うためにこんなことしたの?」
「うん、だって腰が抜ければ殺しにはいけないだろうから」
「馬鹿にしないで。あんな露出魔セーラーサムライ、わたしがどんなコンディションでも、本気を出せば一瞬なのよ。面白おかしいトルソにしてから吊るしてやるわ。……でも、そんなのはいつでも出来るから、今日のところは見逃してあげる」
じたばたと軽く暴れてリーンズィの腕から逃れ、ミリタリーコートの裾を押さえながら分厚いブーツの底でアスファルトへ着陸する。
惚けた肉体に力が無いのは明白だった。かくん、とバランスを崩した。
転ぶことはない。
レアが合図もなく伸ばした手は、リーンズィが当然のように捕まえている。
どちらかが繋ぎ止めている限り、二人が眠ることはない。
「……早く行きましょ。本来なら、まだ夜の時間帯なんだから」レアは頬を赤らめながら辛うじて直立姿勢を持ち直した。「リーンズィの夜はわたしのもの。他の誰にも渡しはしないわ」
「嬉しい」リーンズィは嬉しいと思ったので、そう言った。「しかしもう昼間では?」蒼穹へと視線を向ける。「夜にまた会おう、という約束を守れなかったのは確かだけど。レアせんぱいはもしかすると、それで怒っているのか? いるの?」
「違うわ、違うわ。そもそもリゼ後輩が約束を破ってるわけないでしょ。時計は見ていないのかしら? わたしたちが朝別れてから、まだ18時間しか経っていないんだもの。だから、本当はまだ暗くあるべき時間帯なの。これはあの礼儀の無いカースド・リザレクターが呼び寄せた偽物の昼間。ああ、腹が立つわ、<時の欠片に触れた者>のやつ、わたしたちの時間感覚まで無遠慮にいじくるんだから。これって重犯罪じゃないかしら? いつか晒し者にして弄んでやる」
確認してみると、自分の時間認識が丸きり誤っていたと判明したので、リーンズィは驚いた。
何一つまともな部分が無い昼と夜だったが、とにもかくにも一日が経過したのだと誤認してしまっていた。
明るい時間帯と暗い時間帯が交互に来るだけで、こうも簡単に欺かれてしまうのか。
さもなければ、暗闇という断絶が、人間の時間を原始の時間へと誘うのか?
「リーンズィは体の調子、どこか悪くない? あいつに慣れてないと不死病筐体のバイオリズムが狂って、軽く壊れちゃうことがあるのよ。ふらふらしたり、変に気怠い感覚があったり、むずむずしたりはしない?」
「むしろレアせんぱいの具合が悪いように見える」
「これは……あなたのせいよ」レアは恥ずかしそうに視線を逸らした。
エージェント・アルファⅡが主人格だった頃に、<時の欠片に触れた者>とは邂逅済だ。
アルファⅡの生命管制は、変異体の干渉を受け付けなかった。
問題が出そうな箇所に関しては、適宜補修してきた。実質的な後継機であるエージェント・リーンズィにも、その経験値は引き継がれている。
しかし、レアの指摘は示唆的だ。
時空間を操作する悪性変異体とは、想像や実感よりも、さらに対処が難しい存在なのだと気付かされた。
あの悪性変異体は、つまり、目標に接触せずとも干渉が可能なのだ。特に環境に随時適応していく特性を持つ不死病患者に働きかけるなど欠伸が出るほど容易い仕事に違いない。周辺空間から間接的に働きかけるだけでいいのだ。
生命の継続とは即ち連なる時間の、不可逆的な経過の記録であり、命ある者の記録とは、言ってしまえば歴史という一枚の布を横切る猫の足跡に過ぎない。
<時の欠片に触れた者>はこの一枚の巨大な布までも自在に操る。そうなるとその上に乗せられた猫はまったく無力なもので、歩いてきた道をくしゃくしゃにされただけで、世界の有様が分からなくなってしまう。
あの変異体の前では、誰しもが自分の人間存在としての時間を見失ってしまうのだ。
打ち捨てられた寒村で、エージェント・シィー……ケットシーの父が遺した言葉を思い出す。
<時の欠片を触れた者>をどうにかしなければ先に進めない、と。
だが、あんな途方もない存在に対して、有効な攻撃手段が、この世界に存在しているのか。
同じく時空間に干渉可能な異形の群れ、ウェールズ渉猟騎士団は、どれだけの期間、炎上する蒼い影の群れを追跡しているのだろう。百年、二百年の話ではあるまい、とリーンズィは直観する。
おそらく何千年だ。途方もない試行だ。それでも彼らはまだ何も成し遂げられていない。
いったいどうすれば、どうにかなると言うのか?
考え込み始めたリーンズィの手を引いて、「ねえ、ねえ。視線を感じるわ。レーゲント劇場だ何だって言われてるのが聞こえてくる気がする。劇場だなんて失礼よね、愛し合うことは見世物じゃないし、法律違反でもないのに。さぁ、早く行きましょう、ここで色々話し込んだり、いっぱい……その、抱き合ったり、しても良いけど、わたしはまだ、恥ずかしいし。最後の昼が来たら、その……愛し合う……なんて暫く出来なくなるわよ」
照れの滲むレアの言葉に、リーンズィは同意した。正確には赤らんだ首筋が酷く魅力的に感じられて、生体脳から麻薬物質が放出され、それまで考えていたことが、さほど大事だと思えなくなってしまった。
かのじょはとてもろんりてきだった。果てしない時間を掛けても滅ぼせない敵なのか味方なのかも曖昧な存在について考察することはいつでも出来る。だがレアと愛を確かめ合うことは今しか出来ない。ろんりてきなのですぐにわかる。
背丈の異なる少女たちは歩幅をぴったり合わせ、街並みを眺めて進んだ。
具体的にどのような場所をレアが求めているのかは分からなかったが、出来るだけ立派そうな建物を探しているのは何となく理解出来た。
道すがら、不可思議な事実に気付いた。
他のクヌーズオーエであれば乗り捨てられた車両や破壊された戦車、破壊された機械甲冑ぐらいは見つかったものだが、ブランクエリアでは、バス停らしき標識は幾つかあるのに、肝心のバスが存在しない。
車両自体が確認出来ない。
どうやらこの都市には一台も自動車が残されていないらしいと分かった。
家々を荒らしていく。
電子錠の建物が覆い。停電の影響か、解錠の状態で固定されていた。レアが電磁場を操作するまでも無くリーンズィたちは部屋漁りを続けられた。
外観上はどれも似たり寄ったりで差異が少ない。
「良いかしら、良いかしら。家具類の目利きが出来ると色々と捗るわ」とレアは得意げだった。
玄関やリビングの調度を確認すれば目当ての水準の家かどうかすぐに分かるのだそうだ。
リーンズィには生活様式の知識はあっても暮らしの記憶は存在しないため、靴箱を職人の眼差しで観察するレアせんぱいがとても格好良くよく思われた。
白髪の美姫へと惜しみなく瞳をきらきらとさせた。
レアはかっこいいところを見せたいのか、あれこれと蘊蓄を教えてくれたが、時折黙りこくって、リーンズィへと言葉少なに接吻を求めた。
打ち捨てられているというのに、どの家も整然としていた。
「三日もすれば、誰かが帰ってきそうね」
「でも、その『三日後』は今日や明日では無い?」
「ええ。そうでしょう、そうでしょうね。『三日後』は永遠にこの街に訪れないわ」
大型の家財は全くそのまま残されており、無遠慮な侵入者であるリーンズィたちを、廃墟の街にあるまじき極めて安定した景色で迎え入れた。
冷蔵庫の電源は予め抜かれていた。食品が腐敗した形跡もない。酒瓶らしきものが残されている程度だ。戸棚の缶詰はラベルが真新しいままで一つも破裂していない。
隈無く探す。宝を探す。この不死の時代に必要の無い品物を探す……。古い時代には価値のありそうなものは見つかる。貴金属の入った金庫はあった。しかし、財布や金銭の類は見当たらない。
寝室まで踏み込むと、ウサギの立派な彫刻が主人が帰ってきたのを喜ぶような躍動感でレアを迎えた。
芸術に疎いリーンズィの目にもはっきりと分かるほど見事な作品だ。
レアはそれを持ち去ろうとはしなかったが、悔しそうな、羨ましそうな表情で、彫刻と向き合った。丹念に手で触れて、形をなぞり、その素晴らしい造形をスキャンした。
いずれにせよ、素晴らしいものは何一つ奪われていない。毀損されていない。大量殺戮の痕跡も発見できない。計画的に避難が行われた証だ。
人間存在だけが摘出された後の、虚ろな灰色の箱。城壁に覆われた白骨の都市。
何が起きたのかはリーンズィには想像出来ず、苦労して戦術ネットワークを検索しても、それらしい推論はヒットしない。真相は遠い場所にある。都市を練り歩くフォーカードの構成員の人格が保存されているいつか、どこか。
そこにしかないが、それは、もうどこにもない。
そうして何軒かを漁っているうち、ある家でレアが満足そうな息を吐いた。
マホガニー製の戸棚だわと、などと熱心に解説してくれたが、ライトブラウンの髪の少女にはあまり価値が分からない。大好きな人が嬉しそうなので、リーンズィも嬉しい。それだけだ。
リビングまでくると、調度が他より一段階上質なのは、雰囲気で理解出来た。リーンズィの知らない沢山の景色が、額縁に囲まれて飾られている。ショッピングモールへ続く道へ並んでいた路上広告よりも寡黙で、それでいて雄弁に色彩を語る、複製絵画の数々。その中には猫の額ほどの大きさしかない絵画あった。黒い蓮と、儀式的な紋章文字の刻まれたタロットカードのように見える。
何らかの占いのカードをレアは眺め、それから留め金を焼き切って落とした。
紫外線遮断加工が施された保護ガラスを不朽結晶のブーツで踏み割って、中身を取り去った。
「お土産、まだ渡して無かったわね。これをあげるわ、リゼ後輩」
「お土産とはその場で確保して渡すもの?」と首を傾げながらも、リーンズィは純粋な喜びによって微笑みながら贈り物を受取った。
上品そうな絵柄で何となく希少価値を感じたが、美術品としての性質はやはり理解が出来ない。
「戦術ネットワークで公開されてる古い時代のカードゲームを知ってる? 解放軍でも結構人気で……まぁわたしは電子チェスでデイドリーム・ハント使ってボロ勝ちして以来、どの対戦遊戯でも隔離サーバーに飛ばされちゃうんだけど……とにかくそのゲームでとっても人気のある一枚なの。ブラックロータスっていうの。大司教のリリウムと対だけど、本質的には決して交わらない……そんなわたしのリゼ後輩にぴったりでしょう?」
そういうものか、そういうもの? とリーンズィは思った。口には出さない。レアからの純粋な好意の結晶を恭しく手に取り、重外燃機関の耐熱収納スペースにしまった。
返礼はキスで行う。
熱い息を漏らしながら、レアは濡れた赤い瞳を背ける。
「焦らないで、焦らないで。ブランクエリアの醍醐味は、何と言っても完璧に清潔で高級なマットレスがあることよ」と先を急かしながらレアが教示する。「眠れない体でも、疲れない肉体でも、ふかふかで綺麗なベッドで横たわると、凝りみたいなものがほどけて、すごく気持ち良いの。……あなたにもその感覚を教えてあげるわ」
回りくどい言い方だが、さしものリーンズィにも彼女の真意は知れている。
リーンズィを建物に連れ込んだのは、上等なベッドの上で愛を深めたいからだった。
照れ隠しする白髪の少女に、リーンズィは渇きを感じて、唾を飲み込んだ。
別段、二人はひと目を憚っているわけではない。ブランクエリアにおける接触規定はケットシーが指摘していた通り、かなり甘い。レーゲントが炉端でキスをする程度なら、咎めは無い。
ただ、二人は、二人の時間を二人だけのものにしたかった。
リーンズィもレアも愛の扱い方が未熟で、一度そうなると、いつも夢中になってしまう。いくらでも互いの瞳を見つめていられるし、何度でも抱擁を繰り返し、互いの熱を融け合わせることが出来る。
……鎧の外へ出るようになって、レアは随分と『開き直る』のが上手になった。
真に惜しむのは、熱情が漏出することだ。二人は零れていく感情の熱をこそ儚む。
熱は無限ではない。不死病患者はしばしばこの世界の原理原則を無視するが、熱力学の第二法則は依然として人格記録媒体に付きまとう。無明の平穏から逃れた者どもから、感情の光を無慈悲に取り立てる。どのような熱もやがじは失われていく。涙を零すような歓喜も笑い狂うような憤怒も胸を掻き毟るような悲哀も歌を口ずさむ安楽も、最後には何一つ残らない。何一つ。何も残らない。
だから少女たちはせめて僅かでも零さないようにと願うのだ。
それは彼女たちだけが独占すべき時間で、凍てついた世界に掠め取られるなどあってはならない。
賢者も知者も、いずれ消える夢に縋ることを愚かと嗤うだろう。
だが神ならぬ身の、果たして何を恐れんや。
未だ来ぬ終末を空想するより、少女たちは幸せな一瞬を尊ぶ。
果たしてその家屋には、戦略拠点ではお目にかかれないような驚異的にふわふわで広々としたベッドが存在していた。
リーンズィは重外燃機関と左腕の蒸気甲冑を取り外して部屋の入り口に置き、ベッドに腰掛けた。
上質なスプリングが鎧から解き放たれた軽い肉体を受け止めて沈んだ。
膝の上にレアが乗ってくる。
リーンズィは白い綿毛のような、繊細なレアの目鼻立ちを、間近で見つめる。
「レアせんぱい、綺麗」リーンズィは心からの簡単を吐息と共に漏らす。
「ねぇ、ねぇ。リゼ後輩。まだまだ次の朝は遠いわ。わたしと一緒にいてくれる?」
「うん。愛している」
「風情が無いわ、愛なんて気軽に使わないでよね」
「……気軽には使っていない」
リーンズィが耳を赤く染めた。己の愛に、己の言葉で気付いた。
だから心底の熱情で、もう一度「愛している」と唱えた。
レアは惚けた様子で頷いた。
二人はそのままベッドの上に倒れ込んだ。抱き合い、触れあい、互いについて、より深く知ろうとした。次の夜が訪れ、明けるまでを過ごした。カーテンを閉めたのがいつのことだったか覚えていない。
ミラーズやケットシーについて心配する必要は無かった。どのような状況でもアルファⅡモナルキア総体が管制を行っていたし、ケットシーについてはハッキング済なので、ユイシスが直々に監視をしている。
よく分からないが、イモニカイだのサトイモだのシオイモだので大喧嘩をしているようだった。おそらくささやかな戯れの範疇だとリーンズィは熱に浮かされて憂慮を切り捨てる。
レアもひたすらリーンズィだけを求めた。
敵の襲撃については、既にレアの出撃が必要な段階は過ぎていた。
ブランクエリアと周辺クヌーズオーエには専門の部隊が展開し、ハイゼンスレイの指揮の下、兵士たちは完璧な警戒態勢を取っている。
だから二人は自由だった。リーンズィとレアはまるきり時間の経過を忘れた。不意に訪れる泡のような空白には、互いに目を閉じて色々な話をし、同じものを見て、気持ちを分け合った。くだらない景色のこと。可愛い動物たちの動画について。クヌーズオーエの兵士について。そしてまた愛を確かめあう。
淀ませれば冷えてしまう。この熱を失ってしまわないようにと、レアは発露した恋心を剥き出しにして、息も絶え絶えに思慕の吐露を繰り返した。自分の素朴な情愛について羞恥を示しながら、リーンズィに己の全てを曝け出し、頻りに答えを求めた。
複製された愛から生み出されたリーンズィは、言葉に自分なりの装飾を繰り返しながら、精一杯レアへ自分の感情を送り込んで、白髪の少女の愛に溺れた。
二人は不慣れだった。愛情表現は熱烈だが、さほど巧いものではない。レーゲントたちが見れば、微笑ましくて笑ってしまうだろう。だが、児戯にも似た愛情の交換であっても、彼女たちには、輝かしい時間だった。
リーンズィとレアは、幸せだった。
三日目の昼にペーダソスからの警告が全軍に発せられた。
生存者たち。ファーザーズ・リデンプション・ファクトリー。
<暗き塔を仰ぐ者>。
彼らの操縦する戦闘飛行艇。
血肉で構築された器官飛行艇の一団が、ブランクエリア近辺に侵入したのだ。




