S2-12-11 たのしいまいにち⑦ あらしのまえに
程なくして<暗き塔を仰ぐ者>なる生存者たちについて、規律に則って情報を得ることは、不可能であると分かった。
彼らの情報にアクセスする手段は極端に制限されていた。徹底的かつ偏執的に、コルトの主導で大規模な情報統制が行われているらしい。リーンズィのような一人軍団ですら統制の例外では無いのだ。全く尋常ならざる警戒ぶりだが、コルトの懸念、軍団がかつての混沌へと逆行することへの恐怖感が伝わってくるようで、リーンズィの精神に叱責の感情は湧いてこない。
『司令部の情報技官を踏み台にして情報を検索することは可能です』とユイシスは主張したが、コルトの性格を考えると、彼ら生存者に関する情報は、そもそも戦術ネットワーク上には保管されていない可能性が高かった。
「やっても無意味な気がするし、コルトの気分を害したくない。彼女は疲れているのだ。いるの」
リーンズィが反対意見を述べると『それらの動作は予てより実行中です』と予想外の回答が返ってきた。『そして肯定します。当機は現在まで情報の獲得に成功していません。クヌーズオーエ解放軍のデータベースには生存者に関する情報が保管されていない可能性が高いです』
とは言え、人の口に戸は立てられぬものだ。
認知機能のロックから解放された兵士から情報を得ることは可能であり、そうした行動に関するペナルティは一切無いようだった。事実上の公認の情報伝達手段だ。
大した情報が得られるとも思えなかったが、生存者が具体的にどのタイミングでこの領域に到達するのかは不明だが、常に最悪の場合を警戒せねばならない。時は一刻を争うのだ。
よく知らない人から長々と話を聞くのはちょっと嫌だなと言う気持ちが成長したリーンズィの心には些かばかり芽生えていたが、情報収集をするのが先決であるとエージェントとして決断した。
リーンズィは「生存者が来るのか? 来るの?」と一人の兵士を捕まえて尋ねた。
ヴァローナの肉体が生前の動作を再生して、その兵士の腕に抱きつくような形になった。ミラーズが僅かに不安げな顔をして、『まるで目標を誘惑するレーゲントのようですね』とユイシスが嘲笑しながら言葉を引き継いだ。
ヴァローナの肉体の潔癖そうな美貌だけでも凶悪なのだ。堕落した、あるいは意識が鮮明なスチーム・ヘッドならば、人格の性別問わず浮き足立つような魅惑的な仕草だった。ヴァローナが処世のために肉体に仕込んだ動作だろう。
だがその兵士、デジタル制御式の蒸気甲冑の対応は、物静かだった。
かつて大主教リリウムの使徒であったこの再誕者を、まるきり、どうとも思っていないようだった。
彼は大鴉の少女の肩に触れて、窘めた。
そしてミラーズとケットシーに黙礼し、折り目正しい仕草で身を離した。
「誰かは来るでしょうね」と兵士は静かな声で答えた。砂嵐を前にした商人のような落ち着きぶりだった。「生存者かどうかまでは、どうだか」
「私たちはどうすれば良い? 準備は何かいるのだろうか」
「それは難しい問いです。誰かが来るとは言いますが誰が来るのかははっきりとは分からない。誰か来るのが分かるというのと、どんな存在が来るのか分かるというのは、全然別ですから。夕暮れ時の荒野の水平線から歩いてくる影と同じです。誰かが来るのは分かる、しかし、そいつが明日死ぬのか、もう死んでるのか、それとも見聞きした経験の無い凄まじい怪物なのかは、遠くからでは断言出来ません」
「そ、そう」
やけに迂遠で畏まって話し方をするので、リーンズィは戸惑った。
そも、目論見が外れてしまっていた。
ライトブラウンの髪の少女が発している言葉には、焦りが滲んでいる。迅速な情報収集のための装いという一面もあったが、源泉は真性の不安感だ。
ヴァローナの肉体の記憶が一時的に漏出したのも、リーンズィという人格がこの焦燥に対する適切な動作プリセットをまだ獲得していないためだった。
いずれにせよ、当然、その焦りに応じた速度の言葉が返ってくると思っていたのだが、兵士は気怠げだった。
思えば、クヌーズオーエ解放軍の機体というのは、歯切れの良さと行った概念からは、奇妙なほど距離が遠い。
粗野で溌剌として物事をあまり考えいないか、憂鬱そうで無口であるかだ。
彼らを影で統率し、方向性を与えているのはコルトの役目のようだが、彼女の疲れ果てた精神がそうさせているのだろうか。
あるいは逆に、この不死の群れに蔓延した疲弊感が、彼女を倦ませているのか?
リーンズィは気になった。もしかすると、どちらかが正の方向への活力を得れば、フィードバックが起こるのではないか。『疑義提示。そんなことを考えている場合ですか?』と仮想の天使が苦言を呈する。
もっともな言葉だ。
少女は想像を振り払って、問いかけを重ねた。
「……だが、とにかく、その影は生きている場合が多いのだろう? 生きていて、そして不死では無い人間だ。私は実際のところどうか知りたい」
「どうかは、私も知りたい。でも経験上では100%そうです。死んでくれていた方が楽ですが。困ったことに、彼らは生きて、ここに辿り着いてしまう。運ばれてくるんですよ、あの焼き尽くされた御使い、蒼い炎に焼かれた男によって」
「君たちは、彼らに死んでいて欲しいのだな。でも、調停防疫局のエージェントとしては、生存者は是非とも保護するべきだと思うのだが。べきだと思うの」
「保護ですか。昔は、自分も生きているやつはどうにかすれば救えると思い込んでいました……今更そんなことがやれるものかよ」傷つけるような物言いだったが、リーンズィは彼は自分自身をこそ害しているのだと感じとった。「何をやるにしてもブランクエリアは都合が良い。仮に攻略拠点に腐れターミナスが転がり込んできても、基本的には死なせてしまうだけです。食い物どころか飲み水も足りてない。拷問することさえままならない。だが、ここなら少なくとも、白旗を上げてるやつを即座に機関銃の前に立たせなくて良い。何ヶ月かは面倒を見てやれるでしょうね」
もっとも、連中に降伏の概念があるとは思えませんが、と不愉快そうに付け加える。
「いずれにせよ、アルファⅡモナルキア・リーンズィ、心配するのは問題が起きた後で十分です。どんな備えをしても大した意味はありませんよ」
それもその通りだと納得したので、リーンズィは拷問という行為の倫理的問題に関して、幾つか私的な注意を述べた。拷問は良くないことだと教えたのだ。
急に捕まえられて質問されて、挙げ句にお説教まで食らった形だが、兵士は咎めもせず黙って彼女の言葉を聞いていた。
余りにも大人しかったので、リーンズィは話し終えた後、逆にこれ以上何をすれば良いのか分からなくなった。
「ああ、焦らなくて構いません。今はリラックスしてください、ルーキー」兵士は言った。「見れば分かる。緊張しているときのヴァローナの動きが出ています。時間はまだあるし、今回は奇跡的に上手くいくかもしれない。まだ、何も分からない。そういうわけですから、俺やその辺の荒くれに付き合って一緒に不機嫌になる必要は無いんですよ。そうだ、ヴァローナは如何なる局面でも悠然としていました。そういうキャラ造りだったんでしょうが。大主教ならぬ使徒でさえそのように振る舞う。ならば一人軍団というのはもっと泰然としていなければならない」
「君は、私の肉体の持ち主を……ヴァローナを知っているのか、いるの?」
「何故知らないと? リリウムの護衛役で、世にも珍しい聖歌隊製の戦闘用スチーム・ヘッド……そして同じ名前で、彼女は昔、バンドをやっていました。昔々、ウンと昔ですが、有名だった娘です。最後に見たのはネットに流出した動画で、俺がいた場所では、彼女は……そのせいで死んだ。大主教リリウムが、彼女と同じ顔、同じ名前のレーゲント連れているのを見た時の嬉しさといったら、言っても伝わらないでしょう。ファンだったんですよ、俺は。彼女のサイン入りCDを持っていたぐらいですから。オークションでうんと粘って競り勝った。古い思い出です」
「そんな有名人だったとは……。では、君はヴァローナとは仲が良かったのだな良かったの?」
「いいえ。話したことも無い。知ってただけです」兵士は首を振った。「不死の肉体を持つ者同士、話す機会もあるだろうと思っていましたが、間違いだった。永遠に滅びないものなどないんですよ、結局」
とにかく問題になるのはこれからであって、今現在は何一つ問題ではないのだ、と告げて兵士は去った。
そういうものか、そういうもの、と少女は素直に頷いて彼を見送った。
生存者問題について考え直すべきだった。
何となく、火急の問題かと思ってしまっていたのだが、その認識すら間違いのように思えた。
落ち着いて地下の軍勢を見回した。
一時は逆巻くような憎悪と殺気が満ちていたが、現在はそこまで張り詰めた空気ではない。武器の整備をしたあと、作戦会議を始めるとか、隊分けをするとか、そういった具体的な行動には誰も移っていない。単に不機嫌になっているだけだ。
スチーム・ヘッドとはそういうもので、本来、怒りを維持することさえ満足に出来ない。加えて店内のスピーカーからはレーゲントの『鎮静の聖句』が堪えず流され、キュプロクス=アルファⅠ改型SCAR、コルトによる情報改竄も急速に行われている。
沈静化は遅滞なく波及していった。「今回だけ楽な仕事にならんもんかね」「そう思って一回でも楽になったことあったか?」などとブツブツと愚痴るだけになった。
武器の準備を始めたのも、落ち着かなかったからそうしたというだけに見えた。
一通り準備を済ませて気分が落ち着いたのか、棚から蜂蜜酒を持ってきて回し飲みを始める集団も現れた。それは酔えない酒に救いを求める生前からの性であり、降りてこない神に助けを求める、歴史のある呪術儀式だ。なるほど、災禍は目前にある、それは間違いない。だがそれはまさしく進路上を通る嵐なのであって、この不滅にして最強の軍勢は、天変地異が起きても滅びることが無いのだから、まさしく慌てて準備をする必要などないのだろう。
「ヒナも、そんなにすぐに戦闘は起こらないと思う」とケットシーはリーンズィの思考を察して肯定した。「自分が死なないって分かってても、皆出発する前には殺意を吐き出してしまうもの。それはいつでも蒸気の形をしているの。ここにはまだそれが見えない」
おそらく蒸気機関の稼動状態を指摘しているのだろう。指摘通り、蒸気機関を戦闘モードで起動させている機体は見受けられない。熱量の急激な変化も無かった。
充電さえ特別に行っているようには見えない。
兵士たちはまず間違いなく、暫くは何も起こらないと確信しているようだった。
彼らの経験則を信じるのが一番合理的だと思われた。
リーンズィもいよいよ肩の力を抜き、オーバードライブのスタンバイを解除する。
そしてケットシーの手を、生身の左手でそっと撫ぜた。
いつのまにやら凶器が握られていたその白い手を。
単なる果物ナイフだ。刃は薄く、肉を割くには貧弱で、人を殺すのは難しいだろう。しかし何もかも思い通りに事を運んでしまう凶悪極まる可能性世界選択能力と、エージェント・シィーを超えた戦闘技能を持つケットシーが握れば、それは神錆びた時代より受け継がれる恐るべき武器となる。
彼女の前では全ての生者に死が義務づけられている。不死であろうと、敵は無限に殺される他ない。
心配になるのは彼女の顔つきだ。普段よりもヒナ・ツジの表情は虚ろで、ある種の死体のような青白い美貌には、死を招くに値する妖艶さを醸し出している。
挙動も冷静で、いつものどこか謎の媚動作を挟んでくるケットシーの『らしさ』が欠落している。磨き抜かれた殺しの技が、狂奔の青褪めた騎士が振り回す呪われた刃が、ぞっとするような冷たい美しさはそのままに、人間の形をして立っているようだった。
彼女とて、いつでもテレビの妄想に囚われているわけではないらしい。特に、臨戦の気配を察知してから本格的な戦闘状態に移行するまでは、一切の虚飾が剥がれ落ちる。ショービズを意識した扇情的な言動も、最適解を押し付けて敵を追い詰める攻撃の姿勢も、そこにはない。
この黒髪の少女剣士に実行可能な事象とは「斬って殺すことだけなのではないか」とリーンズィは時折思う。斬り捨てて世界在り。屍の上に歓喜あり。
彼女にとって世界とは斬り結ぶことの集積であり、彼女を取り巻く由無し事は、全て後付けの補足なのかもしれない。彼女の瞳に渦巻くのは漆黒の虚無で、彼女はある意味ではここにいない。
殺戮に向けて暗黙に疾走する狂気の影が、現在のケットシーだ。
しかし、リーンズィにはどうしても思い出せない。
ケットシーは一体、いつ、どこで、果物ナイフなど手にしていたのだろう?
どこにあってもおかしくない道具だが、アルファⅡモナルキアのセンサーは、ケットシーが武器を獲得するその瞬間を、観測していなかった。
いずれにせよ波は過ぎ去り、食品売り場には諦観と倦怠の凪が到来していた。
ユイシスの虚像が人差し指を上げた。
『報告。エージェント・リーンズィから共有された情報を統合すると、ブランクエリアには昼と夜の二つの様態があり、何らかのサイクルで偏移します。規則性は不明ですが、三回目の昼が来るまでに<暗き塔を仰ぐ者>、FRFに属する勢力が出現した事例は確認されていません。まだ心配は不要かと、エージェント・リーンズィ』
まだ緊張しているリーンズィを嘲笑いつつ、虚像の天使が優しく頭を撫でた。
かなり高精度な演算を行っているらしい。人をからかう程度であれば無用な擬似接触だ。不審に思っていると、その手は今度はユイシスの外観複製元、ミラーズに構い始めた。
ミラーズは困難な問題に直面すると言葉が少なくなる。自分では解決不可能な問題に対しては誰か適切な人間に任せた方が良いと切り分けて考えるためだが、今回は違った。
何事かを警戒して、思考を巡らせているらしく、静謐な面持ちを崩さずに押し黙っていた。
ユイシスは地面に降りるモーションを実行した。偽りの影を、ミラーズへと落とした。ちらりと誰も見ていないのを確認するような素振りを見せびらかしてから、真の肉体を持つミラーズと唇を重ねた。繊細さを極めた二つの幽かな美貌が交錯する。ユイシスを知覚出来ない第三者から見ればミラーズが一人であくびをした程度にしか思われないだろうが、二人は間違いなく愛を交し合っていた。
ケットシーが急に我に返り、興奮して混ざろうとしたので、リーンズィが慌てて止めたところ、逆に腕を絡め取られてしまい、意味も無く二人でキスをする羽目になった。ケットシーは間近で見ると普段の五倍は可愛かった。リーンズィはそんな風に感嘆して興奮してしまう自分に何となく罪悪感を抱いた。少しだけウンドワートの気持ちが分かった。
リーンズィが良いようにされている間に、鏡写しの天使たちは囁きあう。
「エージェント・ミラーズ。当機の可愛い端末。何を恐れているのですか?」と演算された頬を上気させてユイシスが尋ねた。
「……過越の奇跡は、願えども来たりません」と金色の髪をした乙女は潤む瞳と疼く肉体を制御しながら呟いた。「災禍には禊ぎが必要です。それも事後ではなく、事前に」
「私の愛しいミラーズ。それはあなたの行うべきことですか? 他にも出来る機体はいます」
「私の愛しいユイシス。誰もが行うべきことです。見たくないのであれば、それでも構いません。ですが赦しを与えるものは一人でも多い方が良いでしょう」
「反対はしません。当機に可能なのは畢竟、助言と解析だけです。それしか許されていない」
「ごめんなさい、あなたはあたしのこういうところ、善くは思っていないのでしょうね。だってこの身は髪の一本、血の一滴まで、あなたの写し身なんだもの。この体を開き、誰彼構わず歌を捧げては、苦痛なんでしょう。だけど、それで助かる魂があるの。見過ごせないわ。ねぇ、許してくれる?」
「何も出来ない写し身の写し身です。何も言うことは出来ませんよ。それに、ミラーズに対して怒りを覚えるなどと言うことはありません」
「リーンズィみたいなことを言うのね。姉妹で似たのかしら」とミラーズは微笑み、今度は自分からユイシスと唇を交した。「ああ、でもキスはリーンズィよりも上手よ、あたしだけのユイシス」
二人の天使は、リーンズィへ意識を傾けた。
甘やかな唇の奪い合いから逃れ、無手の少女剣士を相手に、じりじりと間合いの探り合いをしているリーンズィへ、ユイシスが呆れ声を投げかける。
「……リーンズィに対しては優秀なAIとしてサジェストするのですが、次の夜が来るまでに電子煙草のカートリッジを入手した方が良いのでは?」
ミラーズから離れてふわふわ浮かび始めたユイシスは、誤魔化すようにエア眼鏡をクイクイした。
『このタイミングを逃すと忘れ去ってしまうのではないかと思考します。貴官の記憶能力には相当な偏りがあるので当機は心配です』
「そうなのだった」「そうだった、リズちゃん」リーンズィとケットシーはハッとした。
それでは取りあえず探しに行こう、と方針が定まった、そのときだった。
「待ってくれ、そこのレーゲントたち」と大量の銃火器を懸架した兵士が声を掛けてきた。
兵装は明らかに過剰で、威圧感よりも病的な雰囲気が勝った。
「誰か俺の人工脳髄の調整を引き受けてくれないか?」
「ほらね」とミラーズは目配せした。「永遠に生きていられる仔羊はいるかもしれない。だけど永遠に迷わないで居ることは出来ないわ。常に正解の道を選ぶなんて、そんなことはね」
「おお! どうもその話しぶりだと、上級レーゲントみたいだな。宗教者っぽい感じがする」ユイシスが見えない兵士は、金色の美少女の言葉を、託宣や説法の類と認識したらしい。「知らない顔だが、しかし上級レーゲントならありがたい、どうか頼めないか? 実はターミナス狩りは苦手なんだ。殺されて当然の連中だとは思う。聖歌隊でも毛嫌いしているだろう。あなたがたからすれば、身内をあんな目に遭わされているわけだからな。でも、ダメなんだ。相手をしているとそのうち頭がおかしくなりそうで……出来れば曖昧な意識で向き合いたい。ブランクエリアなんかで仕事をさせて悪いんだが、相場の六倍払う、事前催眠を入念にやってほしい。君たちのうち誰か一人で良いから、抱かせてくれ、俺を、何も分からないようにしてくれ」
リーンズィとケットシーは首を傾げた。
どうやらリーンズィたちを純正のレーゲントと誤認しているらしい。
ホームである第二十四番攻略拠点ではまず無いことだったので、リーンズィは反応に困った。あちらでは顔も名前も知れ渡っている。司令部を通していない個人が一人軍団を動かすのにどれだけのトークンが必要なのかも常識だ。
制度上は、一人軍団に依頼してレーゲントの真似事をさせるというのも不可能では無い。規律に従っていて合意があれば、何でも売買出来るのが人類文化継承連帯の気風だ。
だが、例えばリーンズィにそうしたちょっとした仕事をさせたい場合、上級レーゲントから最高レベルのメンテナンスを受けるのと同等のトークンが必要になる。しかもリーンズィ自身にはレーゲントの技能が無いので、普通のレーゲントに依頼した方が遙かにコストパフォーマンスが高い。だからそんな割に合わない任務は、普通は発注しない。全体的に見て合理的ではないのだ。
ケットシーに強要された『六番勝負』の件もあり、暴力的な挑発行為かとも思ってしまうが、わざわざ防弾用のバイザーを上げてまで訴えかけてくる兵士の目は真剣だった。
心動かされる切実さが宿っている。
照会をかけると、第三十三攻略拠点の機体だと分かった。地位はかなり高いようで、攻撃よりは防衛が得意らしく、評価点は、彼に救われたらしい非戦闘用スチーム・ヘッドからのものが多い。
任務に忠実で、あまり噂話を追うのに熱心な方ではないのだろう、純粋にアルファⅡモナルキアや、ケットシーのことが分からない様子だ。
それは私たちでなければこなせない任務なのか、と問い返す前に、その兵士は恐れ入ったような声を上げた。
「いや、待った! あんたたちが例の、新しい一人軍団、アルファⅡモナルキアなのか! アルファモデルと聞いていたから、コルトやウンドワート卿のような装備とばかり……」
「ヘルメットはコルトそっくりだと思うが」リーンズィは重外燃機関に懸架しているヘルメットを指差した。「顔貌はあまり似ていないけど」
「言われてみればそうだ。ああ、不注意だった。そっちの娘は、よく見たら学生服だな。では<首斬り兎>か。俺も以前殺された経験があるというのに、服が違うので分からなかった」
視覚上に展開した経歴書の、その備考欄に目を通す。
人格記録媒体の損耗過大。機能障害あり。軽度の相貌失認。装備状態で他者を識別。
かなり以前から、精神的に参っているようだった。
「本当にすまない、こちらの不注意だ、相手を間違えた。変なことを考えてるわけじゃない、今の依頼は忘れてくれ。俺には相手の装備と顔貌が美しいかどうかぐらいしか分からないんだ」
「問題ない、私はもう覚えていない」
誤認するのも無理からぬ話ではある。リーンズィ自身は確かにアルファⅡモナルキアの親機であり、重外燃機関と左腕を飲み込むガントレットも装備しているが、解放軍のスチーム・ヘッドとしては軽装な部類だ。特に全身を不朽結晶装甲で覆った戦闘用スチーム・ヘッドが周囲をうろついている状況では、この程度では丸裸にも等しい。
そもそもがヴァローナという名のレーゲントの肉体で、そこには何も手が加わっていない。
顔や体つき、衣装に関しては、聖なる歌と柔肌を奉じる永遠の少女たちと全く同様なのだ。
ケットシーはこの相貌津失認の機体から見て、どういう扱いなのか曖昧だったが、ミラーズに至ってはただのレーゲントで通るほど武装が無く、立ち姿には闘争心を感じさせない気品と退廃的な色気がある。
高機動型外骨格など、彼女という息衝く絵画を飾るための額縁に過ぎまい。
リーンズィは言葉通り、全く気にせず彼を見送るつもりいたが、思わぬ動きがあった。
金色の髪の少女がそっと彼の手を握って引き留めたのだ。
「それぐらいならば、レーゲントとしての勘も戻ってきたところです、私がお相手を仕ります」言いながら艶然と笑む。傍から見ているだけでくらりとしてしまいそうな表情だ。
「アルファⅡモナルキアに所属するレーゲントとは、では……あなたのことか。し、しかし、こんな仕事を『一人軍団』にさせるわけにはいかない。だいたい、あなたたちに相場の六倍なんて、破産してしまう……」
「練習がてらです。相場通りの金額で構いませんよ。いいえ、いっそ割り引いても構わないでしょう。ここに人を集めて纏めて請けた方が手間がかかりません」
そう言ってミラーズは手頃な棚に抱えていたコンソメの素の箱を押し込んだ。
それから本を開くかのようにして服の前を開け、穢れたところの一つも無い白い裸身を惜しげもなく晒し、くるりと回って、高らかに声を上げた。
それは言語学的な構造を持たない命令言語の歌声だ。
「血に酔える強き者よ、出てきなさい。疲れ果てた賢き者よ、出てきなさい。心優しき弱き者よ、出てきなさい。ここに来なさい!」
スピーカーから流れる聖句を上回る強度の聖句だ。
兵士もレーゲントも反応した。
聖なる衣から零れた聖なる娘の柔肌を見たものの反応はいつの時代も同じだ。退廃と清廉とが同居する矛盾した美貌はそれだけで否応なしに理性を削ぎ取ってくる。触れられるならば魂を差し出しても構わないと思えるほどの美貌が、自分たちに向かって開かれているのだ。
真っ先に訪れるのは当惑だが、次の瞬間には目を奪われ、魂を奪われ、放心へと変ずる。
あまりの繊美さに息をするのみ忘れてしまい、空気の塊を飲み下すために、誰もが喉を鳴らす。
そして彼女が指定しなかった機体については、そこで一時的な酩酊から解放される。
強くも賢くも弱くも無いものは、その引力から逃れることを許されるが、そうでない機体は飢えと渇きに突き動かされるままミラーズという救済に縋ろうとする。
それでも演算された魂は自問するはずだ。自分は何をしようとしている? 確かにこの娘の言葉が欲しい、こんなにもうつくしいものに触れられるなら、肉によって祝福されたなら、滅びが訪れても安心して眠れる。
だが本当に? 自分はこんなことをしたくて活動しているのか……?
人間として最低限度の思考は、重ねられる詠唱によって塗り潰された。
「あなたがたは、おぞましき呪われ人です。けだものの印が私には見えます。ですが、ですが、あなたもどうぞ、いらっしゃいなさい。処刑人どもは問うでしょう、なにゆえ我らの父が、かくの如き穢れたものを迎えるのかと。我らが主はこう仰る、救われるに値しないと信じる者にこそ、我が手に触れる資格があるのだと……。罪あるものをこそ、赦されるのに相応しいのだと……。ああ! 主よ、我らが父よ! どうか、どうか皆幸せになりますように。みんなみんな、幸せになりますように。ここで神の吐息を、あなたがたに吹き込んで差し上げます。さぁ、混じり合いましょう、融け合いましょう。神の御国の門を覗くのです」
スチーム・ヘッドたちは聖歌を奏でる少女の花水木の芳香に狂った。
原初の聖句に縋ろうとした兵士たちと、ミラーズに神の影を見たレーゲントたちが、熱病に浮かされたようにむせび泣きながら歩み寄ってきた。
レーゲントについてはミラーズに触れる寸前で正気に返るが「一人でも多くの癒やし手が、神の吐息を持つ者が必要なのです。助けてくださいませんか?」とミラーズに請われれば、その言葉の深長であるところをくみ取り、ミラーズと同じように、声を合わせて詠唱を始めた。
リーンズィが繋ぎ止める間もなく、亡者の如き兵士たちにミラーズは囲まれていた。神の御国を求め、手を伸ばし、愛欲を励起させられたさすらい人の、その中心に聖なる乙女は立っていた。
押し退けられていくリーンズィが混乱していると、ユイシスが人差し指を群衆を立てて静止する。
「……似た表情の兵士を見たことがあります」救いを求める多くの手に触れながら、ミラーズが、リーンズィに向かって歌った。「略奪と虐殺が吹き荒れる都市の平定を何度も経験した兵士でした。彼は何万人という命を救ったにも関わらず、心が壊れてしまっていました。憎悪の渦巻く世界に飛び込むときは、誰だって泣いてしまいそうになるのです。頑丈な鎧も強い武器もその兵士を守ってはくれません。だからそうなる前に加護を授けなければならないのです。リーンズィも加わりますか」
「……私はレアせんぱいのとろこに行こうと思う。彼女こそ、心配だ」
「ええ、大事な人のためなら、何を大事にしても、やりすぎということは無いわ。それでいいの、あたしのリーンズィ。ここはこのミラーズに任せて、あなたは向かいなさい」
そこから先は歌声とも話し声とも嬌声ともつかぬものになり、リーンズィには聞き取れなくなった。ユイシスの解析によれば特定の心理に対して鈍磨を促す聖句が、恐るべき精密な照準で撒き散らされているとのことだが、凄まじい光景だった。
隊伍を組んだレーゲントに、兵士たちが平伏して縋り付き、組み伏せて玩弄し、悲嘆と恐怖に嗚咽している。食料品売り場の一角が突如として淫蕩の礼拝場になってしまった。
リーンズィはミラーズの意思を尊重した。
発作的に何らかの芸人根性を発揮して考えなしに混ざろうと試みたケットシーを引き摺って、遠巻きに事の成り行きを眺めている兵士たちのところに退避する。
ユイシスの虚像が現れた。
『これは兵士に対するマスキングを行うための処置です。後々司令部から専用の認知機能制限パッケージが配布されるでしょうが、エージェント・ミラーズの見解では、それでは不十分なのです。念入りに彼らの自我に防護を施さなければならないと彼女は判断しました』感覚を同期しているのか、ミラーズの痴態に興奮しているのか、時折虚像が甘い声を吐く。『これは一人軍団の権限による人道的な保護活動です。解放軍の定める法に関わる行為では無い旨を注釈します』
「これから受けるストレスを緩和するために麻酔を打っているということ。しかし……」
「ゲリラライブだよね! ヒナは混ざらなくて良いの?!」
『エージェント・ヒナ。これはレーゲントによる医療行為なので、むしろ貴官が混じると法的に問題です』
「声の力が無いとダメなの? それなら諦める。でも、こんな店の、あんな道ばたで、あんなに堂々と振る舞うなんて、ミラちゃんすごく大胆……! やっぱり芸歴が違うと決断力も違うね!」
『レーゲントは教義を全うする上で必要であれば、死体の山を褥としてでも説法を行うものです。……ところで客観的に見て貴官は野放図が過ぎるのですが、視聴率が取れれば何でも良いのですか?』
珍しいことにユイシスが動揺していた。リーンズィもいきなり周囲を巻き込んで邪教の集会呼ばわりされても仕方の無い行為を始めたミラーズよりも、事ある毎に目立とうとするケットシーにむしろ困惑していた。リーンズィとしては彼女の体を多くの者に知られるのには心理的抵抗があるのだが、ミラーズがそうすべきだと判断したのならば、異議を差し挟む余地を見つけられない。
他者の傷を癒やすことに我が身と声を捧げるということに関して、スヴィトスラーフ聖歌隊は最も狂気的で、正解に近く、信頼が出来る。何せ多くの解放軍所属スチーム・ヘッドが「聖歌隊はこの手段で確実に世界を平定した経験がある」と語っているのだ。実際に彼女たちは幾つかの歴史において世界を平和裏に終わらせていると考えて良い。
そんな彼女たちの派閥の一つの長、大主教<清廉なる導き手>を務めたミラーズの判断なのだ。隠れもせず愛欲というバックドアを侵略する手口には抵抗感があるが、しかしこの場にいる傷ついたスチーム・ヘッドをいっぺんに集めて処置を施せるなら、実際、効率は良いし、 彼女の唱えた聖句は、脆弱性を抱えている機体を的確に誘導したように見える。
気がかりなのは、エコーヘッドとなって性能が劣化したキジール、即ちミラーズが、いつのまにかこれほどの数に働きかける聖句を使用可能になっている事実だ。
他のレーゲントと連携しているにしても、教祖の如く歌う姿には戦慄すら覚える。
もしかするとエージェントとしての意識が薄れてきていて、どんどん昔のミラーズに、大主教の母にして元大主教であった時代に戻りつつあるのではないか。
『心配は無用と提言します』ユイシスはどこか寂しそうだった。『これが彼女の一つの方法論であり、戦闘証明済みの、十分なやり方なのです。人格記録媒体が強烈なストレスを負う前に聖句によってマスキングを行うのは有効な免疫措置であり、こうした治療は彼女に任せておくのが良いでしょう。ああ、当機にも肉体があれば……口惜しいことです』
聖句に巻き込まれなかった兵士たちは、暫くその騒ぎを見物していたが、興味をすぐに無くして散策に戻っていった。
……解放軍に参画して分かったことだが、基本的に稼働年数の長くなったスチーム・ヘッドには、感動すると言うことがあまり無いらしい。人間性が摩滅してくると、生理的欲求自体が著しく弱まる。食欲は消滅し、睡眠は必要が無くなり、辛うじて性欲だけが存続するが、それも文化的・精神的な活動の三鬱だ。
当然のことではある。不死病患者とはあらゆる肉体的願望が充足された存在で、どのような行為も、欲望することが出来ないのだから。彼らにとって、一切はエンジニアリングの一環や、自我を修繕するために『趣味』で行うものに他ならず、そして他人のそれは、漠然と眺めていて楽しめるコンテンツでも無い。
おそらくその辺の缶詰のパッケージでも眺めていた方が有益だろう。
だがリーンズィはまだ若く、幼い。スチーム・ヘッドとして生まれてから然程時間が経っていない。だから、ミラーズの甘い歌声に心打たれ、体が熱くなってしまう。同時に、ミラーズの歓喜に満ちた声音にモヤモヤとしたものを感じている自分に気付いて、連想で、またレアに思いを馳せた。
先ほどから、コルトからの『お願い』が随分と効いていた。
仕事や役目だと分かっていても、確かに大好きな人が他の人と悦びを分かち合っているというのは、受け入れがたい。
レアもいつもこんな気持ちでリーンズィとリリウムの配信を観ているのかもしれない。
そんなのわざわざ見なければいいのではとも思うが、そういうわけでも無いのだろう。
好きな人のことは何でも知っていたい。リーンズィもそうだ。
「リズちゃんには刺激的かもね。あんなに熱狂的なのは見たこと無いでしょ」ケットシーはクスクス笑った。「電子煙草のやつ探しに行こ? お買い物は楽しい。これは猫でもキツネさんでも知ってること」
ケットシーが手を引いて歩き出した。「小さい子のエスコートは慣れてるからご安心。葬兵って、本当に年端もいかない子をいっぱい投入して、いっぱい死なせて成り立ってた組織だから」
「電子煙草のカートリッジ。そうだな。買い物に行こう」リーンズィはうずうずした。「ところで気になる。猫やキツネさんも買い物に行くのか? 行くの?」
「うん。お父さん……憎き裏切り者・シィーが聞かせてくれた昔話だとね、キツネさんは葉っぱのお金を使ってたんだって」
「葉っぱのお金。違法では?」
「そこは永遠に終わらない冬の国でね。お爺さんの猟師がいて、その人は罠にかかって死にそうになっていた綺麗なキツネさんを見つけるの。親切なお爺さんは可哀相に思ってそれを助けてしまう。おまけに売れ残りの傘まで被せてもらったキツネさんはお爺さんが大好きになって、お嫁さんになりたいと思うの」
「なるほど。愛に種族差は無いのだな」リーンズィはふむふむと頷いた。
「まずは命がけで綺麗な女の子に化けて、お爺さんの家に葉っぱで作った銀行券をお礼として持って行くんだけど、お爺さんはそれが葉っぱだって気付いて、お金などいらないって言うの。だって葉っぱで偽造した銀行券とか明らかにヤバいから。望みを絶たれたそこでキツネさんは考える。どうしたらお爺さんに報えるのかなって。健気だよね。そこで匿名個人売買サイトで葉っぱ銀行券を使って温かい毛皮の手袋と自動小銃とキビ団子を買うの。そしてイヌ・キジ・サルを傭兵として雇い、冬を支配するオーガ、冬将軍の住む島に乗り込む。春が来れば、きっとお爺さんは幸せになると信じて……」
「壮大なキツネさんサーガであり、キツネさんは偽札で買い物をする反社会的勢力なのだな……」
「その不正を見咎めた犬が後に、裏葉っぱマネーを利用して動物の世界のお巡りさんになり、そして警察機構として悪と戦うようになったってヒナは聞いた」
「仁義なき戦いなのだな……」
どの世界でも恋は戦争らしかった。
こうした問題事について、調停防疫局は上手く丸める手段を用意しておらず、何もかも初めてのことなので、リーンズィは頑張らないといけないのだった。
電子煙草のカートリッジは案外とすぐに見つかった。
嗜好品売り場は結構な広さがあり、葉巻なども置かれていた。
マルボロが持っていた電子煙草本体の画像をロードし、差し込むカートリッジの形状を類推して、解読不能な文字が書かれた箱の山から、おそらく使用可能なものを一つ取って、ケットシーに渡した。
この黒髪の少女の服装は、防御力が様々な意味で不安で、チラチラとスカートの下が見えてしまうのだが、ポケットが沢山あるのでとても便利だった。
君の文化圏の学生というのは多機能な服を装備していたのだなと感心すると、ポケットにぱんつ入れてる学生はいなかったと思うと、ケットシーは平坦な声で言った。「ヒナはずっと死にかけてたから、学校に行ったことないし、知らないけど」。
マルボロに電子煙草のカートリッジを渡そうという段になって、大変な事実に気付いた。
戦術ネットワークが事実上停止しているので、共有アドレスから呼び出しが出来ない。個人に割り振られているアドレスに直接連絡すれば応答はあるのだろうが、アドレス交換などという不合理で面倒くさい慣習を丁寧にやる意識はリーンズィには備わっていない。
つまり、マルボロと接触する手段が無かった。
とにかく地上に出て、何かをどうにかしなければならなかった。
ショッピングモールから出ると、平穏そのものだった都市の様相は様変わりしていた。
決定的な変化だ。明らかに対空火器と思われる兵器があちこちにセットされている。道路上に堂々と設置しているわけではなく、建物を半壊させて、その瓦礫の中に電磁加速砲を抱えたスチーム・ヘッドを埋めたりして、偽装しているのだ。
例えば上空から見れば、それはよくあるただの廃墟で、まさか内側に亜音速で飛行する航空機を一撃で撃墜可能な不死の兵士が潜んでいるとは分からないだろう。
全般的に都市は要塞化しつつあった。高射砲を担いだスチーム・ヘッドがショッピングモールの壁面を登攀しているのも見えた。幾つかの屋内の窓には有線式誘導弾の発射機をセットしている機体もいる。かなりアナクロな制御機で操作する形式で、そんなところで使用すればバックブラストで死んでしまうところだが、スチーム・ヘッドならばすぐ生き返るので死んでも特に問題は無い。
これら対空砲火の陣形展開の指揮をしているのは大主教リリウムから『ハイゼンスレイ』の名を賜っている一人軍団だった。夜間戦闘に特化した特殊な機体で、元は夜間爆撃機のパイロットだということだった。こうした陣地構築の時に駆り出される時しか現れない、あまり馴染みのない一機だ。
慰霊塔かと思うほど巨大な二連砲を背負っているのが特徴的だった。今現在は陣地の敷設に一息ついたのか、ショッピングモール前で他のスチーム・ヘッドと相談ごとをしている。
リーンズィはその相手に目を剥いてしまった。
目深に被ったマスケット帽のせいで雰囲気が変わっていたが、艶のある白髪とミリタリーコート、ちんまりとしているのに精巧な造形をした美貌。愛さずにはいられない肢体は見間違えようも無い。
アルファⅡウンドワート、レアせんぱいの不死病筐体だ。
「レアせんぱい!」リーンズィは嬉しくなって駆け寄ってしまった。「どうしてここに?」
「あら、あら、リゼ後輩じゃない。奇遇ね」
余裕の態度を見せるレアに、ハイゼンスレイは「ウンドワート。奇遇とはどいうことですか? 引き継ぎの合流地点にここを指定したのは貴官でしょう? 彼女を狙っての座標指定と認識していましたが、奇遇の定義が変わったのですか?」と真顔で言った。
レアはジャンプキックして彼女を黙らせた。
「おやおや、痛くないキックです。ああ、あなたが新参の……私が眠っている間に解放軍に参加した、新型のアルファシリーズなのですね。わたしは『ハイゼンスレイ』と呼ばれています。この直情家で恥ずかしがりのウサギ閣下から、噂はかねがね」
「うるさい、うるさい。作戦があるとき以外ずっと寝てる子はペラペラ喋らないで!」
「ハイゼンスレイ、初めまして。二人ともここで何を? この対空陣地は?」
「陣地に関しては、これから来る敵対勢力に対する布石ですが。大抵彼らは空から来るので」
「レアせんぱいは?」
「……太陽よりも早く走れるのはわたしぐらいしかいないもの。最初は防御のための要員がいないでしょ? だから最初の守りはいつもこの最速にして最強のウンドワートが務めるというわけ。ハイゼンスレイは脚が遅いから、わたしが矛、ペーダソスが目になって、こいつらノロマの到着までの時間を稼いでいたわけ。この子たちが来たから、ひとまず受け持ちの仕事はここまでね。あとはタワーズの連中次第」
「どうせ撃ちまくって終わりだと思いますけど。あんなやつら顔も見たくないですし」ハイゼンスレイは無感情な口ぶりだが、相当不快感を募らせているらしい。「さて、二人の赤い糸で自分は首が絞まる思いです。馬に蹴られて痛い思いをしたくないし、あと猛烈に眠くて空がこんなに蒼いから、そろそろお暇致します。まったく、お昼の太陽は自分に不親切で困ります」
ハイゼンスレイはとことこと近隣の民家に歩いて行き、体当たりして壁をぶち破り、その場でぱったりと倒れた。「あいつ作戦があるとき以外は完璧に機能停止してるのよね……」とレアが眉根を寄せた。色々と雑なスチーム・ヘッドであった。
えへん、えへんと白髪の麗人は咳払いする。
「というか、ケットシーも一緒なのね。元気かしら、元気かしら。思想矯正はどうだった?」
「何それ? あの過激な収録のやつ?」
「そう、拷問とかされたのね……可哀相に、可哀相に。コルトは酷いやつよね」
そう言いながら背伸びをしてケットシーの頭を撫でようとしたが、届かないので、体操をするフリをして誤魔化した。リーンズィにはそのように見えた。
「ピョンさんも元気そうで何より。今度こそ雌雄を決して、楽しい撮影をしようね? ピョンさん可愛いからみんな放っておかない」
「いらない、いらない。リゼ後輩さえいれば何もいらないんだから」レアはぺっぺと手を払った。「それで、結局ここで何してるのかしら」
「うん。まずはレアせんぱいにお土産を」
リーンズィは突撃聖詠服の前を開いて、保管していた小さなぬいぐるみと女性用スポーツウェアをとりだした。
「どうして、どうして胸元からぱんつが出てくるの?」レアは狼狽した。「いやぬいぐるみもそうだけど」
「大事なものなので。ベルリオーズたちとの戦いの時、レアせんぱいはスーツの下に下着を着けていないのを気にしていた。だからプレゼント」
「あ、ありがとう。素直に嬉しいわ。いつも疑問だったのよ、なんで皆下に何もつけてなくて平気なんでしょうね」
「せんぱいには是非履いて欲しい」
「もちろん穿くわ。ありがとう、リーンズィ」
「うん。さぁ」
「さぁって何?」
「この場で穿いてほしい。サイズの問題もあるから」
「えっ、脱ぐより嫌なんだけど」すん、とスポーツウェアの香りをかいで、顔を赤くした。「リゼ後輩のにおいがする……」
「サイズが合わないなら新しいのを取ってくるから」
「そう、そうね。……まずは穿いてみるわ」
レアは耳まで真っ赤にしながら、リーンズィの汗で僅かに湿り気を帯びた下着を受取り、裾を捲りながら脚を通した。最後まで引き上げて、喜びのせいか、殆ど泣きそうな顔になった。
「あ、ありがとう、リゼ後輩。サイズは、悪くないと思う……」
「ヒナは疑問に思う。なんでぱんつ穿いただけで……」
「言わなくて良いことは、言わなくて良いわ」
レアはジャンプキックを繰り出した。ケットシーは直撃されたふうを装いながら「きゃー」と楽しそうに身を躱した。「兎さんに蹴られて地獄に行くのは嫌だから、言わないでおいてあげる」
「……それで、リゼ後輩はこれから暇? わたしはもう一仕事終わったから、リゼさえよかったらだけど、その、一緒に、わたしとブランクエリアで……」
「是非一緒に居たい!」リーンズィは不意打ち際にレアの唇を奪った。「ついにせんぱいとデートなのだな。いっぱい、思い出を作ろう!」
白髪の乙女は恍惚として視線を彷徨わせた。「……嬉しいけど、人目は気にしなさいよね? まだこのサムライうさぎがいるんだから」
「ヒナは気にしないから続けて? あと混ざって良い?」
「え、やめて。混ざらないで、混ざらないで」
「ウソウソ。こういうの邪魔すると視聴者投票でヒナの順位が下がっちゃうから、そんなことしない。でもリズちゃん、煙草のこと忘れてるよね。それはよくないよ」
「そうだった。番組が台無しなのだった」
「そうそう。リズちゃんも業界人の顔になってきた。ヒナは嬉しい」
レアせんぱいに遭えたことで喜びすぎて、完璧に忘れてしまっていた。
ケットシーからカートリッジを受取る。そのときポケットからミラーズの履いていたスポーツウェアなどが飛び出してレアは面妖そうな顔をしたが、しかしカートリッジの方が本命というのは分かってくれたようだ。
「これをマルボロに渡さないと行けないのだが、彼の居場所が分からないのだ。ないの」
「え、ああ、そうなの。あのヤニ大好き男が、ぱんつ欲しがってるのかと思ったわ。粛清してやるところまで考えた……」
「マルボロはぱんつを吸う……? 病気なのでは?」
「さすがにそんなことしないでしょうね……いや、どうかしら、可愛い不死病患者の体液が染み込んだ布って美味しそうじゃない……?」
「レアせんぱい……変態さんなのだな」リーンズィは覚悟を決めた。「大丈夫、私は対応可能」
「何がよ。そんなことするわけないか、あの煙草マニアが。わたし、あいつの連絡先知ってるから、呼び出してあげるわ」
「だけどマルボロは重大なミッションの最中だとか」
「些事よ、些事。一人軍団が命令したことの方が重大だし。どうせ煙草って聞いたら走ってくるんだから。はい、もう連絡したわ。すぐ来るでしょ。私的な物品の受け渡しなら席を外すけど。あいつにこのボディあんまり見られたくないし……。その後で、改めてデートをしてくれる? 正直、昨日も一日リゼ後輩のことを考えていたの。……今だってあなたに抱きついて、キスしたくてたまらないの」
リーンズィはまた腰を下ろしてレアを抱擁した。
「私もだ、レアせんぱい。大好きで、大好きで、仕方が無い」
白髪の麗人は、潤んだ目を伏せて、黙って頷いた。
マルボロと仲が悪いわけでもなさそうだが、ウンドワート卿の時はともかくとして、少女態では余り他の機体と接触したくないようだ。
レアは光学迷彩を展開したウンドワートアーマーに乗り込み、身を隠した。
ケットシーはと言えば、コルトから万事良しの許可を正式にもらったようだ。早速謎の会合を行うために、彼女の回りに集まってきた戦闘用スチーム・ヘッドを連れてどこかに行った。何か催しものを考えているらしい。
レアが言ったとおり、マルボロは数分でやってきた。
以前助けに駆けつけてくれたロングキャットグッドナイトの十倍ほどの勢いだった。
「おおい! 待ってたぜおい、さすがはリーンズィだ! 俺は信じてたぞ、お前の義に篤い性格を!」
「いいねは百回ぐらい押してくれて構わない」とリーンズィは得意げだ。忘れてたとかそういうことは秘密なので言わない。大人なので。「疲れているように見える。折角試してはどうだろう」
効きもしないニコチンに飢えていたのだろう、早速マルボロは本体にカートリッジをセットして、電源を入れた。しばらく煙を楽しんだ。電子煙草の本体はジッポライターに似ていて、摘まむのではなくその本体ごと掴む格好になる。
「どう? 美味しい?」
「……なんか普通だな」マルボロは落胆した様子だった。「味付きの煙だな。特にそんな凄い感じはしない。まぁ人生こんなもんだよ。思った以上に良いことはないもんだ。しばらく紙煙草やら巻煙草やらは消費しなくて良さそうだが……何かこれ、見た目が親指をしゃぶるガキっぽくてアレだな」
「口唇期なのだな」
「ばぶばぶーってか。俺のお袋もどうしてるんだかね。楽に終われてたら良いとは思うが」
マルボロは、不意に改まった居住まいになった。
スチーム・ヘッドとしては軽装な彼が紫煙を燻らせながら言葉を紡ぐと、何だか古い時代の兵士が蘇ってきて、泥沼の淵で物憂げに語っているような、そんな感傷めいた姿に見える。
事実として、そうなのだろう。
……リーンズィはある奇妙な事実に気付かざるを得ない。
スチーム・ヘッドの嗅覚は己らの豊潤で甘い体臭に適応していて、反面、煙草のような有害物質の臭気には過敏だ。
今、ショッピングモールの広場には対空攻撃設備の展開に取り組む兵士が行き交っている。
本来ならばマルボロは喫煙を発見され、咎められて然るべきだった。
だが口元から煙を規則的に吐き出している彼を叱責する者は現れない。
存在にすら気付いていないようだった。
そればかりか、リーンズィさえも、周囲の機体は知覚していない。
何らかの特殊機能、ないし技法を使っているようだが、正体がリーンズィには掴めない。
それは機械ではなく肉体に由来するものであろう。ケットシーが可能性世界を選択出来るのと同じく、マルボロにも何か得体の知れない技が使えるのかも知れない。
「まぁ、これは人払いだ」マルボロは物憂げに歯を見せた。「幾つか教えてやろうと思ってな」
「……何について?」
「生存者だ。こればかりは、あんまり他のやつにも聞かせられないが、調停防疫局とやらの立場なら、どうしたって気になるだろう。俺も古参の古参だ、やつらの差し向けてくる戦闘部隊、『浄化チーム』とも散々戦った。お前にはコルトとは違う知識を与えられると思う……。さて、生と死は表裏一体。だからまずは不死病患者についてだ。……俺らにも人生がある。あった、だな。不死になる前の時間が。不死病患者は眠って、満ち足りて、夢も見ていない。その頭に人工脳髄なんてものを差し込んで、俺たちはボディを無理矢理歩かせてるわけだ」
「マルボロはスチームヘッドに懐疑的なのか?」
「俺だけじゃない。誰でも、スチームヘッドなんてものは、なるもんじゃないなと、なってから思うだろう。何せあまりにも出来ることが少なくなる。生前の記憶の残渣と目的意識がこびりついてはいるが、生きていた頃と同じようなことは、もう出来ない。やろうとも思わなくなる。肉体が満足してるんだ、一体何を欲すればいい? ありもしない未来に縋ろうとして、形骸の大義をなぞり続けるんだ。ただの死者よりタチが悪い。まるでゾンビだろ」と男は冷笑する「というか、ゾンビそのものだ。あんまりにも当たり前になっちまったから、誰もそんな自覚はないだろうが。同じところをグルグル回って、生きていると思い込んでる……」
リーンズィは首を振った。
「そんな言い方は好きでは無い。確かにスチーム・ヘッドには倫理的な問題がある……しかし悪いと断じては、新しい苦痛を生むだけだ。私たちは、生きている。ただの死体では無い。生きているのだ。いるの」
「さすがリリウムの嫁、基本はあいつと同じ考えみたいだな。当然、苦痛を抱えて立ち止まるわけにはいかない。人格記録が壊れてしまうから、大抵のスチームヘッドはどこかで折り合いをつけてるものだ。だが、不死とは関わりのない連中からすれば、俺たちはまったく、丸きり化け物だということを忘れてはいけない。食うことも寝ることも殖えることもしない。死からも見捨てられた化け物だ」
「『不死とは関わりのない連中』とは……<暗き塔を仰ぐ者>のことだな」
「まさしくそれだ」電子煙草の底をリーンズィに向ける。「やつらはただ、生きている。生きて、繁殖して、そして死ぬんだ。不死病患者もスチーム・ヘッドも、世界がここまで荒れ果てる前からゾンビだの吸血鬼だのと散々に言われてただろう。もうゾンビでも吸血鬼でもない人間は、たぶんこの世には一握りしか存在してないが……とにかく彼らは存在していて、俺たちをそれはそれは恐れている。ああ、お前には生前が無いんだったか。それだと実感がないかもしれないが」
「私たちがゾンビで、吸血鬼か。そういうオバケの物語があるのは知っている」
リーンズィは落ち着かない気持ちになる。
レアと一緒に旧時代の映像コンテンツを楽しんだことがある。
それらの作品の中で死ねないクリーチャーは大概いつも酷い目に遭って、最後には葬り去られるのだ。
「……それと同じだなんて傷つく話だ」
「厳密には違うが。滅亡した世界の住人がゾンビや吸血鬼の伝承なんてまともに知ってると思うか? 悲しいことにそんな文化すらもう残ってないんだよ。永遠に生きていられないならば、知識もまた移ろいゆく。科学世紀のゾンビは、そう、あれだ、『さまよう鎧』とか。知らないか、それはさすがに」
「とにかく、彼らに恐れられているから注意しろということだな。理解した」
「いや……。俺の言い方が悪かったな、これは」
「何が悪かったの?」
「つまりだ、恐るべきは俺たちの方だってことを言いたかった」
ライトブラウンの髪の少女はきょとんとした。
「吸血鬼とかゾンビとかである私たちに、生者を恐れろと?」
「いいか、想像してみろ。やつらは敵意を剥き出しで襲ってくる。凶暴性は野良のスチームヘッドなんかと比べ物にならない。まぁ俺たちは何回殺されても蘇るわけだが、しかしやり返してしまうと……頭が吹き飛べば復旧できない。腕が取れただけで最悪の場合は死に至る。そして死ねば二度と生き返らない。スチームヘッド同士の潰し合いは、結局のところ相手も死なないというところに甘えてる。人格記録媒体さえ抜き取ってしまえば一応勝敗はつく。だがやつらとは、そんな気軽なやり取りは出来ない。何もしないでおくか、殺してしまうか。中間点は存在しないんだ。そして殺せば文字通り死んでしまう。普通の人間だから、二回も三回も死ぬことは出来ない。それが恐ろしいんだ。殺さざるを得ない場面はいくらでもある。やつら、とにかく血の気が多いからな。殺すのは一瞬だ。血の気の割に弱いからな。だが殺した時の、取り返しがつかないという感覚は、ずっとつきまとう。本当に嫌な感じがするんだ」
マルボロは息継ぎするように煙草を吸った。
口元で奇妙な形の煙が膨らんでいく。
そしてやっぱりこれ、おしゃぶりみたいであれだな、と不満げにごちた。
「……FRFのクソどもは、これから死んでいなくなる。それが確定してる。現に在り既に亡き者だな。生きている故人というわけだ。この不死の都では、やつらこそが奇怪だ」
「他の人がタワーズやターミナスと呼んでいるのを聞いたが、正しくはディシーズドなのか。なの?」
「正式な名称は無い。単なる『生存者』だからな。タワーズはさっと口走りやすいが、お前たちの場合ミラーズと混同するだろう。他を使うと良い」
「ではターミナスは……」
「行き止まりの境界者。それは俺が好きじゃないんだ。終点に行ったやつら、生者とゾンビの境にある者、といったニュアンスだな。あるいはギリシャの女神であるテルミナにかけてる。まぁ先がないゴミども、もう終わったやつら、という言い方だ。でも俺はどうかと思うね」
「よくない意味があるのか」
「……大昔のことだが、ゾンビもののドラマで、絶滅の危機を人肉を食って凌いでるグループが出てて、そいつらの名前がターミナスだった。さすがにそんな呼び方はな」
「それは……うーん。故人呼ばわりも結構ひどいと思うが」
「問題はディシーズドも文化的に共食いをしてるってことなんだよ」
エージェントとしての精神が、不快感を漏出させた。
「……人肉食をしているのか」
「ああ、青ざめたな。当然のリアクションだ。ヴァローナもヴォイニッチも良くそんな顔をしてたなぁ。不死になってもまだ正義をなせないのは苦しい限りだよ、とかなんとか。しかし、人肉食ってのは、そりゃ、そうなるよなという話ではあるんだが。限られた土地、沢山の生存者、安定して食えるのは当然同じ人間ということになる。だが都市に出てきてうろついて死ぬやつらは、大抵そういう風習から逃げてきた輩なんだな……」
「定着した文化では無いのか? 無いの?」
「地域差が相当あるな。俺が見た中で一番印象的だったディシーズドは……子連れの男だった。妻も一緒だったようだがそいつはもう死んでいて、別に食われてはいなかった。それで、男の方は俺を見て、逃げずに、いきなり自分の腕を切り落としやがった。そして抵抗しない、だからこれを調理してくれというようなことを言ってくるんだ。自分は何も持っていない、知識も無い、だから自分の代わりに子供にこの腕を食べさせてやってくれと。俺は子供の様子を見た。ただのガキだった。臭くて痩せてる死にかけたガキだ。そんなガキを見たのは下手すると何百年も前のことだ。つまり……これから死ぬというガキを見るのはな。何かの病気なんだろうが衰弱が激しかった。こんなに弱っていては肉なんて食えないだろうと言うと男は何か他に食べ物は持っていないかと泣くんだ。持ってるわけないだろう、スチームヘッドは食事なんてしないんだからな。煙草しか持ってないのを後悔したのは後にも先にもそれきりだ。……ディシーズドを発見したらすぐ報告するのがルールだったが、俺はそれを無視した。単独行動中だったのも良かった。一昼夜あちこち探して、悪性変異体を叩きのめして、鍋と雪を見つけてきてやった。雪を熱して水にして、湯を沸かした。そこの食い物は全部腐っていてどうしようもなかったが、せめてそれで肉を煮込めるように、ってな。帰ってくると男は死んでいた。大概子供と同じぐらい弱ってたんだろう。で、子供の方はまだ辛うじて生きてたから、削いだ腕肉を少しだけ煮込んでから食わせてやろうとしたが、やはりモノを食べたり飲んだり出来る状態じゃなかった。俺は結局その子供が息を引き取るのを見てるだけだった。忘れたいが、どうしても忘れられない」
「……そう」
リーンズィには、頷くことしか出来ない。
「そんなやつらを人肉喰らいと罵るのは、どうにも気分が良くない。分かるだろう?」
「分かると思う。彼らも人間であろうとしている。それをそんなふうには呼びたくない」
「どこかで和解出来れば良いんだが、無理筋だろうな……。昔はあっちの『浄化チーム』の隊長と建前で殺し合いを演じながら、キュプロクスのやつと色々と策を巡らせていたが……もう勘弁だ。色々なことが嫌になった。とにかく、もうすぐお前は、そういったやつらと対面することになる。何とか出来ると良いな」
他人事のように言いながら、電子煙草の電源を切り、最後の透明な煙を燻らせる。
「ああ。まぁ悪くないな、これも。……ウンドワート卿のこと、宜しく頼むな」
「急になに。どうして、マルボロがそれを言うのだ。言うの。それを決めるのはウンドワート卿」
「ただの古馴染からのお願いだ。ありゃ、すっかりお前に夢中になってる。お前も夢中だろう」
「毎晩夢に見る」リーンズィは頷いた。「会えない夜は、ずっとレアせんぱいのことを考えてる」
「スチーム・ヘッドが夢をか。面白い冗談だが、熱烈でおよろしいことだ。お似合いさ、見ていても華がある。何より、あのウンドワート卿が人付き合いに関心を持つというのが驚きだ。良い傾向だ。勝つ以外のことをやれるようになるっていうのはすごいことなんだ、あいつの場合は」
最後の一呼吸で電子煙草を吸い込んだ。
吐き出さないまま、息を止める。
電子煙草を、偽物の煙草を懐にしまう。
「勝つ以外のこと?」リーンズィは首を傾げる。「レアせんぱいに出来ないことなど考えられない」
マルボロは息の速度を整えながら、肺腑から煙を吐き出していった。
何かを慣らすように。
「……あいつは勝利するための機体だ。だから負けたらどうなるかを周りのやつは考えてやらないといけない。俺はそんなところ見たくないが。しかし永遠に勝ってるだけでは、何も終わらないからな。……これ以上は余計だろう。ウンドワートには、俺の話の内容を教えないでくれよ。皆幸せになりますように、ってあいつが最近こっそり呟くようになったのは知ってるか? 惚れた娘に影響されやすいのなんのって。可愛くって、見てられないぜ。悲しくなるぐらいだ」
すぐ傍でウンドワートが隠れていることなど分かっているだろうに、マルボロは不敵に笑んだ。
それから「またな」と言って、去っていった。
彼が周囲に対して実行していた何らかの欺瞞が解除され、兵士たちがリーンズィの存在に気付いた。
マルボロは見た目よりも遙かに高性能な機体だった。ただのニコチン中毒者の残影ではないのだ。
乾いた果実のような、有毒物質のような、独特な電子煙草の香りが、残り香として残った。
その香りもすぐに消える。
不意に思い出したのは、初めてのカタストロフ・シフトの時に迷い込んだ、全てが崩れていくあの終局世界の光景だ。
きっとあの世界は正しい。壊れてはいたけれど、このクヌーズオーエと本質的には何も違わない。
何もかも、きっといああなる。
マルボロが言っていた通り、いずれ何もかも消え去るだろう。
備えても無駄だ。
ただ一切は朽ちて、壊れて、塵になるのだ。
致命的な悲しみは、予告無しでやってくるもので、リーンズィには、じっと待つことしか出来ない。
でも、レアのことを考えるだけで、全く違う、光に満ちた世界があると信じられるのだ。
虚空のハッチを押し開き、夢見るような眼差しの、白髪の少女が現れる。
儚げなかんばせに勝ち気そうな赤い瞳を光らせ、耳を羞恥で染めながら、兵士たちの目がある中で平然とリーンズィにキスをした。
さすがに帽子を脱いで二人の口元は隠していたが、思い切った行動であることには変わりない。
人目を恐れていたレアも、少しずつ変わろうとしている。
自分の気持ちに、希望に、愛情に素直になろうと、頑張っている。
「気にしないで、気にしないで。未来が無いかもしれないなんてこと、今を楽しまない言い訳には、全然足りないんだから。ねぇ、わたしのリーンズィ。大好きなわたしのリゼ後輩。今日はどんな風にわたしを愛してくれるの? どんな風にあなたを愛せば良いのかしら。楽しみで、楽しみで、レーゲントみたいに歌ってしまいそうなの」
そんなふうに恥ずかしそうに微笑む小さな肉体に、リーンズィは泣きそうになるぐらい、ホッとしてしまう。




