S2-12-11 たのしいまいにち⑥ 屠られたキュプロクス
銃声が轟いた。仄暗い室内をマズルフラッシュの閃光が照らした。
くろがねから吐き出された炎は赤黒く、カンテラの光よりも遙かに強烈で、照らし出されたコルトの顔は、砲弾の直撃を食らった歩兵の臓物のように鮮やかだった。きらきらと輝きながら血と脳漿の混じり合った半固形の流体が飛び散った。
自分の頭を拳銃で撃ち抜いて、女の体は椅子の上で跳ね上がった。生体脳髄を自分で破壊した彼女は光から目を背けるようにして椅子から脇へと崩れ落ちた。
……話を終えて、コルトは自殺した。リーンズィはその動作の最初から最後まで、どうすれば良いのか分からなかった。
室内に反響する銃声が現実感を破壊していた。
彼女が自分の頭に銃を向けるのを黙って見ていた。止めることも出来たがそれには意味が無いと分かっていた。彼女がSCAR運用システムで市街地を焼き払った時、認証のために機能ロックから解き放たれたコルトは、酷く錯乱して、物理的に死ぬまで正気には戻らなかった。
一時凌ぎの自殺を許容すること。狂気と自責の世界にコルトを繋ぎ止めておくこと。どちらが正しいのか。どちらが容易いのか。
調停防疫局の純正エージェントならば自殺は決して認めない。どんなに困難でも人生と戦うべきだと訴えただろう。だがリーンズィは違った。コルトが泣いているのを見るのが辛かった。
これで、少なくともコルトは楽になったのだ。
今だけは。
頭を撃ち抜くに至るまで、コルトはライダースーツを身に纏った懲罰担当官は頻りに足を組み替え、何度も自分で自分の両手を握り合わせては力を緩めた。
「リーンズィ、かつては私こそが、クヌーズオーエ解放軍の真の支配者だった」微笑に汗が浮かんでいるのは目の錯覚ではないだろう。「その座からは、もう、降りてしまったけどね」
「君は……懲罰担当官だ。今も昔も肩書きはそれのはず。そして軍団長の座を持つ機体は、現在に至るまでファデルしかいない」
リーンズィが記録を参照しながら問いかける。
返答はゆっくりとした息遣いで行われた。
「それは形だけのことさ。軍団長ファデルは立派に活動してくれているけど、あの子も昔から存在したスチーム・パペットではないからね。どちらかと言えば新参だ。軍団長、という役職自体が新しいものなんだ」
「……クヌーズオーエ解放軍が何万機のスチーム・ヘッドを擁しているのか、君が一番よく分かっているはず」
「そうだね。そのはずだよ。私ほど詳しい機体はあまりいないだろうね」
「それならば、単一の機体では統率出来る規模ではない、ということも分かるのでは? ファデルと解放軍司令部が組み合わさって、ようやく安定的な運営が可能になる。少なくとも私の理解ではそう。君というスチーム・ヘッドが単機でやるような仕事ではない」
「普通ならやらないし、出来ないだろう。でも私はあらゆる意味で他のスチーム・ヘッドとは違う。何となくリーンズィにも理解出来ているはずさ。私だけが違いすぎる。一人軍団だなんて区分に当てはめても、私のような存在が全て機体に関連するネットワークを常に監視してるなんて、客観的に見て異様だ。そうは思わないかい? そこから翻って、ねぇ、リーンズィ、私ほど統率者として相応しい機体が他にいるかな? だって私一人で軍団の全ての動きを監視可能で、全体に指向性を与えることさえ出来るんだ」ヒナ・ツジに対する暴力のあり方を整えたように。「そして私には粛清用の虐殺機関まで搭載されていて、スチーム・ヘッドにさえ有効なんだ。どうかな。私のような機体こそが、本来なら、こうした無辺の軍団の統率者を務めるべきじゃないかな……」
まったくの事実だったので、リーンズィはそうかもしれないと曖昧に肯定した。
全てのネットワークの監視が可能出来る、という時点で、情報処理能力においては隔世の感がある程だ。その上でSCAR運用システムによる広範囲焼却が可能なのだから、全てのスケールを測定すれば、最早常軌を逸しているとまで言って良い。
概してアルファモデルは、他の機種とは比較にならない性能を持っている。例えばアルファⅡウンドワートは自称に違わず圧倒的な勝利をもたらす機体で、戦闘能力は誰の目にも分かるほど、あるいは理解を超えて、高い。彼女に並ぶものなど存在しないと感じられる。
そしてアルファⅠ改型のコルトも、実際はウンドワートと同じ地平に立っているのだ。彼女は戦乱そのものを支配する機体だ。直接戦闘には向かないにせよ、飛び抜けた機能があるという意味では、ウンドワートと変わるところは無い。
「なのに、どうして支配者ではないのか。何故私のような機体が、多少権力があるだけの一機体に収まっているのか? 『相応しくなかったから』。これが答えさ。裁定は下された後なんだ。私はキュプロクスとして既に討ち果たされているんだ。私は過ちを犯し、その責任に堪えられなくて、最上位の命令系統から降りた。私には正しい道が分からなかった。私では上手く出来なかった……私では……私では……」
「でも、キュプロクスはスチーム・パペットだったと聞いている」
「……私は複数のボディを同時に操縦可能なスチーム・ヘッドなんだ。フォーカードの端末と殆ど同じ規格なのさ。彼らより私の方が高度だろうけどね」肯定の鳴き声のような、きゅいきゅい、という奇妙な音がした。リーンズィは振り返らないままヴァローナの瞳で背後を視認した。扉を塞ぐSCAR運用システムの駆動音だった。「懲罰担当官としての人格は隷属化デバイスに収めてるけど、ネットワーク運営自体はそのシステムが独自に統括している。……キュプロクスは戦闘と不朽結晶の製造に特化していた。貴重な戦力だったけど、けじめは必要だから、あの子には生け贄になってもらったんだ。私は単眼の巨人に全ての罪を押し付けて……恥知らずにも……まだ生きてるんだ……」
コルトは少し話す度に、電源が切れたように脱力した。
何度も目元を拭っては愛想笑いのようなものを浮かべた。あまり見ていたくない、痛々しい笑みだった。リーンズィは落ち着かない気持ちになった。
コルトは恐ろしい機体だがいつでも余裕に満ちていて、傍に居るだけで「きっと大丈夫だ」と信じたくなる。
そんな頼れるコルトが弱っていくのが、我がことのように辛い。
「……当時の解放軍には暴力的な気風が蔓延していてね。強さこそ正義、大きいのは正義、という塩梅さ。キュプロクスの巨体は彼らを纏め上げるのにぴったりだった。突撃隊というのは、正直なところ解放軍の三割にも満たない勢力だったけど、でも上位の戦闘用スチーム・ヘッドが複数中核にいて、相応の発言権を持っていた。……皆、ある意味では私の可愛い部下たちだよ。コルトとキュプロクスが同一人物だとは知らなかったかもしれないけど……愛らしいレーゲントに入れ込んだり、熱心の残虐行為に勤しむうちに、自分たちを客観視したりするようになって、かつてあった人間性を取り戻した機体たちだったんだ。私がそうなってほしいと考え、解放軍全体の方向性を操作して、長い時間を掛けて更生させた皆だったんだ……」
淡々と話しているふりをしていたが、それも上辺だけだった。
彼女の使うボディには明確に不具合が出るようになった。微笑が引き攣ったり、片目が忙しくなく痙攣したりした。
「大丈夫なのか、大丈夫なの」とリーンズィは尋ねた。
コルトは応えた。
「大丈夫だよ。全部終わった話で、もうどうしようもないんだからね」
今、コルトは自殺して、冷たい床に伏せている。
彼女の死、ガンパウダーと絡み合う蜜の如き血の香りを嗅ぎながら、リーンズィはコルトが話したことについて考えている。上手く思考が纏まらない。自分でも信じられないほどコルトが死んでしまったことに動揺していた。
縋り付けるような誰かは、どこにもいない。二人だけで話したいということだったから、ユイシスとの意識共有まで切断してしまっていた。
真実一人の仄暗い光の中、ライトブラウンの髪の少女は、唇から震える息を零し、自分自身を抱く。
耳の中で銃声が鳴り止まない。
それはコルトの言葉だ。
何度も何度も静寂から染み出して、リーンズィに訴えかけてくる。
「あの憐れな者どもに攻撃されたとき……彼らは報復を望んだ。突撃隊の皆の主張は、決して間違いなかったよ。ヘカトンケイルですら、何機かは彼らの側についたぐらいだ。私も、彼らは……人間として幾分かは正しいことを主張していたと思う。でも彼らのムーヴメントの行き着く先には何もなかった。何も無かったんだ。歴史を紐解けば分かる。人類史はいつでも大量死に付きまとわれているけれど、その裏には熱狂的な推進力が存在した。そしてあの時、彼ら自身がそれになってしまっていた。リーンズィ、私は思い上がっていた。ネットワークを操作し、群衆に紛れ込んで潮流を誘導し、思想の対立と同化、止揚を図り、何もかも思い通りに運べている。そう誤認していた。でも、その本当に危険な流れまではコントロール出来ていなかったんだ。気づいた頃には、彼らの潮流を、彼らごと葬り去るか、全軍で実行するかの二択になっていた。きっと、そう仕向けられていたんだ」
あの機体によって、さもなければ、私自身の失策によって、と女は自嘲する。不死病患者には似つかわしくない冷たい汗が流れ落ちて、加熱している首輪型人工脳髄に接触し、香りを振りまいて蒸発する。
「つまるところ、私は偽物の統率者だった。あの欺瞞に満ちた出来損ないの救世主、プロトメサイアとは違うと思っていたけど、私の方が低質だった。最初から皆を地獄にしか連れて行けない偽物の救世主なのだと、そのときはっきりと分かったんだ……」
プロトメサイアというのが誰かは、リーンズィには分からなかった。今はどうでも良いことだ。
人工脳髄の『知らないひとノート』に名前を書き込みながら、髪を掻き毟り始めたコルトのことを見守っていた。
床で女の体が痙攣している。
話自体を、途中で止めるべきだったのだろうかと考えながら、リーンズィは涙ぐんでいた。理ではなく感情で物事を考えていた。自殺したコルトのことが可哀相で仕方なかった。
リーンズィはコルトを恐ろしいと思っている。危険な機体だと断定している。
だからといってこんなふうに自分で死ぬのが相応しい存在だとは思っていなかった。
コルトのことが好きだった。同じアルファモデルだというだけでも不思議な親しみがある。微笑の下にいつも得体の知れぬ企みを抱えているように見えたし、リーンズィと接触してくるのも完璧な善意ではないと分かっていた。
しかし色々とよくしてくれたのは紛れもない事実だ。
大好きなレアせんぱいのお姉さんでもある。
……幼いリーンズィには上っ面の出来事しか見えない。だが上っ面というのは、真実の一番外側ではないのか?
彼女からここで聞かされたのは、どれも重要な問題だった。自殺を前提にしてでも、伝える価値はあったのだろう。だがどれもが痛ましい過ちについての言葉であり、それを胸から吐き出すには、きっと心臓ごと引きずり出すしか無かった。全部話し終えて、彼女は自分の過ちの責任を取った。いつかの誰かに、おそらくは自分自身に、求められるがままに。
コルトは死ぬ、何度も死ぬ。いつでも致命的失敗や残虐行為についての責任を取る。失敗した不死の裁定者として、死に続ける。
人類が一つの命しか持たずに歩んでいた頃、死は究極的な目的地だった。そこではあらゆる物事が終わった。首が落ちれば皮相な問題は全て消失した。憐れにもコルトにはその時代の感性が残されている。自死は自己否定の究極系であり、一切の生存の責任を引き受けて、自分の可能性世界を手放してしまう儀式だ。罪人のは自分一人だと断じることで皆を救えると彼女は信じていた。彼女は罪の意識と自己嫌悪により、また使命により、何度でも人生の終幕を望むのだろう。
だがスチーム・ヘッドにとって死は数字だ。数字に終わりはない。何も終わらない。何も消え去らない。どのような苦痛を募らせて何度死んでもカウントが増えるだけ。再生能力に関わるステータスの一項目が変動するだけだ。一度死ぬ。一度生き返る。以前よりもそのダメージでは死ににくくなる。再生までの時間が縮まる。
それだけだ。
不死病患者にとっては不死こそが肉体の真実でありそれ以外は全て偽りだ。スチーム・ヘッドもその原則からは逃れられない。
だから、彼女がどれ程望んでも、真実は不死そのものだった。彼らの死は誰も救わない。何の免罪にもならない。だからコルトの願いも叶わない。自分の頭を撃ち抜いてもまさしく意味が無いのだ。永遠に赦されない。彼女自身すら、コルトを裁けない。
……リーンズィはいったん、彼女から伝え聞いた情報を思い返すのをやめた。
銃声を、彼女の言葉を、耳から追い払った。あれら懺悔のような真実の群れとは、いつでも相対できる。本当に肝心なのはコルトのことだ。それ以上に大事なことは無いと思えた。こうして彼女のボディを放置しておくことに耐えられなかった。
冷たい床の上で痙攣するコルトを助け起こした。改めて椅子に座らせた。ヴァローナの肉体と同じぐらいの背丈。蒸気機関も搭載していない軽い体だった。
傷口を生身の左手で触る。出血は止まり、発火炎で焼けた皮膚は既に再生している。撃ち出された弾丸は通常弾頭で、そもそも彼女の思考は首輪型人工脳髄で紡がれている。
なんということのない、ダメージの無い死だ。
生体脳が修復されて目覚めるまでそう時間はかかるまい。
だが意識を取り戻したとき、彼女は多くの出来事を忘れているだろう。
リーンズィに真相を語ったとき、どれ程錯乱していたのか、きっと覚えていない。
コルトの本来の自意識は疲れ果てている。
どう足掻いても水平にならない天秤を前にして、打ちひしがれて、泣いている。
だから死が必要なのだ。死を以て仮初めの人格が傷を覆う。精神外科的心身適合に近い技術が、嘆き苦しむ娘を仄暗い水面へと沈めて眠らせる。
傷口をなぞる。恋人に対してするようにコルトの顔を撫ぜる。
こみ上げるものを感じて、それに従った。
リーンズィは背を曲げて彼女を抱きしめた。大きく思えたが華奢な肉体だ。コルトは、リーンズィがよく知る少女と同じだった。アリス。レア。アリス・レッドアイ・ウンドワート、あの壊れやすい華奢な少女と同じ香り、同じ肉の弾力。リーンズィが昼も夜も心を寄せる愛しい人と、まるきり同じ輪郭を持つ肉体。
彼女よりほんの少し成長しただけの、同じ魂の香りを持つ、だけど決して同じ人では無い誰か。
コルトはまだ拳銃を手放していない。命を手放してもこれは手放せないらしい。拳銃を握る手が、カンテラの光を遮り、壁に首吊りの縄のような影を投げかけている。リーンズィは嫌な気持ちがして、手から拳銃を捥ぎ取った。銃身はまだ熱を帯びている。あるいはコルトよりも温かいぐらいだった。
発作的に自殺するのなら、もうこんなものは握らせたくなかったが、やはりどうすることも出来ない。彼女を殺すのも救うのも、同じ拳銃だ。どれだけの苦痛をこの鉄で散らしてきたのだろう?
それはリーンズィのライブラリにおいて、二世紀から三世紀以上も前に原型が作られた、古い回転弾倉拳銃。保安官はこうした武器を手にして無法者たちと戦った。だけどもう役に立たない。不死病患者は弾丸では消せない。
だから、自分の頭ぐらいしか撃つ物がない。
呪物にも等しいだろう。
しかし、コルトという人格の持つ拳銃は、この破滅の時代においてよく整備されている。ああ、この銃は彼女に愛されているのだな、とリーンズィは思った。早撃ちの自慢をしていたのを思い出した。
取り上げるのは間違いだと確信した。そうしてしまえば、何かが致命的に途切れてしまう気がした。
きっと皆、同じような理由で彼女から拳銃を奪えない。
迷いながらも、コルトの体を探り、吊るしているホルスターに拳銃を戻した。
目覚めればコルトはまた微笑んでくれる。いつものように、どこか得体の知れない微笑みを。
打ちひしがれた女ではない、いつもの底の知れない微笑が、リーンズィは見たかった。
コルトの対面に座った。電気カンテラの仄暗い光の中で黙考した。
彼女が教えてくれたことをまた考えた。
コルトについて。
キュプロクスの突撃隊について。
そして、生存者たちについて。
実を言えば、どれも重要ではあるが、さほど複雑な問題では無かった。切り分けて考えればシンプルでさえある。幼いリーンズィにも、一つ一つに対してはどう取り組めば良いのか分かる。
だがあまりにも有機的に結合していて、隕石でも落ちてこない限りは、綺麗には解決出来ない気がした。
答えは誰かが知っていることだろう。
コルトはずっとその誰かが来るのを待っていた。いつ来るかは、分からない。誰にも分からない。話している間、彼女はずっと己自身を嘲笑っていた。
「人生の終わり際に天使様が降りてきて、都合の良い真理を教えてくれるなんてこと、君は信じられるかい? 私には信じられない。だけど信じたいんだ、リーンズィ。馬鹿げた話だけど私はそんな空想にしか縋れない。ねぇ、どうかな。私はどれだけ中枢から遠ざけられても、君臨者の残骸として、頑張ってきたつもりだよ。だけど何の罪滅ぼしも出来ていない。ただ罪から逃げ回っているだけなんだ。記憶を消して、何も知らないフリをして、誰かが私は間違ってなんていなかったと慰めてくれるのを期待しているだけなんだ。本当に愚かなスチーム・ヘッドなんだよ。ねぇ、どうかな。幻滅したかい?」
「コルト、君は君だ。確かに君は間違えたのかもしれない。でも解放軍を確かに守っていた。違う? 違わない。なのに、何を幻滅せよと言うのか。君の要求はあまりにも冷たくて、悲しい。私は君のことが好きだ。だからそんなことを言わないでほしい」
「君がそう言ってくれることは分かっていたよ。慰められたくて同情を誘う言葉を選んだんだ。なんて卑しい命だろう……私はね、たぶん、慰められたいとさえ、本当は、考えていないんだ。裁かれたいんだよ。裁かれて楽になりたいんだ……神様、どこにいるの、裁き主はどこにいってしまったの……そんなことばかり考えてしまうから思考を制限しているんだ。白状すると、君を見た時、ついにそのときが来たのかと思った。何故だか、やっと終われると確信したんだ」
「コルト、落ち着いて。大丈夫。何もかも大丈夫だから。終われるだなんて、どうかそんなことを言わないで。誰も君に消えて欲しいだなんて思っていない。私は君を消し去りたいなんて、終わらせたいなんて、思っていない」
「誰が思っていなくても、私がそう思っているんだ、リーンズィ。月夜に幾ら走っても自分の影と月光からは逃げられないだろう。私は私から永久に逃げられない……私は私に、消えて欲しい……」コルトは首を左右に振った。「偽物の救世主が何と出会い、何と戦おうとして間違いに気付いたのか、これから君に教えてあげるよ。すぐに出遭うことになる。己の尾を食らい続けるウロボロス、あの<暗き塔を仰ぐ者>どもに……」
彼らについて語った後、コルトは、自殺した。
モールの電力が復旧した。
休憩室の明かりも音もなく点灯した。
明順応で視界が真っ白になったが、大鴉の少女の祝福された瞳は、己の視界が生理的な問題で失われる瞬間も、正確に風景を捉え続けた。
リーンズィが目を閉じたくないと願って、ヴァローナの肉体がそれに応えた。
未来視を実現する変異の瞳は、リーンズィから見ないでいるという選択肢を奪っていた。
「……ああ、夜が終わったようだね」と蘇生したコルトが言った。「眠ってしまっていたみたいだ。時々あるんだ、こういうことは。ポンコツだと言うことは皆に言いふらさないでね?」
リーンズィは光に眩んで見えない目で、しかしコルトを見ていた。
顔色は平静で余裕に満ち、微笑を浮かべている。口調は平坦だが、無機質な茶目っ気が蘇っていた。それだけに頬を伝う血と涙の跡が烙印のように目立った。
不死病患者の血も涙も短時間で蒸発して消えてしまう。
一瞬の眩惑のうちに見逃してしまうべき錯乱の痕跡。
「……夜だから仕方ない。寝ているべき時間だから。とても短いように感じたが。感じたけど」
「私は寝ているときどんな顔をしているんだろうね」
「……皆、コルトの寝顔を見れば心を奪われてしまうだろう。綺麗だから」
「照れてしまうよ。あんまりそういう顔を見られるのは好きじゃないかもしれないね」
「だけどこの間、おそらくミラーズには見せていた。違うかな?」
直接ミラーズに聞いたわけではない。聞かれても答えないだろう。だが告白するだけでこの調子なら、己の聖句によって相手の精神の内奥に触れて慰撫するミラーズも、コルトが錯乱する瞬間を目の当たりにしたはずだ。
上級レーゲントによるメンテナンスとは、聖句で精神活動を抑制しながら肉体に刺激を与え続けて、オーバーフローを誘発させる作業だからだ。ミラーズほどの腕前なら、コルトの本性を引き出しつつ、しかも自殺を防ぐぐらいは可能だろう。
認知機能が正常に戻り、かつその状態で錯乱から脱したコルトはどんな風なのだろう。ミラーズが可愛いというぐらいなのだから、相当可愛いのかも知れない。そもそも顔立ちがレアせんぱいそっくりなので可愛くないはずがないのだが。
「うーん。あんまり覚えていないね。だけど彼女の施術を受けているときは、途中で寝てしまったんだよね。肉体のコントロールは失っていたかも。うん、その可能性は否定しない。ミラーズからはどういう判定だったのかな? 失礼な人だと言っていたかな?」
「素直になれば、案外可愛い人だと」あるいは、それは泣きはらす、この美しい女の顔を見て出力された言葉なのかも知れない。迷える仔羊は、スヴィトスラーフ聖歌隊のマザーであったミラーズからしてみれば、等しく愛すべき神の子だろう。「悪いようには言っていなかった」
「可愛い、か」コルトは復唱した。「美人なつもりでいるけど、可愛いと言うのは、あまり聞かない言葉だね。リーンズィは私のことをどう思うかな?」
先ほどまでの会話など何も知らないと言わんばかりの空疎な世間話が、今のリーンズィには愛おしい。
「コルトには……いつも微笑んでいて欲しい。キュプロクスの話、突撃隊の話、生存者たちの話。どれも重要な問題だった。だけどコルトは全然笑ってくれなかった」視線が彷徨い、壁にこびりついた脳髄の破片を幻視する。それらはもう蒸発して消えてしまったが、リーンズィは確かに見たのだ。「それが私には、つらい。君の苦痛を受け止められない。ミラーズほどの強さは私にはない……。君のような強さも。だから、君が微笑んでいないと、とても悲しい。可愛いだなんて、とても思えない」
「……君が精神的に未熟なのは承知している。でも私が話したはずのことには、ちゃんと向き合わないといけないよ。本来なら、生存者たちとの接触というのは、解放軍最大の問題であり、そして最優先の課題なんだからね。さあ、電気も復旧したし、カンテラは消してしまおうか」
コルトは足下の電気カンテラを持ち上げて点灯状態を確認した。
リーンズィはそのとき、唐突に、電気カンテラの光があまりにも弱々しいことに気付いた。
本物の時代、一回限りの生命が尊ばれていた時代の、本物の電灯、一度壊れれば取り返しの付かない光に照らされて、殆ど消えかかって見えた。どうやって暗闇を眩く暗闇を照らしていたのか信じられないほどだった。
使用されているバッテリーは不朽結晶製だ。電力は十分に残っていた。蒸気機関が存在する限り何度でも充電が可能だった。だが永遠では無い。どのような物体であっても永遠ではない。不朽結晶連続体で置換された物体は不滅性を獲得するが、単に壊れないと言うだけで、性質の劣化を免れるわけではない。電力は十分にある。だがそれは今この瞬間には途絶えないという意味しか無い。
コルトのグローブがその電気カンテラのスイッチを捻ろうとした。
リーンズィは「待ってほしい」と平坦な声音で呼びかけた。「もっとよく見せて」
微笑したまま、不思議そうに首を傾げるコルトを、暫く見つめた。完璧に虚構の平穏へと舞い戻ったようだった。それ自体が良いことなのか悪いことなのか、リーンズィには依然として判断が出来ない。
だが泣いているよりは良いと思われた。
コルトが泣いているのを見ると嘘偽りなく心臓が張り裂けそうになる。
「顔に何かついてるかな」
「……もう何もついていない」
「それじゃあ私に見蕩れてしまっているのかな。照れてしまうね」
からかうような声。コルトはやはり、自分がどんな状況で何を話したのか、あまり覚えていないようだった。ヘカトンケイルに頼んで、認知機能に関する施術を受けた上でリーンズィを呼び出したそうなので、相応の覚悟があったのだろうが、それさえ記憶から消えているように見えた。
「……君はレアせんぱいに似ている。だから実を言うと、君を通してレアせんぱいのことを考えていた」
そんなことを言って誤魔化す。
不用意に先ほどの状態について触れれば、またコルトが死ぬところを見なければいけない気がした。
それに、レアを想起してしまうのは丸きり嘘では無い。レアせんぱいは、ちんまりとした我が身を疎ましく思っているし、コルトのボディを時々羨ましがっている。
その関係で、コルトを見る度「成長すればレアせんぱいもこうなっていたのだろうか?」と想像してしまうのも事実だ。
「経緯は入り組んでるけど、このボディだって素体はあの子と同じさ。要するに姉妹なんだから、似ているのは当然だよ。……それにしてもレアのことばかり話して、君は本当にあの子を好きでいてくれるんだね。仕事熱心なのは良いことだ。だけど、そんなに私ばかり熱心に見つめてたら、ウンドワート卿が嫉妬してしまうよ」コルトは少し可笑しそうに言った。「あの子もそういうことを意識するようになってるみたいだからね」
「そうなのか? そうなの? とても興味深いので聞きたい」
レアの話題になった瞬間、リーンズィの色々な考え事は煙になって消えてしまった。
何故ならばリーンズィはこの世界で最高にレアせんぱいが大好きで一番だから。
名前を聞けばそれしか考えられなくなる。
すさまじくミニマムな思考回路であった。
「食いつきが良いね。いいかい、これは私が監視しているから分かるんだけど、ウンドワート……アリスは、これまで決して手を出してこなかった『恋人を略取されるハードなシチュエーション』のコンテンツに手を出し始めたんだ。これは明らかに君を独占できない現実に対する錯誤的な欲求の発露だ。ああ、良い機会だから君には幾つか個人的な忠告を……」
リーンズィは呆然とした。
「え? 待って。何を言っているのだ。いるの。何?」目を瞬かせるが言葉には形が無いので何も見えない。「私は理解しない。何、それは?」未知の情報への困惑と嫌悪を隠せない。「それは何? 恋人を略取される? 略取されてどうなるの?」
「さぁ。でも、内容は基本的にはポルノだろうね。憎い恋敵に肉体を弄ばれるとかじゃないかな」
「ぜんぜん理解出来ない。どういうこと? 恋人が略取されて何がどうなの。そんな邪悪なコンテンツがこの宇宙に? 悪の宇宙? その苦痛な状況が何か楽しいの?」
「え? さあ。どうだろうね。楽しいという人がいるんじゃないかな? ある種の自傷行為なのではないかと私は認識しているよ。レアは元々自罰傾向が凄く強いから。それで……リーンズィは、ウンドワートが第三者と親密になったら嬉しい? 興奮する? 想像してご覧よ、裸のアリスが違う誰かの腕の中で幸せそうにしているところを」
「は?」リーンズィは生まれて初めて『は?』という声を出した。「むり。いやだ。質問の意味を理解しない、ぜんぜん嬉しくない、興奮もしない、想像したくもない、マルボロもそうだったけど何故みんなそんな酷いことを言うの、コルトには配慮が足りていない、レアせんぱいは私の大切な人、私だけの愛しい人、正直私というものがあるのだから性的なコンテンツの視聴自体やめてほしい、恋人を略取されるなんていう理解しがたい倒錯的シチュエーションにも慣れ親しんでほしくない、そういうのは私が対応出来ない、どうしてそんな酷いコンテンツについて私に教えるの、その誰かを傷付けることしか出来ない怖いコンテンツはどこから来たの、そして何故そんな邪悪なコンテンツがレアせんぱいを淫蕩の糸に絡め取ったの。許せない。色々な権限でコンテンツのライセンス所有者と無闇に戦いたくなる」
「ええっ、そういう反応になるのかい?」早口になったリーンズィに、コルトは柄にもなく怯んだ。「っていうか、何なの。君も結構重たい人なのかな……?」と微妙に慎重な声音で呟いた。「それに、なんだか、結構危険なレベルで独占欲があるみたいだね……そっか……そうなんだね……」強張った微笑で手を動かし、虚無の空間をこね始めた。「まぁ……アリスも『リーンズィが自分だけのものじゃない』っていう現実と真摯に向き合おうとしているんだ。あの子は君にしか自分の存在を許さないけど、君はリリウムやミラーズにも身も心を許しているじゃないか。それが辛いから自分を傷つけるようなコンテンツに触れようとする……」
「うん? それとこれとは問題が異なる」
「いや異ならないと思うよ?」
「事実として、レアせんぱいの他には、私は誰にも身も心も許していない」
「ええっ?」コルトは動揺した。
「例えばミラーズはアルファⅡモナルキアの一部、つまり私自身。私自身を幾ら知っても、それは違う」
「ええっ?!」コルトは怯んだ。「それは違うって……そんなに違うかな? 私には何が違うのか分からないよ」
「うん。違うの。ミラーズは私でもあるのだから。それに、ミラーズからのフィードバックはレアせんぱいをごまんぞくさせて実利を与えているはずだし、やっぱりそこは大丈夫だと思う」リーンズィは頷いた。「リリウムに関しては、あの組織間結婚式以降も、公式チャンネルに沢山デートや色々な交流の動画をアップロードされているけど、動画を見ての通り、体はともかく心まで許しているわけではないので、やはり問題ではない」
「ええっ……そうなんだ……」コルトはまたしても怯んだ。「動画は観たよ、でも到底心までは許していないとは見えなかったし……そうとは思わなかったし……あれを見て『心は別なんだな』なんて誰も思わないと思う……というか思ってないけど……そうなんだね……」
「とにかくそうなのだな。そうなの。ご理解を頂いた、コルトの誤解が解けて良かった」
「ああ、うん、良かったね……」
「確かにリリウムは毎回ハッキングを仕掛けてくる。だから私も本意で無い発言をしてしまい、外形上わかりにくい部分があると思う。そこは申し訳なく思う」
「そうだよね、リリウムに『愛している』とか『私を離さないで』ってせがんでるよね?」
「でもリリウムに何を言わされても、それは本心ではない」ライトブラウンの髪の少女は潔癖そうな美貌で自信ありげに頷いた。「レアせんぱいとは通じ合っているし、その点に関しては理解してくれていたはず……実際ご理解をいただいた。花嫁同士なら、大主教リリウムが相手なら、それは仕方ないって。そしてリリウムとの体験もレアせんぱいをごまんぞくさせるのに使っているから大丈夫」
「私に言われたくないかもしれないけど、何かそういうわけ分からない状況に対して葛藤とかないのかな?」
「何の葛藤?」リーンズィは不思議に思った。「でも、本当は違うのか、違うの? 私がレアせんぱいの他に誰かを知ることを不愉快に思っているの? 気付かなかった……」
「本当に気付かなかったのかい? そんなことが出来るの? 私はそんな人が存在しているとは思ったことが無かったよ」
「私は存在していない……?!」リーンズィはショックを受けた。「存在が認められない……!? そこまでダメなことをしていただなんて……」
「存在は……してる……。してるよ、そこは心配しなくて良いよ」先ほどまで自分の頭を撃ち抜いて呆然としていた女は、リーンズィの破綻した発言に対して非常に複雑な微笑を浮かべた。「これ……これはちょっと想定してなかったかな……ミラーズと私が接触を持ったとき、通常考えられるような形の不快感を示していたように見えたけど、そうか、そうした関係性について個人的な悪感情は持っているにせよ、常人が普遍的に持っているような感性、共感能力の類は、まだまだ育っていないということなんだね……」
「さっきから何の話なのだ。なの。私の交友関係とレアせんぱいに何か関係が?」
「そうだろうね。関係が分からないんだろうね。君の精神は何歳ぐらいなのか」
「……スチーム・ヘッドに年齢は無い」十二歳ぐらいと言われた事実は黙秘した。子供っぽく扱われることに若干恥ずかしさが芽生えているのだ。「じゅう……じゅうろくさいぐらい?」
「見栄を張らなくてもいいよ? なるほどなるほど、ネットワークだけ見てると君の思考形態は全然理解出来ないね。人生経験、なのかなぁ……。生まれついてのスチーム・ヘッドに人生経験を期待するというのも初めてのことかもしれないね」
悩ましげに溜息を吐くコルトを見て、このような冷厳とした人物で、もういっそ非人間的な価値観を持っているのに、こんな業務外の出来事に心乱されるのだな、とリーンズィは意外に思った。
コルトはリーンズィをじっと見て、聞き分けの無い猫を宥め賺すような声音で使った。
少しだけレアせんぱいの口調を真似ているように思えた。
「あのね……あのね、逆の立場なら、君は悲しいよね。あの子だって悲しいんだ。でも色々なことを考えて我慢している。痴情のもつれで刃傷沙汰になる映画なんて、昔は絶対に観なかったんだ。それを観るようになった。つまり、リーンズィについて思うところが、すごく、とても、かなりのレベルで、あるということだね」
俄には信じがたかったが、リーンズィはコルトを信じていたので、信じた。
「まさかそうだったとは……」
「まさかそうなんだよ。分かってくれたね? はい分かった。じゃあ分かってくれたということにするからね。君にも立場があるだろうけど、アリス・レッドアイ・ウンドワートのことは、今よりさらに深く愛してあげてほしいよ。あの子は、愛されたいんだ。愛されたいし、愛したい。恋がしたいんだ。初めての恋で毎日が楽しいんだ。私は何も信じていないけど、アリスが嬉しがると嬉しく感じるよ……。ああ、今のは命令や要請ではないよ。ただのお願いさ。あの子の姉としてのね。個人的なお願いなのさ」
奇妙な音に聞こえた。リーンズィは問うた。「……個人として幸せを願うだけなら、臨界点は遠ざかると?」リーンズィは問いを重ねた。「集団が一気に違う性質の狂気に飲まれてしまう。その瞬間の到来は避けられると?」
コルトは目を細めた。
黒曜石のナイフのように瞳が輝いた。
「そうだね。私には、こうした出来事については、お願いをするしかない。大勢に『強制』をした結果どうなるかは、見てしまったあとだから。リリウムが『皆幸せになりますように』と祈るように、私は『こうなりますように』と願うしか無いんだね。未来はいつも、一人一人の祈りや願いを繊細に積み重ねた先にある……そしてどんなに屍を積み上げても、それは、天国の階段には、決してならない。そこから飛び降りて地獄に行くには、丁度良いだろうけどね」
「スチーム・ヘッドに天国や地獄が?」
「無関係とは思わない方が良い。私は神も悪魔も信じていない。だけどスチーム・ヘッドは死なないから、それはすぐそこに、形を伴って現れるんだ。<猫の戒め>が現れて、大主教ヴォイニッチが全ての道を鎖す。そうでもしないと止められない終着点が現実にやってくる。……リーンズィ、君はそのうち解放軍でもっと上位の役職を担うことになるだろう。だから覚えておいてくれるかな。世界がただ一つの未来を志向したとき、私たちは終点に転げ落ちてしまうんだよ。そこは一つの方法論に拘った異常者が、間違った反復の果てに、やがて到達してしまう場所。袋小路の行き止まりさ。望まれた何もかも、その残骸しか存在が許されない。たった一つの世界を執拗に追い求めると、人は必ず破壊と殺戮に走る。それが一番簡単で、確実に他の枝を落とす最適な手段に見えてしまうから」
だけど、殺戮の地平線を目指してはいけないんだ、リーンズィ、と彼女は微笑んだ。
私たちは人類文化継承連帯。
終わらせるのではなく、人類を継ぐ者。
「分かってくれるね?」とコルトは儚げな微笑を浮かべたが、ライトブラウンの髪の少女は沈黙して、躊躇いがちに頷くだけだった。
「少し休むよ」というコルトをバックヤードに残して、リーンズィは地下食料品売り場に戻った。
途中でフォーカードを見たが、通常の警邏ルートに戻っているようで、ライトブラウンの髪の少女が挨拶しても反応は無かった。
売り場に時空改変の痕跡は見当たらなかった。しかしスチーム・ヘッドたちの雰囲気の変化が目立った。夜が来る前と比べて活気が失せているように思われた。
冒険や探索の楽しみなどそこにはない。
あまつさえ武器の点検まで始めている。
祝祭のムードはどこかに消えてしまっている。凶事に向きあわなければならない、というやるせない空気がそこかしこから滲みだしていた。慣れない『日常』と相対していたスチーム・ヘッドの偽りの魂が、容赦の無い戦場へと引き戻されつつあった。あれだけ色鮮やかだった沢山の文明の痕跡が、つやつやと輝いていた赤い林檎の滑らかさが、酷く虚しく感じられた。
コルトが言うには、決定的衝突が起こるまでに長い昼と短い夜が三度は挟まるそうだが、皆もうそれどことではないらしい。
楽しみにしていた色々なことが壊れた気がした。
ぽつねんと二人で残されていたミラーズとケットシーに合流した。
「コルトプロデューサーから大事なお話?」とケットシーが尋ねてきた。「ぶらり旅から路線変更したの?」
「非常に重大な話があった。色々とあったのだが……まず最初に。クヌーズオーエには生存者の極めて大規模なコミュニティが存在して、何百年も過ごしているらしいのだ……らしい」
「ふーん。生存者がいるのですか」
ミラーズは大して驚いていないようだった。知っていたのかも知れない。
「え? 未感染の生存者って珍しいの? みちばたで何度かロケ中に見かけたけど、みんな元気なんだなって思ってた。やたら殺気高いし」
「えっと、シーちゃんは世界が終わってしまっているというのに随分呑気なのですね?」
「いつ終わったの?」怪訝そうだった。「どうやっても死ねない人だらけの世界がどう滅ぶの。もう滅びようが無いのに。皆永遠だよ?」
「そうか、生存者というのは結構どこにでもいるの。だな。私はここに来て日が浅いので全然知らなかった。とにかく、コルトからそうした話を沢山聞いた。そして……」
「そして?」
「レアせんぱいは私がリリウムやミラーズと交流を深めることに好感情を持っておらず他者に恋人を略取される危険な邪悪動画に接触して危険な形でストレスを晴らしているそうなので配慮するようにと注意された……」
「……リーンズィ、どうしてレアの話になったのです? 生存者の話じゃないの?」
「ウサギの人、ハードな嗜好に目覚めちゃったんだね……なんでそんなことに……」
「レア様は以前からハードだったわよ? いいえ、そういう話ではありません。リーンズィ、話の続きを」
「最後の方は何故かそういう話になった。なんというか、流れで……レアせんぱいは私の体が他にも抱かれているのが苦しいのだと……」リーンズィはしょんぼりした。「レアせんぱいがそんな風に思っていたなんて……反省しなければ……」
「ウンドワートは性癖ハードぴょんになるしかない。それで売るようにプロデュースしてこ?」
「やめなさい、そういうジャンルはものすごく繊細で時として恐ろしい対立を生むんだからね。それより、生存者の話の方が遙かに重要でしょ」
「そうだった」リーンズィは我に帰った。「どうも噂に聞く<暗き塔を仰ぐ者>という集団がそれらしい。正式名称はFRF、『ファーザーズ・リデンプション・ファクトリー』。俗称の通り、彼らは例のよく分からない高い塔の周辺で文明圏を作っていて、不死病を克服して、暮らしているらしい」
『解析終了。彼らの予想される生存領域を表示します』と沈黙を保っていたユイシスが三人の視界に簡易なマップを表示した。
塔を中心に、幾つかの複製クヌーズオーエを巻き込んで構築される巨大な領域だった。具体的には不明だが、相当な人数が生活していることだろう。
百万か、二百万か、あるいはもっとだ。
「ではこの方々は、不死の恩恵に与れないのですか。神の国に向かうことを己自身で拒むだなんて。嘆かわしいことです」
「ふむふむ、つまりここの軍隊は、その人たちを助けたくて戦ってるの。嬉しい、ヒナはヒーローになるの得意だよ。ヒナがキャスティングされた理由が見えてきた。救国の剣士として刀を掲げるヒナのかっこよさに皆めろめろになって、クリスマス商戦もばっちり……」
「困ったことに彼らは……」リーンズィは形の良い眉を寄せて、溜息を吐いた。「どうやら反スチーム・ヘッド主義らしい」
「え。それだとヒナの出番ない気がする……」ケットシーは効果音が鳴りそうな程落胆した。
「ええ、それはそうでしょうね」ミラーズは思慮深そうな眼差しで己の唇に触れた。「無知な民草はスチーム・ヘッドを疫病の主として畏れるものです」
「ヒナたちが傍に居るだけで感染する人増えてくるもんね。普通は仕方ない反応」
「事態はさらに複雑だ。彼らを統率している<プロトメサイア>と呼ばれる存在は、スチーム・ヘッドらしいのだ」
「プロトメサイア。へぇ。ずいぶん大層な名前ね」ミラーズは嫌そうに吐き捨てた。「どういう気持ちで裁き主なんて名乗れるのかしら。あたしたちの聖父スヴィトスラーフですらそんな自称はしなかったのに」
「でもボスっぽく無い? ヒナはワクワクを抑えきれない。すごいバトルになると思う。視聴率アップも期待できる! 何か新しいオモチャが発売されてヒナもそれがもらえるかも!」
それぞれのコメントを聞き流しながらも、気になる点が複数あるのは敢えて言葉にしない。
コルトは<暗き塔を仰ぐ者>の築いた凄絶な文化、その滅亡的な有様は教えてくれたが、プロトメサイアなる機体については言葉を濁し続けた。肝心の敵の首魁については不明なままなのだ。
無論、『何も知らない』というのはあり得ない。<暗き塔を仰ぐ者>の内情をあれだけ知っているなら、コルトは相当な深度で<プロトメサイア>なる存在についての情報も持っている。そう考えて間違いなかった。
明かしてくれない理由を推測するのは難しい。コルトは、自分は偽物の救世主で、プロトメサイアは欺瞞に満ちた救世主なのだと語っていた。互いの性質の差異や機能について、知り得る部分があるということだ。まさか、とは思うが、二人には面識や交流があったのかも知れない。
リーンズィの思考を知ってか知らずか、黒髪の剣士は愛らしい仕草で小首を傾げる。
「でも、ヒナは変だと思う。人間の国では、みんなスチーム・ヘッドが嫌い。それなのに、スチーム・ヘッドが王様をやっているの? それって矛盾してる」
リーンズィはコルトからその点だけは答えを聞かされていたが、あまりにも理解を超えた、混沌としていて、救いがたい内容だったので、消化しきれないままでいた。
本当にそんな破綻した集団が居て、しかも都市国家らしきものを形成しているとはとても思えなかったのだ。懲罰担当官は言っていた。
「見れば嫌でも分かるよ。プロトメサイアのことも、生存者たちのことも。どれだけ語っても彼らに関しては実際に見ないと伝わらない。誰も彼らのような人類の在り方があるなんて信じたくないからね」
そして彼ら定命の者は、どうやってか……。
もうすぐこのブランクエリアにやってくる。
アルファⅡモナルキアやケットシーが態度を固めるのは、実物を確かめてからでも遅くないとリーンズィは判断した。
気がかりなのは、『未感染の人間は保護する』という不文律が、どうやらクヌーズオーエ解放軍においては崩壊しているらしいということだ。今まで生存者の気配を全く感じなかったため想像が及んでいなかった。
現在の解放軍が接触してどうなるのか、コルトにも予想が付かないらしい。
自殺する前に、彼女は頭を抱えながら浅く息を繰り返した。
彼女は出来損ないの微笑でリーンズィに囁いた。
「覚悟しておくといいよ。きっと後悔することになるから」




