S2-12-11 たのしいまいにち④ 忘れられたものたち
昼は長く続いた。
三人の影は歩道に沿って進んだ。
第二十四番攻略拠点においては歩道と道路の区別は曖昧だったが、ブランクエリアは違った。きめ細やかなアスファルトで舗装された路面が微睡みを誘う陽光を受けてきらきらと密やかに煌めいていた。ただ歩みを進めるだけでリーンズィたちは大いに喜びを感じた。
「まるで処女雪の上を歩いているような気分ですね」
「ヒナもとっても良い気持ち。ブーツが路面をちょっとずつ削り取っていく音ってミルフィーユをフォークで切るときみたいな音がして好き」
「ええ、少しだけ分かります。サクサクしててリズムが良いのです」
リーンズィにはミルフィーユというのが何なのか分からなかったが、完全な状態の歩道がこれほどの喜びを与えてくれることには少なからず驚いていた。
スチーム・ヘッドが履いている靴というのは、大抵の場合不朽結晶連続体かそれに準ずる素材で、どんな道路よりも硬く、金属の性質を有している場合は相応の破壊力がある。そのため、スチーム・ヘッドが通りすぎる時、アスファルトは不滅であることを約束されたブーツによって、容赦なく形を奪われていく。
解放軍が通った後の土地はたいていの場合擦り切れて荒廃し、数トンあるパペットまでもが日常的に通行するのだから、酷く陥没することさえある。第
二十四番攻略拠点でも歩行者を安全に通行させるための設備は安全など必要としない不死なるものどもによって完璧に壊されていて、砕かれたアスファルトが土埃と混ざり合って押し潰されて固まり、歪な路面へと変容している。
リーンズィは、人間のために用意された、恐ろしいものの無いちゃんとした地面を歩くのは、これが初めてだった。
ブランクエリアには確かに人類が暮らしていた痕跡が息づいていた。
足を取られることも敷かれた鉄板の下の空洞を意識する必要も無かった。
本来在るべき人間の歩行。
失うべきものを欠いた完全な平面。
どこにでも連れて行ってくれそうだった。
道沿いに進んでいくと路上に奇妙な板の群れが現れた。
特異性は何も無くユイシスが解析しても危険は感知されなかった。
その板は仕切りのように歩道と車道とを隔てていたが、自動車という猛スピードで走り回る殺人的な質量から、脆く儚い人体を保護するための設備とは異なった
基本的には、大きな紙だった。
硝子ケースに入れられた路上広告だ。
そこにはリーンズィが見たこともない世界、健康的な男性、あるべき加齢に従ったレーゲントのような、美しく老いた女たち、そして最早現実世界では到底実現し得ない虚構の栄光がひしめいている。
あまりにも広告が巨大で、色鮮やかなので、リーンズィは等間隔で並ぶ広告たちが虚構の世界の写像だとはすぐには理解出来なかった。
最初に覚えた感覚は戦慄で、<時の欠片に触れた者>が垣間見せた寂寞の視野を思い出した。リーンズィが今目にしているそれらは、終了した可能性世界、廃滅された時間枝のうち、過度な装飾で施された一本を映す、残酷な窓のように思われた。
ライトブラウンの髪の少女の額を冷たい汗が伝う。
そう言えば、ブランクエリアの探索を始めてから空模様が全く変わっていない。
集合したのは正午頃だったはずだが、あれから何時間経ったのだろう?
怯懦に揺れる翡翠の瞳が、空の蒼を振り仰ぐ。
細かくログを取っているわけでは無いが、危惧は間違っていない。太陽の位置が殆ど変わっていない。時間と空間に関する因果律が狂い始めているのは明白だった。
何らかの干渉を受けているのだ。
重外燃機関の側面にマウントしたアルファⅡモナルキアのヘルメットに手を掛けたそのとき、背後で金色の髪をした退廃の天使がくすくすと喉を鳴らした。
「リーンズィ、どうしたのですか? そのように立ち止まって、硝子に映る自分の顔に見蕩れているのですか。確かにリーンズィはとっても成長しましたからね。ヴァローナとはまた違った愛らしさが育まれています。その差異に気付いたのならば、あなた自身とリーンズィは、初対面と言っても良いぐらいです」
思わぬ言葉に少女は目を瞬かせた。
単純な彼女は、ミラーズの甘い声につい不安を忘れてしまった。
「私は……そんなに変わった?」
「ヴァローナはいつでもクールでミステリアスなふりをしていましたからね。それに比べたら、リーンズィの顔つきは小さな女の子みたいに柔らかいんですよ、自覚していなかったんですか?」
「確かにそう。リズちゃんは背丈は高いのに、お大臣様の箱入り娘みたいにふにゃふにゃしてる」ケットシーがリーンズィの左手を撫でながら見上げてくる。「顔立ちはきれい系なのに、頼りなくって、あんなに強いのが信じられない。でもね、ヒナは見た目で人は差別しないよ? 安心して隙を晒して? 何もかも委ねて。ヒナは優しくしてあげるのも得意だから、身を任せて」
「私はレアせんぱいの恋人だし、それは嫌だ……絶対任せないぞ」
リーンズィは猥褻行為にノーと言える、強いスチーム・ヘッドになりたいのだった。
そんなことを思いながら、しかし自分は変わったのだろうか、と硝子に映った自分自身を眺める。
そうしているうちに、鏡代わりに使っているそれが、異世界に続く窓などではなく、ただの磨き上げられた硝子なのだと言うことを改めて納得した。
向こう側にあまりも眩惑的な世界が広がっているせいで、判断力が低下してしまったらしい。
とは言えそれら全てが決してリーンズィの手の届かない風景、失われた富の記憶である事実は覆られない。お前のことなど知らぬと言う調子で紙面に踊る目まぐるしい色彩に、リーンズィは言語化のしにくい感情を覚えた。
葬列の如き広告の群れ。何故こんなものを並べているのか、リーンズィには理解出来ない。商経済を前提とした文化であれば広告などありふれたものだが、リーンズィは紙も電球も貴重品というクヌーズオーエにおいて、電子決済を使って悩むことなく楽しく生活している。文化的に後退した世界で、実は商経済を殆ど理解していなかった。
価値と価値は引き換えが出来る。それは分かっている。だが引き換えられることを前提としていない価値、価値を引き立てるための価値というものが、まだ上手く理解出来ない。
ポスターはどれも芸術的で、とても高値が付くように感じられる。
それをこんな風に屋外に放置しておく感覚は、リーンズィの認知する世界の常識を越えていた。
気になったのでユイシスが様々を計測してもらったが、それらが国際規格に沿っているということぐらいしか分からない。ルート1平方メートルの、これ以外には何も使えない用紙に、4色刷りされたポスターが、瓶詰めにされた夢みたいに、硝子板に挟まれて浮かんでいる。リーンズィは目を細める。保護されている滅亡した世界の痕跡。多種多様な解読不能な飾り文字が、サーカスのピエロのように紙面に踊っているが、その広告文を受け止めることが出来る者はもう存在しない。
同じように感慨深そうに路上広告を眺めていたスチーム・ヘッドたちが話し合っている。
「ポスターなんて久々に見た」
「そう言えば余所ではあんまり見かけないな。不思議なことだ、昔は宣伝広告に埋め尽くされて死ぬのではと思うほどだったのに」
「何が不思議なものかよ。どんな上品なポスターだろうが紙は紙だ、電気も燃料も僅かなら、死んだら死ぬやつらは燃やせるものを燃やして暖を取るしか無い」
「今となってはそれも無残だ。大した効果は無さそうなのに。こういう広告とて、焼かれるために印刷されたのではないだろう」
「いいや、究極的にはこいつらは、燃やされるために刷られたのさ。最初からそのために印刷されたんだ。オレたちと同じだ。消費されるために運ばれて、ここにいる……」
そんな雑談を聞き流しながらリーンズィは紙面に躍る文字を観察した。例によってクヌーズオーエに遺されている文字は、解放軍の面々には全く馴染みがなく、データベースにあるどの言語基体を使っても解読出来なかった。
先遣隊である偵察軍には言語学者も混じっていたはずだが今回も成果は無かったらしい。視覚を拡張してネットワーク上の注釈をチェックしてみたが『服飾品のバーゲン?』『家庭用核シェルターの申し込み会の告知に似てる』『ここには新作ハリウッド映画のポスターっぽいやつがあったけど気に入ったので先取特権を使って持って帰りました』などの曖昧なコメントが残るのみだった。
そうやって観察を続けているうちに、いつしかリーンズィは、自分の知らぬ豊かだった世界の残影に魅了されるようになった。
言葉は分からないが被写体の美しさはひと目で分かる。そのように作られているのが屋外広告だ。仕立ての良い鞄を担いで颯爽と立つ着飾った女性、買い物袋をいっぱいに持って恥ずかしそうな、嬉しそうな、楽しそうな浮かべている男女と子供。笑顔で自分の頭に拳銃を向けている兵士とノルウェーの国旗。何を売るつもりなのか分からないぐらいの量で紙面を埋め尽くす色とりどりの花束と香水の瓶。空から降る星のような無数の宝石類。キッチンでパレードをしている七面鳥とケーキ。白と赤の三角帽子を被って得意げにコーラの瓶を傾けているデフォルメされたシロクマ。コンクリート製のシェルターの中で何百種類もある缶詰を背景にして満足げにしている男……。
見れば見るほど圧倒されてしまう。こんなにも鮮やかな色が、こんなにも豊かな暮らしが存在したことを、リーンズィは初めて知った。
彼女にとってクヌーズオーエとは無限に続く灰色の味気ない構造体であり、鮮やかな色彩など、人間の血潮ぐらいしかない。この新しい都市で、リーンズィの前に現れたのは単なる広告看板では無かった。それは絵画石碑にも等しかった。石灰岩ではなく硝子と染料で作られ、神でなく、勝利でなく、死者で無く、生の謳歌、無制限の生産と消費、価値交換という人類文化に捧げられた……。
「きれいだ」リーンズィはほう、と息を吐きながら呟いた。「ここに行ってみたい」
広告群の前からピクリとも動かないライトブラウンの髪の少女に、ブレザー姿の少女が忍びより、指を絡めてきた。
気がついたリーンズィに身を擦り寄せながら、ケットシーはそっと微笑む。
有りもしないカメラを意識しながら背伸びして、大鴉めいた意匠の突撃聖詠服の背中に触れ、骨をなぞって首に腕を回し、目を薄く開きながら唇を重ねてきた。
油断していたリーンズィは、何となくペースを握られてしまった。ケットシーを見つめてしまう。月の無い夜の闇を閉じ込めたような瞳が涙の潤いで黒く輝き、リーンズィの偽りの魂と、濃密に視線を絡ませてくる。飲み込まれてしまいそうな美しい瞳。
誰しもが人生の最後に見る闇と同じ色。
リーンズィが頬を朱に染めて戸惑っていると、軽いボディタッチをしてから、学生服の少女は身を離して、上気した頬を綻ばせた。
「ふふ。リズちゃん、色んなものに見とれちゃって可愛い。小さな小さな女の子なのかな? 迷子センターの場所分かる? お姉ちゃんがおかーさんの所に連れて行ってあげよっか? おのぼりさん用の小さい旗とかいる? お昼ご飯はお子様ランチの出るレストランが良い?」
「……そんなに小さくない。ユイシスはもっと上の年齢だと診断している」
『報告。精々十二歳ぐらいですね』と統合支援AIが秘密の年齢を暴露した。『すくすく育っています』
「リーンズィ、あまりキョロキョロしていると、悪い人に財布を取られてしまいますよ。遠い昔に娘たちが言っていたのですけど、何かを探しているような素振りをしている人ほど手元は見えなくなってしまう。そういう人からはとっても荷物を取りやすいそうです」
「そんなことはどうでも……でも注意する。それより、キスだ。ケットシーはどうしてキスしたのだ……したの?」ライトブラウンの髪の少女は不本意にも熱い息を零した。「全然必要性を感じなかったけど……」
「だって、デート回だし?」ケットシーは首を傾げる。「理由なんて必要なの? 気持ちが動いたなら、それに従うのが普通だってコルトさんは言ってた。ヒナはリズちゃんが可愛いって思ったからキスがしたくなった。だからしたいことをしたの。ヒナはまんぞく、リズちゃんもまんぞく。勝ち―勝ちで誰も損しないでしょ? レーゲントと仲良くなるにはこれが一番早いって聞いたし。ヒナは知りたいよ。リズちゃんのこと、もっともっと知りたい。リズちゃんが好きな人の前でする顔を、ヒナにも見せて欲しい」
「それはレーゲント流のやり方だ。私はレーゲントではなく、調停防疫局のエージェントだ。レーゲント流は通じない。そして私は君は嫌いな人では無いにせよ好きな人でもないのでそんな顔は見せない。そもそもレーゲント流のやり方は、現在はおおっぴらにしてはいけない。そういう規則だ」
「キスぐらいは挨拶の代わり。ヒナは詳しいから分かる、海外ではそう」
「それは文化による。クヌーズオーエでは違う」
「でもリズちゃんとアリスちゃんは、今朝道の真ん中で結構凄いことしてたよね。合流した後、コルトさんがアリスちゃんの視覚データをこっそり送ってくれたんだけど、ヒナもドキドキしちゃった。それで、あれは合法なの?」
「……あれは挨拶なので合法」
「じゃあ、ヒナのもあいさつ」我が意を得たり、と人形じみた顔に笑みを浮かべる。「ロンキャセンパイも言ってた、あいさつは大事」
「あいさつはあいさつでも恋人同士の挨拶なのでヒナはダメ」
「ヒナも恋人だよ?」
「だよ、ではない」
一方的に恋人であると宣言してその通りに振る舞うのは彼女の文化圏では普通なのだろうか。
「ふふ、素直ではありませんね」ミラーズが可笑しそうに笑う。「あなたの魂の揺り籠とは言え、肉体は紛れもなくスヴィトスラーフ聖歌隊のレーゲントでしょう。この香り、この肌、この肉の感触は、大主教リリウムの使徒ヴァローナ。だからこそ分かります、ヴァローナはケットシーを受容していますよ」
「そうそう。リズちゃんは素直じゃない、体の人は素直なのに」
「そんなことは……」
二人に挟まれて頬を紅潮させるリーンズィを、虚空にアバターを表示させたユイシスが嘲る。
『提案。愛着の程度を視覚的に数値化しますか?』
「しなくていいっ!」
ケットシーを押し退け、ミラーズからは距離を取る。
元大主教と元東アジア最強は、視線を交わしてくすくすと笑った。
いつのまにか連携している恐ろしい少女たちだったが、リーンズィは怯まない。
「今はお仕事の時間なのだし、私的用途においては、肉体はレアせんぱい、そしてミラーズだけに捧げている。おいそれと他の誰かには身を委ねない。ロングキャットグッドナイトの徒弟のねこねこキャット妖精なんて目ではないのだ。ないの!」
「からかいすぎちゃった。でも可愛らしいリアクションするリズちゃんが悪いんだよ」ブレザーの少女が暗い目に光を滴らせる。「コルトさんから、ブランクエリアでして良いことと悪いことのリストはもらってる。色々出来ることはあるみたいだよ。知ってた?」
マスターからの依頼があるのでそんなことは出来ない、と顔を真っ赤にしてリーンズィは足早に立ち去ろうとする。
ミラーズとケットシーはまたもくすくすと笑いながらライトブラウンの髪の少女を追った。
その頃、スチーム・ヘッドのある一団は、看板広告に紛れていた真っ黒な板を眺めていた。
誰かがそれが黒いポスターでは無く、何か液晶を備えた端末の類だと気付いたのだ。
給電機能を持つ一機が台座の外装を脚で蹴って破壊し、端子から電流を流し込んだ。
黒い板が光を灯した。画面に円が現れて回転し、変形しながら四つに分かれた。それらは幾度かの集合と離散を経て、白・赤・黒・青の四枚の菱形の葉を持つクローバーのようなロゴに変わった。『FOUR CARD』の英文字。
下部には何カ国語かで文字が流れた。
何機かが「暫くお待ちください」と思わずといった調子で声に出して読んだ。
「何だこれ」
「フォーカード。ポーカーか?」
「そんな役あったっけ」
「ジョーカー混ぜたルールでたまに採用する役だな。同じカード三枚とジョーカー」
「全然知らんOSだなぁ。誰か分かるか? てかウィンドウズとかアイオーエスとか知ってる?」
「OSねぇ。戦中世代だからなぁ僕とか……動いてるパソコン自体あんまり見たことない」
「わたしはLINUXを使ってた」給電している基体が答えた。
「おっ、何か聞いたことあるな。難しいやつだろ。パソコンの先生か?」
「体が動いてた頃はまぁそんな感じだった。スチーム・ヘッドになる十年前ぐらいまでだな」
「っていうかこれパソコンなんか? デカいタブレットだろ?」
「爺さんが言ってたけどタブレットもパソコンの仲間らしいよ」
「戦中世代って何も知らないんだな……いざ目の当たりにすると驚きだ」
「それでパソコンの先生はよ、こういう表示が出るPC見たことあるか?」
「無いな。わたしも初めてだ、こんなのは。というかこの狂った都市に来てから、まともに動く情報処理装置を見つけたことが無い……」
「へー、じゃ貴重品なんかね」
「もしそうなら司令部専属の部隊が回収してるだろ」
「正直かなり奇妙だ。このクヌーズオーエでは高高度核戦争が起きていないのか?」
大型の液晶画面はグラデーションを伴って明滅し始めた。
今度は画面が白一色に染まった。安定し、文章が数カ国の言葉で流れるようになった。『人類文化防疫管理センターへの接続が確認出来ません。生存管理者に報告してください。当地区の言詞汚染防護は完全ではありません』という警告だった。
具体的に何を指したメッセージなのか、意味は全く分からなかったが、どうであれクヌーズオーエでは極めて稀な、理解出来る言語によるアナウンスだった。
スチーム・ヘッドたちの好奇心を疼かせるには十分だった。彼らはこの都市が確かに生きていたときの情報を求めて手を尽した。クヌーズオーエには謎が多い。地理的にノルウェーであるはずだったがこんな都市を記憶している人物は存在しない。知っているとすれば、それはこの都市自身だけだ。
しかしいかなる試みも無駄だった。
端末は強制的にシャットダウンを開始してしまった。
『良き余生を』
そんな文字が大型液晶に表示された。
瞼を閉じたように何も映さなくなった。
兵士たちはどこか呆然とした様子で画面に映り込む己らの姿をじっと見つめた。無機的な生命。頭蓋に機械を挿入された不死病患者。目的の定かで無い闘争に明け暮れる生ける屍たち。もはや残された時間など無い。死んだ後の世界に彼らは生きている。
「いつまで生きれば良い?」と呟く者がいたが答えはない。
その後も試行錯誤を続けたが結局は徒労に終わった。端末は何か巨大なネットワークに接続することを前提にしていたようで、本体には大した内容は入っておらず、見飽きたマップデータ――クヌーズオーエは大抵同じ構造をしている――と、何らかのアクセス履歴、利用者の名前の一覧、そして収集されたバイタルデータがアップロード保留の状態で残されているのみだった。内容は断片的で、個人情報にかかる部位は暗号化されていたが、いずれにせよどこにでもあるような人生が列挙されているだけで、特別な価値は無かった。
その端末は、ある意味では漂流者が洞窟の壁に書きつけて途中で放置した日記、あるいは遺言状に似ていた。署名の無い砕かれた生活の集積。絶海の孤島に異邦人が生きていたということは分かるが、生涯や出自、思考の履歴、苦闘の痕跡を伝える記述は何も無く、未来永劫追記されることも無い。誰かが生きていて、そしてもうここにいない、たったそれだけの意味しか無い。名前の無い生活の履歴を閲覧する作業は恐ろしい虚無感を伴うものであり、彼らはいっそ何一つ分からない方が幸せだったなと思ったが、一度見たものを忘れ去ることは決して出来ない。
マスターから託されたマップデータは、リーンズィをついに目的地へと導いた。
リーンズィはしょんぼりしていた。
ショッピングモールが物凄く地味だったからだ。
宣伝広告らしき垂れ幕を吊るしたバルーンが浮かんでいる、という点を除くとショッピングモールには外観上の特徴が無かった。はっきり言って集合住宅や巨大な操車場と大した違いが無い。クヌーズオーエは死の概念と共に消え果てた厳密な計画によって一律な形で作られた都市であるというのが通説だったが、ショッピングモールも多分に漏れないらしい。第二十四番攻略拠点や他のクヌーズオーエにもこういった土地はある。それらとあまりにも差異が無いので気付かなかった。
目立つものと言えば、強いて言うならば敷地内に、広場らしき場所があり、多目に街路樹があるぐらいだった。
当然と言えば当然の光景だ。
だけどリーンズィは広告看板に魅了されて、もっときらきらとした素晴らしいものを想像していたのだった。
「辿り着いた先には望んだ景色など無いものなのだ……私はぐんぐん成長しているので現実を受け止めることが出来る……」と背中を丸め、ミラーズとケットシーによしよしされていると、ショッピングモールから荷物を抱えてやってくる一団が見えた。
彼らが頂いた物資はドラムリールや電線の類だったが、持ち帰るためだけに確保したわけでは無いようだった。彼らは散開してそれらを転がして回り、街路樹のそばに設置し、何かの器具に接続していった。ドラムリールの給電側のケーブルの先にはスチーム・パペットが立っていて、蒸気機関から細く煙を吐き出している。
兵士たちがハンドサインを返すと数メートルの巨人が同じような動きを返した。
そして送電を開始した。
視界が僅かに白んだ。
街路樹が夢のような淡い光に包まれていくのをリーンズィは見た。
クリスマスイルミネーション用のライトが点灯したのだ。
「メリークリスマス! さもなけりゃハッピーニューイヤー、ハッピーイースター、誕生日おめでとう、何でもない日おめでとう! とにかく今日は楽しんでいこう!」と仕掛け人の兵士たちが叫ぶと、作業を見物していた他のスチーム・ヘッドも快哉を上げた。
どうやら余りにも見た目が侘しいと思った集団が、場を盛り上げるために細工をしていたらしい。猫の微睡みを誘う昼間の穏やかな日差しの中では、イルミネーションの輝きは如何にも細々としていて、風が吹くだけで掻き消えてしまいそうに思えたが、それでもライトブラウンの髪の少女は目を潤ませながら歓喜した。
心臓が熱を帯びるのを大いに喜んだ。
ケットシーに腕を抱かれ、彼女の熱を感じながら、リーンズィはショッピングモールに駆け込んだ。
ホールの入り口にはシャッターが降りていたようだが、無理矢理にこじ開けられ、出入りの度に開閉していたはずの硝子の自動ドアは、死人の口のように開かれたままびくともしない。
地上七階建ての建造物は一階から最上階まで吹き抜けの構造になっていた。気持ちの良い天井の高さに、少女たちは何となく嬉しくなって顔を見合わせた。
有志が電力供給に協力しているおかげで店内は明るく、不死の少女たちはいつもより華やいで見えた。
既にあちこちに荷物が積まれていた。視覚を拡張すると「司令部徴収品」というタグが付けられており、荷物運搬用のキャリアを装備したスチーム・ヘッドが積み込み作業を進めていた。
かなり以前から仕事を始めており、そして今し方一段落したところといった風情だった。
何か争奪戦のような構図が出来上がっているのではないかと漠然と思っていたが然程混乱は起きていなかった。<首斬り兎>討伐で成績を上げた機体から優先的にブランクエリアに行けるという話だった。
それは混乱を避けるための方策だったのかも知れない。
よくよく考えると、純粋な戦闘用スチーム・ヘッドは戦技を磨くことが趣味で、兵器はともかくとして、物品のの所有にはあまり拘りを見せない。全ていつかは壊れるし、その気になれば自分は何でも壊せると知っているから、虚しいのだろう。優先的に招待する意味は然程無いように思えた。少なくとも、一面的には。
オーバードライブの使用も認可外戦闘も禁じられた状態でブランクエリアをうろつく完全武装の兵士たちは、ショッピングモールの店の前に立ち止まって、山と積まれた商品を眺め、思い出せないものを思い出そうとする時の素振りで立ち尽くしたり、見覚えのあるパッケージを手に取って考え込んだりしていた。自分が何をしたかったのか必死に掴もうとしているのかもしれないが彼らはもう死んで蘇った後で不死の肉体には願望など無い。積み上げられているのはかつての豊かさでは無くもう意味の無い過去の影だった。敢えてそういった事象と対峙しようとするのは自罰的でさえあり何機かは残り時間を気にしながらモールを出るタイミングを考え始めていた。
モールは二度と帰りはしない喪われた過去そのものだった。
しかし店内放送をジャックしたレーゲントたちが聖歌の生合唱を流し始めると、自分自身に追い詰められた兵士たちは、少しだけ表情を和らげて戦術ネットワークに代理購入の窓口を開設し始めた。
自分の望みは叶えられなくても誰かの望みを叶えることは出来ることを思い出した。
喜ぶのは自分でなくても良いのだと。
リーンズィたちは浮き足立ちながら停止したエスカレーターを登って階を移動した。衣類の売り場にははそこそこの人数が集まっていて、客層は男女様々だった。レーゲントはスチーム・ヘッドの中でも比較的服飾を好むので、朽ちるにしても衣類には一定の需用がある。自分自身の欲求や、友人やお気に入りの技術者、調査員に贈るために、不死者たちはフロアを楽しげに行き来していた。
中でも比較的混雑していたのは女性用の下着を取り扱うコーナーだった。
「?! みんな、ぱんつは装備しない派では!? 何故こんなに人が!?」
レアせんぱいのための可愛い下着を入手しようと考えていたリーンズィだったが、競争相手が予想の数倍、下手をすると十倍近くいた。男女問わず下着を漁りまくっている有様は相応に凄まじく、リーンズィはとても割って入る気になれなかった。
レース加工のあるランジェリーなどはレーゲントたちが西部劇さながらに睨み合っている始末で、戦闘用スチーム・ヘッドでもその辺りに関しては露骨に介入を避けていた。
『解析結果を報告します。ケットシーの六番勝負による広告効果で、解放軍における女性用下着の需用が前日同時刻の百倍にまで増大しています。六機の戦闘用スチーム・ヘッドのもたらした宣伝効果は局所的に絶大だったようです』
「えっ、何故あんなのでぱんつの需用がそこまで爆発的に増えるの……?」
『ケットシーがあれだけ下着を露出させながら八面六臂の活躍をしたのですから当然の帰結かと。レーゲントにしたところで生前から人類を完全に制圧するまでは服飾に拘りがあったと推測されます』
「そうそう、昔はちゃんと穿いていました。っていうか意識しちゃうと下に何もつけてないのって落ち着かなくなるのよね」ミラーズが溜息を一つ。「いつまでだって歩いて祝福を与えて回るんだから、すぐ汚れたり破れたりで、何も穿かないのが普通になっちゃうんだけど。でも、ブームって不合理的であっても起こるものでしょう? 皆キラキラしたものには飛びついてしまうものです、一時の熱に身を委ねるのは悪いことではありません」
「ミラーズはショーツでさえ隠したがるのに……」
「私には娘、ヴァータがいましたからね。あの子は大鎧を操る天鱗を授かっていましたら、奉仕活動は任務に含まれていませんでした。そうした行為には抵抗感を持っていたぐらいです」誰に似たのでしょうね、と困り顔で呟く。「そんな娘に、自分のはしたないところは見せたくはないと思うのは、親として当然でしょう?」
「そういうものなのだな……」
リーンズィとしては贈答品のプランが一つ潰れてしまっただけが、気になるのはケットシーの方だった。
普段使い出来る下着が欲しい、と言っていたのをリーンズィは覚えている。
この光景に戦意を燃やして突っ込んでいくのではないかと若干不安だった。
「ふふふ。やっぱりみんな素人。ヒナの仕掛けたブームに踊らされてる……!」
意外なことにケットシーは全く動じていない。
それどころか愉快そうだった。
「ヒナは欲しくないのか? ……欲しくないの?」
「手に入るなら欲しいよ? でも活動的なスチーム・ヘッドにとって絹とか綿とかそういう下着は、実は次善。スポーツウェア売り場に行こ? エレベーター横の看板を、ヒナは解読済み」
階を移動すると女性のスチーム・ヘッドたちが「あ、やっぱりこっちだよね」という表情でリーンズィたちを出迎えた。
どうやら常識的にはこちらが正しいらしい。
「ランニング用とかサイクリング用のスポーツウェアの方がずっとずっと頑丈。濡れてもすぐ乾燥するから洗いやすい。あ、あと水着も汚れが目立たなくてかなり良いよ。着衣歴の長いスチーム・ヘッドなら、こっちのほうのやつから選ぶのがいちばん。普段からぱんつ穿いてない人たちはいまいち分かってない」
「なるほど、生活の知恵なのだな」とリーンズィが納得していると、ミラーズが「スポーツ用品でもこういうパンツとかって売ってるの?!」とショックを受けていた。
「ミラーズは知らなかったのか? 知らなかったの?」
「だってスポーツとかしたことないんだもの……脚の腱切られてた期間が長かったから再誕してからも走るのに苦手意識あったし……発育あんまりよくないから多少運動しても胸とか別に痛くならないし……でもそっか、そうよね、スポーツしてる人は普通の下着だとあちこち痛くなるもんね……盲点だったわ……」
皆その場で試着をして、見せ合ったりしていたので、リーンズィたちも真似して何が似合うのかを探り始めた。
そのうちにさらに上の階から降りてきたスチーム・ヘッドと出くわした。
「お、リーンズィにケットシーじゃん。資材確保の時間稼ぎお疲れ様」
知らない機体だったが、メタタグを確認すると司令部付けの機体だった。
「こんにちは、どこかの誰か」リーンズィは挨拶した。「時間稼ぎとは?」
「こんにちはこんにちは。やっぱりロンキャ派の子はちゃんと挨拶できて偉いねぇ。いやー助かったよ。六番勝負だっけ? あれで皆の注目引いてくれたおかげで、このモールの捜索がギリギリ間に合ったよ」
「そうだったのか? だったの?」
言いながらケットシーを見ると、「そうだったんだ」とブレザーの少女も唖然としていた。
「無自覚だった? コルトさんの仕込みってそういうところあるからタチ悪いよねぇ。まぁケットシーのことは心配してたし、本当なら止めたかったんじゃないかとは思うけど」
「ヒナは気にしてないけど、後でちゃんとショーの代金はもっと請求する」
「道理でおかしいと思った」リーンズィは頷く。「では、何かやむにやまれぬ事情が?」
「ここの地下の食料品とか嗜好品とかの売り場で悪性変異体とスチーム・ヘッドが見つかったんだ。変な個体でね、歩き回るだけで何にもしないやつらなんだけど、とにかくそういうのがいたもんだから、安全を確認するのに時間がかかっちゃって」
「あっ、そうですよ、食料品売り場!」ミラーズが卒然と思い出した。「何となく浮かれていましたが、コンソメスープの素を確保しないとペーダソス様ががっかりします!」
「そうなのだった! 急いで向かわないと!」
「食べ物狙いなの? 競争率めちゃくちゃ低いから大丈夫だと思うよ」
リーンズィは硬直してしまった。
「そんなはずは。大人気なのでは?」
「だって腐るし、僕ら何食べても基本吐いちゃうじゃん。そんなの欲しいかっていったら欲しくないでしょ。君らや曹長ペーダソスは欲しがるかもしれないけど、それはあれだよ、自分が欲しいものは他の人も欲しいのだと思い込むやつ」
「確かに……確かにマスター以外の料理とかは特段欲しくない……」
「コーヒーとかお菓子は割と人気だけど、コンソメの素とかそういう調味料的なやつ狙う人ほぼいないなぁ。けっこう保存効く商品だから在庫山ほどあるし。ここすごいよ、大抵何でも山ほど在るからね。特に食べ物は。だからまぁゆっくりで良いんじゃない?」
リーンズィたちはそういうことならと納得し、そのスチーム・ヘッドと別れた。
そしてまた履き物選びに夢中になった。
食料品と同じフロアにあるであろう煙草のことは一秒も思い出さなかった。




