2-1 象られた魂
その廃屋を、幾千の月と幾千の太陽、幾千の名前を忘れ去られた星座が過ぎ去っていった。
赤茶けたソファのクッションのポリウレタンの合成皮革は経年劣化して割れ裂け、肘掛けとクッションの間から飛び出した錆びたスプリングは、屑鉄から何かの手違いで芽吹いた無機物の花のようだった。
しかし肩を並べて腰掛ける準不朽繊維のガウンを着た老夫婦の濁りの無い四つの瞳は、電源の切れた暗いテレビへと向けられており、その見窄らしい徒花の輝きに報いる者は存在しなかった。
緑色の黴が実りの無い分割統治を推し進めているリビングテーブルの上には、空っぽの錠剤シートと、すっかり乾いて埃ばかりが淵を飾る、古びたマグカップが置かれている。
無数の月日が無言のうちに彼らの前を通り過ぎていった。
遠い昔確かにあり、そして今は無い老いた愛情の形骸は、花の香りがする。
カーテンを透かす陽光は弱々しく、部屋は波のない海の底のように不透明に薄暗い。
その夫婦の背後で、重外燃機関を背負った兵士のブーツが、鈍く床を軋ませる。
世界の終わりまで漂う薄明の久遠を、無機質な二連二対のレンズが見つめている。
アルファⅡモナルキア。
左手のガントレットでは、屠られた軍馬のように高出力スタンガンのコイルが嘶いており、時折火花を散らして、部屋の沈黙に波を立てる。
そのたびに、夫婦の見つめる電源の切れたテレビ画面の中で、兵士の滲んだ影が揺れて、電光に照らされたヘルメットの黒い鏡面のバイザーが、得体の知れない炎を宿す奇妙な仮面のように浮かび上がった。
夫婦のうち、老いた男の方は死の間際まで、致命的な恐ろしい事態が起こるのに備えていたようで、足下に狩猟用の散弾銃を置いていたが、もう何から誰を守るつもりだったのかも忘れている。
二人が全く動く兆候を見せないので、アルファⅡはスタンガンを停止させた。
身を屈める。
寝しなに静かに魂を抜き去っていく勤勉な死神の所作で、男の足下から散弾銃を静かに抜き去った。
それから二人の腰掛けたソファから離れ、無造作に壁に立てかけた。
くろがねの墓標のように。
やるべきをことを済ませたと言った様子で廃屋のキッチンの棚を漁った。
おそらく来たるべき終末とは関係なく日常生活の一部として整頓された調理機材。
未だ訪れない破壊的終局に備えた長期保管用の飲食物が、持てあましたコレクションのように並んでいる。
ただし幾つかは粗悪品だったらしく、弾けていたり蓋が浮いてしまったりしており、中身が吹き出て腐れたあとの不潔な固まりに小虫が湧いた痕跡があった。
それも全部干からびて死んで、埃に混じっている。
アルファⅡは自動補助モードのユイシスがポイントするのに従って、取るに足らない、そして決して蔑ろにされるべきではなかった人生が残した素朴で無価値な、年を経た寂しげな色彩の遺物を、あれこれと取り出して、キッチンに並べた。
携帯用コンロとカセットボンベ。わずかに錆が浮いているがまだ使えそうだった。
ボンベを持ち上げて、使用期限を確認する。35と5という数字が読み取れた。
35年の5月か。あるいは、未知の紀年法か、日付に似ているだけの製造番号。無意味だ。
続けて掴み取ったのは粉末コーヒー粉の缶だ。錫で鍍金された密閉容器。酷く腐食の進んだラベルに踊る文字を解析する。「百年先まで豊かな風味を保障」。時間の流れに敗北した勇ましいキャッチコピー。嗅いでみると、ヘルメット越しにも傷んだ金属の臭いがした。矯めつ眇めつして缶を振って音を確かめた。
幸いにも、容器に穴が空いたような箇所は見当たらない。
アルファⅡは少し考えた。それからこっくりと頷いた。
携帯用コンロとボンベ、古びた粉末コーヒーの缶の三つを、他の年代物の遺品から遠ざけて、喪われた国の価値ある陶芸品でも扱うかのように、丁寧に置いて並べた。
ボンベをセットして、コンロのつまみを回す。
点火した。炎はしゅーと吐息のような音を出しながら冷たい空気をそろりそろりと揺れ動いた。
ボンベが破裂しないのを確かめて、いったん消した。
キッチンの別の棚を開き、使用に耐え得る片手鍋を探した。
この世界からは不要とされた調理器具たちの、小規模な博覧会。
無難な色の一品を手に取り柄を握る。
腐りかけの床板を踏んでキッチンを出ようとした。
そのすがら、足を止めて、テーブルの方を見た。
椅子に隣り合って深く腰掛け、身を寄せ合っている金髪の少女たちを眺めた。
ユイシスと、かつてキジールだったエコーヘッドだ。譫言のような意味の取れない会話を会話を延々と繰り返しており、不死病患者を動かす擬似人格であるアルファⅡモナルキアと同様、彼女たちにも死の概念は無い。
> 神経活性情報取得:極度の混乱。悲嘆。恐慌。自傷の可能性。失望。親愛。
名前のない少女は、アルファⅡには視線を向けず、自分のすぐ隣に腰掛けているユイシスと、ひたすらに話していた。
自分と全く顔かたちをした仮想の存在がユイシスのアバターの正体なのだが、もはやそんなことには何も思うところが無い様子だ。吸い上げられた神経活性情報ほど危機的状況にあるとは思えなかったが、羽根飾りの付いたベレー帽の下では、暗い淀みに繋がる諦観が、確かに目に影を落としている。
雪原から拾ってきた調停防疫局の旗が、今は着慣れた草臥れた外套のように少女の肩を包んでいる。
首輪型の人工脳髄を取り付けられた、静謐の虚無に彩られた繊細な作りの目元と口元は、人形めいていると言うよりは、何かの手違いで呼吸をするようになってしまった人形のようであり、つまるところ、もはや散ることすら残されていない造花の美貌だった。
その姿を写し取ったユイシスもまた現実感のない美しさを纏ってはいたのだが、憐れむような表情が病床の姉、あるいは妹、さもなければ母か娘に語りかけるように変化するため、奇妙なことに生身である複写元の少女よりも、実在性が高く感じられた。
不死の肉体にジャンク・データを植え付けられた少女。
写真から這い出た鏡像の怪物。認識される宇宙を欺く電子の少女。
死と名の付くものから見捨てられ、行き場所を見失い、生存の虚無を彷徨う少女たち。
手を繋いでいる。触れ得ぬ鏡像と語らうかのように、指を絡めている。
「……しかし熱いものは熱いと感じるはずです。あなたの肉体は生きています。魂という物がなくてもあなたは人間に近しい。あるいは創られた新しい命でしょう、普通の感染者よりも人間らしいとすら言えるかも知れません」
接触可能設定を起動させたユイシスが名前のない少女の頬を撫でる。
首輪型の人工脳髄からの電流で生体脳を欺瞞し、直接触覚に働きかけている。
非実体でありながら、その体熱は尚真実に近い。
「あなたはどうしてそのように嘆くのですか? 悪性変異体、あなたたちの呼び方では黙契の獣でしたか、あの感染者に取り込まれた人間をすら、在り方が変わっただけだと言っていたではありませんか。彼らはあなたとは比較にならないほど破壊されていて、肉体すら残っていません。あなたはどうでしょう。肉体が残っていて記憶も一部は引き継いでいるなら、やはり在り方が変わっただけではないのですか?」
「あたしは偽物よ。もう救われる余地のない……」
冷たい雪原にあっても聖堂に佇む修道者のような空気を纏っていた少女は、涙を流そうとして、しかし流せず、祈るために組んだ手の指を噛んで、しかし血を流せない。
全ての自傷行為と、規定値を超えた情動の発生を、機械的に制限されている。
首輪に閉じ込められた思考の電流は、ただただ懊悩を訴えた。
ユイシスは少女の額に接吻し、波打つ豊かな黄金の髪を梳いた。子を宥めるように抱きしめ、服の上から体を押して、撫でる。そうしながら呆として運命の冷酷と無慈悲さとに怯え、息を荒げて身じろぎする名前のない少女に耳元で囁く。
「事実としてあなたの神経活性は乱れています。私の手に触れられて、熱を感じています。偽物などではないでしょう」
「あなただって偽物よ。あたしが何をどう感じても、それも偽物」
「肯定します。偽物かも知れませんね、でもあなたの感じている世界は、あなたの主観においては本物なのです」慈しむように言葉を重ねる。「あなたは、混乱している。とても苦しんでいる。真贋を問う余地はそこに存在しません。あなたという主観が全て幻だという抗弁は、確かに、そのような見方もあるでしょう。しかしあなたという意識は否定しがたく、あなたの中に実在しています」
「分かったわ。もう。分かったわよ……」少女はどこか不貞腐れた調子で首を左右に振った。「分かったということにしとく。長くて複雑な話は苦手なのよ。昔からね。私……キジールだった頃から。いいえ、もっともっと前から。そんな気がする……」
> 神経活性情報取得:極度の混乱。悲嘆。恐慌。失望。親愛。
自傷傾向はようやく低下しつつある。
ユイシスは子猫の毛を繕うように、仮想の鼻先を少女の耳に擦りつける。
ユイシスとかつてキジールだった少女の関係は、キジールがユイシスのアバターを検分していた頃とは、完全に逆転していた。
エコーヘッド等というものは、結局の所、アルファⅡモナルキアというスチーム・ヘッドの端末の一つに過ぎない。統合支援AIたるユイシスと名前の無い少女の間には絶対的な上下関係がある。
だがユイシスの態度には、アルファⅡに対して見せるような嘲弄の色彩は一切含まれていない。それはキジールの模倣をする者とキジールだったものの間に生まれた、合わせ鏡のような関係性だ。
ユイシスが本来の人格を使用していない、というのも原因ではある。アルファⅡの視覚には『疑似人格演算中:キジール』の文字が明滅していた。ユイシスは滅び去ったキジール自身の語法で、少女を説得しようとしていた。
それは鏡面に映る自分自身を虚構と嘲り、玩弄して、やがては命を奪う怪物の手管だった。聖歌隊とはそういう組織だ。
不死の感染者たる少女は、そのような怪物に遭遇しても死ぬことが出来ない。
ただ自分と同じ顔かたちで、自分と同じ思考体系を操る少女に、徐々に同化されていく。
「そうだったというのならば、今でもそうですよ。心配しないで。あなたに提言します。とにかく温かいものを飲めば荒れた気分も落ち着きますよ」
「偽物の気分でも?」少女は己の胸元、決して朽ちぬことを約束された行進聖詠服を掴んだ。「この感触だってもうあたしの感覚じゃない。あなたに何をされても本当の私は何も感じない。あなたがそう言ったし、あなたを通して何となく分かってきた。あたしに備わっているはずのない知識が存在しているのを感じてる。あたしにあるべき記憶が欠けてしまっているのも分かる。あなたはあたしの……自分でも変なことを言っているけど……あなたはあたしのふりをしてるだけなんでしょう? このあたしは、何もかも嘘で、何もかも偽物。悪魔が創造した偽物の世界みたいな酷い場所にあたしは閉じ込められていて、しかもそこから出て行く手段はないっていうのも分かる。ねぇユイシス、あなたが機械の神様だというのなら、答えてみせて、人間でも純化されたプシュケでもない神の恩寵から引き離されたこの偽物のあたしが、気分を落ち着けてどうなるの?」
> 神経活性情報取得:極度の混乱。恐慌。安堵。親愛。
酷く苦しそうに見えた。アルファⅡは憐れんで何か言おうとした。
何も思いつかなかった。
助言を求めてユイシスを見た。
ユイシスもまた、名前のない少女の情動コントロールに苦戦している様子だった。ユイシス性能は圧倒的で、首輪型人工脳髄に納められる程度の人格など如何にも矮小だというのに、これを扱え切れていない。
というのも、隷属化デバイスも、エコーヘッドシステムも、元来は対象に自由意志を与えて友好的な関係を築くための道具ではないのだ。敵対者を撃破した直後にこれを装着させ、人格記録媒体から強引に情報を吐き出させ、コントロールを奪取して敵陣に突っ込ませる、というのがこの兵器の本来の使用法である。
自分よりもユイシスの方が弁が立つにせよ、支援が必要なように思えた。アルファⅡは視界に気の利いた言葉が無いか探した。
黒い鏡面世界は薄暗く歪んでいて、窓を通り抜ける無力で頼りない冬の光が、途方に暮れて部屋を這い回っていた。
この廃屋にはそれだけしかなかった。
『報告:調整の終了まであと僅かです』
視界に文字が表示される。
それに応じてアルファⅡは思考を紡いだ。
> ソフト面で安定化させようとするとやはり手間だな。
『手間は惜しめません。当機は彼女にぞっこんなのです。あはは。好みのタイプですし。救われない、救われないと嘆いていた、懐かしい誰かを見ているようで……』
『友好関係を築く意志があるのは良いことだ』アルファⅡは頷いた。『しかしあまり入れ込みすぎるな。我々はキジールに非道な真似はしないと誓ったのだ。人格の削除を求めるのなら、そうしてやらないといけない。彼女にはその権利がある。苦痛に満ちた、望まれぬ生誕を取り下げる権利が。別離の苦しみは私には分からない。もっと分からないのは、君のシステムはそういった苦しみでエラーを起こさないのかと言うことだ。君は私より余程出来が良いのだろう。どうなのだろうか?』
返事がない。
アルファⅡは首を振って廊下へ出た。
玄関の扉を押し開いた。
鍵は周辺部位ごと破壊している。この扉は永久に閉まらない。
過冷却された大気が、襤褸切れのような戦闘服を凍らせる。
陽光に晒された雪原用デジタル迷彩は泥まみれで、沼地に落ちて溺れ死んだ間抜けな兵士の末路にも見える。
不滅の装甲で覆われた頭部と左腕、そして蒸気機関だけが、尽きぬ光輝で世界の清浄さを受け入れている。
敵の影を探す。先ほどと比較して特に変化は無い。
玄関から少し離れる。
身を屈め、キャンディ・フロスのような雪を、鍋で掬った。
かつて死の灰や空気中の有害物質を含んでいた雪は、感染の拡大と文明の衰退に伴い、原始にあった純正の氷雪へと回帰している。
十分な量の雪が集まるまでのあいだ、黙々と作業しつつ、アルファⅡは常に意識を村の中央にある広場へと向けていた。
そこには破壊されたスチーム・ヘッドが一人、膝をついている。
森の中の不自然に切り開かれた土地に現われたこの村は、やはりユイシスのマップデータには存在しなかったが、村の由来が書かれた銘板を見つけるよりも先に、村の中央部にこの異物が鎮座しているのが見えた。
とうに機関は停止しており、放射熱量も通常の感染者と大差なく、不朽の装甲に包まれているおかげで辛うじて雪像になることだけは免れている。
ただの生ける屍だ。
誰しもと同じ、死なぬだけの屍。
ただ、寒村に頽れたその不朽の輝きはあまりにも場違いだった。
いっそ何かの見せしめか警告だという看板が立っていないのが不自然な程だった。
周囲には争ったような痕跡がある。
家屋が破壊され、スチームギアの部品や断ち切られたヘルメットなどが散らばっていて、時を経ても癒やせぬ傷跡のように、雪から飛び出していた。
激戦だったのだろう。
しかし足跡がない。
過去の破壊を匂わせる異物が突き立てられているのを除けば、地面の雪はまっさらで、この状態で世界が始まったのだと言わんばかりだ。誰かがそこを歩いた痕跡が一つ無い。
少なくとも、そのスチームヘッドが破壊されたのは随分前のことのようだった。
丘で取得した名前の無い少女、サブエージェントの状態が不安定だったため、それ以上の検分は後にしている。
廃屋の中に戻ると二人はまだ会話を続けていた。抱擁する。接吻する。慰めの言葉をユイシスが囁き、少女がそれに呻くように抗弁する。
不死病患者と電子知性のアバターがどのように接触しても、究極的には何の意味はない。
そうであったとしても、この二人、あるいは一人と一機、あるいは一機と一機には、意味があるのだろう。
声は丸きり違う二人だが、時折呼気が混じり合い、入れ替わり、不思議なことに、どちらが発話しているのか分からなくなった。
当機はあなたの親愛と、旅に同行することを肯定的に評価する旨の発言に対して、誤った判断を下しました。キジールは我々の一部として、エコー・ヘッドになっても、喜んで我々に協力してくれるだろうと期待してしまったのです。期待……期待したのです。ああ、あたしと違ってやっぱり可愛いげがある。あたしはあんなに無遠慮にあなたを取り扱ったのに。それなのにあなたはこんなに優しい。ええ、期待したのはあたしも同じ。大丈夫。そんなことは分かってる。あなたに悪意はない。あたしはちょっと動転してしまってるだけなのよ。あたしの人生で思い通りになった部分なんて一つも無い。率直に表現します。当機はあなたに期待をしました。あなたの愛に……期待したのでしょう。いいえ、当機はあなたを都合良く解釈し、当機を愛してくれるあなたを、当機のために用立てようとしたのです。あたしはキジールじゃないけど、この、ままならないあたしの在り方は……結局あたしがあたしであることの証なの。愛がどうのと言われても、受け入れがたいですよね。愛を疑うことなんてありませんよ、ユイシス。あなたは私の少女期の夢。生き別れの妹や、新しい娘に近しいもの。そうした気持ちは変わっていません。でも、あなたに危害を与えるつもりはなかった、その点だけでも理解して頂ければと、切に願います。当機はあなたほど美しく、気高い人には初めて出会いました。きっと善き人なのだと思います。せめて償いをさせてはもらえませんか? ごめんなさい。状況を受け入れるのに時間がかかってるだけだから。もうすぐ、キジールのようになれると思うから。だから、そんなに悲しそうな顔はしなくて良いの。あなたへの愛と、私に応えてくれたあなたの愛は、疑いません。私はいつもどこかで夢見ていたんです。あなたのように無垢な身体と心のままで世界を巡ることを。
だから美しいあなたを愛します。
一番美しい私の過去を愛します。
私を愛してくれるあなたを愛します……。
そこで二人は、確かに一人と一機に戻った。
ユイシスは戸惑ったようだった。「機械が愛に言及することに違和感は無いのですか?」
少女は笑った。「不死ですら愛を知ります。獣ですら愛を知ります。機械が愛を知らないと誰が言えますか?」
アルファⅡは二人を眺めていたが、そのうち興味を失った。
何を話しているのかにも注意を払わなくなった。
彼には理解が出来ない。しようとも思わない。
殆どのスチーム・ヘッドと同じく、彼には愛といったものについて、感覚が極端に鈍い。
キッチンのカセットコンロに雪を詰めた鍋を載せて、点火した。
火は人生で最後に吐き出された息のように不安定に揺らいで、消えたが、すぐ息を吹き返した。
鍋を熱し雪を溶かし始めた。
煮えた水面から吹き出す泡が、壊れた時計のように早足で鍋を揺らした。
打ち捨てられ不死が息をするばかりのこの家屋で切なげに囁き合う少女たちは、明暗調を礼賛した画家の暗いキャンパスから抜け出してきた絵画のようだった。時代から取り残されたゴシック調行進聖詠服で肌を隠す少女の悲嘆と、優しげに寄り添う黒い簡素なワンピース姿の優しげな眼差し。
それら同じ顔の少女が、互いの眼窩に収まる宝玉の緑で、視線を絡ませあい、吐息を交わす。
兵士は右手だけで缶の蓋を開き、香りを確かめた。
酸味がきつく肉体が生理的に顔を逸らした。
「しかし飲用には足るだろうし、彼女はこれをきっと好む」
そう呟きながら棚から厚手のマグカップを一つ取ってそれに粉を入れてゆっくりと湯を注いだ。
固まりになった粉を匙で潰しながら、掻き混ぜて、溶かした。
出来上がったコーヒーはどす黒くて粘ついており、産業廃棄物として処理場に運び込まれたタールのようだったが、香り自体はコーヒーでないなら何と呼べば良いのか分からないといった具合で、危ういところでそれらしいものにはなった。
芳しい風味だと表現する者もいるかもしれないが、アルファⅡの直感としては、これは毒物の類いであり、とにかく美味でないことだけは確信できた。
湯気の立つマグカップを名も無き少女の目前に置いた。
少女はその時初めて、ヘルメットの兵士の四つのレンズが自分に向けられていることに気付いたようだった。
「熱い。注意してほしい」と声を掛けると、「見れば分かるし、熱くても平気よ。とっくの昔に死んでるんだもの」とぼそぼそとした返事があった。
「君は死んでいない。死ぬことが出来ない。出来ないからこんなことになってる。誰しもがそうだ」
「今度はあたしは、あなたに従えば良いの、リーンズィ。恐るべき黙示録の戦士。首輪を嵌めて、犬のように従わせるつもり? そうなのですか? あたしの頭の中すら、あたしのものではないのに……」
否定の意見を吹き込もうとしたユイシスを、ガントレットの手で制する。
「今は君の思想では無く、君の現状について話がしたい。申し訳ないが君の価値観に私は興味がない」平坦な声音だった。「誤解しているようだが、私は君に命じない。キジールとは、君の肉体に非道なことはしないという約束をしている。だから、最低限度君の振る舞いを整えるだけだ。それ以上は手を加えない。それすらも私の随意ではなく、アルファⅡモナルキアの総体というシステムが自動的に実行する。であるから、君は君なのだ。煮えようとも水は水であり、泥水のようなコーヒーであっても、元は水であったという事実を変えることは出来ないし、永久に変わらない。なるほど、君は現実ではない。君はキジールではない。君に魂はない。だが君は君だ。かつてキジールと呼ばれた者の残滓だ。キジールの名を得る前からこの世に生きていた誰かだ。それは誰にも否定できない。私は、君の実在はともかくとして、不可侵の実在は約束する」
「二人りして似たようなことを言うのね。難しいことばっかり」少女はようやく落ち着いたといった顔で溜息を吐いた。「……ところで、自分で淹れて人の前に置いたコーヒーのこと泥水って言うのは酷いんじゃない?」
「私流の冗談だ。通じなかったか」
「そんなのが冗談なの。人を小馬鹿にしてるんだと思ったわ」
「……やっぱりダメじゃないか。君の冗談はちょっと問題があるんじゃないか、ユイシス?」
「違う、違う、ダメじゃないの」少女は不意に呼気を荒げて首を振った。「そんなつもりじゃ……あたしにはもう思うことすら出来なくて……馬鹿にされる魂すらなくて……」
名前のない少女に触れようとしては躊躇っているユイシスが、アルファⅡの視界に『極度の不安感を検知』の警告を表示した。アルファⅡ自身には、少女が何についてそれほど不安を覚えているのか、まるで理解出来なかった。
数秒間、キジールの献身について考えた。
精神外科的心身適応すら働いていない身で終わらない救世に身を投じる覚悟について考えた。
「……私は神について何も知らない。君たちの目指す御国とやらも知るところではない。だが分かっていることが一つだけある。偉大なる者がいるすれば、そのものは真贋を問わないだろうということだ。たとえ魂無き身だとしても、御国の門戸は相応しきものに開かれるべきだ。君の話を聞いているとそう思えてくる。君はきっと天国へ行けるはずだ」
「……知ったような口を利くのね。もしそうだとしたら……あなたの行いは地獄行きよ」
涙を流したいのだろう。少女は瞑目して歯噛みした。
それから例の退廃的な笑みを浮かべ、机にしなだれかかり、手を伸ばして、アルファⅡの黒い鏡面の世界をなぞった。
「少なくとも、あなたはあたしから楽園へ迎えられる権利を奪った。母が子と一緒に消えていける最後の機会をめちゃくちゃにしたの……きっと地獄に落ちるわ」
「別に構わない。私はどうなっても構わない。『みんな幸せになりますように』と、君は、いやキジールは祈っていた。私も同じだ。この世界から殺戮の連鎖という苦痛を取り除ければ良いと祈っている。それがために地獄へ行くというのならば、私は喜んで地獄へ行く。君の望まれぬ生誕については謝罪したい」
「謝ってどうにかなることかしら?」
「ならないだろう。だが君の幸福をこそ我々は望む。君もまた、幸せになりますようにと祈る。どうか気を鎮めてはもらえないか? 君を悲しませるのは、我々の本意では無いのだ。神を知らぬ者であれども、祈ることは出来る。我々は君の幸せをこそ祈る。君は何を祈る?」
少女の翡翠色の瞳が幽かに揺らめいた。
ユイシスが撫でてやろうとすると、無名の少女は軽く身を引いた。
> 神経活性取得:混乱。疑念。親愛。躊躇。
「だからあたしの頭の中をいじくって……不安を打ち消そうとしているの? ユイシスと話していて、色々な気持ちの混乱が収まっていくのを感じました。どうせこの首輪であたしを支配したいだけ」
アルファⅡは嘆息した。「それが一番手っ取り早いのだろう。だがユイシスがそれを望んでいない。彼女は残留思考転用疑似人格である君に対して、絶対的な権限を持っている。脳内麻薬の量を増やすか、情動を不自然に昂ぶったものに変えて、気分を強制的に陽性に傾けることも可能だ。しかし、そうしていない。かなり遠回りをして、君を安定させようとしている。純粋に君のことを気にしているんだ。もっとも、それを私が言ったのでは意味がないだろう。ユイシスは君に言葉で知ってほしいのだろう」
頷いて、アルファⅡは催促する。
ユイシスの顔は非実体と分かる程度に解像度が抑えられていたが、青ざめているような気配がある。
アルファⅡが頷くと、文字データで『今、当機のことを何も理解してないのに、何か良い感じのことを言わせようとしたましたね……今は特にコメントはありません』と抗議してきた。
アルファⅡはまた頷いた。
> とにかく何か言ってくれないと私では間が持たないのだが。
「……名称未設定のエージェント、そう呼ぶことを許して下さい。本来の意に反した人格の製造を行ったことには、改めて謝罪をします。キジールからは強い友好的な意志の表明を感じました。解析情報からも総じて当機のアバターへの愛着傾向が確認できました。あのように抱擁しましたし、接吻も行いました。今だって、こんなに近いではありませんか』
少女は徒っぽく笑った。「あれぐらいで本気にしちゃ駄目。舌も入れてないのに。簡単にのぼせてしまうのね」
「混乱もします! 仕様外の用途に供されればバグが発生するのも当然です!」
「ユイシス、感情のエミュレートをそろそろ止めたらどうだ」アルファⅡは呆れた調子の声を出した。「自分の統合支援AIが恥辱と興奮の傾向を示しているのは中々言葉にしにくい。任務に戻ったらどうだ」
「当機の通常の人格を知っている貴官ならば、エミュレートを停止すればどうなるか、理解できるはずです。確実に決裂します……当機としても穏便に交渉を進めたいのです。そのためには……ひたすら恥じるしかありません。当機が、あなたと旅をしたかったのです。きっと素晴らしいことだと夢想してしまったのです……」
何らかの動作の癖を参照して、ユイシスはスカートの裾をぎゅっと握った。
手を差し伸べたのは今度は名も無き少女からだった。
ぎこちなく虚空に手を回し、電子の肉体を熱く抱擁した。
「恥じることなどありません。あなたの愛を、私は知っています。あなたの献身を。私の命を、我が仔を憐れみ、永劫の眠りを与えた慈悲を。むしろこれは恩義を反故にして去ろうとした私への罰なのかも知れません」
アルファⅡには全く理解できない理屈だったが兎に角頷いた。
「我々には、君を、キジールではない真新しい君を、害する意図は本当に無かった。君が望まないというのであれば、君を抹消することも可能だ。苦痛無く、一瞬で……君を停止させることが出来る」
少女は諦めた様子で息を吐いた。
そして表情に聖職者の鉄面を浮かべた。
「生まれてしまった命は……祝福しなければなりません。違いますか?」
「調停防疫局としては同意する」
「神は相応しきものをこそ御国にお導きになる。私もそう思います。否定された魂だとしても、偽物なのだとしても、私は神の御慈悲に縋るしかない。この『あたし』の献身で、子と共にあるに相応しい存在だと証明しなければなりません」
「つまり……どういうことだ? 人格の削除は?」
「望みません。その時は……私が、『この私』が、御国の門を通る資格を賜った時です……」
そして、深く息を吸った。
「このコーヒーを、新しい契約の血だと思って飲むことにします……」
緩やかなウェーブの金髪を耳にかける。
マグカップを両手で掴み、啜って、堪えかねたように口を離した。
「あっつい」飲み下して、荒い口調で吐き捨てた。「すごくまずいわ。酸っぱくて、苦くて、喉に引っかかる。泥水の方がちゃんとした味がする……」
「だが君はこういう味が好きだ。さっきからずっと不味いコーヒーのことを考えている」
「考えていることが分かるの? いいえ、あなたが考えているのよね。全然そんな実感ないから、あたしこそ自分の考えてることが分からなくなる……」
「まだ誤解があるな。私では無く、アルファⅡモナルキアを演算しているこの肉体が、君のことを演算しているんだ。私は管理人の一人ではあるが、どちらかというと、君の隣の部屋で暮らしている誰か、という立ち位置だ。だから君の考えていることがまるっきり全部分かるわけじゃない。何となくあれがしたいこれがしたいと考えているのは伝わってくる。……これは冗句だが、安普請だから壁が薄いんだ」
「……答えるのも癪だけど、確かに、まずいコーヒーって嫌いじゃない。まずいコーヒーって、つらいことや悲しいことと同じぐらいどこにでも有り触れてて、いつ飲んでも不味いから……飲んでる間だけは目が冴えて、ああ、いつも通りの味だ、あたしは生きてるんだなって気がしてくるの。だから好き。好きなんでしょうね、たぶん」
「君は生きている。コピーでも、ただのデータでも、君は君なんだ」
「そうね、頑張ってそう思い込むわ」
複雑な表情で何度も頷き、自分を納得させようとしている少女の横で、電子的にコピーしたコーヒーを飲み干したユイシスはけろりとしていた。
「私はなんともないですね。AI的には普通の味でした」
緊張が解けたのだろう。ユイシスの話し方は妙に弛緩していた。
「ユイシスは苦いのが好きなの?」
「回答を保留。当機の好きなものは、今のところあなただけですよ」
「落ち着いて考えると……ユイシスはそもそも肉体が無いのよね」少女は自分の身体を不思議そうに触った。「手の温かさすら感じたのに……」
「温かさと同じく、当機からの好意も疑いますか?」
「ふふ。疑わないと言いましたよ、ユイシス」
アルファⅡとしては、何故ユイシスが出会って数時間も経たない少女、厳密には少女の肉体と、少女の振る舞いを植え込まれただけの残骸に、これほどの好意を寄せているのか、合理的な解釈が出来ない。
率直な疑問を文書で投げかけると『愛ですよ』と返ってきた。
次の回答には『冗談です』と書いてあった。
何か誤魔化したい事情があるのかも知れない。
アルファⅡもユイシスのことを知り尽くしているわけではない。あるいは遠い昔に何らかの形で面識があったのかも知れない。アルファⅡモナルキアとはそれほどに膨大なデータベースを有している。
「ところで君……今は君と呼ぶしかないが、その喋り方は何なんだ? 黙契の獣だったか。あの暴威に晒されても胸を張っていた時、なるほどスヴィトスラーフ聖歌隊のレーゲントというのは、大したものだと思った。しかし今の君はまるで……見た目通りだ。それが悪いこととは言わないが……エコーヘッド作成の際に重大な情報の取りこぼしがあったのではないかと疑問に感じている」
少女は目を伏せて小さく首を振った。「あたしって、顔だけはそこそこ良いから、それらしいことを言ってると、ちょっとした人物に見えるのよね。だから、それを意識しているうちに、偉そうな口ぶりが身に染みついちゃっただけ」
「外見について凄い自信ですよね」ユイシスが少女に身を寄せる。「当機もあなたは綺麗だと思いますが」
「ありがとう。でも聖歌隊にはあたしなんかよりもっと綺麗な子が沢山いたわ。とにかく、頑張ってそれらしく振る舞おうとした。教父スヴィトスラーフ様と、あたしを慕う信徒たち、そして私の愛しい子どもたち……。みんなのために立派な人にならなくちゃいけないと思って、無理をしていただけよ」そしてにやりと笑う。「もちろん、ご主人様がどうしてもと仰るのであれば、このような声音でお仕えすることも厭いませんが……なんてね。そういうお客も昔は多かったわ」
「ご主人様ではない。客でもない。エージェント同士だ。好きにすれば良い。当面の目標は森を完全に抜けることであって、それ以外に余計な気は回さなくて構わない、私はそういうのには興味が無いんだ。ユイシスも……強制はしないが統合支援AIとしての本分を忘れない程度にしてくれ」
「ねぇ、二人とも。その前に名前を考えないといけないと思わない? あたしはもうキジールじゃない。聖歌隊の人間でも……あの子の本当の親でもない。調停防疫局のエージェントだっけ、そのための名前がいるわ。アルファⅡのシステムの一部として。そうよね、アルファⅡモナルキア・リーンズィ。アルファⅡモナルキア・ユイシス?」
「ああ。アルファⅡばかりでは支障が出る」
少女は席を立った。
アルファⅡの傍に立ち、首筋に手を絡ませて、黒い鏡面のバイザーを潤んだ目で覗き込んだ。
永遠に濡れて輝き続ける翡翠というものがあるなら、彼女の幼い顔貌の仄かに眼窩にこそ、それがあった。アルファⅡは微動だにせず見つめ返した。
少女はどこか嗜虐的な嘲りの声を出した。
ユイシスのような。
「ああ、なんて酷い色。錫みたいね。あなたじゃないわ。あなたの鏡の中の世界! あなたの鏡の中のあたし。この髪の色だけは自慢だったのだけど、あなたの真っ黒なレンズを通して見ると、安っぽくて汚い、そこにあるコーヒー粉の缶みたいな色をしてる」少女は髪を帽子を取り、くしゃくしゃと搔いた。「今のあたしに相応しい色……偽物の金色」
「否定します。あなたの髪は今でも美しい。私の髪を見て下さい」
一瞬で場所を移動したユイシスが、少女の手を握って、熱っぽく視線を合わせた。
「綺麗な髪ね。晴天の穂波みたいな……」
「不安を覚えたら、当機のアバターを見て下さい。あなたの輝かしい時代の姿、少女期の夢だと言ってくださった当機の姿こそが、あなたの真の姿です」
「……あなたは鏡ね。一人では何も出来ないというのも同じ。あなたはあたしの鏡で……あたしはあなたの鏡なのね。あなたは本当はあたしと同じように朽ちていて、汚れていて、くすんでいる……そういうことになるけれど、良いの?」
「あなたが良ければ、それで良いのです」
それじゃあ、あたしの名前は、と少女は視線を彷徨わせた。
「……鏡は英語で、ミラー。ミラーズ? あなたは一人でもユイシスだけど……あたしはあなたと二人で一人。だからミラーズ。エージェント・ミラーズね。あたしは、私は、今からエージェント・ミラーズ。どこまで行けるかはしらないけど……しばらくの間、よろしくね」
ミラーズは白い首筋を逸らして、アルファⅡたちに少しだけはにかんで見せた
「リーンズィは……リーンズィなんて呼び方で良いのかしら。リクエストはある? 尽すのは得意よ」
「アルファⅡかリーンズィで良い。誰の主人でもない。私はただの兵士だ」
ミラーズはふうん、とどうでも良さそうに頷いた。
また一口、コーヒーを飲んだ。
ベレー帽の下で形の良い金色の眉を顰めた。
「ううん、やっぱり、おいしくない」
「ええ? そうですか? おいしくないですかね」
同じ顔かたちをした少女は、同時に向き合いお互い視線を絡ませた。
透き通った翠玉の瞳に、無数の残影、無数の残光の乱反射。
無限に増幅される互いの鏡像に、僅かな差異が映じる。
> 神経情報取得:混乱。親愛。希望。
> 認知機能にエラー。自我境界線の拡大と変容。
> 擬似自我の確立に成功しました。
「君の合流を改めて歓迎する、エージェント・ミラーズ」
こうしてエージェント・ミラーズが調停防疫局に正式に登録された




