S2-12-11 たのしいまいにち② 来訪のストレンジャー
他のスチーム・ヘッドたちが廊下の鎧戸を上げようとしていたので、リーンズィは彼らの手伝いをした。酷く怯えながらこの廊下を通り抜けたのが遠い昔のことのように思えた。
そうしながら空を見た。
光を取り戻した天上。遙かな高度で雲が渦を巻いていた。得体の知れぬ何か大きなものがのたうっている。世界というのは、その巨大な存在が今際の際に見ている夢なのかも、と彼女は想像した。
部屋に戻ると、ベッドの上で金色の髪の小さな天使が身繕いをしている。
ショーツも身につけぬ状態で、染み一つ無い裸体を晒して、プラスチック製の櫛で、黄昏の穂波、つばさのような和毛の、長い金色の髪を梳かしている。絵画の世界から抜け出してきた幻想的な恋乙女。その起源は清廉にこそある。退廃と純潔の境界者。あどけない矮躯の少女型のスチーム・ヘッドは、名をミラーズと言った。彼女の目前には、同じく天使のような美貌の少女が、無防備な姿で腰掛けている。形の無い鏡がそこにあるかのようであり、そしてそれこそが彼女の本性であった。ミラーズを元に作られた化身、演算された幻影となることを企んだ統合支援AI、ユイシスだ。
ミラーズとユイシスは、静かに見つめ合っていた。偽りの鏡、あり得なかった未来の影と向かい合っている。リーンズィは思わず息を潜め、翠玉の瞳に、その倒錯した光景を取り込んだ。ユイシスに可能なのは、物理演算によって相手に接触の錯覚をもたらすことぐらいだが、当事者間ではそれは現実に起きていることに等しい。鏡越しの二人にとって、互いの感触が、互いの幸福である。満ち足りた二人の姿に、リーンズィは感じいる。ベッドの上に尻をつき、二人は寸分の違いも無い肌を探り合う。一部の乱れも無く同時に触れあう。現実には決して重なることの無い虚。真っ直ぐに握り合う手のひらで、祈りの掌を形作る。
鏡合わせの二人の乙女。全く同じ貌、全く異なる性質、ミラーズとユイシスはベッドの上で見つめ合い、互いだけを世界の全てとして、その輝ける瞳の中に、己らの鏡像を収めている。互いを幻と知りながらも愛を囁き合い、身繕いを続ける。
と、二人は同時に、四つの視線をリーンズィへ注いだ。千金に値する翠玉の瞳。リーンズィの瞳よりも透き通る深淵の淀み。
彼女たちはようやく主の帰還に気付いた。単に後回しにしていただけかもしれない。
仕草まで完全にトレースされているはずなのに、二人の表情には差異が出る。
優しげで、それでいてどこか薄暗い色気のある微笑を浮かべるのは、いつでもミラーズだ。
「おかえりなさい、私たちのリーンズィ。レア様は如何でしたか?」
「うん。かなり調子が良さそうだった」
一方のユイシスは、他者を慮るようでいて、しかしどこかで決定的に人を馬鹿にしたような笑みを口の端に浮かべる。
『警告。エージェント・リーンズィにはアリス・レッドアイ・ウンドワートの匂いが染みついています』
自分を触るミラーズの動作を真似しながら、ユイシスは肉声に寄せた呆れ声を放ってきた。
あまりにも直截な表現だったのでリーンズィはたじろいだ。
確かに、語らう途中で何度レアを抱擁したか、覚えてないほどだ。
あちこちから彼女の香りがしているのも道理である。
『対策を怠ることは、レアの不利益に繋がります。匂いに敏感なスチーム・ヘッドならウンドワートの正体がレアであると看破する可能性があるのです。露見のリスクを減らすためにも貴官には倍旧の注意が必要です』
「うん……反省する……」
リーンズィが項垂れて話を聞いている間にも、部屋の隅に家財道具のように積まれた蒸気甲冑一式、彼女たち『アルファⅡモナルキア』の、その本体からはユイシスからの注意メッセージが秒速100通の速度で届けられている。リーンズィは秒速99通のごめんなさいメールを送ったが、謝る相手が違うというメッセージを追加で100通届けられて、敗北した。
「そんな風に言ってはいけないと思うのです、私のユイシス」ミラーズが己の鏡像を柔らかく諌める。「想うのですが、リーンズィは敢えて匂いを消していないのではないですか。愛しい人の香りを身に纏いたいと願うのは自然なことなのですから。貴い人はこう仰いました、『諸人は等しい。永久を生きるとも、無辺に落ちるとも、神の前に求めるのはかぐわしい救世主のかおりなのだ』と。只人の祈りは香りの歴史だと言っても過言ではあったりなかったりなのでした」
リーンズィは実はそうなのだ、と胸を張ったが、そんな事実は無かった。
『一理あるかもしれません。無意識のレベルで彼女の芳香を纏いたいと願っていた可能性は否定出来ません。しかし、ミラーズへ進言します。甘やかしすぎではありませんか? 砂漠のサボテンも僅かな水でこそ肉厚に育つのです。恵みの雨を注ぐばかりではいずれ根腐れも起こすものかと』
「む。ユイシスは酷い、私はサボテンなどではないというのに。どちらか言えばユイシスの言葉の方がいつでもチクチクするしサボテンに近い」
「きっと愛情表現ですよ」
『警告。愛情表現ではないです』仮想の乙女は憮然としていた。『プロの統合支援AIなので、純粋に心配をしているのです』
優しいミラーズ。厳しいユイシス。稼動時間が短く、経験の少ないリーンズィのことを、真剣に考えてくれている。時には、というかほぼ毎日ダメ出しが入るが、リーンズィはこの時間が好きだった。三人でそっと触れあうような、柔らかな遣り取りを愛していた。
そのように思考を傾向付けられていた。
朝の談笑を楽しんでいる間にも、三機の間では情報の共有化や意識の摺り合わせ、齟齬の解消、部分的な人格の結合などが密かに進行している。リーンズィがレアと過ごした一夜は、全てユイシスやミラーズの知るところであるし、逆もまた然りだ。何を思って何を感じたのかまで全て吸い上げられ、共有化される。
しかしその事実を彼女らは自覚しない。
アルファⅡモナルキアとは、そのような一群である。個にして全、全にして個。なのに決定的に分断されている。四つのレンズを持つ異形のヘルメット、そして奇怪な意匠のガントレットによって繋がれた自由な囚人たち。
だが、愛はそこにあるのだろう。
コート掛けから行進聖詠服を取って渡すと、ミラーズは「ありがとうございます」と花のように微笑んだ。勲章の類に似た装飾がじゃらじゃらと取り付けられた不滅である以外には何の機能も無い衣服を身に纏った。
一見して貞淑な衣服だが、正常な点は一つも無い。金色の髪をした天使は、胸元のベルトの具合や、ぴったりと肌に張り付く布地の張りを確かめる。ベッドにもたれて、つ、と脚を上げてくるのは「ブーツを履かせて欲しい」という合図だ。彼女の装束は、脚を大きく動かしたり、身を屈めたりすることを想定していない。
ライトブラウンの髪の少女は恭しく跪いた。
愛しの天使の脚に接吻し、彼女がくすぐったそうに笑うの見て、それからブーツを履かせた。
「本当に私の世話をするのが上手になりましたね、リーンズィは。これもレア様のおかげね。やはり良き恋人との一日の出会が、一生をも変えるのですね……。さぁ、戯れるのもここまでにしましょう。大事な要件を仰せつかっているのです。重大な任務です」
ミラーズはビシッと人差し指を立てて、それから誰に聞かれて困るわけでもなかろうに、何故か声を小さくした。
「先導隊に混じったり、悪性変異体の沈静化に取り組んだりするのとは、次元の違う依頼です。なんと軍団長ファデル、懲罰担当官コルト両名からの、直々の依頼です……強制力はないっていう触れ込みだけど、ズルいやり方よね。こんなの無視できるわけないじゃない?」
「うん。内容を見る以前の問題だ。あの二人からの依頼なら、もう既にとても断りにくい……」
アルファⅡモナルキアも『一人軍団』、クヌーズオーエ解放軍の幹部の一機だ。一つのユニットで千の兵にも匹敵すると認められた戦力であり、与えられた権限は軍団長ファデルに継ぐ。発言権だけなら殆ど同等と言っても良い。
だが、建前上横並びの権力であっても、司令部を丸ごとバックに付けているファデルには発言力で劣るし、さらにあちらにもコルトとという『一人軍団』がついたのでは、分が悪い。
何よりそれだけ重大なミッションだ、というメタな属性が重い。
内容も確認せずゴミ箱にポイでは懲戒されかねない案件だ。
「あ……そう言えば先ほど耳寄り情報を獲得したのだった。したのだ。したの。なんだか凄い黄金郷のような土地が見つかったらしい!」リーンズィは浮き足だった。「ブランクエリアというのだが……もしかするとその関係の話ではないのかな。ないの?」
「うーん。それは違うかもしれないわ」とミラーズはかつて聖女だったとは思えぬ表情で溜息を零す。「詳しい話は依頼主から聞いた方が良いでしょう」
依頼主? と首をかしげる。
ミラーズは隣の部屋にいるから、と頷いた。
ふと、嫌な予感がした。
人工脳髄の吐き出す論理と肉体の生理的な感触が違和を発している。
リーンズィは一瞬で思考を巡らせ、深層の不可知共有領域までをも無意識に参照する。
そう言えばマルボロは、どうして自分を待ち受けていたのだろう。
煙草なんてものを持って。
あれでいて、時と場合と場所は万全に弁えている男だ。
見せびらかしてきたのは本当に、電子煙草関係の依頼のためだけなのか?
以前にも同じことがあったのを覚えている。
コルトが部屋で待ち受けているのをそれとなく教えてくれたのだ。
だとするならば、今回もーー
己の栗毛と首輪型人工脳髄を落ち着き無く触りながら、少女は恐る恐る、そうではありませんようにと願いながら、寝室の隣、落ち着きのあるリビングとして各種のお気に入りインテリアを揃えつつある生活スペースへと向かった。
通常は玄関入ってすぐにリビングがあるのがこの程度の居室の仕様らしいのだが、解放軍スチーム・ヘッドにとって住居とは時間を潰すための場所であり、基本的に体を横たえるためのベッドしか必要では無い。家具を揃えて定命の人間を真似た生活するというのはある種の趣味で、言ってしまえば余分な要素だ。それ故に寝室とリビングの位置が狂ってしまっている。
果たして、彼女は椅子に座っていた。
あまりにも堂々としていたので昔からここに住んでいたのかと思われるほどだった。
彼女が使っているのはリーンズィがほんの数週間前に家具調達を趣味とする機体にトークンを支払い、調査区域から持ってきてもらった椅子だった。
何か手書きの新聞のようなものを読んでいたが、裏紙に書いてある文字は何一つ判読出来ない。クヌーズオーエから持ち帰られた雑誌かも知れず、あるいは狂える大主教ヴォイニッチの遺した日誌かも知れなかった。
全身をベルトで締め付けたライダースーツの女だ。身の丈はリーンズィにも並ぶほどだ。
一つ目じみた戦闘用ヘルメットは付けておらず、SCAR運用システムも傍にはいない。
全軍のネットワークを監視しているそのスチーム・ヘッド、コルト・スカーレット・ドラグーンは、リーンズィが入室してもすぐには顔を上げなかった。「コルト少尉。何か?」と問いかけるまで、黒い髪が揺れることは無かったし、倦怠と虚無を煮詰めたような両方の瞳が動くことも無かった。
そして、いざ顔を合わせると、得も言われぬ圧力を感じさせる。
悪人では無いと知っていても、その煮詰められたタールのような無感情な瞳に見つめられると、リーンズィは若干萎縮してしまう。顔立ちはレアやマスターと共通。文句の付けようがない美女である。いわゆるTモデル不死病筐体という人造人間をボディとして使っているのだから当然だ。
しかし、それでもあの二人とは完璧に別人だと思わせる静かな威圧感がある。
「やぁ、リーンズィ。お邪魔していたよ」
「お邪魔だ。招待した覚えは無いが」
「招待はされてないね。正式な顧客として入ってきたんだ。折角だから、元大主教という人物のメンテナンスを受けてみたくてね。うん、実に心地よかったよ。昨日の夜からずっとこの部屋にいて、今は彼女が服を着るための時間だと言うから、席を外していたのさ」
「ミラーズのメンテナンスを受けてみたくて……?」リーンズィは俄に不穏な気持ちになった。「つまりミラーズと一晩過ごしたの」
「そう。強盗とかじゃないんだ。ちゃんと戦術ネットワークのフォーラムから申し込んで、相応のトークンを支払って、ここにいるのさ。あまり体験したことが無かったけど、レーゲントに生体脳をハックされるというのは、あんなに心地が良いものなんだね。君が彼女を慕う気持ちがよく分かったよ。今ならミラーズの愛らしさについて君と一晩でも語り合えると思う」
「……君は戦争をしに来たのか?」
「うん? どうしたのかな。私ほど戦争が嫌いなスチーム・ヘッドはいないよ、何故そんなことを聞くのかな? 心拍が乱れているみたいだけど。心なしか顔色も悪く見える。ウンドワートと喧嘩でもしたのかな? 監視していた限りでは君もあの子ととても楽しんでいたように見えたけど」
人の忍耐力の限界を試すかのような発言の連発に、リーンズィは思わずコルトを凝視してしまった。一方でコルトは怯みもしない。非人間的な印象の美貌には、いつもと何ら変わることの無い微笑が浮かんでいる。
「どうしたのかな?」とコルトはまた繰り返した。
今度の問いには些か不思議そうな音が宿っていた。
否、本当に不思議に思っているのだ、このスチーム・ヘッドは。
息を整えて心臓の動きを抑える。
コルトはこういうことを平気でする危険人物なので、あまり気にしてはいけない、と自分に言い聞かせる。自然なことだ。攻撃ではないのだ。あらゆる監視システムや戦術ネットワークは彼女によって検閲されている。レアせんぱいと自分の密会を覗き見していたのも業務であって、趣味では無い。
コルトは裁定者だ。
そして裁定者であるが故に、彼女には悪意が無い。
この底知れぬ佇まいと大量殺戮の権能を持つスチーム・ヘッドは、強権的であるよりももっと深刻に、勝手気ままだった。それは悪意を持つという機能が欠如しているせいだ、とファデルやレアが言っていたのを覚えている。
SCAR運用システムは一射で待ち一つを葬り去る威力を持つ。そんな大量殺戮兵器の運用を任されている人物に、個人的な動機に基づいて他者を害する意識は発生し得ない。むしろ彼女は善意でこそ働く。悪意で動く人物ならジェノサイダル・オルガンを起動したあと罪悪感で狂気に落ちたりはしない。
だが悪意が無いために、自分の言動についての倫理的見当識まで機能まで失っている、というのが大凡の幹部と意見が一致するところだそのおかげでネットワークの検閲のような難しい仕事まで出来るにせよ、対面して話す分には非常に厄介な人物だった。
「いつものこと、いつものこと……」
だから納得するしか無い。本当に、深い理由など一切無く、気の向くままにミラーズのメンテナンスを受けて、そのまま伝令のために居残っているに違いなかった。
そして、善意しかない状態でミラーズを誉めている。信じがたいが、そういうことだ。
そもそも、ミラーズがこの部屋で誰かと過ごすのは、そこまで珍しいことでは無い。
スヴィトスラーフ聖歌隊のレーゲントは、かつてこそテロリストだったが、クヌーズオーエ解放軍では卓抜した生命技術者としての側面を強く重視される。彼女たちの『原初の聖句』は不死病患者を操るが、相手が抵抗しない前提ならばスチーム・ヘッドにも有効だ。それは即ち、彼女たちは例外なくスチーム・ヘッドの精神を機械に頼らず校正する技術を持っているという意味になる。
ミラーズに備わる『原初の聖句』も全盛期ほどの強力ではない。しかし、元大主教としての経験がそれを補ってあまりある。彼女はレーゲントを修復するということに関しては上級レーゲントよりも巧みだった。この特性を活かしたいと考えて、メンテナンスを請け負うようになっていた。
精神機能が混乱してしまったレーゲントが、ほんの一晩の意識の変性を経て、すっかり落ち着いて退出するのだから、本人は機械音痴だが、凄まじいエンジニアである。
だが、レーゲントによるメンテナンスとは、ある程度身体を介した出入力を含むものだ。どんな客人であれ、ミラーズの同居人にして彼女の最も新しい娘であるリーンズィに対して、その辺りのセンシティブな感想をわざわざ述べたりはしない。
残念ながら、コルトにはそういう機微が全く分からないのだ、とリーンズィは内心でコルトを弁護する。
ロジックは理解出来る。コルトもウンドワートと同レベルのワーカー・ホリックで、任務の達成に対して盲目的なところがある。彼女の基準で言えば、ミラーズも解放軍の任務としてスチーム・ヘッドの整備計画に参加しているわけだから、その遂行は常に賞賛されるべきで、つまりコルトはミラーズの仕事ぶりを極めて純粋に讃えているのだ。
そしてリーンズィの精神の動きも大枠でしか理解していない。自分と親しいミラーズを誉められれば嬉しいと、おそらく思い込んでいる。ついでに何でもいいからレアのことも話題に出せば気分が良くなると想定して、このようなことを口走っているのだろう。
「どうかしたのかな」コルトは問いかけを重ねる。自分の首輪型人工脳髄に触れているのは、緊急通信をスタンバイしているというジェスチャーだ。「もしかして、喋れないのかな。修理が必要な案件かい。ヘカトンケイルへの救援が必要なら私の権限で呼びつけても良いよ。必要なら瞬きで合図をしてくれるかな」
コルトはいつでも曖昧に微笑んでいて、物憂げで、真剣だ。今口にしている言葉も、冗談の類では無い。
「不要だ。朝の挨拶を考えていただけだから」そんなことを随分長い間考えていたんだね、という声を聞き流す。「おはよう、コルト。あいさつは大事だ」
「あいさつは大事、か。そうだね、ロングキャットグッドナイトもよく言っていたね。お互い寝ていないのが分かっていたから、朝の挨拶が必要だという意識が足りなかったよ。失礼なことをしてごめんね」コルトは微笑を崩さないまま立ち上がった。「おはよう、リーンズィ。いつもレアのメンテナンスをしてくれてありがとう」
「……それは好意でやっているんだし、それにメンテナンスのためのメンテナンスでもない。結果としてそうなるだけ。仕事みたいに言わないでほしい」
「じゃあレアのことを好きでいてくれてありがとうって言った方が良いかな?」コルトは何食わぬ顔でリーンズィのお気に入りの椅子にまた座った。「君には本当に感謝しているんだ。ウンドワートのメンテナンスは、あの子にも、あの子以外にもリスクが高すぎる。だけど近頃はすっかり落ち着いて、任務のスコアまで上がるぐらいだ。君のおかげで私は彼女の監視レベルを落とすことに成功してる。あれは仕事なんだって言ってくれれば、私の口座から報酬をいくらでも支払っても良いぐらいだ」
「……仕事なんかじゃない。そんなふうに言ってほしくない。私とレアせんぱいは恋人同士なんだから。お喋りも抱擁もそれ以外も、断じて仕事ではない」
「君が思うならそうなんだろうね。声が怖いよ。何か気を悪くしたかな? さて、君も好きなところに座って。色々と話したいことはあるけど今日は君に任せたい仕事を持ってきたんだ」
リーンズィはまたもコルトの顔を凝視してしまった。
自分が座りたいのはその椅子だと言ったものかどうか迷った。
「……少し待ってほしい。今私は自分の心を整理するのに忙しいから」
分かっているつもりでも、コルトとの会話は幼いリーンズィの精神には負担が強かった。リーンズィが自制に演算リソースを割いていると、精神的負荷の高まりを感知したのか、それとも会話を聞いて思うところがあったのか、頭に帽子を乗せたミラーズが顔を出した。
コルトは「君もおはよう、ミラーズ」と、いつもの微笑を、即ち無表情に等しい顔を向けた。
「リーンズィは調子が悪いみたいだ。依頼を取り下げた方が良いかな? 今日一日、君のメンテナンスを受けた方が良いかもしれない。良い機会だから、と思って話を待ってきただけで、日程は多少ずらせるからね」
「えっと……色々とコメントしたいことはあるけど……」ミラーズも言いあぐねた様子だった。「コルト、その椅子はリーンズィがすごく気に入っているの。運び込んだ日なんて一晩そこで過ごしていたぐらい。とりあえずそこから移動することを検討してもらえる? リーンズィは全体的にそういうことが言いたいけどあなたが相手なので、それで困っているんだと思いますよ、懲罰担当官」
「おや、そうなんだね。それは気付かなかったな。嫌な気持ちにさせてごめんね、リーンズィ。教えてくれてありがとう、ミラーズ」
コルトは申し訳なさそうな言葉を、全く普段と変わらない調子で述べながら、椅子から立ち上がった。
「許してくれるかな、リーンズィ。本当に悪いことをしたと思っているよ」
「別に怒ってはいないので、許すこともない……」
「そうなんだね。それじゃあ仕事の話を聞くかい?」
「……分からないのだがコルトはいつもこんな感じだっただろうか……?」
「そんな感じでしたよ、昨晩も同じでした」傍に寄ってきたミラーズが小声で言った。「でもね、慣れれば可愛らしい人ですよ……?」
どう可愛らしいのかリーンズィにはあまり想像が付かなかった。
いっそ割り切ることにした。コルトに話の続きを促した。
「エージェント・ミラーズには一応賛同を貰っているんだけど、同じアルファⅡモナルキアとは言え、意志決定の主体である君に回すべき案件だ。それで報告なんだけど、君が前回の任務で捕縛したスチーム・ヘッド、ブランケット・ストレイシープ、ヒナの矯正プログラムが全工程無事に終了したよ。今後は正式にクヌーズオーエ解放軍の一員だ」
「ケットシー関係の業務?」シィーの娘にしてセーラー服が麗しい、あの恐るべき剣士が視覚野に再生される。「それで、矯正プログラムの効果はあったのか?」
「あはは。あるわけないじゃないか。あんなのでまともになったスチーム・ヘッドなんて見たこと無い。彼女は変わらず元気に、テレビがどうのこうのと、よく分からないことを口走ってるよ」コルトは珍しく可笑しそうだった。「そもそも矯正プログラム自体、手続き上残ってるだけのものだからね。半分拷問、半分思想教育だけど、自己連続性が完成したスチーム・ヘッドの人格って、物凄く強固だからね。物理身体を生半可に一ヶ月や二ヶ月弄くったぐらいでは変わらないものさ。今回は我々クヌーズオーエ解放軍に敵意が無いことを確認し、解放軍内部に更生が完了したことを、いちおう表明したに過ぎないよ。ああ、君が気にするような本格的な人格記録改竄については心配しなくて良い。誓ってやっていないから信じてくれて構わないよ」
「それを聞いて安心した」
もしもケットシーに対し極度に非人道的な行為が加えられていたなら、リーンズィは正式に抗議をするつもりだった。そこはやはり杞憂だったらしい。何故か、信じても良いと思えた。おそらくユイシスやアルファⅡモナルキア総体が電子的な諜報によって実態を正確に把握しているからだが、個人的な感情も関わっている。
コルトは苦手だし怖いのだが、そのいっぽうで、リーンズィはコルトが好きだ。
コルト・スカーレット・ドラグーンに、まともな人間的感情は無い。
だが、任務にはどこまでも忠実だし、人間的では無いにせよ、心はある。
「コルトはそういう部分だけは立派だから尊敬している」
「他の部分についてはどう思ってるのか気になるけど、話を続けるね。それで、次は彼女を今後どう運用するかが問題になるんだけど。意見を聞かせてくれるかな」
「迎撃部隊ではダメなのか? ダメなの?」
「あのポジションは意外と自制心が大事なんだ。彼女は世界観の変容が凄烈すぎる。自分の見せ場って認識したらその通りにしか行動しないから駄目だよ。同様の理由で先導隊で運用するのも難しい」
「いっそ遊撃に使うのはどう。常に目標地点を走り回って情報を収集し、困難な敵は事前に撃破する」
イメージするのはマスターの率いる偵察軍の強化版だ。強そうな気がした。
「戦闘用スチーム・ヘッド一個小隊でも倒せない機体だ。特定の行動をさせなくたって、放っておいても戦果を出すだろう」
「でもね、あの戦闘能力の高さが、そもそもの問題なんだ。比較対象が君やウンドワートぐらいしか成立しないスチーム・ヘッドを、特定の型に嵌めるのも、適当に遊ばせておくのも、あまり都合が良くない。不合理であるばかりか保安上のリスクにもなるよね。本音を言えば『一人軍団』を任せられればそれが一番なんだけど。でもあそこまで度を越して強い、前科ありのスチーム・ヘッドは、さすがに全権を与えて放置というわけにはいかない」
「提言します」ミラーズの舌を借りてユイシスが問いかける。「支援AIのユンカースに任せては如何ですか?」
「彼女は論理的な思考が可能だし、話も通じる。ヒナの異常な世界認識も理解してる。でも彼女の最優先はやっぱりヒナなんだ。従者に主人のコントロールは出来ない」
「ふむむ。じゃあ、違う誰かを上司に据えるのか? どうもそういう流れになっているように見える。彼女と話を合わせたり、命令を聞かせたり、突飛な行動に面食らっても平気でいられる人材なら大丈夫だろうけど。あと彼女と同じぐらい強い個人ないし集団ではないといけない……」
やはりマスター・ペーダソスに預けるのが適切なように思えた。
戦闘面での補佐にはケルゲレンたちのグループをつければ、中々良い教育体制が出来るのではないか。
そうした思考に至って、リーンズィは納得を得た。
「ああ……つまり、私にその辺りの調整役を頼みに来たのだな?」
「そうだよ、飲み込みが早いね」
コルトは微笑を崩さず頷いた。
何故か、まるでこれで全てが決着したという口調だった。
ゆるりと腕を伸ばし、グローブを嵌めた右手を差し出してくる。
リーンズィがこれは何の動作だろうと不思議に思っていると、半ば強引に手を掴まれた。
「引き受けてくれるんだね。助かるよ。さすがはアルファⅡモナルキア、あのウンドワートをも籠絡したスチーム・ヘッドだ。ヒナのことも上手く扱ってくれることだろうね」
「引き受け……うん、私の知りうる中で、誰か適切な人材の紹介を……待ってほしい、引き受けるとは?」リーンズィは呆然とした。「え。まさか私が……ケットシーの面倒を見ないといけないのか?!」
「おや、飲み込めてなかったのかな。まぁいいよ、そういうことだから、よろしくね」
「よろしくね、ではなく。何も返事はしていないが」
「だって君は、自分で条件を出した通りの兵士じゃないか。彼女と話を合わせることが出来て、どうにかして命令を聞かせられて、突飛な行動にも対応出来て、あと彼女と比肩する程度に強い。そんなスチーム・ヘッドなら彼女と組める、君の推測は正しい。そしてそんなスチーム・ヘッドはどう考えてもアルファⅡモナルキアしかいないよ」
暴論だった。一面的にはそうであるかもしれないが、ロングキャットグッドナイトの放った<猫の戒め>との戦いで偶然共闘状態になっただけで、ケットシーは決してリーンズィの命令を聞いていたわけではない。共演者だの今シーズンのヒロインだのと言われて一方的に恋人になるなどの謎の宣言をされたりしたが、上下も左右も無く、ケットシーを御するのは不可能に思われた。
「私でもあんなスチーム・ヘッドは手に負えない……一対一なら私は簡単に負ける立場になるのに」
「でも、これは彼女の希望でもあるんだよ。誰の配下になりたいかと聞いたら、まずロングキャットグッドナイトと言われたんだけど、あのレーゲントは公的には存在していないし、意志のある自然現象のような薄気味悪い存在だからね。嵐や地震に部下を持たせるのは不可能だろう? 次に名前が出たのがリズちゃんにミラちゃん、つまり君たちだよ。先の戦闘で実績もあるし、じゃあもうアルファⅡモナルキアの預かりで良いだろう、という結論になるのは自然だね」
「そうかもしれない。でもあまり自信が無い……」
「そうかい? 彼女の話を聞く限りでは、君とは仲が良いんだなという印象だったよ。リーンズィの方は彼女が嫌いなのかな」
「もちろん、嫌いではない」リーンズィは自分の答えに再び呆然としてしまった。嫌いではないと即答してしまったのが意外だった。「えっと……シィーの娘だから恩義があるし、あと可愛い……」
「え、可愛いと思ってたんですか?!」ミラーズがびっくりした声を出した。「苦手なほうかと思っていましたが……いいえ、レーゲントにならないのが勿体ないぐらいの美少女ですけど」
「だって、ミラーズが綺麗だと思うものを、私が綺麗だと思わないはずがない。私は君の影響で生まれたのだ」
「あ、あたしの美的感覚の影響が強すぎるのね……」
「扱いの難しい子だとは思うよ。でも話し合えば分かりあえるかも知れないし」
「では矯正プログラムを通じて分かりあえたか?」リーンズィは真顔で問うた。
「無理だね、あんな世界観、付き合いきれないさ」コルトも真っ平らな微笑で即答した。
「そう、無理だ。コルトは無理難題を押し付けている……」
「今回はお試しみたいなものだから、取り敢えず引き受けてほしい、というのがこちらの本音だね。それで、依頼の内容なんだけど、とりえあず一日だけ彼女に付き合って市街地の調査に出てほしいんだ。デートだよ、デート。リーンズィは彼女とデートの約束をしていたんだろう? 丁度良いと思うけどね」
「デート回は彼女の妄想から出てきた謎の過去で、約束でも現実でもないのだが……」
「そうなの? とにかく、我々としては、誰かの監督下で、彼女がどれだけ落ち着いて動けるか、何もしでかさないでいられるのか、そういう点が観たいだけなんだけど。もちろん、このままずっと面倒を見ろとは言わないよ。今回の結果を材料にして、傾向を見て周知を徹底し、ケットシーの有効な活用法を改めて検討する予定さ」
「うーん、そういうことなら……」
大変な一日になりそうだが、断る理由も無い、とリーンズィは考え始めていた。
言われてみれば戦闘しているときの彼女しか知らないのだし、案外と平和な場所で遊んでいれば、お互い通じるものがあるかも知れない。お互い猫のようなモフモフしたものが好きだというのは分かり始めているし。
「でも先に聞いておきたい。市街地の調査と言うが、具体的にはどこで何をすれば良い? 良いの?」
「ブランクエリアの噂は知っているね。あれは本当に出現してるんだ。まだ応募窓口とかは開設してないけど」
「うん、さっきマルボロから聞いた」
「そうなんだね。それでね、そのブランクエリアに、ブランケット・ストレイシープとその支援機を連れて出向き、適当に探索してきて、という任務なんだ」
「それで……?」
「それだけかな。特に目標とかは無いよ。もしもこの依頼を受けてくれるなら、抽選前に君たちの私略権をあらかじめ確保する。通常レベルでだけどね。後は皆に紛れて一日適当に探索して、欲しいものがあったら持って帰ってくれれば良い」
「それだけ……?」
「それだけだよ?」
「え、じゃあ引き受けたい!」
リーンズィは美味しそうな餌に一瞬で飛びついてしまった。
「待って、リーンズィ。綺麗なものに飛びつくのはあなたの悪い癖よ」ミラーズが溜息をつく。「ねぇコルト、本当は危険があるのではないですか。そうでもなければ適当に他のスチーム・ヘッドに任せても問題無いと思うわよ」
「はっ。確かに……」
別に何か面倒見の良いレーゲントあたりに任せても良いのではないか、と思わないでもない。
原初の聖句に抵抗力があるにせよ、上級レーゲントが三人ぐらい突けば
「危険だよ。だって十何年間も遭遇したスチーム・ヘッドの首を刎ね続けてきた異常な機体だよ?」
「彼女がまた私たちに襲いかかる可能性を危惧している?」
「それは懸念の30%ぐらいだね。残り70%は他のスチーム・ヘッドが彼女を大層危険視するだろうということだよ。下手を打てばどうしようもない迫害が始まるかも知れない。ヒナは気丈だし、独自の認識宇宙で生きてるけど、自分以外全部が敵になるっていう残酷な事態に冷静に対処できる精神構造ではないと技術者たちは見ている。ストレスから遁走するために味方を手に掛けたような供述も本人から聞いてる。つまりね、運用できるか、という論を練る前に、もっと大きな問題があるわけだね。どれだけ皆が彼女を受け入れられるかが読めない。情報を操作したところで限界がある。そして受け入れられなかったとき、ヒナがどう壊れてしまうのかも、やはり分からない」
「……」
「荒療治だけど効果的な計画を立てたつもりだよ。シミュレーションしてくれないかな。まず、現在のエージェント・リーンズィは極めて評価が高い。曲がりなりにもケットシーを下し、リリウムと婚姻し、それなのに、あまり偉そうではない。新参なりにおおむね好かれてるんだ。そんなアルファⅡモナルキアが監視についている状況で、ヒナが大人しくしているなら、同行するスチーム・ヘッドたちも大いに安心するだろうね。それにね、流布させている情報の通り、ブランクエリアの捜索というのはご褒美のお祭りでもあるんだ。優秀な機体しか参加出来ない。そんなところでヒナが普通に一緒に楽しめるなら、その情報が拡散して、皆の彼女への危機感も薄くなるかも知れない。だから一日だけでも良い。ヒナを警戒し、ヒナを戒め、ヒナを守る。それを実行してほしいんだ。こうしたデリケートの性質の作戦を小規模で実行出来るのは、やっぱり君たちアルファⅡモナルキアしかいない。ああ、良い顔しているね。君はどうやら本当にヒナのことが好きらしい。それじゃあ改めて問うよ。引き受けてくれるね?」
君はどうやらヒナのことが好きらしい、ではないぞ、とリーンズィは憎らしく思った。
ヒナのことが好きなのは、コルトの方だ。
コルトは、悪意を持たないスチーム・ヘッドだ。どれだけ言動が危険で恐ろしくても、その根底には善意がある。常に全体の利益を考えていて、なおかつ大事な人のことはどこまでも大事にする。
あまり好きではないような口ぶりだが、おそらくコルトは、ケットシーのことを気に入っているのだ。
さもなければ、勝利と名声だけに囚われ、ひとりぼっちの袋小路でもがいている彼女のことが、己の妹たるウンドワートと重なって見えるのだろう。
詳細を明かされてみれば、考えていたよりも危険で、同時に過保護とも言える計画だ。
軌道に乗るかどうかは読みにくいラインにある。
失敗すれば敵意の矛先はアルファⅡモナルキアにも向きかねないが、別段捌ききれないレベルでも無い。また、全く何事も起こらない可能性も充分にある。
失敗する可能性を限界まで削るために一人軍団をあてがうのは自然だ。ただしそんなことで一人軍団を消費するような真似は避けるべきなので、やりすぎといった感も多少ある。
ミラーズに視線を向けると、どことなく痛ましそうな表情をしていた。
染みついた剣技はケットシーの父たるシィーに由来するもので、それが同情を誘うのか、あるいはレーゲントとしての自我を参照して、ヒナの鎖された過去を想像したのか。
短い時間、外的な圧力に晒されたケットシーがどのような反応を示すか、自分たちはこの任務とどう向き合うべきなのか、無声通信で議論をした。
結論はすぐに出た。
そんなものは最初から決まっていた。
「受諾する」リーンズィは改めてコルトの手を握り返した。「任務では無く支援要請と我々は認識する。我々に任せてほしい」
「ありがとう、君たちなら必ず達成できると信じているよ。ヒナは解放軍の新しい仲間なのだということを、どうか私たちに教えてほしい」
常ならぬ緊張した声音に、リーンズィは取りかかる仕事の重大性を噛みしめた。
この作戦の如何によってケットシーの処遇が丸きり変わるのだから。
「そういうわけだから今からここにヒナを呼ぶね。デートプランでも話し合うと良いよ」
手を離した途端、いつもの無表情な微笑に戻って、コルトはそんなことを言い始めた。
「近くで控えているのか?」
「まさか。まだ安全とは判定出来ないからね、ここから10kmぐらいの地下施設で、手錠や足枷、その他色々付けて収容中だよ。いつでも出発できるように彼女ご自慢の余所行きの服は着させてあげたけどね。今、看守たちに私の権限で命令して、あちこちから拘束用の器具を外してるところさ」
コルトはこの瞬間もヒナの監視を続けていたらしい。交渉しつつ部下に指示まで出していた様子なので大したものだとリーンズィは感心した。
「そうなると、まだ時間が掛かるのだな。出発は皆よりも遅らせるのか? 遅らせるの?」
「その必要は無いよ……拘束を全部解くまでの時間がちょっと手透きだね。もう伝令を使ってしまおうかな。さぁおいで、ストレンジャー」
呼応するように「にゃー」とどこか平坦な音階の鳴き声が聞こえた。
「この鳴き声は……!?」
「ロングキャットグッドナイトから借りている対ブランケット・ストレイシープ用特性量子通信猫……ストレンジャーちゃんだよ」
おいでおいで、とコルトが無の空間に向かって手招きすると、先ほどまで彼女が腰掛けていた椅子の下から特徴の無い灰色の猫がのそのそと現れた。
ライダースーツをよじ登り、されるがままコルトの腕の中に収まる。
「アムネジアの猫ではありませんか! どこにいたの、さっきまで何の気配もありませんでしたよ?」
「世界は50%の確率で猫らしいからね。呼べば意外と出てくるよ」
「出てこないと思う……」リーンズィは真顔で答えた。「しかし量子通信猫とは?」
「猫の持つ量子的な揺らぎを利用して一瞬かつ確実に情報を伝達出来る猫だよ。ロングキャットグッドナイトはもっと違うふわっふわの説明をするだろうけど」
そんなわけがないと思いつつも、リーンズィはもふもふもふもふと猫を楽しみながらの解説するライダースーツの女をじっと見つめた。近付いてもふもふに加わろうとすると「私の借りている猫だからね」と断られた。理不尽だった。
コルトは最初に読んでいた手書き新聞のような紙を猫に咥えさせて、手放す。
するとストレンジャーと呼ばれた猫はスッと着地して、とことこ歩いて寝室の方へ向かった。
リーンズィが興味本位で猫の後を付けていくと、目を離したその一瞬でストレンジャーは消え去っていた。
「猫の人の猫は相変わらず挙動が変だ……」
「さっきの紙は作戦概略を書いた猫用の命令書なんだ。あれを与えるとロングキャットグッドナイトの猫たちはある程度複雑な命令も理解するようになる。教え込んだとおり、君が目を離した瞬間にヒナの所に跳躍したはずだよ」
「じゃあ猫は、言葉が分かるのか? 分かるの?」
「どうなんだろうね。直接確かめたことないから知らないよ。何せ猫とは喋れないからね。あの命令書だってヴォイニッチに頼んで発注した道具だし」
「ヴォイニッチならば猫語が分かる……? というか対立しているのでは?」
「彼女は猫を構築している式が分かるだけだよ。対立しているかどうかは、どうだろうね。私も彼女とは上手く意思疎通が出来てないから、やっぱりそれも知らないね……。よし、猫がヒナのところに行った。後はヒナが猫に運命を感じ、自分の能力を使って何となく展開を確信できればここまですぐだよ」
「普通に通信をすれば良かったのでは? 猫を遣う理由が無いように感じる」
「ケットシーはロングキャットグッドナイトを『猫関係の商標を持ってる先輩』と認識してるんだ。尊敬していると言うことだね。私が何言ってもあんまり信じないしいつもの妄想で適当に解釈されちゃうんだけど、この猫の出現には何か特別に感じるものがあるはず。よし、やっぱり食いついた。収容所を脱走したね。予想通り、正規ルートを使ってない。何だろう、換気ダクトを突っ切ったのかな。損害は3人か。想定内だね。事前に書類と負傷手当を回しておいて良かったよ」
幾つか物騒な単語が聞こえたがリーンズィは聞かなかったことにした。
「窓際に行こう」と促されて移動し、窓を開けて外を見た。
弾丸が弾けるような甲高い音が聞こえていた。
誰かが大口径の銃砲を乱射しているのではないかという音だったが、直観的にそうではないと知れた。
「実を言うとね、私は彼女には少なからず期待をしているのさ」
ヴァローナの瞳は一つの高速接近する影を建築物群の屋上に捕捉している。
その肉体は飛び跳ね、転げ回って疾走し続け、さらにはこの世界から消滅したとしか思えない軌道で瞬間的な移動を繰り返している。彼女にしか許されない究極的加速による移動は、未来を見透すヴァローナの瞳をも振り切ってしまう。
「不死病の本質は人間の願いを叶えてしまうところにある、というのはリーンズィも知っているよね。不死になるのは、この病が人間の死を恐れる本能を優先的に汲み取って、解消してしまうからだと言われている。だけど私はそれには懐疑的なんだ。だって皆『死にたくない』以上のことを願いながら生きていたはずじゃないか。例えば大主教リリウムなんかは良い例だよ。エージェント・ミラーズ。昨夜も聞いたけど、彼女は肉体のそんな単純な欲望に屈するような子だったのかな」
「いいえ、あの子は再誕を迎える前から、世の人々の安寧と幸福を心から祈っていました」
「そうだろうね。リリウムのことは信じていないけど、そこは疑わないよ。なのにどうしてか、叶ったのは原始的な『死にたくない』という欲求だけ。辛うじて人を支配する『原初の聖句』が願いの発露と言えなくも無いけど、理屈が通ってないと思うんだ。これは正しい形で結ばれた願いじゃないと感じてしまう。オーバードライブやケルビムウェポンも実質的に人工脳髄の願望を反映しているだけとするのが定説だけど、そんなのもやっぱり、分かりやすい答えに縋ろうとした結果としか思えないんだ。速くなりたいとかプラズマを出したいとかそんな願いばかり叶うのはおかしい。もっと別の何かに到達する機体だって、いても良いのに……」
「……ケットシーが、それだと言いたいの?」
受け答えしながら、リーンズィは納得し、そして背中に冷たいものを感じ始めていた。
視界内のケットシーの機動能力は異常だ。戦闘を通して実感したつもりでいたが、認識が甘かった。
彼女の仕様では、リーンズィが知るどんな機能も使えないはずなのに、常識的なスチーム・ヘッドの能力を圧倒的に凌駕する速度でこの第二十四番攻略拠点を駆け抜けている。
自分自身に最適な未来を選び取る能力、それを裏打ちする観察眼や第六感だけでは、物理法則を無視しながら色の付いた弾丸となって突き進んでくる少女を説明できない。
一秒なら他のスチーム・ヘッドでも真似できるかも知れない。
だがこの異常な速度を維持するのは不可能だ。
それこそ己の願望を現実にする能力でも持たない限りは。
「まだ、そうとは言えない。色々と試してみないと判断が付かない。ヘカトンケイルたちもそう言っていたよ。……私にはまだ何も見えないけど、リーンズィ、君には見えているんだろうね、彼女のことが。私の感じている期待の正体が」
「彼女は……本当は、自在に願いを叶えることが出来る、真の不死病患者だとでも?」
「かもしれない。ただ走るだけで異常性が出現する。三百倍加速なんてしたら人間は摩擦熱で燃え尽きるはずだから」そしてリーンズィへと視線を注いだ。「そういう意味では君にも期待してるんだ。ロングキャットグッドナイトの使徒との戦いで示された君の機能は、明らかに常軌を逸してる。私は君とケットシーが一緒にいることで示される新しい何かに期待している……」
「何が望みなのだ」リーンズィが尋ねた。
「どうなりたいの?」ミラーズが尋ねた。
「何も望んでないよ。どうもなりたくない。強いて言うなら本物の世界平和を見てみたいね。違うか。私はね、信じたいんだ。信じられるものを一度でも良いから見てみたい。結局それだけなんだろうね……」
不朽結晶製のブーツがアスファルトを削るときの煙でケットシーの接近が完全に判別出来るようになった。
それも殆どの機体には土煙の旋風としか視認出来ないだろう。リーンズィの目にさえコマの飛んだ映像のようにしか映らないのだ。
『勇士の館』の直下に辿り着くや否や、階段を使うこともせず、垂直の壁を、それが当たり前であるとでも言うかのように駆け上り始めた。
リーンズィが慌ててミラーズとコルトを下がらせた。ケットシーが窓を蹴り破って飛び込んでくる未来が見えたからだ。
しかし選ばれた未来は違った。ケットシーの指先が触れた瞬間の衝撃で、奇跡的に窓のロックが外れた。彼女の爪先は奇跡的に正確に窓の外枠にだけに触れ、少女の肢体を宙返りせしめた。
逆さまの世界で、ケットシーは踊り子のように体を捻り、スカートの淵で円を描きながら、奇跡的な精密さで窓を開く。
そして最終的には狙い過たず、何も破壊すること無く、唖然とするリーンズィの目前に着地を果たし、転げながら複雑な身体操作で衝撃を打ち消した。
あの速度で移動していた人間が急に止まれるはずもないのだが、現実に静止した。
虚無を内包した黒い瞳の少女は、死体の如く病的に白い肌に一筋の汗も伝わせていない。加速度によってはためいていた茶色いブレザー、紺色のスカートは重力の存在を思い出し、ゆっくりと降りて、超常的な機動に幕を引いた。
ケットシーは周囲を見渡した。
そして満足げな顔で歌い始めた。
「ちゃらららー! でででっ! ぱーぱー、ぱーぱーぱー! ついに出遭った聖なる白い猫。その仲間たちの助けによって、どこかのいけない撮影所から脱走し、約束の地へと旅立った同志ヒナ・ツジ。長きにわたる休止期間と今後裏サイトに流通予定の過激な映像収録を経て、新シーズンはやっとさらなる局面へ! 悲しいさだめを背負う悪の組織調停防疫局のエージェントたち……永久に続く牢獄に囚われたスチーム・ヘッドたち! 幸せな結婚式を目の当たりにしたヒナは、戦うべき敵が他に存在することを知ったのだった! 世界を滅ぼした大罪人シィーへ迫るためには、猫と和解し、商標権を勝ち取り、ヒロインであるリズちゃんと良い感じに絡んで視聴率を稼がなければ番組が打ち切られてしまう! この過酷溢れる無限の都市で、ヒナは大義を果たし、悪逆と非道の闇に堕ちた父を正義の刃で裁くことは出来るのか?! 頑張れヒナ・ツジ、負けるなヒナ・ツジ、ブランケット・ストレイシープ、公募愛称ケットシー! ぶらり旅の装い、ブレザーエディション! 戦えヒナ・ツジ! 悪を討ち果たすその日まで! 蒸気抜刀、始まりますっ! ちゃらーらららー、でででー。はいアバン終わり」
以前着ていた海兵服とは、装いが違った。茶色い落ち着いた色合いのブレザーは、黙ってさえいれば物静かそうな本来のヒナの顔立ちによく似合っていた。不朽結晶連続体ではなく、準不朽素材で編まれた普通の衣服で、強化外骨格も必要最低限の機能しか無いシンプルなものだ。収容所とやらで装備するのは、これが限界だったのだろう。
率直に言えばレーゲントにすら劣る装備だったが、これであんな出鱈目な機動力を発揮していたことになる。
あのコルトが可能性を感じてしまうのも当然だった。
「リズちゃん久しぶり。デートだって分かってたから私服で来たよ。どう。払い下げの旧装備だけど。似合ってる? これは、お気に入りの服。可愛いと嬉しい。カメラ映りはどうかな。レーゲントの皆は派手だしちょっと地味かな」
先ほどのテンション上がりまくりのセルフナレーションとは全く異なる温度低めの声での早口に、リーンズィは眩暈を覚えたが、ひとまず素直に返答をした。
「すごく可愛い。あ、でも、スカートの下に、若干気になる部分があったが……」
「移動シーンは編集でカットされるから何が写っても大丈夫だよ? 普通は影になってるからアクションシーンでも無い限り中は見えないし」
「そう……」リーンズィはそう……と思った。「あとさっきの口上はいつも必要なのか?」
「あらすじが無いと何があったのかテレビの前の人に状況が分からなくなるもん。地上波に全然出られてなかったし。というわけでミラちゃんも久しぶり。コルトさんはいつもお世話になってます。それで、ヒナに助けを求めたのは誰の設定? というか今回は何をする回? もちろん何でもヒナはやるけど。でも久々に教育番組の収録とかじゃ無いやつなら嬉しい。ああいうのずっと続くと飽きる。旅番組は好き。拘束時間長いけど楽しいし。そうだ、猫に導かれるがままに来ちゃったから台本がほしいかも。誰か持ってない?」
誰も返事をしなかった。
事態を計画したコルトでさえ微妙に複雑そうな顔だった。
リーンズィはこの依頼を引き受けたのが間違いだったのではないかと早くも思い始めていた。
見た目だけなら儚げな、この美しい少女の風貌に認識が引き摺られていた。そのことを痛感する。
ケットシーは比喩で無く常識外れの機体なのだ。
こんな途方もないスチーム・ヘッドを、どう監視して、どう戒め、どう保護しろと言うのだろう。
思えばマルボロも、警告のためではなく、この作戦を受諾させるための、下準備に来ていたのではないか……。
全ては分からないままで、支援要請は受諾してしまった後だ。
とにかくリーンズィはこの娘と今日一日、上手くやらなければならなかった。




