S2-12ー11 たのしいまいにち① いつか煙と消えるもの
暗夜は今や地に降りて、静謐なる朝霧へと変じ、陽の息吹を吹き込まれて輝き、世界のそこかしこに淡い光を運んでいる。夢に浮かぶ薄紫の花弁の如き曙光の先触れ。翠玉の瞳が未だ輪郭の見えぬ太陽を探して光を取り込む。均質な建造物が建ち並ぶ殺風景な典型的クヌーズオーエである第二十四番攻略拠点も、この時間帯だけは、何某か真剣な祈りと奇跡の連鎖によって祝福された遺構であるように思えた。
紫の靄を渡るその大鴉の娘は、白髪の、あどけない息をする、小さな乙女を連れている。俯いて手を握ってくる赤目の少女の香りはかぐわしく、フライトジャケット風のコートで包まれた肩は、彼女の不完全な繊美さを殊更に強調していた。清い光に薄っすらと紅潮した耳元は褥で見るよりもさらに愛らしく見えた。
リーンズィはこの朝を『生涯忘れたくない風景2』のフォルダに入れた。すぐに『生涯忘れたくない風景3』が必要になることだろう。レアの手を引きながら路面に具足を鳴らす。ヴァローナの肉体とレアの肉体とでは歩幅が随分と違うので、リーンズィは己のライトブラウンの髪を時折触れて、逸る心臓を落ち着かせながら、常に愛しい人と速度を合わせる。
リーンズィは幸せだった。潔癖そうな美貌は、一見した印象とは真逆の、柔らかな喜びの微笑を零していた。インバネスコート型の不朽結晶連続体で防護された柔肉、装甲で固定された乳房の奥、頑健な胸骨の内側で、瑞々しい心臓が、温かな血液を勢いよく送り出している。
クヌーズオーエの朝は冷え込むが、全身が火照るような心地だった。マスターの移動販売所でホットチョコレートを飲んだのも影響しているのだろうが、レアせんぱいの傍に居られること以上の防寒は、リーンズィには必要なかった。
ミリタリーコートに顎を埋めているレアは、ふとした拍子にリーンズィの横顔を上目遣いにじっと見つめて、気を引こうとして袖を引く。指と指を熱心に絡ませる。会話は少ない。お互いに求め合っていることを二人は知っている。レアからの何度目かの催促のあと、言葉を交すことも無く同時に足を止めたのは、体温と脈拍が何よりも雄弁に感情を語っていたからだ。
光の粒に鎖された世界で、互いの体温だけを頼りに、二人は寄り添う。
リーンズィはゆっくりと身を屈め、レアはブーツの爪先で己の身を持ち上げる。
静かに唇を合わせ、レアは熱い息を吐いた。
「あは。チョコレートの味がする」頬を朱に染めながら舌をぺろりとした。「やみつきになりそう、なりそうよ、リゼ。美味しいものを飲んだ後だと、キスも美味しくなるのね」
「レアせんぱいとのキスはいつでも甘くて美味しい。レアせんぱいを見ているだけでも胸の中まで甘くなる」
「……耳から変な言葉を流し込まないでよ。頭が熱くなって、溶けてしまうわ」
「これからも沢山蕩けて欲しい」
「酷いわ、酷いわ。ずっと勝ち続ける気でいるだなんて。いつか仕返しをしてやるんだからね」
そしてまた歩き出す。
この第二十四番攻略拠点において、路上での睦言を交わすのは禁止されていたが、二人を見咎めるものはどこにもいない。輝けるベールが世界を選り分けて、慈悲深くも沈黙の帳で彼女たちを隔離していた。
朝霧はいかにも分厚く、自分の足先や手の届く範囲でしか見通せない。殊にクヌーズオーエにおいては、夜明け時の薄闇よりも、そこから本物の朝が来るまでの数時間の方が視界が悪いのだ。
足音が響いても、姿までは見えない。擦れ違うまでそれらは輪郭の曖昧な亡霊で、相手が市民役の不死病患者なのか、朝歩きが趣味のスチーム・ヘッドなのかは判別が付かない。だからここで二人が何をしていようとも、世界には関係の無い話だ。
耳を澄ませば、透き通る空気に、早朝警邏を生業とするレーゲントたちの歌声が微かに聞こえてくる。また、あるところでは、鍛冶職人たちが古い時代に剣を鍛えていたのと同じ音、蒸気機関の駆動音が、どこからか響き始めている。無限に連なる都市を探索し、どこにあるとも知れぬ答えを掴まんとする一団が目覚めつつある。
だが、街が一個の有機的な群体として動き出すにはまだ時間が必要だ。
第二十四番攻略拠点は未だ寝ぼけ眼を擦っていた。
この幸福な微睡みと覚醒の境界。この場所にずっと留まっていたい、とリーンズィは再びレアと唇を重ねる。この時間帯をリーンズィは愛していた。この解れていく夜明けに、色素の薄いアリス・レッドアイ・ウンドワートの繊細で壊れてしまいそうな美貌は、一層冴え渡って見えた。
レアがリーンズィを求めるのと同じぐらいに、リーンズィもレアを求めた。調停防疫局としての身分は大主教リリウムに捧げ、この演算された人格をレアに捧げると誓った後だ。肉体は花嫁であるリリウムとレア、その二人共に対して提供されている。
レアも思うところが無いでも無い様子だったが、それでもこうして愛情を交し合った後、寄り添っている朝の暇には、心から幸せそうに見えた。
覗き込んだレアの赤い瞳は刹那的な欲動を押し殺していて、同じ気持ちなのだと教えてくれた。
レアはリーンズィの住まう勇士の館までは同行しなかった。夜に合流して長い時間を過ごし、朝には分かれるというのが定番のコースだった。ある意味では目覚めて終わる夢に似ていた。違うのはこの時間は昼と夜があるならば、永久に続くと言うことだ。
レア、ウンドワート卿として敬われるこの無敵のスチーム・ヘッドは、リーンズィよりも何倍も重要な存在で、解放軍は彼女が欲望の赴くままに過ごすことを認めない。正確には彼女自身がそれを許せない。
リーンズィは戦術ネットワークからウンドワートの作戦スケジュールを参照したが、いつも通りのハードスケジュールだった。今日も制御を失った野良スチームヘッドや強力な悪性変異体が、数え切れない程の憐れな者どもが、最強のパペットの猛攻によって血飛沫に変わるだろう。
ウンドワート卿の発言権は絶対的だ。クヌーズオーエ解放軍の一人軍団でもずば抜けている。何百もの支援要請を全て突っぱねてしまえるほどの権限がある。
実際、数日間何も仕事をしなくても誰もレアに苦情を入れたりはしないだろう。だがレアは戦い続ける。最強の矜持を保つために、狂気じみた闘争に飛び込み続ける。そうしなければレアは弱い自分を受け入れられない。
リーンズィとしては、そんなレアを心配に思う。アルファⅡウンドワートの蒸気甲冑はクヌーズオーエの最高戦力だ。おそらく、純粋な意味で究極に近い。だがレアの矮躯には負荷が大きすぎる。疲れを慰めるものがいなければ、レアはいつか苦痛に満ちた狂気に飲まれてしまう。
思い人がいなくなってしまう未来を考えただけで、リーンズィはいつでも怖くなってしまう。
そんな不安を見て取ったのか、白髪の麗人はくすりと笑った。
「心配しないで、心配しないで、リゼ後輩。私の任務ってほとんど爆撃機みたいなものだから、見た目ほどハードじゃないんだから」
「爆撃機?」
「そう。お願いを聞いて、殺戮を振りまいたら、離脱して一休み。簡単なお仕事よ」
スチーム・ヘッドが爆撃機のように運用されるという例は聞いたことが無く、だからレアの言葉がリーンズィには不可解だった。
一機で定命者の精鋭部隊を壊滅せしめるのがスチーム・ヘッドだ。そうした超越的な兵士を束ねた、おそらく史上最強の軍団であるクヌーズオーエ解放軍において、尚も特別に強いと目されるウンドワートの普段の狩りを、最も彼女個人に近しいライトブラウンの髪の少女は、知らないのだった。
狼の騎士ベルリオーズや、塔の不滅者ヴェストヴェストとの死闘は目の当たりにしたが、あの辺りは通常のスチーム・ヘッドとは存在の格が違いすぎる。
以前、手違いと言えなくもない衝突でウンドワートと戦闘したこともあるが、そちらでは完全に手加減をされていた。
どちらも正確な戦闘能力を測るには、あまり参考にならない情報だ。機密保持のためにウンドワートの戦闘に関する直接的な映像は公開されておらず、戦術ネットワークでも確かめることが出来ない。
お願いしたら見せてくれるだろうかとぼんやりしていると、レアは悪戯っぽく笑った。
さよならのサインだった。リーンズィは思考を切り替える。
「ねぇねぇ、わたしだけのリゼ後輩。今夜は予定があるかしら?」
「うん。私だけのレアせんぱい、今夜の予定は決まっていない」
「そっか、そっか。わたしだけのリゼ後輩。明日の朝は忙しい?」
「うん。私だけのレアせんぱい。明日の朝は忙しくない」
「そ。じゃあ夕方、いつもの場所に来てくれる?」
この腕の中に。
頷くリーンズィを、白髪の少女は己の胸へと招き寄せる。背伸びしながら、両腕を肩に回してくる。リーンズィは膝を折って彼女と目線を合わせた。レアは満足げに、大切な宝物でも扱うかのようにリーンズィを抱きしめて、恍惚に煌めく瞳を、薄く細め、それから自分の香りを染み込ませるように、深く深く、熱烈に口づけをした。
リーンズィも負けじと、それに応じる。主導権を奪い合い、互いに求め合い、最後にはいつも通り、レアの方が堪えきれなくなった様子で、自分から身を引いた。
「ふふ、今日も私の勝ちだ。レアせんぱい」
「……負けてなんていないんだから。勝負はまだこれからなんだからね。精々、お土産を期待して待ってなさいよね」と拗ねたように囁いて、目を潤ませたレアは虚空に身を翻し、不可視の怪物に飲み込まれたかのように姿を消した。
完全迷彩状態で待機させていたウサギの大鎧、自分のパペットに乗り込んだらしい。
「レアせんぱいのことは、いつでも待っている。大好きな人のことを待つのは当然だ。レアせんぱい、レアせんぱい」
返事が彼女に届いたのかは分からない。
だが名残惜しそうな視線をリーンズィは確かに感じていて、それが心地よくて、くすぐったい。
きらきらとした輝きに満ちた世界で恍惚に浸りながら『勇士の館』まで辿り着くと、館の前で見慣れたスチーム・ヘッドと出くわした。
マルボロだ。クヌーズオーエに辿り着いて以来薄い縁があり、同じ施設で寝泊まりし、市街地の調査任務でも何度か肩を並べたことがある。
特別に交友が深いわけではなかったがリーンズィは何となく親しみを持っていた。
その兵士は薄紫の薄明を浴びながら入口の段差に腰掛けていた。コンリート製の館の巨大な影の下に蹲る彼は、洗礼を受けないまま教会に立ち寄り懺悔をようとして断られそのあと所在なさげに何かが来るのを待っている行き場の無い若者めいていた。
手に電子煙草の筐体を持っており、それを熱心に弄っている。
互いの顔貌がはっきりと分かる距離になると、マルボロは、装甲されていない口元でにやりと笑んだ。喫煙者だとは思えないほど美しい、不死病患者にありがちな真珠色の歯並び。
立ち上がって出迎えてくれる。
「よう。偏屈な老人が噴かす巻煙草の煙みたいな朝だな」
こんなに美しい朝なのに! この人には情緒がないのか? リーンズィはそう思ったが、ぐんぐん成長しているので、これを口に出すのは良くないと気付けた。
「おはようマルボロ。私は良い朝だと思う」などと当たり障りの無い挨拶を一つ。「こんなところで煙草で遊んでいると、またファデルに怒られるのでは?」
「構いやしねぇよ。だいたい、これは不可抗力だ。電灯はバニラアイスみたいに貴重だから、俺みたいな木っ端のところには中々回らん。部屋ん中は基本的に暗いわけだ。そうすると細かい仕事はちょっとでも明るい外でやるのが一番ということになるだろう。だからこんなところで色々とやってんのさ。……ところでこれがよく煙草だと分かったな。モバイルバッテリーか何かみたいに見えると思うが」
「そんなの分かる。その四角いやつは電子煙草だろう」
「ほん、詳しいときたか。もしかして『カートリッジ』を持ってたりしねぇか? よく分からんが香り付きのやつ。電子煙草ってのは電源さえ入るなら永久に吸える煙草だと思ってたんだが、どうもそうじゃないみたいでな。折角直したのにさっぱりだ。どうだ、もしモノがあるんなら、高値で買い取るぜ」
「マルボロは勘違いしている。愛煙家だから知っていたわけではない。その逆だ。煙草は健康の敵だ。そして敵を知れば百戦危うからず。だから私は、電子煙草もやはり、見れば分かるのだった」
片手を軽く上げて『煙草に、ノー』のジェスチャーをする。
「申し訳ないがカートリッジは持っていない。誰も煙草なんて欲しがらないので在庫も持っていない。猫たちもレアせんぱいも煙草を嫌がる。永久に楽しめる煙草なんて無いので夢は諦めて現実に返り、煙草をやめてほしい」
「いやいや、まぁ持っていないのは分かってるよ。……だがそっちも分かってるんだろ?」
「何事も永久に続くわけではない、と言うことを?」
「それはそうだが、違う」マルボロは苦笑いした。「早い話が、仕入れの依頼に来たわけだ。そうでもなきゃウンドワートと逢い引きしたあとを狙ったりしねぇよ。当然、あの偏屈ウサギっ娘ともそういう話もしたんだろ? 今回の山はデカい。しかしいくら功績を立てても俺なんぞは所詮は先導隊の中堅止まりだからな。どっさり収集物のリストを送りつけられて、私物を回収してる余裕なんて無いだろうし……」
「待ってほしい、急に沢山話さないで。……そういう話とは、何のこと? 山、とは? 山登りがあるのか? クヌーズオーエに山が……?」
「ねぇよ。いきなり山が生えてくるわけ無いだろ、面白いやつだな」機嫌が良さそうに喉を鳴らす。「隠さなくたって良いんだぜ。戦術ネットワークは全部例の噂で持ちきりだ。今朝も早くから暖機の音がしてるだろ。時計の見方なんて忘れちまったって連中が、蒸気機関の起動解禁の時間に合わせて、まさしく活動を開始してる。何故かといえば久々の大当たりだからだ。マジになるぐらいの価値がある」
ふむむ、とリーンズィは今朝の記録を精査した。
確かにあんな数の蒸気機関の音が聞こえるのは、この時間帯では稀なことだった。レアせんぱいと一緒に居られるのが嬉しくて丁度良いBGMぐらいにしか感じていなかった。
というのも、クヌーズオーエ解放軍のスチーム・ヘッド、特に攻略拠点で余暇を楽しんでいる機体は、極めて曖昧な時間感覚で生活しているからだ。
生活リズムは人類文化を継承するという点では有意義だが、不死の肉体と成り果てたものにとっては、全く無意味で、猫の髭を揺らす風ほども意義を持たず、大抵の機体は適当な自堕落さに沈んでいるものだ。
彼らは「夜明けと昼間と日暮れと夜」ぐらいしかない非常にざっくりとした世界で生きていて、時計の秒針や分針は壊れている。
西暦の始まりよりもっと前の人間かというレベルだった。
そんなわけだから、非番の兵士たちは日がな一日、適当に過ごす。ベッドの上でゴロゴロしながら映像コンテンツを漫然と流したり、戦術ネットワークで非生産的な電子ゲームに耽ったり、もはや誰を撃ち殺すことも出来ない銃のカスタマイズに専念したり、刹那的な享楽を恋しく思ってレーゲントやそれ以外と永久に実を結ばぬ交流に勤しんだり、音楽喫茶を称揚するただのレコード盤愛好家集会場で何万回も聞いたレコードを繰り返し繰り返し聞いたり、司令所に詰めていつ成果が出るのか分からない無意味な作戦計画立案に精を出したりしている。
誰も彼もが気ままに行動しているように思えるが、共通しているのは、とにかく時間のことなど気にしていないということだ。
騒音規制が解かれる夜明けと同時に蒸気機関に火を入れるというのは、余程の変わり者か、スクランブルがかかっている機体ぐらいだ。
その点を考慮すると、言われてみれば、かなりの異常事態であった。
「まさかこれは……戦争が近いのか?」
ライトブラウンの髪の少女はごくりと喉を鳴らした。
「どこかと戦争をするのか……するの? ヴィオニッチの真意を問うために第百番攻略拠点に殴り込みをかけるという論は見たことがあるが、知らない間にその方向で進んだ?」
マルボロは唖然とした。電子煙草を取り落とす音が鳴った。
「ぶ、物騒な話はやめろ。大主教ヴォイニッチに楯突くなんて冗談じゃねぇ。不滅者の軍勢ってものを分かってないな、やつらと戦うってのは、海に向かって鉄砲を撃つようなもんだ。ただの海じゃない、言っちまえば目標を消し去るまで打ち寄せる地獄の大海嘯さ。あんなやつらと対峙するのはバカのやることだ。だから無駄なんだよ、やる意味が全然無い。……一人軍団ならそれぐらい聞いてるだろ?」
「うーん。ヴォイニッチは離反者だということだし、何となく触れてはいけないのかなと思って詮索しないでいた……でも私は一人軍団だし……どこかで私は知る必要があった……のか?」
「いや……そうだな……割とアンタッチャブルなところはある。いちおう認知機能ロック案件だ、無理に知らんでも、別に良いがよ……いや、今回はそんなのとも、別件だ、別件! 徹頭徹尾、景気の良い話だよ」へへ、とマルボロは笑みを零す。「どうなんだ。ウンドワートと連れだって、マスターとはその辺りの打ち合わせをしてたんだろ」
「うん? 全然話が分からないんだ、マルボロ。嗜好品を味わって終わりだった。鶏肉のスープとホットチョコレートを飲んだ……」首を傾げる。「でもマルボロがそんなことを言うぐらいだから、本当に何かあるの?」
予想外の反応に戸惑ったようだが、兵士はすぐに笑みを浮かべた。
「なるほどなぁ。ピョンピョン卿に負けず劣らず、マスター・ペーダソスのやつ、どうやら新しい妹分に、常識人らしい顔がしたかったようだな」
「私は彼女の妹だったのか? それだと姉がいっぱいだ」
「同じアルファ系列だし姉妹だろ。それに、お前の性格はなんていうか、少なくとも姉っぽいやつじゃあないしな」
「確かにマスターの方が大人だし……私は妹なのか……」
「姉になりたいなら努力だぞ、努力。いつでも強い方がお姉様になるんだ。レーゲント曰くだが。まぁ、ペーダソスのやつは、コンプライアンスを重視して、秘密にしたんだろうな。いじらしいじゃねえか。特別扱いはしません、なんて言われりゃリーンズィは尊敬しちゃうよな」
「そんなことでは尊敬しない」決然として首を振る。「だっていつでもマスターのことを尊敬しているから。料理が上手だし、夜中に戦術ネットワークのよく分からないことを質問しても秒でメールを返してくれるし、あとレアせんぱいに似て顔が可愛い」
「はは。そうかそうか、マスターも裏切れねぇな、こんなウブな娘は。それじゃあ俺が明かしてやろう」
マルボロは拾い上げた電子煙草でリーンズィを指した。
口を開こうとしたそのとき、リーンズィが真顔で「煙草を人に向けてはいけない」と言いながら手の甲で切っ先をズラしたので、微妙な沈黙が流れた。
咳払いして、マルボロは説明を続ける。
「……ペーダソスは公平を期すためにリークしなかったみたいだが、どうも再配置で未変容領域が発生したみたいなんだ。この間の、なんかよく分からん戦闘で派手にぶっ壊れた区画だ。それをあの蒼い炎の怪物が、別のクヌーズオーエと入れ替えたんだな。ケットシーの嬢ちゃんと、あと何だったっけ、よく思い出せねぇけど、あの辺が関わってたやつ」
「なるほど。場所は分かった」
ケットシーが発見され、ロングキャットグッドナイトが<猫の戒め>たちを解放して、ありとあらゆる蹂躙を顕現せしめた場所だろう。
それが上手く理解できていない様子なので、マルボロにもかなり重い認知機能制限が施されているようだ。
「それで、『ブランクエリア』とは?」
「聞いて喜べよ。ブランクエリアは、特異的に平和なクヌーズオーエだよ」
煙草でリーンズィを指そうとして、硬直し、煙草をしまってから指で差した。
それもぺし、と払われてしまい、手厳しいな、と呻いた。
「平和なクヌーズオーエなんて攻略拠点以外には見たことがないが」
「普通はお目にかかれない。急速に失われていくのがブランクエリアだ。元々属していた世界で、避難なり隔離なりが迅速な形で実行された後の市街なんだろうな。今回のはおそらく放棄された直後。無人になって一月も経っていない……。この意味、分かるよな」
「……?」
「鈍いな、欲望が足りて無いんじゃねえか? いいか、『ブランクエリア』では、何もかも手つかずだ。略奪とも暴動とも無縁で、朽ちていないんだ。人類文化の全てが無事なまま放置されてる」
「……!」リーンズィは翠玉の瞳を輝かせる。「ならば、何もかもお手軽に揃う。そこになければないけれど、あるなら、どんなものでもある?」
「そう。壊れてねぇのさ。何もかも昔のままだ」
「昔のことはよく知らないのだが……」
「街並みもその辺のクヌーズオーエより綺麗なはずだ。窓硝子が全部の家に嵌まってるぐらいだ、想像してみろよ。それってとんでもないことだぞ」
すごい光景だ、とリーンズィはその光景を思い浮かべる。攻略拠点に置いてすら、窓硝子完備の物件は殆ど無い。調達しにくくて、すぐ壊れるというのが窓硝子の特性だ。
だから全部の家にそれが揃っているというのは奇跡的なことで、それならばそこには、いったい何なら無いのか、分からないほどだ。
「……猫の餌もあるのか? あるの?」
「あるだろうな、そりゃ。餌って言うと缶詰とかだろ? 人間用もペット用も山ほどだ」
「つまり宝の山なのだな。わくわくキャットインフィニティなのだな」
「え? 何だって? インフィニティ……いや永久じゃ無いとは思うが……何事も永久では無い、そうだろ? あと猫も関係ないし。っていうかマジで猫どこから出てきたんだよ。ロングキャットグッドナイトの影響か?」
「ロングキャットグッドナイト! マルボロは猫の人を知っているの?」
「誰だそれ」
マルボロは自分が口にした名前を忘れたようだった。
「まぁだから、変容していない市街は滅多にお目にかかれない。ブランクエリア発見というのは実際大したイベントだ。解放軍の趣味人どもは皆殺到するだろうな。でもさっきも言ったとおり、俺の個人参加は微妙だ……司令部預かりの文化的捜索の任務を割り振られるだろうし、栄えある『個人初回捜索権』、っていうか私的略奪の権利は、功労者、今回ならケットシーの嬢ちゃん確保に尽力した連中から、さらに抽選を行って選出される。そいつらは拾えるものなら何でも持って帰れるんだ。こうなると煙草が残らない可能性も出てくる……」
「煙草は誰も拾わないと思う。需要がないので」
「俺は、そうは思わないね。俺がそう思わないというのが重要なんだ。分かるだろう? どんだけ美人でも誰もウンドワート卿にちょっかいを出そうとは思わないが……リーンズィは、いつあの気難しいウサギっ娘を誰かに取られるかも知れないと、実は不安だったりするだろう。それと同じだ。そんなことにはならないと信じているが、保証された未来なんてあるはずもない。可能性だけならどこにでも充満してるわけだから。俺は煙草が誰かに持って行かれることが怖いよ」
「……なるほど。ウンドワートについて、そんなことは考えたことも無かったが、とても分かった……」
しょんぼりとして顔を曇らせた少女に、マルボロは慌てた。
「おっと、こういう話には慣れてない方か。いらないことを言ったかもしれん、俺も性根が下世話でな、死んでも変わらないわけだから弱る。馬鹿な不死者だと許してくれ」
「別に怒ってはいないが……でもレアせんぱいのそういうところを想像すると、胸がモヤモヤする。これが嫉妬だろうか……?」
「それは、嫉妬、嫉妬だなぁ。ははは。ほんとに可愛いなリーンズィは」うりうり、と頭を撫でようとして手を払われてしまった。マルボロは少し黙った。「それはそれだ。そこで俺は、首斬り兎討伐組で、かつ一人軍団の権限でほぼ確実に最初に現地入り出来るお前に依頼したいのさ、俺の愛しの煙草の確保を」
「しかし私にそんな自由があるだろうか? まだそのエリアについての連絡ももらっていない」
「誰にも届いてないさ。ここのスチーム・ヘッドなら夜は半自動モードに入ってるのが大半だし、そうするよう司令部も推奨している。それなのに夜中に発表して応募窓口開設したら不公平だろう」まぁ実際にはもう噂という形で流布してるんだがな、とマルボロは悪そうな笑みを浮かべた。「先の作戦の功労者だって聞いてるし、一人軍団なんだ。リーンズィにはまず間違いなく権利が与えられる。それで、お前には、特定の何かを回収してこいとか、そういうくだらん命令は出ないと思うんだよ。だからどうか頼む、可能ならで良いから、電子煙草のカートリッジを探してきて欲しい。ありえないほど高値で買い取るぜ。何ならポーラ・コーラを、箱で、前払いで渡しても良い。成功報酬はもっと出す」
「えっ、前払いでポーラ・コーラを、一箱!?」
「俺はそれぐらい本気だってことだよ」
リーンズィはその報酬を魅力的に感じたわけではない。驚いてしまったのだ。
近頃分かり始めたことだが、飲用が可能なポーラ・コーラが一箱も集まれば、そこには結構な価値が生まれる。旧式の小型蒸気機関と同じぐらいの額で取引されているのだ。
仮にもスチーム・ヘッドの機械の心臓と、場合によっては並ぶのだから、大変な代物だ。
「……そんなに、どうしても、電子煙草を吸いたいのか?」ライトブラウンの髪を揺らして首を傾げる。「どうしても吸いたいの? ファデルに怒られるのに?」
「吸いたいかって、そりゃ吸いたいさ。俺にとって煙草は死なない甲斐だ。それにな、電子煙草は試したことが無いから、どうしても興味があるんだ。思ったよりつまらないかもしれないが試してみないことには分からん。愛してるものの、知らない側面を試せるのは、楽しみだ。それって普遍的だろ?」
そうかもしれない。リーンズィは大好きな白髪赤目の少女のことを考えながら素直に頷いた。
彼からの依頼について、あまり悩むことはしなかった。マルボロには以前もお世話になったことがあるしお礼がわりに探してあげても良いかもしれないと考えた。
コルトと初対面したとき警告をしてくれたのがマルボロだが、どうも独断で色々と含みを持たせて警告としての意味合いを増大させていたらしく、コルトに後でめちゃくちゃ拳銃で撃たれたと聞いていた。
死なないし、拳銃弾など痛くもなかっただろうが、マルボロは自分たちのために損をしてくれたのだ。
報いるだけの理由はあるのだ。どんな打算が裏にあるにせよ。
「事情は理解した。情報提供に感謝する、マルボロ。私もブランクエリアへのお誘いがあれば行くことにする。でも前払い報酬は要らない。約束もしない。沢山のわくわくグッズがあるなら自分でも色々見てみたいし、マルボロのために何か探してくる余裕はないかもしれないし、そもそも全然見つからないかもしれない。でも、もしも覚えてたら、持ってくる」
「ありがとう」マルボロは頷いた。「はー、良い子だなリーンズィは。どいつもこいつも二言目には『煙草はやめとけ』としか言わないのに、お前は一応そうやって理解する姿勢は見せてくれるもんな。早い目に恩を売っておいて良かった」
「そんなに煙草が好きだというのなら、私には否定が出来ない。私たちはスチーム・ヘッドだ。別にそれで誰かに凄く迷惑がかかっているにわけでもない、どうせ病気で死んだりしないのだから……うん……本当は禁煙を勧めても無意味なのだ……私も調停防疫局のエージェントとして形式上注意しているに過ぎない……」
少女は自分の行動原理の軽薄さを自覚して、不意に疼痛を覚えた。
こうした価値観は、己のオリジナル、父や兄とでも言うべきエージェント・ヴォイドからの受け売りに過ぎない。
娘たるリーンズィに継承されたのは色褪せた道路標識のような、曖昧なドグマだけだ。だから筋道を立てて反論されれば、リーンズィはいっぺんにぺしゃんこになってしまっていたところだ。
マルボロほどの歴戦の猛者がそうした脆弱性に気付いていないとは思えない。最初から理屈で攻めてきても良かったはずだ。
敢えて意地悪をしなかったのは、彼なりにリーンズィを思いやり、尊重してくれているからだろう。
「そういう話をするんなら、俺もみっともないもんだよ。煙草に拘ってんのも生前の習慣に縛られてるだけだからな。禁煙、禁煙、禁煙と何回も失敗して、死んで蘇ってからも、まだ煙草に取り付かれてる……。その点、仲間からの遺志を引き継ごうとしているリーンズィは立派な方だ」
「でも煙草の禁止を促すのに成功したことは一度も無いんだ。コルトもいつも話を聞いてくれない……」
「おお、コルトにも挑んでるのか。やるじゃないか、ええ? それで、あいつはどんな言い訳をしてるんだよ」
「いや、コルトは特に言い訳をしないのだ。しないの。検閲官の権限で取得した、私と私の恋人との通信ログを、淡々と音読してくるんだ……」
「それはキツいな」マルボロは苦笑いして肩を竦めた。
コルトのやつらしい、と愉快そうだった。やけに馴れ馴れしい。愛煙家同士交流があるのだろうか、と思ってリーンズィは人工脳髄を通してマルボロのプロフィールを検索した。
そして検索した結果を忘れた。
『一人軍団』の権限ならば、防衛上の機密事項で無い限り、本来開示されていない情報まで取得出来る。
マルボロが自称通りの人間ではなく、コルトが内偵に使っている部下の一人なのだということを知ってしまった。
一方的に秘密を暴き立てるのは不誠実に思われて、だから記憶から消し去ることにした。
そういうところも気に入ってるんだぜ、とマルボロが呟いたが、記憶を消したリーンズィには意味が分からなかった。
二人は並んで来たりつつある朝を眺めた。
お互いに何を考えているのか話さなかった。レアなら、黙っていても意思疎通が出来る。不本意ながらリリウムとも可能だ。
だが彼女たちとマルボロは違う。彼はたまたまこの朝に出遭っただけの同僚で、リーンズィには、黙っていても、お互いを何を思っているかなど、全く分からない。
ただ漠然と、己らを取り巻く世界について考えているのだろうとリーンズィは想像した。あるいは街の風景の移り変わりに意識を奪われていただけかもしれない。空一面に月のような白々とした光。紫紺の朝霧は泡のように弾けつつあり、青い朝の先遣隊が灰色の街を太陽の領域へと浮上させていく。
リーンズィは足跡を聞いた。
じっと目を凝らした。未来をも見透すヴァローナの瞳が仄かに赤い熱を帯びた。
果たして無数に連なる影が、纏わり付く霧の壁を擦り抜けてやってくるのが見えた。朝を迎えるための歌を奏でているレーゲントたちだったがクヌーズオーエで時計を気にするものは稀で、だからこうして朝の到来を伝えて回る楽団が必要になるのだった。
誰にも聞かれはしない歌声。誰も居ない無人の朝を讃える頌歌。そこに神の座はあるのだろう。王冠はあるのだろう。祈りはあるだろう。しかし今は眠りを覚ます程度にしかならない。漆黒の聖衣装に身を包んだ少女たちは夢物語に記された妖精たちのような美貌で、リーンズィやマルボロに透明な媚笑を向けてくる。瞳には何が映るのだろう。そこに神は居るのか。聖なる父はいるのだろうか。この朝霧の映写幕には彼女らの夢が描かれているに違いない。
彼女たちが去ってくのを見送った。
レーゲントたちの背中から旋律を奏でていた蒸気機関、そこから噴き出した蒸気は凍り付く朝靄を融かして、彼女たちの通った道を空間に朧気に残す一筋の煙となったが、目を覚まし煌々たる眼球を見開いた陽の光が強まるにつれて、形の無いものは居場所を奪われていき、それら少女達の残像は、外縁部から徐々に崩れ、十数秒もたたないうちに消え去った。最初から何もいなかったかのように思えた。レーゲントたちの豊潤な甘い香りだけが現実で、それ以外は嘘だった。
マルボロが不意に呟いた。
「いつかは全部なくなるのかね。煙草もあの娘たちも。俺たちも」
「スチーム・ヘッドは不滅だろう」
「どうだろうな。たまに思うんだが世界は人間のことなんてどうでも良いと思ってるんじゃないか。死なせるのを忘れてしまうぐらいに。だから同じぐらい適当な理由でスチーム・ヘッドもある日突然同時に死ぬかもしれんだろ。まったく、ジーザスが人間のことを忘れて、どれぐらい経つんだか。あの人だってもう爺さんだろ? 2000歳だっけか、もっとか? 俺らと違って、わはは、歳も取るだろうから……ボケちまってて、煙草のことだって、祭壇に供えられる煙の出る草ぐらいにしか覚えていないんじゃないかね」
「私はそんなことは知らない。詳しくは神様に聞いてほしい。まだ電波もネットも存在しているし。いつかはどこか違う場所にも電波が通じるかも」
「そうかもな。だとしても、だとしてもだ、いつだって接続先は留守電だよ、そんなものは。神様とやら世界が終わる日に纏めて恨み言を聞くつもりなんじゃないかね……」
マルボロはタクティカルジャケットのポケットに電子煙草をしまった。
それからリーンズィに軽く手を振り、娘たちと同じく朝霧の中に消えていった。リーンズィも手を振り返した。彼がどこに行くのかは分からなかった。
リーンズィは館の裏手に回って、愛しの人が待つ我が家の道を昇り始めた。
階段の錆びついた手摺りはザラザラとして手触りが悪かったが、この未だ霞かかる都市では心強かった。どれほど朽ちていようとも、確かにそこにあると分かるのは、素晴らしいことだ。




