S4 サイプレス/黒ウサギと白銀の少女
サイプレスは臨戦態勢を取った。
超常的な現象には何度も遭遇してきた。大半は生体脳や人工脳髄に起因するエラーだったが、地理的に考えられないほど広すぎる海や、来る度に様態の変わる街など、明らかに現実の方がおかしいという事象も少なからずあった。
そういった場合には、アンファングのような存在が自陣営にある以上、他陣営がそのような戦力を有していても不思議ではなく、その辺りの影響だろうということで曖昧に納得していた。
いずれにせよ当事者ではなく、サイプレスは異変の痕跡に触れていたに過ぎない。今回ばかりは話が違う。まさしく異常が生起する現場に居合わせてしまっている。
視界不良が起きている間にどこかの大陸に差し掛かっていたというのは有り得るが、いきなり夜が明けてしまうというのは説明がつかない。
「さっきのあの何か燃えてるやつせいかも……」唸り声を上げて気付く。「声が出せる。肉体が再生してる?!」
もはや肌が焼け付く感覚すら無い。軋みを上げていた全身の骨格までもが落ち着き、整っている。甲冑を包む炎が鎮火している。ブラックアウトしていた生体脳が復帰して、肉眼での外界観測が可能になり、地上がはっきりと見えるようになった。地表が過ぎ去っていく光景から、速度が格段に落ちていると算出する。
蒼い炎に包まれた人間のような何かが再び見えた。その瞬間に視界が切り替わった。荒野であることに変化は無かったが高度が急激に下がった。速度もさらに低下した。
世界ではない、何かをされているのは自分だ、とサイプレスは確信した。異常現象と蒼い炎の関連性はもはや疑いようもない。
しかし分からないことが多すぎた。相手の目的どころか正体すら思い至らない。悪性変異体かもしれない、という推測は当然に脳裏をよぎるが、証拠が不足していた。
まず、サイプレスが知る限りにおいて、飛行が可能な変異体というのは極めて稀だ。<十三人の吊るされた男たち>程複雑に変異を重ねれば、外観上は空を飛んでいるような具合になるが、とにかく数が少ない。
蒼い炎は飛行どころではなく、明確に時空間を移動しているように見える。どれほど甘く見積もっても既存の個体とはレベルが違う。いったいどんな負荷をかければ、そこまで超越的な変異体が発生するのか?
無節操に一人で転移し続けるなら納得もいくが、時空間の移動にサイプレス自身まで巻き込んでいるのだから、まったく、常軌を逸した事態と言う他ない。
このままでは危険だ、という恐怖感のみで反撃を試みる。蒼い炎が見える度にケルビム・ウェポンの照準をセットしようとするのだが、相手の存在している座標が掴めなかった。認識すると同時に微妙に自分の時間的・空間的位置も変化していく。
座標だけでなく自分自身を書き換えられているのではないか。サイプレスは蒸気甲冑の内側で肉体を書き換えられている可能性も検討した。バイタルに関して異常な数値は見当たらない。燃え上がって粉砕されていたときのことを思えば調子が良いほどだ。
翻弄されているうちにサイプレスは何故こんな現象に巻き込まれているのか考えるようになった。咄嗟に「攻撃を受けている」と解したが、状況が完全に把握不可能になっていることを除けば、損害は皆無だ。
さらに前方、サイプレスが飛翔する方角をよくよく観察してみれば、信じがたいことに、あの黒い塔に決定的に接近しつつあった。一ヶ月ほど歩くだけで間違いなく到達出来るであろうという程の位置に目指した塔があるのだ。
元より旅程を短縮するための飛翔だ。少しでも前進出来ればそれでいい、という程度の試みだった。望んだことと、得られた結果だけを取り出せば、万事が上手く噛み合っている。
問題は、その過程に正体不明の存在の影が落ちていることだ。
都合の良すぎる意味不明な偶然なのかも知れない、という希望的観測は、しかし長く続かなかった。
気付いてしまったのだ。蒼い炎が次に視界に入ったとき、それが七つの燃え上がる目玉で自分を見ているのに気付いた。それはすぐそこにいた。ずっとそこにいたのだ。サイプレスは唐突に理解した。地球が砕け散るほどの衝撃にも耐えられる蒸気甲冑を貫通して、その存在は矮小な娘の裸身に絡みつき、体内に侵入している。全神経に絡みつき内臓に癒着して肉を人間ではないものに置き換えている。何もかもが既に異なっていたのだ。脳髄に炎の根が張ってどこかに繋がっている。新しい世界を彼女に植え付けようとしている。サイプレスは我知らず悲鳴を上げた。人工脳髄がノイズで真っ白になった。運営している完全架構代替世界、ある意味でサイプレスという存在の最も本質的な部分にまでそれは侵入してきた。データセンターと防衛設備が立ち並ぶばかりの風景に燃え上がる蒼い炎と七つの瞳が……。
サイプレスはその時自分自身の終焉をはっきりと見た。現実に経験した。旅の終わりはきっと自分の予想していない形で訪れると覚悟していたつもりだった。どこかの山中で滑落したり海溝に挟まったりして、どうにもならず、志半ばで終わるのだと。でもこんな得体の知れない存在に自分の魂を玩弄されて終わるのだとは考えていなかった。パニックに陥った。どうすることも出来ない。いったいこんな存在を相手にどうすれば良いというのだろう?
だから名前を呼んだ。「アン、助けて」必死に名前を呼んだ。「ねえ、アンファング! アン、助けて……助けて……! 怖いんです、そこに何かいるんです。怖いの、助けて、ねぇ……」最後に縋れるのは神ではない。神など存在しないと彼女は認識していた。
無論のこと、アンファングと言えども、サイプレスを救う手立ては無いだろう。言葉さえ聞こえてはいないだろう。届くはずもないと理解して紡ぐ名前は、さよならの言葉に等しい。
だが、ふと、良いお知らせがあります、と彼女が言っていたのを思い出した。
「いったいどこが良いお知らせなんですか! 過去最大級の恐怖体験をお知らせしなければそれは嘘です! アンファング、ねぇ、わたしの大好きなアン! なんでこんなことするんですか!?」
サイプレスは感情を爆発した。いつもの癇癪を起こして、怒鳴り声を上げた。
蒼い炎が揺らいだ。
そして消えた。
去った、とサイプレスは直観した。
それはもうどこにもいない。
消えていなくなった。
何故、と考える間もなくサイプレスは地表すれすれに投げ出された。
蹴飛ばされた石のように散々に土煙を上げながら転がっていって、止まった。
苦労して立ち上がり、バイタルチェックを行った。臓器まで入念にチェックしたが、不明な改変を施された形跡は無い。代替世界のデータセンターにも異状は見られなかった。
「……目覚めなさい、アンファング。ねぇ、ねぇ、目覚めてください。どうか教えてください。何が起こったのか分からねーのですが……」
アンからの返答は無かった。
謎の現象に巻き込まれて、何故か都合良く、前に進んでしまった。サイプレスに理解出来るのは辛うじてそれぐらいだ。
ここに至っては、幸運だったなどとは到底思えない。幸運ならば、あんなおぞましいビジョンを伴うわけがない。
呆然としながら、体感上はほんの数分前、あの楼閣都市から眺めていたのよりも、ずっと大きくなった黒い塔を見上げた。
恐ろしい目に遭ったが、大きな前進だった。成果だけを論じるのであればこれ以上は望めないだろう。そして成果以外は、解釈することすら困難だった。
「と、とにかく、進まないと……進むしかねーんですから……」
サイプレスはふらふらと荒野を進んだ。脳髄に書き込まれた命令のままに。正解を求めてもどこにもそんなものが無いのはとうの昔に思い知って、忘れている。究極的には意味があるのだろう。世界が終わるとき形が明らかになると期待することは許されている。だがサイプレスは彷徨える一個の点に過ぎない。神々の積み上げる煉瓦の一つに過ぎない。そこから見える景色に、確証は存在しない。
「わけがわからないのは、いつものことです。ちょっとびっくりしましたが、それだけじゃねーですか」
前例が無いほどの異常事態だったにも関わらずサイプレスはすぐに落ち着きを取り戻した。これしきで怯んでいては敗北すると思ったからだが、競争相手が何なのかは分からない。自分の他にサイプレスシリーズが稼働しているはずがない。アンファングを通して確認出来る同型機の最後のタイムスタンプは、三百年以上も前だ。
がむしゃらに歩いた。果てしなく荒野が続いていた。海底と比較するまでもなく移動は快適だったが風景の起伏のなさは大差がない。
前方に不審な影が現れたので警戒したが、すぐに正体が知れた。
枯れ草の塊がコロコロと転がってきた。何の異常性も見られない無害で可愛らしい塊だった。「フィクションの産物だと思っていました。こんなの本当に転がってるんですね」とサイプレスは気分を明るくした。珍しいものを見た気分だった。
立ち止まってしばらく視線で追った。それはどこまでもどこまでも進んでいった。
サイプレスが前進を再開するとまた枯れ草の塊が転がってきた。こういう植物が多い土地なのだろうかという考えたが、それと同時に違和感が生じた。
精神でなく肉体に由来する違和感だ。全身を隈無く装甲で覆っていても、内部の肉体は原始的な危機探知能力を発揮することがある。
体を傾けて空を見上げた。
太陽の位置と雲の形を記憶した。
何時間か歩いているうちに危惧した通りのものが現れた。
見覚えのある枯れ草の塊が前方から転がってきた。
咄嗟に空を見た。何も変化が無い。変化が無い、というのも正常では無い。短くない時間を歩いたはずなのに、どうして雲や太陽の位置が記憶したものと寸分も変わらないのだろうか?
おそらくあの蒼い炎の影のように枯れ草は何度も現れるだろうと身構えた。その通りになった。無限に転がり続けるタンブルウィードは幾度となく彼女の脇を通り過ぎていった。そして空模様も何度も同じものが出現した。
一定した時間的・空間的制約があるわけでもなさそうだが、正体不明のトリガーによって時間を巻き戻されているような気がした。ただ、枯れ草に関してはコースや速度が全く同じというわけではなく、毎回微妙な差異が現れた。
ループ映像の中に閉じ込められたような不穏な気分がサイプレスの心に芽生え始めた。同じ風景、同じ空気、意識すれば風のそよぐタイミングまで同じだという気がしてくる。一度思い切って黒い塔とは真逆の方向に進んでみた。そこには自分の足跡が続いているばかりで、空間的に巻き戻されていると考えると些か不自然だった。そうこうしているうちに背後から例のタンブルウィードが転がってきた。
見えなくなるまでそれを眺めた。サイプレスは反転して改めて黒い塔を目指した。
あまり深く考えないことに決めた。
そのうち塔を観察する余裕が出てきた。
黒い塔の先端がどの辺りにあるのかは、ここまで接近しても、定かでは無かった。しかし全ての光を飲み込むかのような、どこか現実感に欠ける外観に、無機的な接合面があるのを発見した。人間の手が関わっている施設なのは間違いないだろう。
つまりこの先には、一定以上の勢力を維持した人類勢力が存在する可能性が高い。そう思うと、うずうずするような希望が湧いてくるのだが、しかし塔の正体は判然としないままだ。
ある程度、見当はついてきたのだが。
「このサイズだと、軌道エレベーター……ですかね、もしかして」
先刻過ぎ去った楼閣都市、アズール・ミレニアム・ファクトリーが小さく思えてしまうほどに、塔は高い。最上層が成層圏を超えているのは間違いなさそうだ。狂った機械の組み上げたオブジェクトでなければ、正体は軌道エレベーターぐらいしか思いつかない。
不可解な点も未だ多い。不朽結晶連続体を使用すれば解決出来る問題ではあるが、ここは赤道からどう見ても離れていて、軌道エレベーターを建造するのに適した土地ではない。静止軌道からワイヤーを吊り下げるという一般的な軌道エレベーター像からかけ離れているのもやや気になる。
ここまで埒外に高いとなると、やはりさすがに宇宙まで向かうための施設と受け止めるしかないのだが、有様が合理的説明を拒むほど奇妙である。サイプレスは考えあぐねた。
まぁいずれあの施設の運営者とは遭えるわけだし楽しみに考えておきましょう、とサイプレスが思考停止を始めて、数日が経過した。
日は暮れず、雲は変化せず巻き戻り続け、枯れ草が変わらず転がり続けた。このまま一歩も進めないのではないかという恐怖で発狂して何時間かを潰した。自分はあの蒼い炎のような怪物に飲み込まれて、間抜けにも消化器官の中を練り歩いているだけなのでは? しかしバイタルに変化はなく、代替世界は平穏で、頼みの綱のアンは応答しない。不要だからだ。しかし、不要なのは、いったい誰だろう?
大丈夫、いつかは辿り着くはず、とサイプレスは唱え続けた。もう見えているのだから。いつかは近づけるはず。
あるとき、地平線に煙が上がるのを見た。
景色が変化したことに戸惑っている間に致命的な瞬間がやってきた。
黒い塔が崩落した。
何が起きたのか理解出来なかった。
霞む空から無数の砕かれた黒い塊が降ってくるのを見た。地平線の彼方に、それらは降り注いだ。何時間も何時間も降り注いだ。瀑布のような土煙がサイプレスの居る地点にまで届いて、幾千の落雷を重ねたかのような破滅的な轟音が彼女の全身を揺さぶった。
「え……? え……そんな」サイプレスは嵐の中で祈るように囁く。「待って。待ってよ……どうしてですか……なんで……もう、すぐそこなのに……いっしょうけんめいここまできたのに……なんで……なんで……もうちょっとなのに……そんな……」
目指してきたものは、72時間もの時間をかけて、姿を消した。塔の残骸が巻き上げた煙が晴れるまではさらに時間がかかった。おそらく塔の真下にあったものは全部潰されてしまったことだろう。これから黒い塔のあった地点に到着しても、そこには瓦礫しか在るまい。
絶望的な事態を目の当たりにしながらもサイプレスが惰性で歩き続けたのは、風景のループが終わったからだ。
夜が来た。装甲に霜が降りるようになった。朝焼けと夕焼けが鮮血のように赤いことを知った。だがそんなことは、もうこのサイプレスという名の娘には、どうでもよくなっていた。
精神の安定性を確保するシステムが麻痺を起こしていた。切除され、思考系統から排除されて然るべき悲嘆と労苦、個人的な怨念が、止めどなく娘の口から零れ続けた。それは嗚咽だったり唸り声だったりした。幾千の呪詛。幾千の後悔。娘は泣いていた。なんでこんなものを信じたのか。何が悪かったのか。もっと早く到達出来ていれば良かったのか。どうにかして正確な情報を手に入れられていれば。
いずれにしても意味が無かった。
実際のところ目指した先に本当は何も無かったという経験はこれまでに何度もある。事実を都度忘却して精神を繕ってきたが、希望が潰えるその瞬間を目の当たりにするのはこれが初めてで、娘は打ちのめされてしまった。こんなことにはもう耐えられないと世界に向かって訴えた。八つ当たりに荒野にプラズマ場を形成して風景を炎で染めた。何も変わることは無い。
土煙のカーテンが完全に消え去るまで結局一週間以上かかった。僅かでも痕跡が残っていてほしいと願ったが、塔はまさしく跡形もなくなっていた。タンブルウィードが転がってくることさえ無い無辺の荒野を卵型の鎧の中で呪い続けた。
「わたしは……わたしは、真理のひとかけらでも……何でも良いから、わたしがやってることは無意味じゃないんだって……それを納得したくて進んでいるのに……なんでこんなことになるんですか……あんまりじゃねーですか……。ねぇ、ねぇ……そんなに沢山のことは望んでいません……意味はあったんだって納得出来ればそれで……それで満足なのに……どうして……どうして何もかも遠のいていくんですか? どうして壊れてしまうんですか? 何でわたしを優しく迎えてくれないの。どうして、どこに辿り着いても、手遅れになった後なの。……罪深い願いなんかじゃないでしょう? ひとかけらでも真理を、真実を……つかみたい、ただそれだけなのに……なのにどうして……」
忘れてしまっていた誰かのことを思い出して、罪悪感で息が出来なくなる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……貴官が都市を守っていたのも、本当のことを言うと、無意味だったんです。悪性変異体は生物にしか干渉出来ない。電子的なデータまで書き換えられてしまうことは滅多にないから……。ずっと守ってる意味なんて無かったんです。あれは全部、あなたを、わたしを、がんばったのだから意味はあると慰めたくて……いいえ、自分自身を慰めたくて、偽りの言葉を、はしたなく並べ立てていただけなんです。ごめんなさい。ごめんなさい……許してください……許して……だれか……だれか、わたしを、ゆるして……」
サイプレスは涙の海に溺れながら荒野を進み続ける。
幾日か経った頃、照準波を浴びせられた。
彼女は気付かなかったがシステムのアラートがそれを即座に知らせた。精神に纏わり付く倦怠や絶望とは裏腹に、アルファⅢ<サイプレス>のボディは即座に範囲焼却による先制攻撃を行ったが、代替世界からの干渉は無効化された。
何も起こらなかったのだ。
この時点でシステムは、サイプレスに退避の意志決定を強要した。通常ならばサイプレスは自分の意志とシステム上の退避命令を区別せず、思考を改竄され、それに素直に従っていたことだろう。
しかし、サイプレスはすっかり疲れ果てていた。あるいは妄念がサイプレスの身を借りていた。せめて目指していた場所に何があったのか知りたいという感情のみが体を動かしていた。数百年にも渡って蓄積されてきたエラー、切除され続けた感情がシステム外で独立した指令系統を形成していた。それは一時的なバグであり、やがてはリカバリされるものだ。半月も経たずサイプレスは新しい偽りの希望を胸に、絶望を忘却して、再起する。
だが今だけは真なる彼女が解き放たれていた。
間違いなくアルファⅢよりも上位の権能を持つ存在が待ち構えているはずだったが、それすらどうでも良かった。よしんばそいつが何か関係がありそうなら文句の一つでも言ってやろうと混濁する意識で嘲笑った。
照準波を浴びせられているのだから辿り着くまでに攻撃されて、一方的に撃破されてしまう危険性もあった。やはりどうでも良かった。何もかも無意味だったのだから。この上、自分の存在が否定されたぐらいで、何か変わるだろうか?
致命の攻撃は、ついに下されなかった。酔い潰れたハンプティダンプティのようにサイプレスは進み続けて、ついに敵の影を見つけた。
レンズ倍率を調整して拡大望遠する。ヘルメットを被った厳めしいスチーム・ヘッドだった。不朽結晶連続体で構築されたインバネスコートのような繊維状の装甲を纏っている。漆黒の輝きが美しく、しなやかな体のラインに沿ってぴったりと張り付いていて、見栄えがした。胸部に乳房の膨らみが浮かんでいるので、女性の肉体を使っていると知れた。
左腕には装飾過多な蒸気甲冑を装備していて、その腕で、一人の少女の手を引いていた。
遠目にも分かるほどの、曰く言い難い、何がしかの光輝を放つ美しい娘だったが、どこかに破損があるのか、動きがぎこちない。車掌が被るような帽子を乗せた頭が一歩進む度にかくかくと揺れた。色のくすんだ勲章が並ぶ衣服には過ぎし日の栄光を忍ばせる華やかさがあり、鼓笛の国というものがあればそれの最後の姫といった風情だ。銀色の髪が棚引いて、陽光の輝きを照り返していた。
ヘルメットのスチーム・ヘッドがこちらに左腕を翳した。視界に『危険:不明機・機関出力上昇』の警告が表示されたがサイプレスは無視した。
目前に氷の障壁が現れるのを見た。
おそらく完全架構代替世界触媒式破壊事象干渉だ。氷が出現すると同時に、熱風がサイプレスに吹き付けた。
空間座標に対して何かの現象が直接投射されている。その気になればサイプレスを周囲の空間ごと凍結させることが出来ただろう。
サイプレスは怯まなかった。氷の壁を迂回した。進路は変えなかった。相手側に本物の害意はないと勝手に判断して、そして、どうとでもなれと捨て鉢になっていた。
正体不明機はそれ以上は何もしてこなかった。ヘルメットのスチーム・ヘッドと、銀色の髪をした天使の死体のような少女は、あのタンブルウィードと同じく運命論的な因果に従って、サイプレスと交錯する進路で進み続けた。
やがてサイプレスの知覚でも、向こう側からやってくる何某か、特に護衛役と思しき重外燃機関搭載型スチーム・ヘッドの細々とした意匠が、鮮明に捉えられるようになった。
ヘルメットには赤い地球儀を背にして剣に巻きつく竜の紋章。遮光性バイザーの下で二連二対のレンズが煌々と輝いている。
アルファⅠ系列の機体に似た意匠だったが、全ての構成が歪だった。首から下を戦闘に適したまともな装甲で覆っていないのも不自然だ。左腕部にタイプライターのような奇怪な装置が取り付けられているのも目を引く。
これが仮にアルファⅠ系列機であるならば、メインウェポンを携行しているはずだが、正体不明機は不朽結晶の刃すら持っていない。ここまで物理的に無防備なのはアルファⅢ系列機の特徴で、先ほど代替世界から干渉を仕掛けたきた事実とも合致するが、それにしては頭部と左腕部に重外燃機関を背負っただけという古めかしい姿が違和感となる。
衣服を不朽結晶で編むというのもコスト面で言えば狂気の沙汰だ。布状であるため防御力は期待出来まい。事実上頭部と左腕しか保護していない形で、これは歴史あるアルファⅠ系列だとしても、あまりにも古い設計である。
連れている少女のミリタリー調のドレスも、解析の結果不朽結晶で編まれていると分かった。そんなものを装着する合理性はこの世に存在しない。
何らかの特異な思想集団なのだろうか。サイプレスの破滅的な精神に興味の色が戻ってきた。あの塔の関係者かも知れない。話を聞けるかも知れない。
サイプレスは平和裡に正体不明機と接触を果たした。
まずは、謝罪から始まった。
「……まず、照準を向けたことを謝罪する。とても立て込んでいたのだ……いたの」
ヘルメットを被る黒衣のスチーム・ヘッドは、途切れがちな言葉で呟いた。中性的な口調だが、声ははっきりと女性で、聞き覚えがあった。
「君を敵だと誤認してしまった……しかし……君は誰だろう。壊さなくて良かった……」
敵意はなさそうだ。
サイプレスは安堵して返答した。
「攻撃は、気にしないで良いですよ。貴官もちゃんと狙ってませんでしたし。牽制だって分かりました。当機は調停防衛局のエージェント、アルファⅢ<サイプレス>です」
「エージェント……調停防衛局……」
「もしかしてご存知ですか? 貴官のヘルメットもうちの紋章に似てますけど」
「……私は、調停防疫局のエージェントだ……防衛局というのは、知らない……」
「防疫局。ふうん」別の系統樹に属する同じ組織だろうか。「作戦目的は?」
「全ての争いを止めること、だった」
「ならば当機らと同じですね」少しだけ声が弾む。「気が合いそうで嬉しいですよ。いや、目指していた塔は崩れちゃうし、どうしようもねーですよこれは、って思ったんですが、丁度良さそうな仲間に出会えました。教えてください。あの塔、何があったんですか」
調停防疫局のエージェントはしばし声を詰まらせた。
「私が破壊した……」
「破壊した」サイプレスは絶句した。いったいどうやって。いったい何故。観察する限りでは、ただの疲れたスチーム・ヘッドだ。これが自分の希望を打ち砕いた悪魔なのか? 諸々の疑問の飲み干して言葉を繋ぐ。「どうして、ですか」
「仕方がなかったから。正しい行いをしたと信じている。だけど、取り返しの付かないことをしてしまった」異邦のエージェントは泣きそうな声を出した。「大勢を殺したんだ。仲間たちを……無辜の民衆を……私はめちゃくちゃにした。すまない、君と話したいのは山々だが、追われている身なんだ、皆は私を赦されないだろう、それだけのことをしたから……ああするしかなかったから……」
「……機体名称は? 貴官もアルファの系列でしょう。当機には分かります。それで、当機は名乗りましたよ。貴官も名乗るべきです」
「……アルファⅡモナルキア、エージェント・リーンズィ」
エージェントはヘルメットを外した。艶のある黒髪がさらりと零れ落ちた。声から察しはついていたが、やはりTモデル不死病筐体だった。
だがスタンダードモデルとは異なるらしく、肌がやけに白くて、健全にして不滅なる不死病筐体としては特異な線の儚さがある。女性というよりはまだ少女と呼んだ方が適切だろう。
涙ぐんで世界を映す緋色の瞳も相俟って、病弱な肉体を改良して、無理矢理に運用しているような印象を受けた。
「塔のあった場所を目指すなら、気をつけた方が良い。自分ではコントロールしたつもりだが……正直、今どうなっているのか、あまり楽観視できない……」
彼女もまたサイプレスと同じく打ちひしがれていた。連れている白銀の少女は、意識体として殆ど事切れているようで、サイプレスにもエージェントにも、あまり反応を示さない。穢れの無い時代の氷河を閉じ込めたかの如き美しい瞳は、憐れみを感じさせるほどに空虚で、収められた心が壊れていることを示している。
額に百合の花をした不朽結晶連続体が刺さっている。おそらくは古典的な装飾人工脳髄だが、そちらはまったく綺麗なものだった。損傷があるとすれば深奥、人格記録媒体の方だろう。
やむを得ぬ事情があったのは明らかだ。
仕方の無い悲劇があったのだと信じられる。
だが、サイプレスは彼女の嘘を見抜いていた。
「アルファモデルなのは、間違いなさそうですね。でもアルファⅡではねーでしょう」
「……何故そう思う」
「アルファⅡはスチーム・ヘッドとしては正常に活動出来ねーんですよ。起動した瞬間に意識が代替世界と一体化してしまうせいで、外界とこんなふうにお喋りは出来なくなる。例外が仲間にいますけど、彼女だって物理的な肉体は持ってない」思い浮かべるのアンファングのことだ。「どこだか知らない、殆ど閉じた世界の住民になるわけですから。でも貴官には骨も肉も在る。だから貴官はアルファⅡではあり得ねーということです」
「改良型のアルファⅡモナルキアだ」
「そんな機体は聞いたことがねーんですってば。でもね、フェイクアドバンスド計画、というのなら知ってます。忌まわしい計画です。アルファⅠ、アルファⅡをベースに、アルファⅢ以降の技術を盛り込んで、既存のコンセプトを無視した次世代の兵器を作り出す……ベースとなった機体に偽りの型式を記銘することさえする。あまりにも災厄に近いが故に。です」
「……うん」エージェントはただ頷いた。
「辛そうですし。何があったにせよ、責は問いませんよ。当機にだって人情というものがありますし、それに、アルファⅢ<サイプレス>は無敵なんですけど……たぶん、貴官の方が強い。だから咎めても意味がねーのです。咎める手段もない。でも、でもね……名前ぐらいは聞きたい。ずっと、ずっと、あの黒い塔を目指して、そこに希望があると信じて進んできました。それを台無しにした機体の本当の名前を知りたい」
「……私の……名前は……」
赤い瞳の少女は目を潤ませて、下を向いた。
酷く動揺しているように見えた。
地面が涙で揺れるのを見た。
サイプレスは我に返った。悪い癖を出してしまった。目前の彼女の精神的な摩耗具合を見誤っていた。このエージェントは、自分よりずっと追い詰められているのだ。
上位の機体でも、耐久力と活動継続にのみに重点を置いたサイプレスと同じぐらい精神的にタフだとは限らない。
サイプレスはシステムの力を借りて自信の判断能力を回復させようと試みたが、エージェントの言葉を聞いて思考を停止させてしまった。
「私は……アルファⅣ<ペイルライダー>。世界生命の終局を管制するための機体だ……」
「アルファ……Ⅳ……?!」
思いも寄らぬ回答にサイプレスは硬直した。
実を言えば、アルファⅡに改良を加えた程度、アルファⅢよりもさらに代替世界に寄った調整を施された機体だろうと見ていたからだ。
「なん、ですか、それは。アルファⅣ? 理論すら成立していなかったはずじゃねーですか。建造計画だって、私の世界では存在しませんでした。いったいどんな機能が……」
「違います。違うわ、リーンズィ」
不意に声がした。
白銀の少女が歌っていた。
夢見る少女の吐息のような、儚くも甘やかな声は、サイプレスの肉体をすら疼かせた。
「わたくしの天使様、あなたは青ざめた騎士などではありません。誇り高き慈悲の黒ウサギ……」
ーー『インレ』。
「あなたさまに贈ったこの名前こそが、リーンズィには相応しいの……」
「……ありがとう、リリウム」
リーンズィは虚ろな瞳をした乙女に跪き、彼女に口づけした。親猫が子猫を世話するように、顔の汚れを拭いとった。リリウムは頬を朱に染め、騎士の情愛に、恍惚として身を委ねた。
サイプレスはこの睦じい二人の少女、二機のスチーム・ヘッドが、揃いの首輪をしていることに気づいた。
細首には似つかわしくない隷属の金属塊はしかし、何故だか恋人たちが指に嵌めるリングのようでもあった。
二人ともが花嫁だった。白銀と漆黒。青の瞳、赤の瞳。何もかも対照的だったがそれ故に調和している。互いに互いを花嫁として求め合い、支え合っているからだ。
サイプレスは何だか妬ましくて、羨ましくて、アンが恋しくなり、少しだけ拗ねた。
異邦のエージェントは改めてサイプレスに向き合い、非礼を詫び、己の名を告げた。
「私はアルファⅣ……<インレ>。調停防疫局の最終代理人、エージェント・リーンズィにして、大主教リリウムの最後の騎士……アルファⅣ<インレ>だ」
サイプレスはインレと名乗るその機体と短い時間だけ情報のやり取りをして、別れた。
互いに全く逆の方角へと進んでいった。
実際の契機は定かでないが、いくつかの出来事が忘却の川から解放されるようになった。怒り狂ったりしていないときでも、自由な記憶がある程度、本来の彼女へ戻るようになった。アンと話せる時間も増えた。
インレが何かをしたのかも知れないが真実は暗闇の奥だ。
赤い土の荒野を見るたびにサイプレスは彼女たちのことを思い出す。
サイプレスの旅はさらに続いて、長い歳月が過ぎたが、インレたちとの二度目の遭遇は、ついに無かった。
それがインレたちにとって良いことなのか悪いことなのか、サイプレスには最後まで分からなかったが、幸せであると良いなと願い続けた。
サイプレス編は終了です。
次回からしばらくはセクション2となります。




