S4 サイプレス/流星と蒼い炎
砲手が機能停止したことを確認すると、サイプレスはアズール・ミレニアム・ファクトリーの機能解体に取りかかった。
「これだけ馬鹿でかい施設だと機能掌握に時間がかかりそうですねー。まぁ時間かけるだけで解決する問題なら楽で構わねーですが。片付けは最高ですね。やったらやっただけ綺麗になって分かりやすくやった感じが出るのが良いんですよ。まったくこの任務だってもっと分かりやすいものなら良かったのに! 進捗バーでも出して全体の何%が終了しましたって教えてくれれば良いのに誰も教えてくれない。こんな不親切なことありますかって話ですよ」
そんなことを呟きながら、卵型のスチーム・ヘッドは行動の邪魔になる物品を破壊し、海へ蹴り落としていった。
機能停止した資機材。数え切れないケーブル類、性能の劣化した設置用蒸気機関、戦術規模の電磁加速砲とそれを懸架するための歪な機材の山。
そしてつい先ほどまで言葉を交していた都市防衛用のスチーム・ヘッド。
自己凍結を起こした生体部分は爪先が触れたとき僅かに身動ぎして呻き声を発したが、サイプレスは躊躇しなかった。有耶無耶の廃棄物と区別せず蹴った。
既に感傷は無かった。「せめて向こう側に見えるあの黒い塔が何なのかもう少し詳しく聞いておけばよかった」という打算的な後悔さえ残っていない。
この瞬間におて、全ては消し去られていた。無用だからだ。
サイプレスの認知機能は彼女が思っているほど自由ではなかった。
情動にはスチーム・ヘッドの機能維持以上の意味は無い。
任務遂行のための傀儡。それこそがアルファⅢ<サイプレス>の精神の正体だ。彼女は常に、より上位のシステムに隷属している。
砲手にせめて真実の一辺でも伝えたいという感情は偽りのものではないにせよ、サイプレスが信じたほどの真実からは、遠い場所にある。
この死した楼閣都市を、巨大な墓標と化した都市を調査すること。その時点ですり替えが行われている。機能維持のために稼動している機体を発見して、権限を奪取するという目的が先にあり、同情や親愛は、サイプレスの精神を望ましい方角へ誘導するために後付けで発生した幻に過ぎない。
蒸気と共に歩む者とはそういうものだ。
意識という蒸気の如き不確かなものに、都合の良い未来を映写されて、その存在しない終着点に向かって走り続ける。
生ける屍。白痴の理想郷へ堕ちた不死病患者に対する冒涜的な死者蘇生術。
「これで綺麗になりましたね。あーあ、やっと仕事が始まります。楽しくって清々しました。ゴミの片付けは何万回でもやりたいですね」
ノイズだらけの脳髄が奇妙に浮ついた言葉を出力し続ける。
サイプレスとて己の状態について全く無知であるわけも無い。
疑問さえ抱かせないというのが認知機能のロックのあるべき形だが、サイプレスの稼動時間はあまりにも長大で、異様に屈折した精神構造は、時として思考制御の楔から彼女を解放してしまう。
だが次に彼女が正気に戻ったときには、砲手のことなど真実思い出せなくなっているだろう。
他のスチーム・ヘッドの活動の痕跡が消え失せた塔の頂上に、サイプレスはただ一人で立った。
月の無い暗い夜の湖畔に迷い出でて佇む亡霊のように己の位置を見定めようとしていた。水平線の果てから虚空を割り断ち、世界を二分する黒い塔。あるいは太陽や月よりも余程実在性が高く感じられる。サイプレスのいる地点に関わらず、海上では常に見つけることが可能な正体不明の建造物。
きっとあそこに辿り着けば何もかも分かるんです、とサイプレスは信じてもいない空想を口にする。
信じていなければ一歩も進むことが出来ない。
進む理由が無い。
不死病患者とはただ生きているだけで幸福なのだから。
「ここから先はあのいけ好かない人工知能に任せますか。目覚めなさい、UNFANG。アルファⅢ<サイプレス>ⅩⅥの全機能を委譲します。この不朽結晶連続体を掌握し、再構築し、当機を可能な限りあの不明な建造物へ近づけなさい」
サイプレスの言葉を受けて、姿無き同胞の声が応答する。
『おはようございます、ナンバー16統括支援機アンファング、要請を受諾しました。言詞剥離機構、正常作動を確認。接触中の不朽結晶連続体へ干渉開始。無意味化と再編を実行中……』
アンファングの指令で、代替世界に保管された無数の干渉装置がアンロックされるが、これらの操作はサイプレスには出来ない。
そもそも彼女たちに要求されているのは、自身が機能停止するまで人格記録を蒐集し、人類を再生出来るような拠点を探し続けることだけである。
アルファⅢとしては出来ることが異常に少ないが、それと引き換えに得たのが超越的な耐久能力だ。
統合支援機UNFANGは、こうした<サイプレス>シリーズの欠点を補うために非可知空間で稼動している極めて特殊な機体だ。分類としてはアルファⅡとなる。命令言語で編まれた非人間的な知生体だ。
現在でも使用可能な調停防衛局の設備、その最後の一つである。
声が何となく自分と似ているので、おそらくTモデル不死病筐体なのだろうとサイプレスは大雑把に想像しているが、当初は親近感どころか仲間という意識さえ希薄だった。
唯一残された同郷の戦友であるという認識が芽生えたのが何時だったのか、覚えていないほどだ。
「もしもし、アンちゃん。他からのサイプレスからの通信とか入ったりしてねーです? ひとりぼっちはやっぱり厳しいです」
『要請を受諾。ログを確認中。エラー、アドレスを取得できません。通信可能な時間枝を確認出来ませんでした』
「そうですか」
予想通りの返答だ。何せ一度も通信に成功したことが無い。
だが、久々に聞き慣れた声に触れられて、サイプレスは蒸気甲冑の中で僅かに口元をほころばせていた。
「何万回も同じこと言わせておいてこんなこと言うのも申しわけねーですけど、たまには良いお知らせが聞きたいですね。アンちゃんのスペシャルログインボイスとか欲しいです。ハッピーバレンタイン、サイプレス! とかねーです?」
『ナンバー16へ通達。ご期待に添えず申し訳ありません』
「そのテンプレ音声も聞き飽きたですよ。聞いてて寂しくなるので、声音とか言い方だけでも変えて欲しいです。もっと親しみを込め……」
『インフォメーション。その機能は今後のアップデートをお待ちください。通信サポートセンターへアクセスしますか? 運営へのお便りフォーラムを開きますか?』
「まったく。お堅い人だってよく言われねーです?」
『サジェスト。オンラインアシスタントに感情の機微は不要かと思われます』
この遣り取りも何回繰り返したことか、とサイプレスは穏やかならぬ気持ちになるが、同時に奇妙な安らぎも覚えていた。
そうして初めて、自分が精神的な負荷を受けているのを自覚したが、何故なのかまではもう分からなくなっていた。
アンファングの擬似人格は様々な選択肢を提示してくるが、大抵はもう使用出来なくなっている。オンラインヘルプすら閲覧不可能だった。彼女を起動出来る場面は限られていると言うのに、使えるオプションは全て検証済で、サイプレスはほぼ全ての会話パターンを聞いてしまった後だった。
アンファングに頼るようになったのは、サイプレスの旅が始まってから随分後のことなので、元々どの程度の完成度だったのかは、判断が付かない。高度人格補正式による高精細擬似人格使用のプライベート・カウンセリングを受けていれば、現在の心境ももっとポジティブなものになっていたのだろうかと思うこともある。
ただし、その場合はおそらく現在の無味乾燥な音声ガイドに耐えられなくなっていただろう。
現在ですら一方的に感情移入して、「アン」などと、らしくもなく愛称を付けてしまっている始末だ。
無駄口を叩いている間にもアンによる連続体改変作業は進行していた。
目に見えた変化は特にない。ただアズール・ミレニアム・ファクトリーと呼ばれていた施設は、着実にその特性、即ち都市としての在り方を失い始めていた。
かつて崇められていた神の名が零落して古い碑文の中に現れる誰にも意味の分からぬ文字列となるようにかつて人類を庇護していた偉大な統治機構は急速にその輪郭を失いつつあった。
『管理者権限の削除を実行中……』
同様の物質をぶつける以外には干渉不可能と言われる不朽結晶だが、そこに付与された属性を引き剥がすことだけは可能だ。
誰の管理下にも無いブランクの状態に戻せば、そこには新たな管理者として名前を書き込むことが許される。
相応に高度な技術が必要であり、また言詞剥離も極めて繊細な作業だが、不可能では無い。
アンが現在でも使用出来る数少ない機能が、言詞剥離、即ち構造体の侵奪だ。
理想的に表現すれば、アンは他者の造り出した不朽結晶を支配下におく権能を持つ。
ただし、構造体の成員に抵抗された場合は全く効果がなくなり、アンは敵対者にテンプレート通りの協力依頼文を自動送信するだけの可愛らしいアカウントになってしまうが。
今回は順調に連続体の掌握が進んでいた。新たに書き加えられる名前はアンとサイプレスだ。
サイプレスはと言えば、アンが名義の書き換えを進める傍ら、この塔の如き残骸について一通りのデータを収集していた。
どうやらこの都市の守り手は完璧に、一機残らず機能停止しているらしい。
都市は都市でなく、墓標は墓標でなく、ただの朽ち果てた廃屋となる。
人類文化の痕跡は掠れたインクのように滲んで、もう誰にも見通すことは出来ない。
「アンちゃん、この連続体をロケット推進器に……それはちょっとやだな」ぽつりと呟く。何故かは、自覚出来ない。「電磁加速装置に改変してくれますか。使える部品は全部遣って下さい。エネルギーバイパスから装甲材の一枚に至るまで全部全部」
『疑義を提示。この施設は人類文化継承の中心的施設であったと推測されます。全てを作り替えるのですか?』
「この施設の人格記録は全て当機が収容済です。ここはもう何の意味もねー無価値な施設なんですよ。いくらでもぶっ壊してもノークレームなので心配は要りません。どれだけの歴史を積み重ねていようと、どれだけの成果を上げていようと……どこにも辿り着かなかったのなら、そんなのは、無いのと同じですよ」
『現にあると進言します。ここに人類文化の一つの終局があることは否定しがたい現実です。内部には不死病患者も多数確認されています』
「ある、というだけで何か意味が生じるなら、当機はとっくに人類を救えていますよ。アンちゃん、歴史的価値なんてどこの誰だか知らない幸せな人たちに任せておけばいいじゃねーですか。そんな人たちがいればの話ですが」
この会話は何回目ぐらいだろう、と考えながらサイプレスは卵型の蒸気甲冑で肩を竦めるジェスチャーをした。
「真理だとか本質だとか、役に立った例しがねーです。頑張れば報われる。歩き続ければいつか辿り着く。なるほど正しいですね。だけどそんなのは正しいだけですよ。何の慰めにもならねーです。大事なのはいつだって実益です。当機がやりたいのは、この塔を使って自分自身を打ち上げて、少しでもあの曰くありげな黒い塔に近付くことです。失敗した都市に心を傷めるのと、この失敗の塊を利用してもっと利益の出る方向へ向かうこと。どちらがより人類の未来を繋ぐ行動に近いですか?」
『疑義を提示。どちらが近いと思いますか?』
「何についてですか」
サイプレスは動揺した。あるいは動揺している自分に気付いた。
『貴官の意志に関して確認をしています』
「言ったとおりのことしか思ってねーですよ」
『要請を受諾しました。変換シークエンス、開始します』
責めるような口調でありながら、アンの指摘はいつも通り機械的だ。
以降の動作をしばらくモニタリングしたが普段と何も変わらなかった。
誤動作だろうか?
だが、意思確認などされたのは今回が初めてだった。アンは諾々と要請を聞き届けるだけで、こんな不可思議な指摘をするなど、無いことだった。
もっとも、無いと思っているだけで忘れている可能性は否めない、あまりにも長い任務だ。スチーム・ヘッドは眠らない。だから一つも忘れることが出来ない。だが都合の悪い記憶が、自身を構築するシステムによって次々に削除されていくことを、サイプレスは自覚するようになっていた。
なので卵型の鎧の中で、その娘は少しだけ考え込んだ。
落ち着かなくなって塔の屋上のその外周をふらふらと歩き回った。海を覗き込んだ。
蒼く澄み、深い部分で濁って渦を巻く皆死の潮の渦を見た。歪んで潰れた太陽が波の動きに従って不可思議な変形を延々と繰り返している。何か忌まわしい暗示のように感じられた。
太陽の形が思い出せなくて空を見た。
滑落しないよう何歩か後退して遮光性の備わったレンズ越しに太陽を見上げて物思いに耽った。
そして何を考えていたのか忘れた。
サイプレスは自分が何か忘れたことに気付いた。思考のログを確認したが不自然な空白があった。強引に削り取られたような断面。何について考えると都合が悪いのかサイプレスは考えた。それも忘れてしまうだろう。
だが芽生えた思考は永劫の虚無へと消えるわけでは無い。外観上それは失われたように見える。だがスチーム・ヘッドは眠らない。
いつか全ての任務から解放されたときサイプレスはそれを思い出せるようになるだろう。
「……答え合わせなんてしてくれるやつはいねーですよ。少なくとも当機、わたしには」無力な娘は呟いた。「最後の最後には全部を振り返れるのかもしれねーですが、話し相手はそこにいません。自分の人生の最後に立っているのは自分だけです。だからどこか暗い場所で呆然として立って、取りこぼした真実だとか失ってしまったものについて一人で考えるしかねーんです」
サイプレスは何を考えていたのか忘れた。
自分が何か忘れたことに気付いた。
そして何を忘れると都合が良いのかまた考えた。
都市のことを考えた。サイプレスは人間が嫌いだった。だが皆死んでしまえばいいと思えるほど嫌いでは無かった。全滅した都市を幾つも目撃したはずだが記憶には残っていない、ということを彼女は覚えていた。
耐えられないから忘れてしまったに違いない。
今回もきっと同じだ。自分は都市のことを考えていた。
朧気な意識の中で、薄暮を歩む滲む影の如き理性が、ありもしない過去を夢想する。潮騒に耳を澄ます幸福な人々。どのような暮らしを送っていたのだろうか。魚はよく獲れたのだろうか。畜産だってしていたのかもしれない。ワイン農場も存在したことだろう。クリスマスを祝う風習はあっただろうか。きっと数百万の営みがあったはずだ。愛し合い、助け合い、命を育み、連綿と歴史を繋げてきた一団が存在した事実。それは誰にも否定が出来ない。瞬きのうちに消える残影のごとき証でも、それが存在していなかったと断言することは許されない。
死んで然るべきだったなどと言うことが誰に出来るだろう。
サイプレスはひとりぼっちで、他者を嫉み、どいつもこいつも死んでしまえと実のところ思っている。
だが死んで当然だったなどとはやはり思えない。
彼女は裁き主では無い。嘲弄癖があるだけの臆病な娘だった。
この瞬間においてはな何をどのように考えていようと無意味だった。都市は壊滅しておりかつてどのような豊潤な時間があったのだとしても全ては崩落した後だった。一切は敗死した。記念碑に刻まれた辛苦、祝福されるべき歓喜は忘却の渦に飲まれ、虚無の洞へと沈み込み二度と帰らない。考古学者なら彼らの歴史を読み解こうとしただろうがサイプレスの任務は救世であり文化的な哀切を読み解くための力は持っていなかった。どうであれ都市は都市でなく、碑石は碑石でなく、もはや墓標ですらない。
サイプレスが踏みつけにしているのは膨大な質量を持つ再利用可能資源だ。
それ以上の価値も意味も無い。
ここに至っては彼らは存在しなかったのと同じだった。
何もかも無駄だった。きっと生まれてこない方が幸せだった。
「そんなわけねーですよ」娘は呟いた。「みんな幸せに生きるべきでした」
『同意します』とアンが応答した。
サイプレスは鎧の中で頷いた。
そして自分が何を考えていたか忘れた。
今度はもう自分が何か忘れたことにも気付かなかった。
アンファングはサイプレスでは実行出来ない処理を着々と進行させていた。
不朽結晶連続体の再構築や属性の書換は論理学や言語学、数学的な能力が必要で、人間的な思考能力ではとても真似が出来ない手続きが必要だった。
今回の件について言えば、サイプレスでは千年必要な処理だが、アンに任せれば一時間で終了する。
だからそこには失われて久しい『一時間』という退屈な時間が現れた。
サイプレスは太陽が動くのをじっと眺めていた。
真っ青な空を太陽が無言で横切っていくのを見ながら「進むべき道が定まっているって羨ましいです」などと愚痴をこぼしていた。
アラートが鳴ったときだけは、海を見た。空から首吊りの縄の如き繊維束が投げ込まれたかと思うと海が泡立ち世界を食らう蛇の如き水柱を立てながらシルエットだけは逆さになった罪人に似ている異様な有機的構造体が引き上げられた。悪夢的な泡、ないし悪意ある祈りが結実したかの如き腐れた葡萄のような七つの瞳でサイプレスと彼女が掌握しつつある都市を睨み付けてきた。
<十三人の吊るされた男たち>の端末だ。本当にそうなのかは、確かでなかったが。
『撃墜した』と認識して宇宙を戒める厄介な意識体が霧散したために、ようやく肉体の再構築に成功したのだろう、とサイプレスは肉体的な視覚能力を制限しながら推測した。誰が撃墜したのかは思い出せなかったが、無性に嫌悪感が募った。
「お呼びじゃねーです」と吐き捨てて装甲に包まれた手を翳し、蒸気機関の出力を一段階向上させた。閉じ込められた娘の肉体から血液が採取され、熱交換に消費された。
彼女の肉体がこの認識宇宙から消滅した。不死の血による黙示的な取引。
娘は急激な負荷に耐えきれず五度死んで五度蘇った。鎧の排気孔から血煙が噴き出した。
巨影は一瞬でプラズマ場に飲み込まれた。
跡形もなく爆裂した。
それだけだった。
目に見えた干渉は起こらなかった。
過程は省略され結果だけが漏出していた。
アルファⅢ<サイプレス>の運営する代替世界では数万基のケルビム・ウェポンが稼動しており無法な火力を発揮することが可能だった。異次元からの影であろうが複雑にデザインされた悪性変異体だろうが形が有る限りサイプレスの敵にはならなかった。
彼女は無敵だった。
肉があり骨があるものは数万の砲台から同時に投射される灼熱の運命に耐えられない。
何者も彼女の行く手を阻むことは出来ない。
だから、それは何の意味も持たない強さだった。
彼女の目的は進むことではなく辿り着くことだ。
例えば風車を悪しき竜と見做して挑みかかる戯曲の騎士にまさしく屠龍に関する技術があったとして、それが果たして騎士の旅の助けになっただろう? あるいは夢から醒めるための力が必要だった。この狂った夢、連結され、発狂し、修繕される見込みの無い、ちぐはぐに縫い合わされた無残な人類史、この致命的終端から帰るための奇跡が。
これまでに撃墜されてきた端末どもは次々に蘇生してきたがそのたびにサイプレスが焼却した。在るべき場所に全てが還されていった。端末はそれら一匹一匹が平原の街を丸ごと変異せしめ、人間を人間ではない何かに変換し、無限の苦痛へと突き落とす悪辣な脅威だったはずだが、サイプレスは、専らそれらが焼き尽くされた残骸が墜落して派手に水飛沫を上げてそこに虹がかかる時間の方に関心を持った。
轟音と共に崩れ去る水の柱に七色の光が瞬く。
きらきらと輝いて見えた。変わり果てた彼らがきっと夢見ていた、こんな有様ではない未来のように。
そして至った現実と同様に無価値に消え失せる。
無秩序に泡立つ水面だけが残る。
『ナンバー16へ通達。該当構造体の改変に成功しました』
アンの淡々としたアナウンスを聞いて、サイプレスは足下を何度も確かめた。
楼閣都市は外観上何も変化していないが電磁加速装置としての性質を現実に付与されていた。
物理的にはあり得ない改変だったが、そもそも不朽結晶の機能は、概して見た目通りではない。1ミリメートルの低純度不朽結晶の板ですら、装甲として定義付けられたならタングステン製の対戦車砲弾を防ぐようになる。
形而上学的な世界でどのような形をしているかのほうが重要だった。
そしてそれは人間の意識、人間の眼球、人間の脳では認識出来ない。
見えるのは不朽結晶として人間の認識する世界へと突出している部分だけだ。
これで物質としての形態を全く持っておらず、素材として利用された物体や人格がこの世に全く存在しないならば、神の御業にも等しいだろう。だが今回は都市規模の不朽結晶連続体をそのまま素材に使っている。都市の形状をした塔のような施設が、見た目はそのままに電磁加速装置として機能するように作り替えられても、それはアンファングのような特異な知的構造物、非人間的な世界の住民からしてみれば、大した仕事ではない。
とは言え、アンファングの性能ではこれが限界なのも、事実だ。
サイプレスたちから何時でも、どこからでもアクセス出来るというのが彼女の肝要な部分で、機能制限を重ねた結果実現された希有な特性だった。かつてアンは最も完成品に近いアルファⅡだった。世界そのものだった。
もっと偉大な力が存在したはずだった。
サイプレスは時折アンならばもっと効率的に世界を救えたのではないかと考えたが、あるいは実際にどこか知らないところで救われているのかも知れず、確かめようがなく、またサイプレスが活動している環境には現実として関係が無かった。
彼女だってきっと何かと戦っているのだからこれ以上を望むのは酷だとサイプレスはいつものように結論づけた。
射角を確保するために塔を物理的に傾けた頃には、もう夜になっていた。
あまり効率的な改変とは言えなかったが、サイプレスもアンも、スマートな解法を持ち合わせていなかった。この動作を実行するだけで一苦労だった。
名義を自分に書き換えただけで、ただちに機能を把握することは出来ない。地道に都市を一時的に復旧させて存在を励起し、どうすればどうなるのかを確かめた。
最終的に底部に存在するバラストやアンカーを調整して、楼閣都市の支持力が重力に負けるギリギリまで角度を付けることに成功した。
光ある環境なら、遠い昔に観光名所として名を馳せていた斜塔めいて傾いた、現在の姿が明らかだっただろう。違うのはこの状態を維持出来るのは物理的に極めて短時間で、観光客を呼べるほど安全ではなく、おまけに賑わう見込みが今後一切無いということだ。
機能を発揮した後は制御を失い、自重によって倒れて、海に沈むか、浮かぶかして、とにかく塔ではなくなると予想されたが、サイプレスにはどうでも良かった。どうせ二度度戻らないのだから。
塔の天辺、その中央付近に拳を叩き込み、しがみつきながら、サイプレスは夜の闇、そして眼下で蠢く黒い海面、黒い水銀の如く煌めくおぞましいものを見ていた。<吊るされた男たち>の端末が復活する気配は消えていたが、潮騒が奇妙なほどに神経を恐怖させた。
静かに反響して聞こえてくるその音は、目も口も無い異郷の旅人たちの雑踏のように聞こえた。何か見てはいけないものが遠くでパレードをしているような気がした。センサーには反応が無いが誰かが自分の傍にいるような錯覚が常にある。海底で迎える窒息する孤独も苦痛だが、この宙づりの環境での夜にも混沌とした恐怖が纏わり付いてくる。
それでも平静を保てたのは、宙づりの浮遊感が彼女の精神をいたく興奮させているのと、今回はアンが起動しているためだ。
どうしても必要な場面でしかアクセス権限が解法されないため、普段は頼ることが出来ないが、今回は違う。
暗闇の中で何度もアンの名前を呼んだ。
『どうしましたか、ナンバー16』という声を聞きながら、これに頼りすぎるとしばらくは寂しくなったらすぐに彼女を呼ぶことになる、と自分を戒める。
ずっとひとりぼっちの方が気楽なのだ。頼みの綱が答えてくれない状況は長く尾を引き、単なる孤独よりも凄烈に傷む。
しかし、今は心を安らかにすることに尽力した。アンとお喋りしながら、人類が言語を獲得する以前からずっと目に焼き付けてきた星々の輝きが柔らかに視界へ降り注いでくるのを楽しんだ。「あなたがたには当機が廃墟にへばりついたゴミみたいに見えているのでしょうね、ゴミみたいなもんですけど、いつまでも見下していられるとは思わねーことです」などと星座の神々へと毒づき、アンに窘められる。
それだけのことでサイプレスは幸せだった。
黒い塔のある方角への照準は大雑把に完了した。続けて発電設備を擬似的に再生させて、電磁加速装置と化した設備に砲台の性質を与える。
そうすれば、一時的に実在性を付与された仮想弾頭を、打ち出せる。
後は座標をその弾頭とリンクさせるだけで、サイプレスは音速の十倍の速度で空中へ躍り出ることが出来る。
もちろん、人間ならば射出の衝撃で死ぬ。不死病患者でも圧壊するだろう。
仮に何らかの保護装置に入れて打ち出したとしてもその容器ごと蒸発する。
だが不滅であることを約束された不朽結晶連続体を纏うスチーム・ヘッドならば、電磁加速されても決して崩壊しない。機能次第では内部の生体部分も保護することが可能だ。
少なくともアルファⅢ<サイプレス>には理論上可能だった。
『ナンバー16に謝罪します。今回も力業になってしまいました。この塔を噴進装置に改造すれば、負荷は軽減出来ました』
「何を謝る必要がありますか。力業でも業は業、役にも立たない神の御業よりずっとマシというものです。よくやってくれました、アン。これで旅程が短縮できます」
『しかし、疑義を提示します。何故、噴進装置に改造せよと命令しなかったのですか』
「え」サイプレスは虚を突かれた。「何故とは? 撤回はしましたけど」
『アンファングにはそれが可能で、貴官はそれを承知だったはずです。選択可能な状況下であれば最も安全な道を選ぶのがアルファⅢ<サイプレス>の仕様だと記憶しています。なのに貴官は電磁加速装置で自分を射出するプランを選択しました』
「……?」
サイプレスは理由を思い出そうとした。全く思い出せなかった。
「どうしてでしょうね。人間砲弾よりは人間ロケットのほうが良いし。確かにこんな廃墟、燃料として使い果たしても良かったはずで、それは分かっていたと思います」
『そのように再構築しますか?』
「不要です。この塔は潰しません」
考えるよりも前にサイプレスは応答していた。
言ってから、そう結論した理由を考えた。
「……散々弄くり回してやっと完成したところじゃねーですか。今更それは手間でしょう」
『了解しました。それでは、予定通り発射シークエンスを開始します。準備はよろしいですか』
「よろしいです。おやすみなさい、アン。いつかどこかで、また助けてください」
『良い旅を、ナンバー16。またのご利用をお待ちしております。あなたの魂に平穏がありますように』
夜の闇に光が満ちた。
星座が霞んで見えなくなった。
海中に没している発電区画が仮構された現実で再起動し、膨大な電力を発している。
かつて世界はこうした文明の光に照られていて、眺めているだけでサイプレスは「帰りたい」と思ってしまった。
アンが耳元で囁く、『予告します。貴官がリクエストしていた、良いお知らせについてです。これから進む先にはCRTICALERRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR
次にサイプレスが覚醒したときには、彼女は既に空中へと撃ち出されていた。
リンクしていたはずの仮想弾頭が無い。猛烈な速度で星座が後方へと流れていく。空の闇と海の闇の狭間を、卵型の甲冑は狂気的な摩擦熱で燃え上がりながら飛翔している。
さながら地上から天上へと意趣返しのために発射された流れ星だ。祈りも願いもこの狂気の弾丸とは無縁である。狂気しか無い。
発射の衝撃で肉体が粉砕されたため、一時的に意識の連続性が途切れ、前後の記憶が消し飛んでしまったらしい、とサイプレスは分析した。機体表面の温度は凄まじいものになっており肉体は蒸発こそ免れていたが甲冑の断熱性能を超えた灼熱が容赦なく娘の肉体を焼いていた。苦痛で気が狂いそうになったが狂わなかった。いつのまにか耐性が付いていた。おそらくこの意識は何度か発狂したあとバックアップから復旧したものだろう。
そういう状態であるため、最後にアンが言っていた言葉は、明確には思い出せない。
だが、この高負荷環境にあって、再生した心臓には活力が漲っている。
良いお知らせというのを信じますからね、とサイプレスは言った。肺と声帯は現在進行形で圧壊・焼損と再生を短いスパンで繰り返しており、彼女が考えているとおりには動かず、呼吸も満足に出来ない。アンファングとの接続はとっくに切断されていたが、それでも伝えたかった。信じていますからね。
それ以降、サイプレスは生体部分を壊滅させるに足る理由に対し、沈黙を貫いた。
苦しみしかないが、いつかは終わるのだと分かっていればどうということもない。
移動出来る距離がどれほどになるかは、実のところ分からなかった。力学的に無理のある形状の物体を無理矢理に、曲射で発射するので、電磁加速砲の砲弾に使うのと同じ計算式は役立たずになる。
それでも順当に行けば数十km離れた海面なり地面なりに、隕石のように激突する形で飛行が終わるはずだった。減速は困難で、軌道修正も許されず、目標地点の状況すら不明なため、確定的に言い切れる事項は極めて少ない。
リストに赤線で書けるのは「海底を歩いて行くよりは絶対に速い」ということだけだ。
眼球のみならず生体脳も加速度と焦熱に耐えきれないため、レンズで観測した景色を代替世界に取り込んで、それをノイズの激しい人工脳髄で覗き見るという迂遠な手段でしか状況を理解出来ないが、旅程は順調そうだ。
この場合の順調とは『自分自身がこのまま燃え尽きて消え去り再生出来なくなる可能性は無い』という程度の意味である。
事態は既に落着の瞬間の殺人的な衝撃をどう和らげるか考慮する段階に入っていた。
そのとき視界の端、星海と海嘯の狭間にある領域に、何か蒼い炎の塊のようなものが映った。
かなり離れた地点に存在しており、擦れ違う格好になったため、一瞬しか捉えられなかったが、人間の形をしているように思えた。
サイプレスは怪訝に思ったが自然現象だろうと結論づけた。
もしかすると自分と同じように弾丸となって飛行している機体がいるのかもしれないが、そんな偶然があるわけがないと愉快に思ったそのとき、視界の端に何か蒼い炎で形成された人間のようなものがまた映った。
ぎょっとしてしまう。先ほど見た得体の知れない炎と同じに思えたが道理に合わない。相手が何であれ自分はまさに空中を飛翔している最中であり交差した後また遭遇するなどあり得ないからだ。
視覚系のエラーかと考えたそのとき、ヒトの形をした蒼い炎がすぐそばにいるのを発見した。
サイプレスは焼け焦げた肺で息を飲む。
自分が発狂したのだと確信したがそれは明らかにそこに存在した。
何度も何度も同じ存在と擦れ違った。
何度繰り返しても異質な接近遭遇だったが十回ほど擦れ違うとさすがに慣れてしまった。
それでも不吉だ。発狂しているのは自分ではなく世界の方ではないのかと恐怖した。元より発狂した世界ではあるにせよ。
そうしているうちに突然視界が白く染まった。
反射的に顔を逸らそうとしたが、筋組織が焼け焦げているため、出来なかった。
システムが復旧したとき彼女は酷く混乱した。
夜が明けていた。
空に蒼があり、しかし地に蒼は無い。
一面の赤い土。
どこか見知らぬ荒野の上を彼女は飛翔していた。
海などどこにも無い。
月も星座も見当たらない。
剥き出しの眼球に映った死に絶えた世界のような荒涼たる風景。
卵の騎士は、知らぬ土地へと運ばれていた。




