番外編 アイテールとオリヴィア その3
「ずっと悩んでることがあるんです」
ベッドで二人して並びながら、アイテールは市長が、訥々と告白するのを聞いていた。
アイテールは茶化さない。人形のような美貌を持っているだけの、自分より背が高い女の背中を撫でながら、母親のように言葉を聞いてやる。
彼女には普段、不安を吐き出す相手が居ない。アルファⅢ<アテネ>は、泣き言が言える身分ではないからだ。
アイテールが認識している限り、態度がどうであれ、彼女とオリヴィアとの関係は良好だった。
放蕩癖には思うところがあったが、決して彼女自身が嫌いなわけでは無い。よく頑張っている方だと思うし、嘘偽りなく愛を注いでいた。
オリヴィアにもそれが丸きり分からないわけではあるまい。しかも他の<イージス>とは異なり、決して彼女の愛に溺れない。
それ故に安心出来るのだろう、オリヴィアは常にアイテールに頼り続けきた。
甘えられているのだろう。信じてくれないから、信じられる。愛してくれないから、対等でいられる。歪な関係ではあったが、オリヴィアにはこうした『出口』が必要だ。
「怖くて怖くて、ついに三年間、誰にも打ち明けることが出来ないでいました」
問題となるのは、オリヴィアは普段の奔放な性格からは考えられないほど、愛を裏切り、また裏切られることを恐れると言うことだ。
複数名と関係を持つ時点で個々人への裏切りだという指摘は意味を成さない。彼女にとって大切なのは信頼を一度でも勝ち取った事実だからだ。そして、弱い部分を見せるのは信頼を裏切ることだと思い込んでいる。
アイテールが距離を維持しているのも、単なる個人的感情だけでは無く、暗黙のうちに、状況の要請に従ったものだ。ここでアイテールまで彼女を受け入れれば、オリヴィアには本当に逃げ場がなくなってしまう。それを意識するようになってからは、アイテールはそのように、自分自身の意識を改変してきた。
オリヴィアが打ち明け話をするようになってから二年ほどになる。アイテールは『市長』がどれほど繊細で泣き虫なのか、どれだけ子供のような人格をしているのか、誰よりも知っていた。
「……アイテールはアルファⅢ<アテネ>の任務は知っていますよね」
「今更何を。次世代人類の揺籃の地たるミレニアム・ファクトリーを管理運営することだ」
「はい。革新連盟との争いの中でも、我らが始祖、世界生命管制機ウラヌスはオペレーション・プトレマイオスを完遂しました。人工太陽の打ち上げにより第五氷河期の脅威は去り、越冬を是としていた革新連盟も存在意義を失い、質的には継承連帯は勝利を収めました。しかし人工太陽のせいで地球環境の激変が見込まれます……異常気象も恐ろしいですが、海面上昇は避けがたい状況です」
何を分かりきったことを、とは思うものの、余計な口は挟まない。アイテールはオリヴィアの意思を尊重する。おそらく内容を整理しなければ、オリヴィアとしても心理的に言いにくいことなのだろう。
「人工太陽として展開しているアルファⅡ<プロメテウス>が安定化するまで三百年、地球環境が落ち着くまで最低七百年。私たちは水没のおそれが無い安全な場所で人類を保護しなければなりません」
そう言ったきり、オリヴィアは口を閉ざした。
何事か迷っている様子だった。
黒い視線がチラと注がれた。
アイテールは頷いて、言葉を継いだ。
「……重大なプロジェクトだ。百万規模の人口の移動都市を、洋上に五十基。実に世界人口の半分が、君たちアルファⅢ<アテネ>に命を委ねることになる」
いったいどうしたのだろう。アイテールは胸騒ぎを覚えた。こんなことは、確認するまでも無い当たり前の知識だ。計画に関わるメンバーなら誰でも承知している。
何より不可解なのは、相談に来たオリヴィアがわざわざプロジェクトに関する言葉を口にした点である。
基本的にこのティターニアの悩み事は他の<イージス>との接し方や、日常で傷ついた些細な事柄についてである。
自身の在り方や任務についての悩みは殆どない。
そのはずだった。
「怖いんです……アイテール、怖いんです」
「怖い?」アイテールは首を傾げた。「怖いとは?」
「……百万の命を、背負うことが、です」
吐き出すようにオリヴィアは言った。
「アルファⅢ<アテネ>としての任務を果たせるか、怖いんです」
「……何、だって?」
状況が理解出来ず、思わず問い返してしまった。
怖い?
怖いのは当然だろう。それは、怖いだろう。これ以上の重責はそうそうあるものではない。
百万の命について責任を任じられ、それを千年維持する。途轍もない任務だ。
だが、存在意義に関わる部分に対する使命感は精神の根底に完璧に刷り込まれていると、アイテールは思い込んでいた。
プロジェクトはもう何年も前から始まっていて……オリヴィアはそんな不安は一度も見せなかった。
「驚かせてごめんなさい……失望しましたよね……みっともないですよね……。でも怖い、怖いんです、怖くてたまらないんです……アイテール、私、どうすれば良いんでしょうか……。千年も生き続けて、たくさんの命を守らないといけない……私にそんなこと、出来るんでしょうか……」
絶句してしまう。
よりにもよって、そんな深刻な悩みを、スチーム・ヘッドへと変貌する前日に言うのかと。
同時に、自分は何と浅はかだったのだろう、と頭を抱えたくなった。
不敵そうな立ち振る舞いや、奔放な私生活とは裏腹に、色々なものを怖がる性格なのは、知っているつもりだった。
だがそれは人間存在として不慣れな事象についてに限られると誤解していた。
まさか、自分自身を待ち受ける運命そのものにも恐怖しているとは、思ってもいなかった。
感じていて当然の恐怖が、彼女の中にあると、全く考えていなかった。
見誤っていた。
オリヴィアはずっと、怖かったのだ。
だから気丈に振る舞い続けた。
愛し愛され、信頼される存在になろうと繋がりを求め続けた。
彼女は恐怖と戦っていた。
たった一人で。
アイテールをすら欺くほどの真摯さで。
「……一度も聞いたことがなかったよ。もっと早く言ってくれれば……」
「こんなの、誰にも話せませんよ。人類の未来を担う機体に、その自信が無いだなんて」オリヴィエは暗い瞳でじっと床を見ていた。「でも……せめて<イージス>全員と愛し合えたら、信じてもらえていると確信できたら、出来ると思えるようになるんじゃないかと思って……今日まで頑張ってきました。でもアイテールお姉様だけは、やっぱり私の好きなようになってくれると思えません。だから……未来を信じられなくなって……」
「そんなの……どうする。君のやりたいことの一つや二つなら、今からでもしてやるが」
「それは本心からの愛では無いですよね。単なる義務心からの申し出です。そうじゃないんです。心から求め合い、愛し合えないと……愛し合えていると私が実感できないなら、虚しいだけです。そして十人しか居ない<イージス>さえ支配できないなら……都市の運営なんて……やっぱり絵空事ですよ」
そんなことで、とアイテールは眩暈を覚えた。そんなことで精神の安定を得ようとしていたのか?
そんなことのために純潔の切り売りを?
そんなくだらないことで?
そんな無邪気な願掛けで、倒れてしまいそうな体を、支え続けてきたのか?
下手に能力が高くて、見た目が大人びているせいで、誰もが騙されているが、アイテールからしてみれば、オリヴィアは子供同然の価値観の持ち主だ。楽しいことはいくらでもしたい。好きになってもらえると嬉しい。悩み事は誰かに聞いてもらいたい。与えられた任務は立派にこなしたい……そうした素朴な感情を当たり前に有していて、そしてそれらの要素が相矛盾していたとしても、妥協や止揚が一切出来ない。
幼い精神性をひた隠しにして、大人らしく振る舞おうとしてきたのか?
誰かと抱擁して微笑んでいる間にも、内心では震え続けていたのか?
どんな気持ちでアイテールに愛を請うていた?
自分はこれまで何を見ていた? 何を知った気になっていた?
アイテールは肉体をコントロールした。決して表情を曇らせてはならないと自分自身に暗示を掛けた。
全くオリヴィアの言ったとおりだ。何を訳知り顔をしていた?
いくらでも助けになれる場面はあったはずだ。だというのに、お前は全て見逃してこの最後の夜に来た。
聞いているか、お前に言っているんだ。アイテール。オレはお前に話しているんだ。お前の目は節穴だ、アイテール。
「どうしたらいいんでしょう……お姉様。私、私こんな状態でアルファⅢになるなんて、出来ない気がするんです。お姉様。アイテールお姉様。私の大好きなお姉様……本当に、本当に大任を果たせるのでしょか。アイテールお姉様に、信じてもらえない、この私が、何の偉業を成せるんでしょか……」
「……信じていない?」
猛烈な困惑と自責に飲み込まれていたアイテールは、その言葉に不意に我に返り、ぴくりとした。
「オレが君を信じていないと?」
「信じてないでしょう? 体どころか唇だって好きにさせてくれません。私の話は聞いてくれますけど、アイテールが話してくれる昔話は嘘ばかりで、しかも詳しい部分はいつも誤魔化すじゃないですか。私のこと、信じてくれていないから、本当のことは話せないんでしょう……」
「……オレはオリヴィアを信じているよ。本当だ」
「どう信じてくれていると言うんですか。アイテールというのだって、偽名ですよね。人間の名前じゃないです。考えるまでもなく嘘です」
「君だけにではなく全員にそう名乗っている」アイテールは眉を下げた。「それに、そんなのは些細なことだ。君を騙すようなことはあんまりしていないよ」
「もっと大きな隠し事が……あるんじゃないですか? でも信じられないから、教えてくれない」
「信じてくれない、信じてくれないと言われても。いったいどんな嫌疑を抱いているんだ?」
「ずっと思ってたんです。もしかすると……アイテールお姉様も、私と同じ、誰かの複製体なのかなって。いいえ、ティターニアの調整個体なんじゃないかって……」
「それは……」
「私のためだけに作られたお姉さんなのかもって、期待していた時期もありました。私を信じてくれるようになったら、もう大丈夫だって思えるようになったら、打ち明けてくれるんじゃないかなって。本当はどうなんですか。本当は、そうじゃないんですか?」
「それは……違う、かな。期待を裏切ってすまない。君のような身体的特性があるのは事実だと思う……。人より力も強いし……怪我も治りが早い。でも……私は……オレは、本当に敵地を彷徨って生きてきたんだ」
上辺だけ繕ってももう意味が無い。
アイテールは本心を告げた。
「信じていないないから黙っていないんじゃない。嫌われたくなかった。気分のいい話ではないから」
正直に言えば、信じれている相手に幻滅されたくないのは、アイテールも同じだ。
現在でこそ継承連帯の庇護下で生活しているが、彼女の過去は、人間の生き方として丸きり壊れていた。
継承連帯の仇敵たる革新連盟の勢力圏は文字通りの地獄だ。そしてそこから逃げようとしない限りは、怪物よりも人間の方が危険だった。脱出し損ね、閉じ込められた市民は、皆暴徒や盗賊、強盗、気の触れた殺人鬼になっていた。
家族を連れて地獄で生き抜くとなれば、相応に忌まわしい目にも遭う。
アイテールほど戦闘に熟達していれば、凶暴化した不死病患者がひしめく廃市街に潜り込んで、食料や物資、武器や弾薬を取って生還するのは、それほど難しくない。
だが一人で災禍に飛び込むことは出来ても、家族と一緒にそんな感染症の蔓延する危険地帯で暮らすのは不可能だ。人間は人間が生きられる場所でしか生きられない。
そして未感染の人間が暮らせる場所は、少ない。
否応無しに他の生き残りと生活圏を被らせるしかなくなるが、どれだけ警戒して逃げ隠れしても、ハイエナのような賊の目を逃れるのは難しい。彼らは必死で、発狂しており、そして不死病患者と戦うよりそこから生還した人間を襲う方が合理的だと知っている。
何日かは身を隠せる。一週間は敵を殺すだけで済む。だが一ヶ月のうち一回もヘマをしないのは難しいし、半年に一度は賊の集団に追い込まれる。一年に数回はどうしようもなくなる。廃墟で追っ手に捕まり、食料を奪われる。物資を奪われる。身包みも剥がされて、散々に嬲りものにされる。連れていた子供たちも同じ目にあう……。
だがアイテールはいつでも隙を突いてそいつらを皆殺しにする。泣いている子供たちの汚れを拭ってやる。だが長居は出来ない。傷の治療も後回しだ。物資を取り戻す余裕もない。何よりも逃走が優先される。そうした悪漢どもも、結局は集団ごとに食い合いをしているからだ。次のハイエナが来る前に、全てを投げ出してでも逃げないといけない。
這いずってでも生きるしかない。
それが日常だった。
オリヴィアは怖がりで、泣き虫で、臆病な女の子だ。程度は見誤っていたがアイテールはそれを知っている。だから酷たらしく、下劣で、吐き気がするような記憶については、聞かせたくなかった。どんなに偉ぶって、傲慢に振舞っても、性根の部分が優しすぎる。
きっと耐えられないだろう。
おまけに、アイテールのことを乙女だと思って居るぐらいだ。どれだけの目に遭ってきたのか聞かせれば、すっかり幻滅されてしまうかも知れない。
だが、全てを隠し通すのは不誠実だとアイテールはついに覚悟した。
オリヴィアの背をさすりながら、口を開いた。
「……アイテールというのは、昔、親しい人につけてもらった愛称だ。……本名は少し、奇妙でな。あまり知られたくなくて……どうせ君はもうすぐアルファⅢの特権で知ることが出来るだろうから、言ってしまおう」
「私と同じ、ティターニアの一人なんでしょう?」
「違う。ただの人間ではないかもしれないが……オレの名前は……ドミトリィという」
「……ドミトリィ?」呆気に取られたような、不思議そうな声で復唱する。「それってロシア系の男性名ですよね」
「そう。ドミトリィ五世。それがオレの本名だ。だが座りが悪いだろう、別にロシア人じゃ無いし……見ての通り女だし、中身も女だ。その加減で、小さい頃は悪童どもと散々に喧嘩したが……腑抜けた友人に絆されてしまったんだ。彼に咎められて、いっそ自分の名前を変えようと言うことになった。『ドミトリィの五番目』に準えて、五番目の元素、『アイテール』というわけだ」
「そう、だったんですね。ふうん。五代も続いている家の人だったんですね……」
「騎士や軍人の家系だそうだ。特別な血の一族で、次の家長として認められた人間がドミトリィの名を継ぐらしい」
「あはは。それじゃあお姉様はただの人間で……昔から優秀だったと言うんですね」
「ううん。込み入った話だが、うちは傍家で、オレは本物のドミトリィじゃないんだ。正式なドミトリィ五世は他に、ちゃんと本家にいた。本家で何人かいる子供のうちで、一番優れている者がドミトリィになる。オレは無関係なはずだった」
「……じゃあ本家の人に気に入ってもらえたんですね。お姉様は強くて可愛くておっぱいも大きいですから」
「……本家筋がテロで死んでしまって。本物の五世だけじゃない。いっぺんに本家のほぼ全員が全滅したんだ」
唐突なことに驚いたらしく、「……そんなことが?」とオリヴィアは眉を潜めた。
「あり得ないと思うだろう。もっと悪いことには、あちこちでテロが続いたり、同時期に暴動が始まったり、本家だけでなく親戚筋もみんな死んでしまったらしいと言うことだ」
「さすがに偶然とは考えにくいですが」
「でも偶然だった。考えにくいにせよ、そういう発表だった。父曰く、組織……何の組織か知らないが、何かの諜報機関だろうな、そこからは、それ以上の情報は与えられなかったらしい」
でも信じられるわけないだろう、と降参するようにアイテールは小さく手を上げた。
そんな偶然が有り得るか? 誰が信じると言うんだ?
この話をするときはいつでも微笑してしまう。あまりにも突拍子もないからだ。どう考えても陰謀や忙殺、政治的駆け引きの結果だ。まだ世界大戦が始まる前だった。その段階で何十人いた血族が残らず死に絶えるなどあり得ない。
だが、死んだと言うこと以外は何も分からないのだ。
「ほんの数ヶ月で殺戮は進行した。残りは本家筋から遠く離れて、名を変え戸籍を変え、北米で暮らしていた私の家系だけになった。私……オレは、まだ母の胎の中だった。その状況で、とにかく血を絶やしてはいけないと父は決意したらしい。娘のオレに改めてドミトリィ五世を継がせて、長子に施すべき軍事教練をオレに叩き込んだ。まぁ、そんなことしてもな。ちゃんとした後継にはならないよ。立派なガキ大将の完成だ。暴れたものだよ、まぁ十四かそこらで成長が鈍化して、スカートを履くようになり、胸が大きいだけの小娘になってしまったが……そこまではさほど悪い人生じゃなかった。しかし北米でも戦争が始まって、頼りにしていた両親も……飛んで来たミサイルで家ごと消えた」
「……そうでしたか」
「その時期には、私たちは実家から離れていて難を逃れた。でも、それで安心してしまった。自分たちだけをすっかり全滅させようとする流れが存在する、何かが動き出してると確信したのは、自分の家族からも死者が出てからで……」
腑抜けてたのかな、私も、と少女は己を嘲笑う。
「死ぬはずがないと思っていた人の死体を見て目が覚めた。兄姉を連れて、もう存在しない実家へと逃げた。屋敷の地下シェルターは焼け残ってるだろうと思ってな。予想は当たったが、肝が冷えたのはその日の夜に空襲警報が鳴ったことだ。急いで潜り込んで、そこで三年ほど暮らした。オレの両親を含めて六人で使うはずだった備蓄を、三人で少しずつ消費して過ごした。その夜の少しの間は緊急放送がラジオから聞こえていたが、三日ほどで何も受信出来なくなった。怖かったよ。戦争が始まったんだと分かった。家族を守ることだけ考えた。オレにはもう何も無かったから。一ヶ月ほど経ってからは時々外に出て様子を伺ったが、とっくに街は壊滅していた……もうすぐ食料も尽きるというところで、さらに外に向かわざるを得なくなって……待っていたのは……不死病患者と変異体がそこら中に溢れて、盗賊同然になった市民が闊歩する汚泥の底だった」
シェルターから出てからの一時間で早速暴漢を殺す羽目になったとき愕然とした。
こんな世界でどう生きていけば良いのか?
不死病が蔓延した都市を見下ろしながら思った。
皆殺しにするという選択肢すらそこにはあり得ない。このゾンビどもは、死なないのだ。
「酷い……過去ですね。辛かったと思います。しかしそれは……」
オリヴィアは問いかけようとして、少し躊躇った。
アイテールが続きを促し、顔を撫でてやると、ようやく言葉を繋げた。
「それは、擬似記憶かもしれませんよ……?」
「……全部植え付けられた記憶だと?」
「はい。ティターニアには、そうやって過去の記憶をデザインされた個体もいるんです。スペックは落ちますが遺伝子操作で容貌もある程度変えられます」
「オレがそれだという根拠や理由はあるのかな」
「私、アルファⅢ<アテネ>は、五十機の生産が予定されています。つまり五十機の同じような都市が作られるわけですけど、それでは多様性が失われるとは思いませんか。もちろん入植者の傾向を変えることである程度は確保出来るでしょう。でも、他の<アテネ>にるティターニアと私に、そこまで思考的な差異は無いはずです。そうなると一機がした失敗を全ての機体が繰り返す危険性があります。なので、揺らぎになる変数を用意する必要があると思うんです」
感情の制御は未熟だが、理路は通すのがオリヴィアの特徴だ。そして思いついた理路に夢中になる。割り切るということができないまま、妄想にも等しい可能性を追求し続ける。都市の命を背負うことに思い悩むのは、そうした性質の負の側面だ。
しかし、現在のオリヴィアは自分の想像を開陳できて嬉しそうだった。少しでも気が紛れたなら良い傾向ではあるが、アイテールとしては擬似記憶の可能性を指摘されて、あまり良い気分では無い。
「……まぁ、妥当な推測だ。たぶん、それなら護衛である我々<イージス>たちがそうだろうということで議論は終わりじゃないかな。それとオレの過去は関係がない」
「いいえ。<イージス>がその役割を担うのだとしても、変数がどのようになるのかコントロール出来ないのは障害になります。望ましい範囲内で落ち着けたいなずです」
「十人という数のうちで性質を変えれば、上手くコントロール出来るだろう」
「それでも安定性が足りないのではないでしょうか。継承連帯の上層が混沌を望むとは思えませんから」オリヴィアは目を伏せながらアイテールの手を握った。「ある程度の揺らぎを確保しながら、望ましい方向に誘導するには、偽の記憶を植えつけたティターニアを<イージス>に混ぜて、牽引役にするのが合理的です。お姉様は……そう仮定した時、立場として一番それらしいんです。何よりお姉様自身の不自然さを説明するのにも役立ちますから」
「不自然とは心外だな」
「とびきり可愛い女の子が、屈強な兵士に紛れて立ってるなんておかしいです。あとやっぱりその経歴にしては体の均整が取れすぎです。肌も真っ白ですし。おっぱいだって張りがあって、ツンとしてるじゃないですか。少なくとも訓練であれだけ激しく運動してるんですから、その豊かすぎる乳房に少しぐらい変化があって然るべきです。入所してから昨日までずっと観察してましたけど、それなのにお姉様は、あまりにも何にも変わってません」
引っかかる部分は色々とあったが、アイテールは思わず自分の胸を庇ってしまった。
「ひ、人の胸にどれだけ注目してるんだ。そんなことまで声に出さないでくれるかな……いや、君がやらしい目で見ていたのは重々知っていたが、いくら市長でも限度はある……」
「しゃ、シャワー室は女性で共同じゃないですか! 見えるものは見えるんですから! べ、別に盗撮とかしてませんよ!」
「盗撮!? 分からないな、何故聞いてもいないのに盗撮の話が!?」
「してませんってば! とにかく、そんな過酷な生活していたというのには、お姉様は綺麗すぎるんです。何もかも不自然なんです!」
「不自然……」アイテールは押し黙る。「そうか、不自然か。そうだな」
金色の髪を指で弄び、しばし黙考する。
枝毛の一本もない美しい髪。髪が痛むという概念はアイテールには存在しない。
こんな人間がいるか? アイテール。お前は人間なのか、と幾度も繰り返した自問を反響させる。自分という存在がおかしいのはアイテールにも分かっている。
「不自然。昔から言われてきたことだし、昔はよく悩んだものだよ。……聞くだけなら、確かに過去も嘘っぽいだろうな。否定の難しい指摘ではある。全部偽の記憶。あり得そうな話だ」
「それじゃあ!」オリヴィアは目を輝かせた。
「でも、分からないな。それが事実だとしても、ティターニアなのだとしても、やはりオレは君のお姉様ではない」
「え……?」
「何もかも克明に思い出せるんだ……。家族のことも嬉しかったことも辛かったことも。君の推測には信憑性があるよ。オレは不自然な存在だ、嫌というほど自覚してる。家族は実在しないのかもしれないな。過去も無いのかもしれない。しかし、はっきりと思い出せることは、やはり消し去ることが出来ない」
「偽の記憶かもしれないんですよ?」
「全部偽物だと、はっきりと分かったとしよう。オレは変わるか? 変わらない。変わらないんだよ」
事実など問題にならない。アイテールの過去は彼女の中では確実だった。仮に自分という存在が試験管の中で作られて培養器の中で育ち『出荷』されるまでの記録映像があったとして、それを最初から最後まで見ても、だから何だというのだという感想しかアイテールは抱かないだろう。記憶が偽物でも、家族など存在しないのだとしても、大した意味はない。
アイテールはアイテールとして生きてきた。
ただそれだけだ。
「敵地で暮らしたという記憶は嘘だろうが何だろうが疑いようが無いんだ。吹き込まれた嘘だからと言われて、変わるものじゃない。思い出そうとすればオレの反吐が出そうな記憶はすぐそこに湧き上がってくる……残された家族ではオレが一番強かった……昔から強かったんだ。残された子供たちを守れるのはどう考えてもオレしかいなかった。何とかして安全圏まで家族を連れていかなければ……逃げて、逃げて、クソだか腐った果実だか分からない物まで食べて、死肉を齧って、敵を殺して、殺して、殺して、殺して、でも永遠には出来ない。しくじって、怪我をして、捕まって……虫の息で、反撃の機会を伺う。その繰り返しだ」
黒髪の乙女は顔を曇らせた。
自分がどれほど考え足らずに予想を口にしたのか。その失敗に気付いたのだろう。
「オレが倒れたら、もう兄妹たちに対抗する手段はない……その日々の苦痛や惨めさは……偽の記憶だとしても……何も変わらない。想像してみろ。殴る蹴るされて弄ばれたせいで立って歩くだけでつらい。それで、そいつら全員ぶち殺してやったせいで、もう全身の筋肉はぐちゃぐちゃだ。返り血やら何やらの臭いで、吐きそうになる。そんな状態で、守れなかった家族の体を拭いて、手当てしてやる。もう大丈夫だと慰めてやるんだ。何が大丈夫なんだかな。……そのとき、どんな気持ちだったか」
オリヴィアは真っ青な顔で瞑目した。アイテールの気持ちが分かるわけではあるまい。想像出来るはずもない。だがアイテールの翠色の目が昏く淀んでいるのを見て、理解出来たはずだ。
それが嘘でも現実でもアイテールには大した差はないのだと。
擬似記憶だろうが何だろうが、本質には関わりが無いのだと。




