番外編 アイテールとオリヴィア その2
「それで、急用でもあるのかな、オリヴィア」
「良い夜ですね、アイテールお姉様」女はニヤニヤと笑っていた。貌の無い月のような人間性の薄い笑み。類稀なる美貌が無ければ恐怖さえ招きかねない嘲るような目つき。「旅立つ前にはうってつけの夜。そんな夜はいつだって急用だらけです。だから、お姉様のためだけに時間を用意しました。根回し大変だったんですから、そんな邪険に扱わないでくださいよ。いつも訳知り顔で格好付けて一人で鬱々としている可愛らしいお姉様とお話がしたくなって来ただけです」
アイテールがビスクドールなら、その女の容貌は狂気的に精巧な芸術の領域に達している。値段が付かない程高級な、造形師が命を賭けて作り上げた人形。ある種の非現実的な美しさ。神の寵愛を受けていると確信させる美声。一言一言に言い知れぬ神秘性すら備わる。顔を動かす度に、艶のある髪が風の吹く砂漠の黒い流砂、あるいは暗闇をのたうつ貴い龍の尻尾のように揺れる。
そんな眩いばかりに美しい女が、やけに得意そうな顔で、アイテールを見下ろしてくる。
「うふふ……お姉様は今日も小さくて可愛いですね」
「それはどうも」アイテールは怒鳴らないように気をつけた。「朝から昼まで何度も顔を合わせているが」
彼女こそ『市長』だ。
名をオリヴィアと言う。
アイテールが小柄なせいもあるが、常の女性と比較しても背が高い。彼女だけが特権的に着用が許されているゴシック風のドレスは、裾を扇情的に切り詰められ、それが艶めかしくも無駄の無い手脚の秀麗さを際立たせている。
佇まいは高貴だし、輝くような美貌に見蕩れないでいるのは不可能だろう。
実際、色々と思うところがあるアイテールですら、心構えなく眺めていると、綺麗だな、と思考停止してしまう。些か幼い姿で成長が止まってしまった自分とは異なる完成された美しさ。
出来るならこうなりたかったという嫉みも、正直なところ、かなりある。寸時でも心が奪われるのも当然だろう。
「くすくす。そんなに私の顔が、腕が、胸が、お腹が、脚が気になりますか。お姉様が見せて欲しいと懇願するのなら、もっと内側までも見せてあげますけど」
「君が見て欲しいと懇願するのなら見てやっても構わないが、別に見たくは無いな」
アイテールは切替の早い女だった。
「それで何の用事だ? 本当に急用なのかな。オレとしては、君を見るくらいなら月を見ていたいし、月を見るぐらいなら『最後の晩餐』を済ませたい。取ってあるんだ」
「つれませんね。それにしたって、どうして『最後の晩餐』の会に出なかったんですか。他の皆は一緒に食事を楽しんだんですよ?」
「部屋の片付けがしたかったのと、一人で落ち着いて食べたかったんだ」
「ふーん」とオリヴィアは形の良い唇を突き出した。それからナイトテーブルの家族写真を見咎めた。知らない顔ばかりだろう。オリヴィアは目を細める。「家族写真を見ながら、ですか? さすがお姉様、家族が恋しくて仕方ないんですね。甘えん坊の妹さんが居るだなんて、ご兄弟やご姉妹の皆様が羨ましいです。普段の威勢を聞いたらどんな顔をしますかね」
「……分からないな、そんな風にオレを焚き付けて何になる。憐れなのは君の方だ、家族が居るというのは心の支えになるということを知らないらしい。今からでも男を漁って伴侶にしてきたらどうだ、『市長』様?」
「……Tモデル不死病筐体は完全生命体ですから、家族なんていらないんですよ。可哀相なお姉様、いつかひとりぼっちになってしまうのに、家族になんて拘って」
いつもこれだった。
この天性の美女は人当たりが良い。機転も利く。努力家で頭も良い。人を誑かす魔性など、彼女ほどの逸材ともなれば、些細な瑕だ。思い通りにならないことは、この世に殆ど無いだろう。
だが、それが、何故かアイテールには突っかかってくる。
明らかに自分より幼い外観の少女をお姉様呼ばわりするのも、オリヴィアなりの嫌がらせだろうとアイテールは考えていた。要するに、自分より年下で、無力そうで、一見して与しやすそうなのに、それなのに一向に屈しようとしないアイテールを、敢えて相応しくない呼び方をして、辱めようとしているのだ。
もっとも、他の<イージス>からは、オリヴィアはアイテールを純粋に慕っているのだと思われているが。
アイテールとしても、むず痒いぐらいで、可愛らしいぐらいに感じていた。
「今日はしつこいな。それで、本当は? 何か辛いことでもあったんだろう。わざわざ尋ねてくるとは」
「くすくす。こんなにちっちゃいのに自分の方が上みたいな態度とるの、虫唾が走りますね。最後ぐらい懇願して、『オリヴィエ様の好きにしてください』って服を脱いでも良いんですよ? あ、胸元を開けているのは屈服のサインでしたか。最後の日まで私がお姉様に差し上げた訓練服のままだなんて、感動してしまいます。どれだけふかふかのお乳なのか……」
「胸が苦しくて難儀したぞ……」
「ふふ。窮屈な服が邪魔なんですね。もっと自由にしてあげましょうか?」
「分かるか? 胸が苦しいというのがどれだけ苦しいか……」
「お姉様?」
「その普通サイズの胸では分からないかもしれないが……本当に窮屈で苦しいんだ……」
「お、お姉様が素直になっていれば済む話だったんですからね!」
「……本当に分からないんだ、オリヴィア。明日には我々はスチーム・ヘッドになる。これが生身でいられる最後の時間だ。言わば人生の最後だな。色々と考えたいこともある。それを邪魔して、グチグチとくだらないことを捲し立てるためにここに来たのか?」
オリヴィアの反論を許さない。
アイテールは背伸びをしながら、かつて家族に対してそうしたように、そっと女の頬を撫でた。
「聡明な君のことだ、そんな愚行は有り得ないだろう。正直に言うと良い。何かあったのか?」
「……何かあったって、何もあるわけないでしょう」
オリヴィエの黒い瞳に涙が滲むのを見逃さない。
アイテールは出来る限り優しい声音で囁いた。
「何かあったのか? 聞こえているか? 君に言っているんだぞ。市長では無い。君に言っているんだ、オリヴィア。抱え込まなくて良い。オレは君の味方だ。素直にならなければ、助けられないぞ」
オリヴィアの首筋が紅潮した。それから無言で頷いた。
部屋に入るよう促すと大人しくついてきた。
部屋には連れ込んだが、アイテールにオリヴィアをどうこうする気は全くなかった。
侮辱されれば実力行使に及ぶのがアイテールの処世術だが、オリヴィアだけはその拳による外交から除外されていた。
「わ。本当に部屋、空っぽじゃないですか」
「段ボールの下敷きになっても助けてやらないぞ」
「お姉様ぐらいですよ、これぐらいの段ボールに潰されてしまうのは」
「オレは小動物か」
「はい。私の撫でたい小動物ランキングナンバーワンです」
「何だそのランキングは……。床なりベッドなりに適当に腰掛けてくれ」
黒髪の乙女は笑みを消して、フローリングの床とベッドを交互に見た。そして迷い無くベッドに向かい、腰掛けて、そこに仰向けに倒れ込んだ。そして黒曜石の視でアイテールを貫きながら、優しげな微笑みで手招きした。
肉体に生じた衝動を、脳裏に紡ぐ自己コントロールの言詞で打ち消す。金色の髪をした少女は溜息をつきながら「ちゃんと座りなさい」と言った。オリヴィアは不服そうに「つまらない人ですね」と返事をして、その通りにした。わざとめくれるように狙っていたらしいスカートの裾を直して、白い太股を隠した。
もはや慣れてしまった感もある誘惑だが、アイテールの肉体はそれなりの反応をしてしまう。完璧にコントロール出来ていなければ、息のひとつも、熱くなってしまっていたかも知れない。
オリヴィアの側に何かする気があるのか、と言えば、ある。彼女には常にその気がある。
オリヴィアに命令され、誘われれば、大抵の<イージス>のメンバーは逆らえない。逆らう気も起きないだろう。彼女は人造人間で、絶対の命令者であり、生殖能力もない。接触は何の法にも触れない。彼女の誘惑に付き合っても悪いことは何も無い。結束を深められた気がして、嬉しがる者も多いはずだ。
だがアイテールは違った。
現在に至るまで彼女を拒み続けていた。
「……いつになれば私を求めてくれるんですか? 今日しかチャンスが無いですよ。その大きな胸に私を受け入れていください」
「そのことのために君は来てくれたわけか。ハグしようか。そうしたら帰ってくれるか」
「私に口で言わせたいんですか? 愛し合いましょうよ。悦びを知らない乙女のままスチーム・ヘッドになるなんてお姉様のお乳だけ無駄に恵まれた体が可哀相です」
「乙女でも何でもないけど」
「その可愛らしい見た目で『乙女じゃない』は通じませんよ」
「いや人の体型に散々言及しておいて乙女とか乙女じゃないとかそういうこと言うのやめてくれないかな……」
口を開けば不躾な言葉しか出てこない。外見からは想像も付かないほどオリヴィアは下世話だった。
アイテールはそんな彼女のことをよくよく理解していた。自分がそうであるように、彼女も見た目通りの存在ではない。
神の愛を体現したこの美女は、人格が少しも完璧ではない。
未熟で、悪戯好きで、夜遊びを好む人格。貞淑を装いながら我が儘放題で、実際のところ自分の盾、<イージス>となる人間を片っ端から籠絡して楽しんでいるというのも、苦情として耳に入っている。
「人のこと嗅ぎ回ってるのは知ってるんです。自分の生活は隠そうとするなんて。お姉様はふしだらで意地悪な人です」
「困った市長様に関する相談を同期から長々と聞かされるオレの気苦労が分かるか?」
「何度も足繁く通っているのにいつも冷たく突き放される私の気持ちが分かりますか?」
「分からない。全然分からないな」
「……それで、いつまでここでじっとしていれば良いんでしょう、お姉様」
「うーん。君のその夜遊びのクセが消えるまでだな」
もう、と口を尖らせる。
アイテールの見立てでは、オリヴィアが夜遊びに耽るのは、色に狂っているからでは無い。信頼を繋ぎ止め、自分が承認されていると実感するための手段を、おそらくそれしか知らないからだ。
同期のメンバーは男女とも人格者揃いで、おそらくはティターニアからの上っ面だけの求愛を心から受け止めているものは少ないだろう。そのおかげでこの困った娘が様々な交友を求めても大したトラブルにはならないが、『市長』となるオリヴィアの奔放さは、依然として難しい問題だった。
アルファⅢ<アテナ>となる女性。
都市の中枢機能を一身に担うべくして生まれた人造人間。
言わばトップがこれなのだから、組織としては何とも片手落ち感がある。
ただ、どれだけ居丈高に振る舞われても、アイテールからオリヴィアへの印象は「どこか危うい女の子」だった。
ベッドの上に座らせられたオリヴィアは、やけにそわそわしていた。
相変わらず、アイテールと一線を越えることを期待しているのだろう。彼女の愛の受け皿は小さい。おそらく、性愛以外の愛を、本当には理解出来ていない。自分が<イージス>からどれだけ親愛を向けられているのか、分かっているのかも怪しい。
悩ましげに潤んだ視線。
視線を感じたのか可愛らしいソックスの脚を組み替えてくる。
だがアイテールは思い通りのことはしてやらない。
オリヴィアは確かに魅力的だ。完璧な四肢と神秘的な黒髪。神代で磨き上げられ神に奉られた宝玉の如き黒い瞳。老若男女問わず見蕩れざるを得ない美しさがある。魅力的でないとは口が裂けても言えない。
ただ、自分は恋愛にはもうそこまで興味が持てないのだ。アイテールは嘆息し、この金色の髪の少女は、元々貞操観念は強い方だったのだ、と自嘲する。そう容易く流されはしない。殺伐とした危険地帯を家族と転がり、賊と戦ってきた身であるから、純潔等とはほど遠い身ではあるにせよ、この期に及んで汚濁の時代に戻るつもりは無い。
裸で抱き合ってもそこまで楽しめるか怪しいものだ。何せ、アイテールの中では、正式な手続き無しで肉体関係を持つというのは、もはや振り切れない類の厄介な敵を殺害するための下準備に過ぎないからだ。
溜息をもう一つ。
何より、自分より明らかに幼い人格の、この子供のような娘を、どうして欲望のままに押し倒せるだろうか。
とは言え、オリヴィアには人の理性の糸を切る魔性が備わっている。
今夜こそ何があるか分からない。何となく艶っぽい展開を予想して気まずくなった。
アイテールはオリヴィアの傍に寄り、目を閉じるように促し、そっと頭を撫でてやった。
それから、念のため、ベッド脇の写真を伏せた。
せめてものもてなしにと、備品のコップに今日分の飲料水を注いでやると、「オレンジジュースとか無いんですか? 気が利きませんね。そんなだからお付き合いしてる方がいないんじゃないですか?」と理不尽な文句を言ってきたが、すんすんと匂いを嗅いでから、味わうようにして飲んだ。
このあまのじゃくさから幼さを感じ取るなというのは難題である。
だが事実としてオリヴィアの容貌は極めつけに恵まれたものだった。幾人もの兵士と、アイテールを除く全ての<イージス>を陥落させてきた、儚げで、意味深で、精神の内奥、快楽の襞をくすぐる微笑。
まともな人間ならあらがえない。
全身の均整、声の質まで含めて、『嘘みたい』という言葉がここまで相応しい女はいないだろう。
それもそのはず、オリヴィアはTモデル不死病筐体だ。最初の不死病患者であり再誕者の異名を持つ『ティターニア』という女性の複製体だと公表されている。
機密が多く、全ては知れないが、ティターニアは数百万人の人生を狂わせてきた魔性の美女だったそうだ。当然、彼女の複製たる偽りの妖精姫たち、Tモデル不死病筐体も、その全ての個体が、相対者の人生を狂わせるに足る絶世の美貌を備えている。青ざめた月のような輝かしい顔貌。聞き惚れてしまう美声に、跪き口づけしたくなる手指。彼女たちの魔法に惑わされないでいるのは並大抵の精神では無理だ。
だが、アイテールとオリヴィアでは人生経験が違いすぎる。
オリヴィアはとにかく人格の基底部分に幼さがあった。殆ど左右対称な完璧な造形の顔も、浮かべる表情が子供っぽいと認識してしまうと、途端に印象が崩れて、欲求の対象からやや外れる。
アイテールにとって子供たちというのは、年齢に関係なく庇護の対象だからだ。
沈黙に耐えきれなくなったのか、オリヴィアは視線を彷徨わせて口を開いた。
「お姉様は……本当に、ずいぶん念入りに掃除をしたんですね。段ボールも沢山です。こんなのスタッフの人に任せておけば良いじゃないですか」
「昔からの習慣なんだ。要らないものを処分すると安心する。気分が晴れる。君も何か捨てたらどうだ」
「あはは。捨てられるわけないじゃないですか。お姉様と違って重い身上なんです」女は嗤った。「私の得てきた全てのものが私の構成要素で、私は毛の一本すら私のものではありません。継承連帯の資産です。だから、私にはアルファⅢの立場と、あなたたち<イージス>のメンバーしかない。刹那的な快楽以外には何も無いんです。何にも無いんです。これ以上何か手放すなんて、そんなの耐えられませんよ」
「そうは思わないがな。男女区別せず手当たり次第に食い荒らして作った絆が、君の全てか?」
「それもありますけど。まぁ、他の人と絡み合って汗をかくのは、楽しいですし」
オリヴィアは『運動場でかけっこするのは楽しい』というのと然程変わらない調子で言った。
「それに都市を掌握する存在になるんですから、十人しか居ない部下ぐらい、意のままに支配できて当然でしょう。重責で、肩が凝る毎日ですよ、ほんと。シンプルな頭とシンプルな世界観でシンプルに生きてるお姉様とは違うんです。ああ、お姉様は無駄なお乳のせいで、私とは違う理由で肩こりが酷そうですね、可哀相に」
「君は肩が凝るのか。そんなに可愛い胸をしているのに。可哀相に。ところで肩が凝るというのはどんな感じなんだ? オレはいつでも体が軽い。君より体重が軽いからだが」
「……シンプルな頭だと、体重もシンプルになるみたいですね」
「そうだな、訓練の成績もずっとシンプルで困っている。ついに一位しか取れなかった。市長も同じ訓練を受けていたな。最終成績はどうだった」
「ず、ズルしてるんでしょう、知ってるんですからね! 何でお姉様の体格で特殊部隊の人をノックダウン出来るんですか! 談合は犯罪なんですよ!」
「それで、オレは君とも談合していたか?」
「……可哀相だから本気で殴れなかっただけです! ちょっと人を十回ぐらい投げ飛ばしたぐらいで調子に乗らないでください!」
きゃんきゃんと雑言を捲し立ててくるのをアイテールは温かい心で聞き流した。煽れば煽るだけ必死になるのが可愛かった。
仕掛けてくるのは、いつもオリヴィアからだ。
ただ、彼女の悪口には全く意味が無いし、本心から思っているわけでもないと分かっている。
Tモデル不死病筐体は常人と比較して遙かに優れた身体能力を持つ。知能も高い。そのせいで大抵の個体は驕慢で、他者を見下し、事ある毎に嘲笑する悪癖を持つ。
だが、オリヴィアはその中でも基本的に性格は良い方だ。そうなるように人格を調整されているにせよ、アルファⅢ<アテネ>の冠を約束されている分、安心感も大きいのだろう。
実のところ、普段は他人をからかわったりしない。相手の身体的特徴をあげつらったりもしない。誉めたり持ち上げたり、誘惑したりする言葉を好んで操る。それは自分が誉められたい、持ち上げられたり、誘惑されたいと望んでいることの裏返しだ。
「……どうして、お姉様は、そうなんですか。お姉様の体が実は疼いているのは知っているんです。それなのに、どうして素直になってくないんですか? さっきからずっと私の脚を見ていますよね。気付いていないとでも思いましたか? お見通しなんですから。これから私に何をされても、お姉様が悪いんですからね」
などと責めるふうを装って、この黒髪の美女が、こちらの胸元に手を伸ばしてきているのに気付く。
綺麗な手が汗をかいている。
アイテールは驚いた。これは本当に何かしてくるな、と直感した。
オリヴィアが攻めの姿勢を見せるのはこの三年間で初めてだった。
そもそも口だけは達者だが、相手をその気にさせたら後は身を委ねて合わせるだけ、というのがオリヴィアの性向だ。他の<イージス>からその辺りの事情は聴取している。最初は同僚が無理矢理オリヴィアと関係を結んだのでは無いかと肝を冷やしたものだ。
それが、ここに来てパターンが変わった。
とにかくオリヴィアは、この最後の夜にことを進めるつもりらしい。
立場上逆らえないが、されるがまま、というのも面白くない。
アイテールは屈服させられるのが嫌いだった。
敢えてオリヴィアの腕を絡め取り、自分の乳房に掌を埋めさせた。
「あっ……」
オリヴィアは怯んだ。顔を赤らめ、潤んだ目で、腕の先にいる金色の髪の少女を見た。
「お姉様……?」
落第だぞ、とアイテールは翠の目を細める。
オリヴィアには運命的な美貌と美声がある。
おそらくはアイテールと同じ理由で見た目以上の身体能力を持つ。何もしなくても強い。
だが、彼女はそれだけだ。
手玉に取るにはいかにも容易い。
負けた経験が少ないので、不意打ちを食らうと思考を停止させてしまう。
相手がこれ以上具体的なアクションを起こす前に、アイテールは小さな体でするりとオリヴィアの懐に入り込む。素早く乗りかかり、尻をオリヴィアの膝の上に落ち着け、彼女の手を自分の乳房の下に回させて、抱き留めるように促した。
自分の両腕は、黒髪の女の首に回してぶら下がるような姿勢を作り、とどめとばかりに訓練服の下の乳房を、相手の胸元にあからさまに押し付ける。ゴシックドレスには奇妙な弾力と柔らかさがあった……この子は思ったよりも遙かに本気すぎる、とアイテールは体の反応を抑制しつつ動揺した。
興奮して思考を濁らせるのは、オリヴィアだけだ。
体を熱っぽくして、硬直してしまった。
ズボンの中、下着にまで手を入れてくるかと予期していたが、ここにきて躊躇と慎み深さを見せたらしい。脚を撫でようか撫でまいかというスタートラインで迷っているのが見て取れた。
ここまで来て君は思春期の少年か、とアイテールは何とも言えない気持ちになる。
「おねえさま……? 今夜こそ、良い、ということ、ですか……?」
吐息が顔に熱い。標準支給の歯磨き粉の、爽やかな香りがした。
念入りに準備してきたのだなと、アイテールは愛しくなる気持ちを殺せない。
果たして、アイテールは抱え込まれた格好になった。
あたかも従属物であるかのような状態だが、実際に有利を奪われているのはオリヴィアの方だ。
何せオリヴィアはアイテールの軽い体を支えるのに夢中で、一方のアイテールの両腕は言えば丸きり自由であり、急所であるオリヴィアの首に物理的に触れている。
もう勝敗は決していた。アイテールはこの状態から表情を変えないまま相手を制圧可能だ。体勢を崩して転がる勢いで関節を極めれば、頸椎を破壊するのに三秒もかからない。
簡単なものだ、とアイテールはまたも呆れてしまう。
一見すればただの横抱き、『お姫様抱っこ』亜種だ。密着感と体温が相手の興奮を誘う。
だが、彼女にとってこの態勢は相手を致命的に油断させ、そのまま殺害するという動作とセットなのだ。頸椎の破壊を狙うなら三秒。鉛筆の一本でもあれば顎から脳までぶち抜いて一瞬。ソックスに忍ばせた金属製の串を抜いて眼球から脳へ、というルートもある。
見た目の和やかさとは異なり、極めて剣呑な構えであった。
だがオリヴィアに、致命的なポジションを取られた自覚はなさそうだった。あまつさえ脚をもじもじとさせて、黒髪の美貌を惚けさせている。心臓がばくばくと音を立てているのが伝わってくる。
そこまでのことか? という驚きは顔に出さないようにする。これぐらいさすがに慣れっこではないのか。それともこの金髪の小娘に、そこまで期待を抱いていたのか。
考えてみれば、アイテールが自分から密着していくのは、格闘戦の訓練以外では初めての筈だった。
刺激が強くて、だから、浮ついてしまっているらしい。
可愛らしくて嘆息する。オリヴィアは羞恥と期待が膏に入ったような顔で、どう見ても照れている。そんな顔をされたら、殺す気も失せてしまう。最初からそんな気はないが、二重に毒気を抜かれてしまった。
こんな子を虐めるのも酷いことだな、と思いつつ、じっとオリヴィアの顔を眺めて、徐々に焦れてくるのを楽しんだ。
一向にその姿勢から進展がないので、戸惑いながらもおそるおそる口づけしようとしてくるのを、頬を撫でて牽制する。やはりそういった関係を持ちたいという感情は、アイテールの意識には湧いてこない。
衝動は実際のところ、かなりある。
肉体の方に主導権を渡せばアイテールは自分でもどうなるか分からなかった。
兎に角、現在はアイテールが顔色一つ変えていないのに気付いてか、黒髪の乙女は不満げに唸った。
そして自分の両手がもうどうにも動かせないと悟って、傷ついた顔をした。
「……さてはお姉様、私がこれ以上手を出せないように、自分から抱擁しに来ましたね」
「その思考に及ぶまでが遅すぎる。スチーム・ヘッドは常に先手を取った方が有利だ。オレはこの姿勢から君を殺すパターンを十個は持っているぞ」
「別に命のやりとりじゃ無いですよ? ……いいじゃないですか、お互い何も失いません。ちょっとぐらい愛し合っても」
「こういうモーションをかけられたら、常に生きるか死ぬかだ」
「うーん。何なんですかねそのしょっぱい対応。あ、今、捨てたいものを思いつきました。あるとすれば、今、この私の腕の中にいる、憎たらしくて、意地悪で、人を歯噛みさせるのが趣味の、冷たいお姉様ですね……」
「もちろん捨てても良いぞ」
「でも、ここまで触らせてもらえたのも初じゃないですか。お姉様、身持ちが堅いですから」オリヴィアは憐れっぽい声を出した。「捨てるともう拾えない気がします。ここから無理に迫っても、今度こそ逃げられそうですし、我慢です」
「押し倒すチャンスがあるとすれば、オレが君の膝の上に乗った瞬間だった。与奪の権は自分で掴まないと意味が無い。分かるだろう? 君に言っているんだ。君は空想に足を取られて機会を逃したぞ、市長、オリヴィア。君の頭脳なら分かったはずなのに」
「何でもかんでも捨てられるお姉様とは違うんです」唇を尖らせる。「まったく、貞操観念だけ大事にしてるのは、何なんですか。お互い生身でいられるのは今晩が最後なんですよ。少しぐらい、構わないでしょう? こういう関係を結ぶの固辞しないとダメな派閥の人ですか」
「オレはそういう感情の機微も捨ててしまったというだけだ」
アイテールはオリヴィアの唇を指先で押さえた。
そして思い出す。
「そう言えば君から貰った何だかよく分からない服も捨てる箱に入れてしまったな。返そうか?」
「えっ、メイド服とか全部ですか!?」
「分からないが全部だ」
「……本当にお姉様には人の心と常識が無い。贈り物を捨てるだなんて。もうこの際だから言いますけど、<アテネ>たる私が着ろと言ったなら、<イージス>であるお姉様はそれを着てご奉仕するのが勤めではないのですか」
「分からないな、コスプレさせて、オレに何をしてほしかったんだ」
「こ、コスプレじゃないですけど?」
腕の中にいるアイテールの熱を楽しんでいるのだろう、オリヴィアは心外そうな顔で、嬉しそうに抗弁する。図星半分、心外半分と言った顔だ。
「下心だけじゃないんですから。お姉様って訓練着しか服持ってないでしょう。だからプレゼントしたのに」
「だからってあんな際どい服を何着も……屈んだり伸びたりするだけで乳や尻が見えるような服ばかりだったぞ。下心が九割だろうに。まぁ……実は何回か着てみたが、動きにくくてな」
「え、着たんですか?! スク水も?」
「スク水……何だそれは。あのレオタードみたいなやつのことか? とりあえず全部着たよ。折角もらったんだし」
「いつですか。いったいどこで試着を。いえ……ふーん……」ふい、と顔を背ける。「どんな無様な姿だったか気になりますね。お乳と幼さが強調されて滑稽だったでしょうね。写真とかあります?」
「自分でもなんか似合わないなと思って記録には残してない」
「なんで残してないんですか!」
「普通は残さないと思うが……」
「お姉様は自分の価値が分かっていません!」
「まぁ値段のつく外見だろう。そういう目にもあったし。でもあの服、君の言う通り滑稽だったからな。こっそりあの仮装で自主トレをしたこともあるが、動きにくいし、無駄に汗をかいて仕方が無かった」
「そういう運動をする服ではないってことが分からないんですね……これだからお姉様は……でもお姉様の汗……、そう……。ええ、返してもらっても良いですけど」
「しっかりクリーニングもかけてあるから、気兼ねせず持って行くと良い」
からかいながら見上げると、オリビアは機嫌が悪そうな、拗ねたような顔をしている。
どんな美貌をしていようが、こうしてみるとやはり何歳か幼く見えた。
「……全部分かってて言ってますよね、お姉様って」
「分からないな。オレは何が分かっているんだ?」
もちろんアイテールは全部分かっている。
アイテールがこの世で三番目に好きなのは、自分の方が立場が上だと思っている人間に『分からせてやる』ことで、四番目は憎からず思っている相手をからかうことだ。
二番目に好きなものは家族で、一番好きなものは、もうこの世にいない。
「良いです良いです、お姉様だけには絶対負けませんから。やっぱり負けたままでは意味が無いと確信しました。今夜中に絶対陥落させてあげます」
「無意味なことに拘っても益は無い。分からないな、オレが何を着てもただ立ってるだけの君には勝てない。君が一番綺麗だ。オレを籠絡しても変わるものは何一つ無い。君は誰とも張り合う必要なんて無い。とうの昔に誰もが誇りに思い愛しく思う立派な『市長』だ」
「でもお姉様は愛してくれないままです」
「それが分からない。この姿勢を見ろ。愛しく思わない相手の腕の中に、オレが自分から潜り込むか? 君は知らないだろうがオレだって損なことはしないものだ。当然オレも君を愛しく思っているし、この指先の一本に至るまで君のものだと自覚している。それは誰にでも分かることだ。だというのにこれ以上何がほしい?」
「お姉様が私を愛しく……私を……全部私のもの……」オリヴィアは押し黙った。「きょ、今日は絆されませんよ。ずるいですよ。ズルです。敗北宣言したら戦わなくて良いとか思ってるんでしょうけど、そういうのは勝ち逃げっていうんですから」
躊躇いがちに、えいや、とアイテールの額にキスをしてくる。
抵抗せずにいると、金色の髪に顎を埋めてきた。
すんすんと嗅がれてしまう。
変態っぽいぞと茶化したくなったが、目が切なそうで、可哀相で耐える。
強引に唇を強引に奪わなかったのも彼女なりの自制心だろう。
アイテールの香りは、どうも独特らしい。若い娘の甘い匂いと、花水木の花の香りが混じったような匂いがするそうなのだが、彼女自身には今ひとつピンとこない。
かつての暮らしでは香水もありふれたものだったので、賊に香りで存在を気付かれた経験を通して「どうやら自分は常にそういう匂いがしているらしい」とやっと自覚したほどだ。
少なくとも、良い芳香というものは鏡には映らない。自分では確かめようも無い。
だが一時でもこの幼くも頼りがいのある市長を癒やしてくれるのなら、有り難いものである。
いっぽうで、アイテールも密かに彼女の香りを嗅いでいた。
オリヴィアも良い香りのする方だったが、今日は何か毛色が違った。
まだこの世に存在するのか判断が難しいが、おそらく、香水をつけている。
かつて頬張った果実のような薫り。
オリヴィアのゴシックドレスの胸、柔らかな肉の感触に顔を埋めて深呼吸していると、耳まで真っ赤にした娘から「……仕返しのつもりですか。あんまり嗅がないでください」と抗議が来た。
あまりにも理不尽なのでアイテールは少し笑ってしまった。
「すまない。でも、君も時々言うじゃないか、同じ女の子同士、もっと親交を深めましょうって。君の基準ではこれぐらいは挨拶みたいなもののはず」
「私が仕掛けているときにアイテールからやってくるのはダメなんです!」
「我が儘は良くない」そっとオリヴィアの頬を引き寄せて額に口づけする。「分からないな、何も飾らなくても君は清潔で、綺麗で、素晴らしいのに。何故香水なんて」
「……アイテールを落とそうとして、もう三年ですからね。それなのに、アイテールは今でも余裕たっぷりです。キスもさせてくれません」
「しているじゃないか」
「本心からは許してくれないじゃないですか。だから、最後の夜ぐらい武器を使わないと」
「香水は良いカードだ」少女は微笑んだ。「残念ながらオレを降伏させるにはまだ遠いが」
「むぅ。切り札だったのに。香水なんて嗅がされたら誰でも骨の芯から蕩けてしまうって、他のティターニアから聞いたのに……真に受けて、山ほどトークンを使って買ったんですよ。自分でも頭がぼうっとするぐらい刺激的で……お姉様にも効果あるかなと思ったのに……全然平気そうですね。悔しいです」
「残念ながら香水があった時代のことは知っているんだ。こんなのはそれほど珍しくなかった。懐かしい気がするぐらいで、そこまで何も感じない」
「だから、なんでいつもそんな訳知り顔なんですか。お姉様だって戦中世代のくせに。そんなに物知りを気取るなら、この香水の名前を当ててみたらどうですか」
「難題だ。名前なんてもう忘れてしまったよ」アイテールは苦笑した。しかし嗅覚から刺激を受けて頭の中が奇妙なほどチカチカとしていた。何か甘い記憶と繋がっているのが分かった。「いや……買って貰ったものとは違うけど……売り場は同じだったし……うん、試供品を試した覚えが……これは確かディオールの……ディオールじゃなくてジャドールだっけ? 何だったかな……」
オリヴィアは目を丸くした。
「……やっぱり、どこかのご令嬢とか、そういう人なんでしょう、アイテールお姉様って。革新連盟の勢力圏のどことも知れない場所で、長い間逃げ隠れしていただなんて、そんなの信じられない。だって、香水の匂いなんて、私でもそんなには知らないんですよ? こういった文化的嗜好品を取り扱ってる店舗なんて、継承連帯でも限られた身分の人しか入れないし、気軽に沢山試せるものでもないんですから。だから、きっとそうです、アイテールお姉様は、お姉様なだけじゃなくて、お嬢様なんでしょう? 武勇伝は全部嘘で、徴兵されたか、義勇に駆られたかで、それでここに入所したんでしょう?」
アイテールは素知らぬ顔をした。口元で笑んだ。
「まぁ確かにご令嬢ではあったよ。これは秘密の話だ」
それからぐぐ、と身を伸ばして、何か遠い時代について思いを馳せているオリヴィアの頬にまたキスをした。泣きそうな目をしている彼女の髪を撫でた。
「それで、こんな夜に。何か辛いことでもあったのか。君は話すことが出来る。オレが聞いているぞ」
「……お姉様を愛したいのは本当ですよ。別に手続きを踏むためだけにこんなふうに、悪口を言って気を惹いて、何とかして体に触れようとして……それから、欲望を抑え込んでいるわけでは、ないですよ。お姉様に愛されたいのは心からの真実です」
「分かっている。オリヴィアは愛してくれている」アイテールは目を細める。「両立できれば良いんだが、君は思考が柔軟じゃないから」
いつでもそうだ。
オリヴィアが愛を求めるとき、真の目的と行動が同じとは限らない。
事前に気付くのは難しい。彼女は魅力的に過ぎるし、本心を隠そうとする。だから言葉の裏は誰にも見通せない。<イージス>の他のメンバーの何人かは事後にそれを洞察して、アイテールに相談していたのだが、もう彼らは手遅れだった。
アイテールが最初に関係を拒んだのは、純粋に気が乗らなかったからだ。
しかし、おかげでオリヴィアの本心を知ることに成功した。
一度でも心を開け放せば、二度と手がかりは見えなくなる。アイテールは知っている。ある意味では、自分の愛に応えてもらえないと確信したときだけ、オリヴィアは自由だった。
彼女は人を愛する。
信じて欲しいと求める。
行動で示して欲しいと懇願する。
そして彼女がまさしくその肉体に受け入れられた時、彼女の世界から居場所が一つ消える。
何故なら信じられてしまったからだ。
肉体的接触は彼女にとっては彼女への信仰表明に他ならず、そして偏執的に愛を求めるオリヴィアは、関係を結んだ相手に失望されることを極端に恐れてしまう。後は心を繋ぎ止めたいがために、子供のように、関係を求めるだけだ。
問題になるのはオリヴィアの価値観だ。彼女にとって愛情を結ぶのと、弱音を吐露するのは、殆ど等価だった。彼女が真なる感情を発露させる手段は少ない。不安などプライベートでしか吐き出さず、そして不安を聞いてほしいということを示すためのジェスチャーは、オリヴィアの場合、接触を持ちかける動きと全く差が無い。
それほどあなたを愛しているから、自分の言葉を聞いて欲しいという態度であると同時に、あなたと心から愛し合い、求め合いたいという表現となる。
だが、愛し合っていると実感してしまえば、彼女からは、愛し合う以外の道が消え失せてしまう。相談事が、出来なくなる。
愛を結びたくなる相手にしか相談事を持ちかけられない。しかし相談事を持ちかけたくなるような相手とは、愛し合わずにいられない。愛し合った相手には相談が出来ない。
……それは恋多きティターニアにかけられた呪いだ。
だからアイテールはオリヴィアを拒んできた。
彼女の逃げ道を、全部塞いでしまわないために。
「……お姉様には敵いませんね。今日も私のものになってくれないなんて。市長を拒むなんて、法律違反なんですからね」
オリヴィアは悲しげにはにかんだ。
「……それでは、いつも通り……悩みを聞いてもらえますか、お姉様」




