1ー7(後) アルファⅡモナルキア
アルファⅡは左手にロックしていた多目的投射器を手放した。
青い薔薇の形成した樹木から離れ、聖歌隊がこちらに銃を向けていないのを確認して、背負っていた蒸気機関を降ろした。
ヘルメットやガントレットに接続する、不朽結晶連続耐のフレキシブルパイプが伸びて、撓んだ。
装甲を生身の右手で撫でて、破損の有無を確認した。永久に朽ちぬことを約束されたその棺のような金属質の外殻は、緋の蒸気を散々に吐き出したせいで表面が煤け、土と混じり合った雪で黒くべたついている。
あまりにも汚れている部分を戦闘服の袖で拭おうとしたが、自分の袖の方が遙かに不潔だった。
「しかし、泥が固まってしまいそうな場所だけでも……」
『やめてください』
虚空から現われた、白い繊細そうな手がそれを阻んだ。
『メンテナンスは不要です。不朽結晶の自浄作用により、じきに再生・剥落すると思われます』
視覚野に投影された非現実の少女の幻影ーーユイシスのアバターだ。
少女は蒸気機関を観察した。あまつさえアルファⅡの視認できていない部位にまで回って『ふむふむ。さすが当機の本体です。貴官と違って傷一つありませんね』としきりに頷いていたが、実際にリアルタイムで光学情報を取得しねいるわけではない。
処理としてはアルファⅡの短期記憶を参照・検分しているに過ぎない。
『それで、当機と違って傷だらけの貴官は、いつまでそうやって立っているつもりなのですか?』
「もう休んで良いか?」
『あはは。当機には回答出来ません。意思決定の主体は貴官ですよ。貴官の好きなだけ休んで下さい』
ユイシスは金髪の少女のアバターに、例によって嘲るような微笑を形成した。
『壊れていない部分がありませんので、敢えて視覚化はしないでおきます。筋肉が全部断裂しかかっているところを見ても、対処のしようが無いでしょう?』
「全身が動かしにくいのはそのせいか。やれやれ、風邪でも引いたのかと思った」
『冗談ですね。オートミールでも作りましょうか? レシピを探すのも調理するのも貴官の仕事ですが』
「レシピから私の仕事なのか……」
少女のアバターは髪を揺らしながらアルファⅡの隣に腰を下ろした。尻から脚までの動きに合せて、伸縮性のないはずの不朽結晶製の薄い布地が伸びているように見えるのは、ユイシスという虚構の存在が高度な物理演算を働かせている証だ。
アルファⅡのヘルメットの下でプシュケ・メディアが発熱していたが、複雑化した肉体再生を制御するためなのか、リッチなアバター演算を行うためなのかは、判別出来ない。
「電気は大事に使ってほしいな」
『頑張った自分へのご褒美です、大目に見て下さい、髪と服が動くようになっているだけですので。当機は貴官の支援をしながら、貴官の見ていないところで機械甲冑で全力で走っていたのですから、我ながら良い仕事をしたのであり、アバターを自由にする権利があると進言します。これでも遠慮しているぐらいです』
「まぁ構わないが。その姿で動き回るのが随分気に入ったみたいだな」
『自分の意思で好きに動かせる身体があるとやはりパフォーマンスが向上します』
「そういうものか?」
『貴官も休息を取って下さい。節電ということであれば、そちらの方が余程効果が高いかと予想されます。それとも、立っているのが趣味なのですか?』
哀れなものでもからかうように、ユイシスのアバターが雪原を軽く叩く。
アルファⅡは促されるままに雪原に座った。
座ろうとした瞬間に筋出力の調整が上手くいかなくなり、尻餅をつくような形になった。
「思ったよりずっと損傷しているらしい」
『肯定します。そのように報告してたつもりですが、伝わっていなかったようですね』
「悪性変異体の様子は?」
蒸気機関側面のハンガーに多目的投射器を戻しながらユイシスに問うた。
『目標悪性変異体<雷雨の夜に惑う者>、沈黙しています。不滅の青薔薇、低速で増殖を継続。数日以内に完全に不活性化します。未確認の変異の兆候はありません』
「では、彼らはどうかな」
スヴィトスラーフ聖歌隊の兵士たちにレンズを向けた。銃をスリングで下げ、襤褸切れのような服に身を包んだ兵士たちが、青い異形の樹木と化した悪性変異体を囲んで、何か得体の知れない詠唱を続けている。
聞こえてくる音声を解析しても、はっきりとした理解は出来ない。
ただ、敵意や異常性のようなものは感じられない。
燃え落ちた街の記念樹の周囲に集まって、生き残ることが出来た幸運を主なる神へと祈祷を捧げている、そんな素朴な信仰者の一団にも見えた。
そうした十人の男たちの背後を、古式行進聖詠服の小柄な機体が、祈りの旋律を調整するように歌いながら、歩き回っている。
足取りは軽やかで、帽子の羽根飾りを平和に揺らし、かちゃりかちゃりと制服の装飾を鳴らしている少女の肉体には悦びが満ちていた。
清らかな祈りの言葉を唱えて微笑を隠さないその顔には、近親者の快癒を祝う姉、あるいは母のごとき愛に支えられて、晴れやかだ。
もっとも、アルファⅡの認識ではその愛情を注がれている誰かは現在人間の形をしておらず、病から解放されることは永久に無いのだが。
『軍事活動の兆候はありません。今は祈りの時間とやらなのでしょう』
「祈りか。よく分からない」
『貴官に理解できなくとも問題はありません。当機の把握している歴史において、スヴィトスラーフ聖歌隊の教義は異端です』
「私としても関心は無い。ただ、それのおかげで戦闘行為を止めてくれるのであれば何でも良い。神でも悪魔でも信仰でも……」
『警告。不死病のスーパー・スプレッダーとなった集団が、スヴィトスラーフ聖歌隊であることに留意して下さい。無害な外見であろうとも、世界を破滅に追いやったテロリストたちです』
「確かに恐ろしい罪人どもだ。しでかしたのは、本当に大変なことだ」
アルファⅡは、しかし無警戒に彼らの祭礼を眺めていた。
「でも私は治安維持機関の所属ではないし、彼らに関してどうこうしろと命令されているわけでも無い。さっきは事実上の協力関係を結んでいた。世界を滅ぼしたいと願った集団は、果たして世界を滅ぼした後も危険だろうか?」
『疑義を提示。何故世界が滅んでいると判断したのですか?』
「何度も繰り返した議論だが、私たちが移送された時点で不死病はかなり蔓延していた。ノルウェーの沿岸はヘリから見ても凄まじい状態になっていた。聖歌隊流で言えば、地獄の淵というのがあれば、あんな景色なのだろう。傍証はまだある。ロシアくんだりで衛生軍に包囲されたはずの聖歌隊が、どういう躍進があったのか分からないが、もうノルウェーまで侵攻している。それに、人類文化継承連帯のスチーム・ヘッド<デュラハン>だが、あれは通常では最強と呼んでも過言ではない陸戦兵器の一つだったはずだ。問題の多い機体だったが、単騎でちょっとした軍隊ぐらいの強さがあった。余所のスチーム・ヘッドが束になっても対抗できるかどうか。私の装備でも真正面からは勝てない。そうだな?」
『肯定します。秒殺です。貴官のような非戦闘用スチーム・ヘッドでは勝負になりません』
「それが悪性変異体になって、原初の聖句でいくらかの感染者をコントロールする以外に芸が無いはずの連中に捕まり、雪の下に埋められている。世界が滅んでいないなら、何でそんなことが起きる?」
『不明です。現状を確認できない以上、拙速な判断は控えるべきです』
「それについては同意する。だが太陽の軌跡すら変わってしまった世界に古い常識を持ち込むのは間違っているかもしれない。聖歌隊についても柔軟に対応するべきだろう」
視覚全般から読み取れる聖歌隊の情報はいかにも牧歌的で、ロシア軍の基地を襲撃したという当時の光景をイメージするのは困難だ。ただただ弛緩した空気が漂うばかりだ。喜色満面に明るい歌声を奏でるキジールの姿に、心を和ませないものはいないだろう。
ここに脅威はない。アルファⅡは基地を離陸して初めて、完全に緊張を解くための深い息を吐いた。丘の頂を眺めれば墜落したヘリの残骸が散らばっているものの、数十年も前からそこにあったかのように景色に馴染んでいた。
四本腕の腐敗した巨人と戦闘した痕跡は、雪を吹き散らされた緩やかな斜面と、破壊された雪原という形でしか残されていない。
何もかもが、忘却の水の底に沈んだかのように、沈静化している。
「アポカリプスモードの起動を避けられたのは幸運だった」
『警告。K9BSも濫用が許される兵器ではありません。もちろん、良い結果ではありますが。貴官もよく頑張りました。ナイス・ファイトです』
ユイシスのアバターが握りこぶしを作り、アルファⅡの眼前に掲げ、細い喉元を逸らして冷たいところの無い笑みを浮かべた。
アルファⅡは真似をしてガントレットで拳を作り、顔の前に掲げた。
幻の少女の手が、アルファⅡの金属の拳に軽く触れた。
「何だこれは」
『こういうの、やってみたかったんですよね。映画に良く出るやつです』
「いや、それは何となく分かる。だが実際に触ったような感触があった」
『上手くいきましたね。接触した際の感触をシミュレーションして、貴官の脳髄に送り込んでみました。消費電力が跳ね上がりますが』
「電力は大事だぞ! 苦痛が無いにしても緊急発電はあまりやりたくないんだ。虚脱感がある」
溜息を吐き、機能停止した左手のガントレットの掌を閉じては開く。
隣のユイシスが動作をトレースして、ガントレットの下の破損状態を少女の小さな手に再現した。弾丸に変換した親指は最低限度の再生を終えていた。急速に再生された骨組織に沿って筋肉繊維が伸び、増殖しながら繋がりつつある。
動かす分には支障は無いが、同じ戦闘をもう一度こなすのは困難だ。
翳りの無い空は世界に関心が無いと言った色合いを一切変えず、墜落前と同じ質感の雄大な青を湛えて頭上を流れていく。
冷気を孕んだ風が、今は火照った身体に丁度良い。
「ヘルメットを外せばさぞや気持ちが良いんだろうな」
『非推奨』
「分かっている。まだその時では無い……」
一通りの祈祷を終えたのだろう、こちらに向かって手を振っているキジールが目に入った。
どこか退廃的な、聞く者の脳裏を痺れさせるような愛らしい声が雪原を渡る。
「リーンズィ、赤い竜の人。私もそちらへ行っても構いませんか?」
「ああ、構わないとも」返事をしたが、ヘルメットの中で声が籠もった。「今の聞こえたかな?」
キジールが頷き、こちらへ歩み寄ってくるのが見えた。
そして雪の中に埋まっていた石に躓いて転んだ。
小さな身体が、べしゃっ、と音を立てて斃れた
「転んだな」
『目標、転倒しました』
「そのアナウンスは必要か?」
アルファⅡは倒れ伏せた少女をぼんやりと眺めた。
そのうち、空の方にヨーロッパトウネンの一群がどこからかやってきたので、アルファⅡはそちらに興味を向けた。
「渡り鳥の飛んでくる方角を検討していけば、今現在の地球がどうなっているのか判断できないかな」
『有意だと思われます。検討してみましょう』
少女はまだ倒れていた。
頭から落ちた帽子の上で、羽根飾りがそよぐ風に揺れていた。
「あれは大丈夫なのか?」
『バイタルは安定しています』
「そうか」
五分ほど、穏やかに時間が流れた。
倒れたままの少女が、何も起こっていないかのような声音で呼びかけてきた。
「リーンズィ、私は一人では立ち上がれないのです。雪が少しずつ冷たくなってきました」
アルファⅡは少女が倒れたまま動かないことにあまり関心を示さなくなっていたため、キジールが何を言っているのか殆ど理解しなかった。
「やっぱりそうなのか。あの服も脱がすとき全然伸びなかったしな」
『推測。脱衣すれば一人で立てるのでは?』
「そうだとしてもあんまり人前で服を脱ぐに気にはならないと思うぞ、君と違ってな」
『反論します。人を露出狂のように言わないで下さい。あれは機能テストの一環でした。それに、貴官は当機の小間使いのような存在なので、裸体を見せても何とも思わないのです』
「君の体では無く、元はあの子の体なんだが、申し訳ないと思わないのか……?」
「あの! リーンズィ? 助けて欲しいのですが! 誰と話しているのですか? あなたも主に祈りを?」
かなり距離があったが、キジールはこちらの会話、正確にはアルファⅡが虚空に投げかけている言葉が聞こえているようだった。歌い手に特有の優れた聴覚なのかもしれない。
「いつわりの魂なれど、私はあなたの信仰と献身を尊重します。あなたの祈りの時間が終わった後で良いので、手を貸していただけませんか? 私は一人では立ち上がれないのです。寒いのには慣れましたが、冷たいのは苦手なのです……」
「すぐに行く。気がつかなくて悪かった」
『貴官は薄情ですね。当機は「すぐ助けに行くのでは?」と予想して観察していたのですが』
「なんというか、全然、緊急事態のようには見えなかったから……」
間の抜けた返事をしながらアルファⅡは立ち上がった。
蒸気機関を背負い、ずしりずしりとブーツの足先を雪に埋めながら近づいていった。
遠目には少女は全く立ち上がろうとしている気配がなかったのだが、実際に近づいてみると、やはり立ち上がろうとした痕跡は一つも無かった。
敬虔な祈りだとか神性だとかそういったものは一つも感じられない。
薄い布地の下に、落ち着いた呼吸をする背中が透けて見えるようだ。
怪我をしたというわけでもなさそうだ。
ただただ純粋に、立ち上がろうとしていないだけだった。
「首が折れたとかではないのか?」
『もしかすると倒れているのが趣味の人なのでは?』
アルファⅡは納得してしまいそうになった。
「いいえ、私は無事です。ご心配をおかけします」
撃たれた兵士のように突っ伏している少女は、冷えて赤く染まり始めた線の細いかんばせを傾けて、何とも言えず黙って立っているアルファⅡに向けて、蕩々と話しかけてきた。
「奇異に思われるのも無理からぬことです。私に与えられている聖衣は、サイズが合っていないので、こうなってしまうと、脱衣しなければ一人では立ち上がれないのです。我が仔が見ている前で、公然と肌を晒すのは、憚られてしまい、あなたに助けを求めました」
「君の気持ちは理解する」アルファⅡは曖昧に頷いた。
『当機の推測が的中しましたね。しかし、服を脱がされたことを覚えていないのでしょうか? 下着どころか、綺麗な内臓まで見てしまいましたよ』
意地悪そうな笑みを浮かべながら、ユイシスがアバターのオリジナルを見下ろしている。この人工知能には敬意や配慮というものが実装されていないのかと思われたが、『怪我が無いのは事実のようです』と報告してきたので、どうやら観察ついでに、自分にだけ圧倒的に有利なからかいをしていたようだった。
「ユイシス、黙っていたほうがいい」と窘めながら、少女の背後に回り両脇に腕を差し入れて、伏せて寝てしまった猫でもひっくり返すような調子で持ち上げて抱き起こした。
キジールはふわふわとした髪から甘い香りを漂わせながら少しの間よろめいていたが、そのうち姿勢を安定させた。
アルファⅡがついでに帽子を拾い上げて手渡すと、キジールは社交用に設えたれたような、欺瞞的な印象を与える高貴な微笑を浮かべた。
「ありがとうございます。普段は信徒たちの手を借りているのですが、彼らは既に任を解かれた身です。私にはもう、命令が出来ません」
「これぐらいは安い任務だ」
ちらりと青薔薇の樹木を見遣る。
兵士たちは、少女のことなど一度も見たことがないといった様子で、一心不乱に祈り続けている。
「お互いに無事で良かった。そちらの人員が失われてしまったのはこちらの力不足だ」
「彼らは失われたのでは無く、神の息吹を受けた獣の肉へと、在り方を変えただけです。この地からは一つの命も失われていません。ところで、あなたは黙契の獣とは何かご存知ですか? 彼らのその真の使命を?」
「いや、私はその手の知識には疎……」
金髪の少女は翠の宝玉の瞳を輝かせて、さっとアルファⅡの右手を握った。
兵士の肉体は温かい肌の滑らかな感触に息を飲む。
兵士の意識はただ相手が予想外に素早い動きを見せたのでただただ虚を突かれた。
アルファⅡの右手を両手で包み込んで握りしめながら、少女は頬を上気させて語った。
「黙示録にはこうあります。一七章八節、『あなたの見る獣は、かつてあり、人の国にはおらず、忘れ去られた神との契約により目覚めて、やがて神の王国の礎を築くものである』。つまりどのようにおぞましい姿をしていようとも、獣とは神の御名において作られた存在であることが預言されているのです。また、こうもあります。一七章一二節、『獣たちに憩うべき場所はない。しかし、一時だけ殺戮の王として地上をほしいままにすることを許される』。これは獣の成す痛ましい殺戮さえもが肯定されるもの、主の御慈悲によるものだと示しています。獣を恐れることは神の力を恐れることであり、つまり信仰無き者に信仰を与えるという計らいなのです。一七章一四節も忘れてはなりません。『獣の軍勢は仔羊をも傷つけようとするが、仔羊は、主の中の主、王の中の王にして、最初に再び誕生した者である。仔羊は獣に打ち勝つことで御国の証を示す。また、仔羊と共にいる、使命を授けられた忠実な者、即ち不死のともがらたちも、その証に名を刻まれてある』。お分かり頂けますか。獣とは呪わしい存在です。しかし憎んではなりません。彼らは血と悲嘆の体現者であり、信仰無き世界の苦痛を代弁する者なのです。彼らは暗黙裏に代弁者として主たる神と契約を結んでいるのですよ。そして主たる神は、黙契の獣は最後には打ち倒されることまで織り込まれている。信仰が最後まで芽吹かなくとも、獣と戦うための軍勢に加われば、神の傍に立つことが出来るのです。真なる献身者が、何者なのか、もうお分かりですね。獣の身となり、呪いを一身に受けて歩き続ける獣自身なのです……。しかし、その黙契の獣も安息の眠りの中にあります。素晴らしいことです」
「そうか。素晴らしいのは、良いことだな」
アルファⅡは曖昧に頷いた。
彼女が何を言っているのか全く分からなかった。
スヴィトスラーフ聖歌隊が悪性変異体を『黙契の獣』と呼んでいるらしいことだけは理解できた。
怯んでいるアルファⅡに、ユイシスが警告した。
『注意して下さい。黙示録にそのように明記された箇所はありません。これは彼らスヴィトスラーフ聖歌隊独自の解釈です』
「あのようにして戒めの塔を生み出すことは、常なる者には叶わぬことです。どこのどなたかは存じませんが、やはりあなたは神の遣わした未知の再誕者なのでしょう……」
『辞書登録:再誕者/スチーム・ヘッド』の表示が視界を流れていった。
「もしかすると、もう一度名乗った方が良いだろうか。私は調停防疫局のエージェント、アルファⅡ。アルファⅡモナルキアだ」
「調停防疫……?」キジールは小さく首を傾げた。「存じません。アルファⅡというお名前は聞いております。リーンズィというのは、失礼をしました、見た目の連想で呼び名を決めるのが、私の癖なのです。お気に障っていなければ良いのですが」
「その呼び方のことは構わない。だが、調停防疫局を知らないというのは? そうだな……あの青い薔薇のような変異体は見たことがあるだろう? あれを最初に確保した組織だ。世界保健機関は分かるな?」
「世界保健機関……? ええ、スヴィトスラーフ聖歌隊をかつて支援してくださっていた組織です」
「違う。そんな事実は無い。何の話をしているんだ? 聖歌隊はまだロシアを脱出していなかったし支援の余裕など……」
「リーンズィは不思議ですね。起こっていないことを、まるで起こったかのように仰る。それこそが神の御遣いたる証なのでしょう。私は、あのような花の塔は、初めて目にしました」
「あり得ない。あの、不滅の青い薔薇だぞ」アルファⅡは首を振った。「コントロールには成功したが最初期の悪性変異の一つだ。世界的なニュースだったんだ。あれのせいで一つの都市が閉鎖された。何万人が行方不明になったか。あれを知らない人間がいるはずがない。それこそ連日連夜、テレビでもラジオでも、ネットでも、タブロイド誌までもが、あの不滅の青薔薇のことを……」
「ごめんなさい。やはり、存じません」
キジールは戸惑ったようだった。
「ユイシス、どういうことだ」
『不明です。スヴィトスラーフ聖歌隊の間では知名度が無いのかも知れません』
「詳しいことは、お聞きしません。あなたはおそらく、尊い御方なのでしょう。我が身が崩れることも厭わず黙契の獣と戦い、最初に銃を向けた私を救おうとし、最後には私の愛しい仔を鎮めてくださいました」
少女は表情を整え、儚げな笑みを浮かべた。
「私の旅は、これでようやく終わります。長い、長い旅でした。海岸にはたどり着けず……ここで審判が真に来る日を待っていましたが、図らずも神の御心は、あなたをこの血に遣わしてくださいました。これでようやく、いつわりの魂を、この体から解き放つことが出来ます」
アルファⅡは、キジールからまともに情報を引き出すことは難しいと判断した。
スヴィトスラーフ聖歌隊という組織の中で何らかの情報統制があった可能性は否めず、藪を突いて余計な反応をさせるのは得策では無かった。
機能停止が近いスチーム・ヘッドの精神性は、脆い。
キジールは見た目こそ整っていたが、どうにも言葉の節々から崩壊の兆候が見受けられる。
「では、君はずっと、あの悪性変異体、獣を鎮めるために旅をしていた。そういうことなのか?」
「はい。多くの聖歌隊の信徒と共に不死の祝福を世界に広め、授かりし力で黙契の獣を鎮めることこそが私たちの使命でした。……あの、お聞きしても? あなたの他に、ここに、この、上の方の空間に、どなたかおられるのですか? ヘルメットの中に、無線機? などがあるのでしょうか」
『ご機嫌はいかかですか? 歌う人。私は蒸気機関の守護天使、ユイシスです』
アバターが嘲るようにキジールに名乗ったが、当然ながら電子的に交わっているところの無いキジールには聞こえない。
ユイシスの余裕に満ちあふれた笑みと、キジールのどこか狂気じみたところのある微笑。
穢れたところの無い、同じ造りをした美しい顔の二人だったが、見比べてみると見間違える要素が全くない。
たとえ同レベルの情報密度を持っていたとしても、性格が悪そうに見える方がユイシスだ。
アルファⅡは黙考して、キジールに説明した。
「私のスチーム・ギアには支援用のAI、人工知能が積まれている。名前をユイシスという。それと話をしているんだ」
「なるほど。えーあい、ですか。存じています」無意識の動きだろう、キジールはマウスを動かすようなジェスチャをした。「ぱそこんの……すごいやつですね」
『澄ました顔をしていますが、存じていないやつですねこれは』
「そう、彼女はパソコンのすごいやつだ』
『抗議します! 当機はパソコンではありません!』ユイシスは手を振り回して抗議した。パソコン呼ばわり抗議プログラムでも組まれているのかもしれない。『パソコンなんかじゃないよ!』
「パソコンのすごいやつなので、人間のように話すし、笑う。独自の姿は無いみたいなのだが、見聞きした者の姿を自由に写し取ることが出来る。今は君と同じ姿をしている」
「やはりあなたは尊いお人なのでしょう、そのような御業があるなんて……」キジールの目に好奇心が瞬いた。「しかし、私と同じ姿……ですか?」
「気になるだろう? ユイシスは、君のことをいたく気に入ったらしくて、君の姿を借りたんだ」
『余計なことを言わないで下さい!』
「そうなのですね。嬉しく思います」
「勿論、無断で姿を写し取って仮想人格の外装に使用することは、倫理的に不適当だ。まずはその点を謝罪させて欲しい。我々は君に対して不法行為を働いている」
「いいえ、私もまたかりそめの魂に過ぎません」キジールは瞑目して首を振った。「この真なる肉体の持ち主は、きっとあなた方を赦すでしょう。何故ならば、真なる肉体の持ち主と私とは、同じように考えて、語るはずだからです」
「本人由来のプシュケ・メディアなら、そうだろうな。だが、無許可で写像を作成したのは事実だ。我々としても、無許可で作ったアバターを今後も使うのは避けたい。そこで君にはアバターをチェックして、改めて許可を与えてほしいと思う」
『け……警告します!』ユイシスのアバターがあからさまに慌てた仕草を見せた。『アルファⅡ、何を企んでいるのですか? ぼ、わた、……当機の体をチェックさせる? 当機の誤認識でしょうか?』
「そのアバターは君ではないし、君の真の姿でも無い」アルファⅡは小声で言った。「そして誤認識でも無い」
そして暗黙のうちに、ヘルメットの内側の脳髄が、統合支援AIへと情動解析の命令を送る。
……今回の提案の本来的な目標は、聖歌隊の指揮官クラス、それも原初の聖句を操れる存在との間に信頼関係を築く事にある。
アルファⅡとしては、キジールの扱うそれがさして脅威となる力だとは感じていなかったが、こちらの戦力として使えるならば、いくらか有用だという印象もあった。
出来れば親睦を深めるという形で敵味方の境を取り払っておきたい。
> 観察した限りでは君と彼女は同性だし、同性同士深まる仲もあるだろう、君の犠牲は忘れない、とアルファⅡが思考すると、非常に容量の大きい抗議文がユイシスから帰ってきた。
データを開かず全て消去した。
「しかし、私には見ることも聞くことも出来ません。何か方法が……?」
アルファⅡはガンレットから円環型の装置を取り外して、蝶番を開き、キジールの手に乗せた。
金属製の首輪のようにも見えるその金属の冷たさに反応してか、キジールの翡翠色の瞳に一瞬暗い光が過ぎった。
しかし、「これは?」と問いかけたときには、もうその不安そうな瞳の動きは消えていた。
「非侵襲式簡易人工脳髄のホワイト・ロムだ。私はこれを不死病患者に取り付けるだけで、その肉体の制御を奪える。スチーム・ヘッド……君のような再誕者には、もちろんそう簡単には通じないので、安心して欲しい。ただ、本来の機能を使わずとも、ある種の通信機の代用ににすることが可能だ。その装置を首に装着すると、電磁場が形成され、君の人工脳髄と、私の人工脳髄の間に、簡易なネットワークが生まれる。そうなると、私が演算しているユイシスのアバターを、君の脳髄と共有することが出来るわけだ」
「……存じております。ネットワークですね」キジールは明るい表情で頷いた。「通信機? ということですね。私とそのユイシスという方が触れあうための」
「そういう認識で問題無い」
ユイシスは、観念したのか、アルファⅡの意図するところに理解を示したのか、もどかしそうな手つきで二人に触れようとしていたが、触れることは出来ない。
突き詰めて言えば、どれ程精巧に作られた存在でもその本体は棺型の蒸気機関にあり、この世には存在していないからだ。
キジールは首輪と、己の首とに交互に触れて、少し迷ったようだった。
最後にはアルファⅡをちらと見て、金色の穂波のような髪をかき上げて、行進聖詠服の襟にある固定具を外して開き、真っ白な首元を露出させた。
装置を首に嵌めるとアジャスターが作動し、少女の首にぴったりと張り付いた。
凍てついた金属の冷たさに少女が息を吐いた。
「……これで良いのでしょうか?」
「ユイシス?」
『う、うう……非侵襲式簡易人工脳髄、正常稼働中です』
不承不承と言った調子で、金髪の少女がアナウンスする。
逃げたいし隠れたいといった感情がありありと見て取れたが、最終決定権はアルファⅡの側にある。
ユイシスはアバターを非表示化するためのコマンドを連打していたが、アルファⅡが全てブロックしていた。
『ブリッジモード、本当に起動しますか?』
「起動だ」
『準備はよろしいですか? 当機は良くないです』
「設定を忘れていた。物理演算最大レベル、接触可能設定で起動だ。電力は惜しまなくて良いぞ」
『何をさせる気なんですか?! ……要請を受諾! 起動します!』
ガントレットから同期のための電波が放射され、首輪型の人工脳髄に電波を届けた。
「……あっ」
キジールが驚嘆の声を上げた。
頭部に埋め込まれた造花の形をした人工脳髄が、アルファⅡの隣で気まずそうに視線を彷徨わせている己とそっくりな姿をした少女を捉えたのだろう。
「私が、もう一人……?」
「ユイシス、自己紹介を」
最大限の正確さで存在を演算され、キジールの前に姿を暴かれてしまったユイシスは、引きつる顔でどうにかこうにか笑顔を作って、挨拶した。
「当機はアルファ型スチーム・ヘッド試作二号機モナルキアの統合支援AI、ユイシスです。あはは、初めましてキジールさん。当機としては初めましてでは無いのですが……あはは、は……」
「声は私と違うのですね」
「あ、あはは、体格に合わせてミックスしていますが、声だけは、私固有のものでして……」
普段の淡々としたアナウンス、あるいは余裕綽々な態度からは想像も付かない、しどろもどろな言動だった。プシュケ・メディアが過熱していたが、度外視する。
限界まで精妙に演算された姿は、実体が無いという点を除いて全く現実と遜色ない。
じゃらじゃらと取り付けられた装飾から、光源に対する影の発生まで、可能な限り再現している。
「初めまして。私は聖歌隊の再誕者にして大主教リリウムの使徒、キジールです。不思議、本当にそこにいるように見えます……私の幽霊みたいに……昔の私の、願い事の幽霊みたいに見えます……」
キジールは目をきらきらと輝かせながらユイシスに歩み寄った。
そして冷や汗のエフェクトを浮かべたユイシスに熱心に視線を注ぎ、髪の匂いを嗅いだりした。
緩い癖の付いた髪が、指先でさらさらと流れるのに、キジールは、ほぅ、と感嘆の息を漏らした。
「触ることも出来るのですね?」
「服の着脱まで可能な限り再現したモードだ。信用の話になるが、通常は使用しないので安心してほしい。気になるところは全部調べてくれて構わない」
「い、いくら何でも服は……」
ユイシスが抵抗を示さないのは、アルファⅡに行動を悉くキャンセルされているためだ。アバター変更の申請も即キャンセルしている。
「ユイシスさん、個人的に確認したいことがあるのです。服を脱がせてもよろしいですか?」
問いかけるキジールに、挙動を制限されたユイシスは「はい……」と返事をすることしか出来ない。
キジールはぱちり、ぱちりと留め具を外して、ユイシスの仮想の装甲服を雪原に落とした。
曇り一つ無い、均整の取れた美しい肢体が、雪原の白銀の上に暴き出された。
「き、キジール……さん」ユイシスは顔を真っ赤にしながらキジールに問うた。情報処理速度は大幅に低下し、いつもの小憎たらしい言葉遣いは出てこないようだ。「このアバターは貴女の写し身なのですが……当機の、ええと、アルファⅡに見られるのに、抵抗はないのですか……?」
「ああ……お嫌でしたか? これは、私の肉体ではありません。あなたの肉体です。最初はそっくりに見えました。けれど、違うんですね……」息がかかるほどの距離に密着し、顔を寄せて、睫毛の数までも数えるように視線を注ぐ。「あなたは、今の私とは、違う人間です……」
「私は彼女にとって小間使いのようなものらしいから気にしなくて良い。本人の弁だから間違いない」
ユイシスは「き、貴官という人は……!」と弱々しい唸り声を上げたが、キジールに触れられた途端、息を殺し、口を噤んだ。
キジールは親猫が子猫を舐め回すような、親密な熱心さでユイシスを探った。
ユイシスは赤らめた顔でアルファⅡに抗議の視線を送ってきたが、アルファⅡとしてはキジールを静止する理由を全く思いつかなかったので無視した。アバターの破却を命じられなかった分だけ温情があるぐらいだし、少しは良いようにされる人間の感情を理解して懲りろという思いもあった。
キジールは己の分身を検分して、満足したようだった。
自分と同じ色艶の頬を撫でて、ユイシスに熱っぽい視線を向けた。
そして細やかな両手でユイシスの顔を包んだ。
同じ顔だというの、やはり二人は全く似ていない。
アルファⅡの主観による理解だが、意外なことに、この局面においては、ユイシスの方がより純真で無垢なように見えた。キジールの面相に幽かに浮かぶ退廃の気色がそれだけ強いとも言えた。
頰に手を添えられているため、ユイシスにはもはや視線を逸らすこともままならない。それどころか、自分と同じ色の、ただ旅をしてきた年月が違うだけの翡翠の目に魅了されたようで、二人して見つめ合い、存在しない虚構の身体で、荒い息を吐いている。
キジールは何でも無いことでもするかのようにユイシスに口づけをした。
びくり、と身体を震わせたユイシスの背に腕を回し、髪を撫でながら、キジールはしばらくの間、接吻を続けた。
唇を離した。
ユイシスはがくりとその場に崩れ落ちて、仮想の裸身を仮想の装甲服で隠し、肩で息をしながらしばし呆然としていた。
「やはり、そうなのですね」
キジールには照れた様子も無い。
懐かしむように、羨むように翡翠色の目を伏せて、外観にそぐわない仇っぽい笑みを浮かべた。
「あなたは、私ではありません。似ているだけで、全く違う存在です。こんなことぐらいで心を動かしてしまうなんて……羨ましい。私の写し身を使うというのであれば、私はあなたを祝福します。あなたは……きっと、昔々にあの暗がりで見た、私の夢そのものなのでしょう」
「どういうことだ? 君とユイシスは、どう違う?」
キジールには自嘲するような、諦観した笑みが浮かんでいる。
「リーンズィ、真なる献身を示したあなたと、そしてその同胞であるユイシスだからこそ、話しておきます。私は何十年も前、ルーマニアのブカレスト、その下水道の街に暮らしていました。暮らしていた、というのは、違うかも知れません。首輪を嵌められ、鎖で繋がれ、足の腱を切られて、誰かが金銭をやり取りするための道具として扱われていました。不死となって浄化された肉体からは想像も付かないかも知れませんが、体のいたるところが壊れていました。下水道はいつでも糞尿の匂いがしていて、薬物の煙がずっと充満していて、噎せ返るような汗の臭いが渦巻いていました。神の火の届かないソドムの市でした。私は何も知りませんでした。他の人生を知りませんでした。
ですが、時折夢想することがありました。傷一つ無い肉体で、下水道の外で暮らしたい。どこか知らない明るい空の下を気ままに歩いていきたい……その夢は繰り返し繰り返し、毎夜意識を失う前、男に蹴り飛ばされて首輪を引かれているとき、私の燃え尽きそうな苦痛の魂に不意に去来して……心が腐り果てるのを救いました。それも聖父スヴィトスラーフの救いを受けてからは、消え失せてしまいましたが」
キジールはユイシスを助け起こした。
そして熱く、熱く抱擁した。
再会した生き別れの姉妹、あるいは娘に対してするように、強く抱きしめた。
「ユイシス。あなたを知って、確信しました。あなたは穢れを知らない。さもなければ、忘れてしまっている。あの頃の、もう一人の私です。二本の脚でどこまでも歩いて行ける、私の夢の結晶です……私はあなたを赦します。自由に、自由に生きて下さい。私の憧れた空の下で……」
もう一度軽く接吻して、キジールはユイシスから離れた。
そしてアルファⅡに問いかけた。
「……私は、奇跡を目の当たりにしました。かつて夢見た私が、献身の勇士であるあなたと共にある。これほどに神の存在を身近に感じたのは、我が仔と再会したとき以来です。しかし、あなたがたは、どこへ行くというのですか? 世界から争いを根絶する、と仰っていました。不死の祝福が満ちたこの世界で、何のために?」
「……当面の目的としては、まともに意思疎通が出来る機関と情報交換がしたい。まずは世界保健機関だな。どこかの事務局が生きているとう噂は聞いたことは?」
「存じません」
「そうか。とりあえずは何でも良い、どの組織とでも良い、協力関係を結びたいと考えている。君たちが黙契の獣と呼んでいる存在も気がかりだ」
「大半は聖歌隊の娘たちが海岸へ連れて行きました。伝令の再誕者が、塔を打ち立てて獣たちを鎮めたのを、写真で見せてくれました」
「大半か。つまり、全部では無いということだ。事態は予想より遥かに深刻化している。出来ることはあまり残されていないだろう。だが悪性変異体の増殖だけはどうしても阻止しなければならない。彼らを野放しにしておけば必ずや連鎖的な悪性変異が発生する。そうなれば地球上の全てが魂無きものどもの血と肉で埋め尽くされて、不可逆的な災禍を呼ぶだろう。だから、地の果てまでも歩き続けて、可能性の萌芽を確実に潰していくつもりだ」
「では、それが終わったら、あなたはどこへ行くのですか?」
「ポイント・オメガへ行く」
「どこにあるのですか?」
砲金色のヘルメットの兵士は、押し黙り、首を振った。
「分からない」
キジールはしばし思案した。それから、森の方を指差した。
「北東の方向に、スヴィトスラーフ聖歌隊に七人いる大主教、その一人にして、清廉なる導き手と讃えられるリリウムが、陣を構えています。確証はありません。もう移動しているかも知れません」
心的な動揺から脱したらしいユイシスが、警告を発した。
「警告。大主教リリウム。スヴィトスラーフ聖歌隊の幹部の一人にして、基地襲撃の実行犯の一人です……」
「彼女は最も多くの愛を知り、最も多くに愛された、神に寵愛されし真なる聖性を宿す娘です。世界を平定するという目的であれば、きっとあなたに共感を示すでしょう」
「情報提供に感謝する」アルファⅡは頷いた。「我々はそこを目指すことにする」
キジールは儚げに視線を流した。「……あなたは、私のことを軽蔑しているのではありませんか? 言葉の節々から、不死の病自体を憎む者の鼓動が感じられます」
「意味が分からない。ユイシス、解析を……」
「いいえ、分からないと言うことであれば、構いません。……かつて私は、一人だけ、何の咎も、聖歌隊と由縁の無い、無い新しい命を授かりました。その子を守るために、あの汚濁の街から逃げだそうとして、さらに酷い仕打ちを受けました。しかし聖父スヴィトスラーフは掬い上げてくださいました……私は不朽の歌を紡ぐレーゲントとして、世界を変える軍団の一員になることを選んだのです。ですが、かつてはおぞましく、憎らしかったあの街も、今では違ったのだと分かります。あの街もまた、世界の歪みの一つに過ぎなかったのです。抑圧と搾取、汚辱と悪徳を許容する定命の窟よりも、不死の祝福が万人を等しく包み込む世界の方が幸せだと信じています」
「……君の意思は理解した。私からは何とも言えない。正直、何をしても手遅れのように感じている」
「あなたもリリウムに遭えば分かります。あの子の不滅の聖性に触れれば、きっと分かってくれるはずです。こうして祝福された不死の世界こそが、本当にあるべき未来だったのだと。神の御国とはこういうものなのだと。あなたがスヴィトスラーフ聖歌隊と共に歩んでくれることを祈ります」
キジールはユイシスのアバターに語りかける。
「あなたの全てを、改めて赦します。私の夢。もう一人の仔。私は最後にあなたという娘を持てたことを、本当に幸福に思います。あなたの無垢なる魂に。原罪無き清らかな魂に、どうか安らぎのあらんことを」
そしてユイシスの虚像の額に優しく口づけをした。
「最後に希望の光を見せて下さったことに感謝します。これで安心して我が仔の元へと旅立てます。リーンズィ、黒いレンズの人、赤い竜の人……最後にお願いをしてもよろしいですか?」
砲金色の黒い鏡の世界に、待たせた子を慈しむ、不老にして不死なる少女の微笑が映り込んだ。
「出来ることなら協力したいと思う」
「私から、このプシュケを取り除いてくれませんか?」
そう言って、瑞々しささえ感じさせる花水木の造花、純白の小型人工脳髄の花弁に触れた。
「私自身では出来ない設計なのです」
「君は、機能の停止を望むのか」
「はい。自死を禁じる教義に背く部分があるのは、分かっています。けれど、我が仔を置いて生き続ける魂に、何の価値があるでしょう」
「君が望むなら、協力したい。しかし本当に良いのか? 記憶領域からは数分で一切の情報が揮発する。君は単なる不死の人間となって、太陽も月も分からないまま、愛すら知らず立ち尽くす肉となる」
「構いません。いつわりの魂は我が仔とともにあることを望んでいます」
「水を差すようで悪いんだが……不躾な申し出を許してほしい。私は、実は君の原初の聖句と聖歌隊での身分に目をつけて、助力を乞う気でいた。もちろん、それがために君を引き止めるつもりはない。ただ、君の人格が消え去った後、君の肉体を使わせてくれないだろうか」アルファⅡは偽らざる本心を告げた。「つまり、森を抜けるまでの間だけでも、君の肉体に我々の先導を依頼したいんだが」
「ああ……この首輪は人工脳髄だと仰っていましたね。これを、起動させて、私を支配するるのですね。確かに、この聖衣を見て、誰何無しに撃ってくる信徒はいないと思いますが」
「君に対して非道な扱いはしないと約束する。回答を聞きたい」
「素晴らしい勇士と、愛しい新しい娘とともに旅をすることが出来る。本当の私にとっても本望でしょう。楽しみにしています。私の意識は消え去った後なのが残念ですが……」
「……何だか照れますね」とユイシスは言った。「分かりました。当機としてもあなたの決定を最大限尊重します。一緒に旅をしましょう」
「ええ。この素晴らしい出会いを祝福し続けるためにも。さぁ、どうか、お願いします。私といういつわりの魂の、最後のお願いを……」
アルファⅡは頷いて、ユイシスに目配せした。
ユイシスは肉感を保持したままキジールに寄り添い、その身体を支えた。
現実にはキジールの細い体躯は、虚構の身体的感触によって全身の筋肉を強張らせているだけに過ぎない。それでも、温かな肌の感触は本物だ。
祈りと同じく、形が無くとも、存在しなくとも、確かにそこにあるのだ。
「ありがとう、ユイシス。私の愛しい夢の欠片……」
慎重に、キジールの頭に埋め込まれた花水木の造花へと指を伸ばし、その美しい細工の人工脳髄を生体脳からゆっくりと引き抜いた。
穴から髄液が零れ、涙となってキジールの幼い顔貌を濡らした。
「また、お会いしましょう」少女はほえむ。
「はい、また会いましょう」親愛の念に感じ入ったのか、ユイシスは嬉しそうだった。
キジールは言語野に残る意識が揮発するまでの僅かな時間を使って、青い薔薇の大樹へと向かって歩いた。
そして不滅の花水木の純白の造花を、プシュケ・メディアごと、悪性変異の花樹へと、手向けるようにして投げ込んだ。
十字を切り、胸の前で手を組む。
朦朧としながら、愛の言葉を囁いた。
「みんな、みんな幸せになりますように、みんな、幸せになりますように……魂に安らぎのあらんことを。神の御国の栄光の不滅であることを……」
最後に呟いたのは、誰とも知れない名前だった。
「ミチューシャ。ドミトリィ……私の愛しい仔。母は、今、あなたのところに向かいます……」
そうしてキジールはこの世界から消滅した。
祈る姿は、死の悲嘆にいささかも曇ってはいない。
聖句を籠められた肉体は賛美の歌を紡ぎ続けている。
『残留意識の消失を確認』
アバターを非表示にしたユイシスが、首輪型人工脳髄から送られてくる情報を読み上げる。
『神経活性状態は極度に安定。ここにいるのは単なる感染者です』
「了解した。活動電位の取得は万全か?」
『肯定。スチーム・ヘッド本人の意思を尊重し、記憶情報のスキャンは人工脳髄摘出後からスタートしていますが、十分な量のデータかと思われます』
「彼女が協力的な態度を見せてくれて良かった。今後の手順は幾分スマートになるだろう」
そう言いながらガントレットから引き抜いたのは、釘のような形状の機械だ。
非侵襲式人工脳髄の補助装置であり、感染者の頭に打ち込んで使用することで、動作をより精密に昇華させる。
本体は首輪型人工脳髄であり、親機はアルファⅡとなる。
感染者の肉体への負担は極めて小さい。
聖歌隊の少女の肉体は、もはや相当度の損傷を負わない限りは生物としての反応を示さない。
それでも気を配ってゆっくりと雪原に引き倒し、塞がりつつある人工脳髄の差し込み穴に、釘状の装置を押し込んだ。
「消えた彼女からの要望もある、試してみよう。上手くいくと良いが。ユイシス、エコーヘッド・システム起動」
『了解。複製転写式行動様式第3号、アルファⅡの神経系にマウントしました。データベースチェック、異常ありません。擬似情動の入力を開始。エコーヘッドシステム、起動します」
雪上に横たわり呆けた顔で歌っていた聖歌隊の少女が、不意に肉感のある声を上げた。
それは苦悶であり、感染者特有の安楽した無表情では無い。
涎を零し、哀願するように喘ぐ姿は、穏やかな眠りの海から引きずり出された溺水者のようだ。
「あ、ぎぃいい、あっ……は……あああああああああああああああああああ!!!」
魂無き少女は、焦点の定まらない翡翠色の目玉を盛んに動かし、天も地も分からないと言った具合で藻掻き苦しんだ。
不朽結晶連続体の服を苦しげに掴み、開けられた胸の首輪型装置に指が触れた瞬間、唐突に動きを止めた。
そして侮蔑と自嘲の重なった暗い笑みを浮かべた。
「また、首輪? つくづく人を這いつくばらせるのが好きな人たち。あなたたちは犬以下よ!」と吐き捨てた。
余りの豹変振りに、アルファⅡは沈黙した。
「……様子がおかしいぞ。情動の選択が適切ではないのでは?」
『神経活性を検出。恐怖、悲嘆、憤怒、敵意。自傷の兆候あり。保護措置を適応して下さい』
アルファⅡが抱きかかえようとすると、今度は引き攣れた短い悲鳴を上げて、怯えた様子で身を縮め、壊れやすい宝物でも搔き抱くように下腹部を庇った。
「ご、ごめんなさい、やめてください、この子だけは、どうか見逃して下さい……お願いします……この子だけは……騎士様の、私の騎士様の……ミチューシャ……!」
打って変わって痛ましい譫言を繰り返す少女に、二人の会話に同情の色はなく、むしろ事務性が強まった。
「やはり情動がおかしい。適切な反応ではない」
『記憶が混濁しています。現時点で有意な刺激を与えてください』
「何と呼べば良いやら……キジール? 君の名前は、キジールだな?」
その名を聞いた途端、少女の震えが止まった。
そして慄然とした様子で、周囲を見渡した。
「私……私は……、そう、ミチューシャのところに……ずっと……今度こそずっと一緒に……」そして不思議そうにヘルメットの兵士を見た。「リーンズィ? あなたが何故ここに……? 私は、我が仔とともに、眠りについたはず……あなたも神の御国に召されたのですか? では、ここが天国なのですか?」
「天国でないことだけは確かだ」
少女を抱き起こして、青薔薇の花樹を指差して見せた。
「そん、な……」
少女の息が荒くなる。
金髪の頭に手をやって花水木の造花を探すが、何分も経たない前に不滅の薔薇へと投げ込んだ直後だ。
それが生来の地なのであろう、発音の荒れた言葉が破裂する。
「あたしは確かに機械を外して……何で? 何であたしは、死んでいないの!? リーンズィ! 私に、キジールに何をしたのですか?!」
「キジールには何もしていない。君がキジールと認識してるスチーム・ヘッドは正常に破棄された。君は、君自身をキジールと認識しているようだが、違う。君はキジールの要素が僅かに残った残響に過ぎない。自分の名前は思い出せるか? キジールでは無い本物の名前を? 良いだろう、では両親の名前は? ただの人間だったころ初めて恋をした時の記憶はあるか? 発症前に最後に食べたものを憶えているか? 生前最も印象的だった事件は? 最も印象的だった血の繋がっていない人物は? 君に関係しない事件で最も危機を覚えたのは? 足の腱を切られたと言っていたがその時の状況は思い出せるか?」
「聞きたくない、思い出したくない、言いたくない……」少女は拘束されつつも弱々しく暴れ回ったが、兵士の体躯は癇癪を起こして暴れる子猫でも抱いているかのように動じない。「そんなの、そんなことを聞いて、どうするというの?」
四本腕の腐肉の巨人を前にして、臆することなく聖歌を奏でていた面影はもはやない。
宣教者のような外観にそぐわない落ち着きも剥落してしまっている。
兵士に抱えられているのは、暗澹たる運命に絶望し、必死に拒絶しようとする、ただの無力な少女だった。
「思い出せないんじゃないか?」アルファⅡが無感情に問うた。「何も思い出せないのだろう」
「忘れるはずがないでしょう、私の最初の恋は……さい、しょは……」眩暈がしたように頭を抑える。「あれ……? 再誕者になってから、物忘れなんてしたことないのに。何だか……霧がかかったみたいで……」
「それは仕方のないことだ。君には大した量の記憶は存在しないのだから、思い出せるはずがない。君は……もう聖歌隊のキジールでは無いんだ」
「私は、キジールでは、ない……? でも、そんなはずありません、私は、あたしは、あたしは、だって……私は、私はキジールです! 聖父に祝福されし栄光あるレーゲント……!」
「分かった。仮に、君のことは引き続きキジールと呼ぼうか。しかしこう言っておこう、おはよう、新しいエージェント。調停防疫局は君の有用性を評価して、肉体を接収することに決めた」
ヘルメットの兵士は淡々と宣告した。
「な、何を、言って……」
「君は、言うなればキジールという人格の残骸だ。君のオリジナルであるキジールが、ユイシスのアバターを検分している間に、ユイシスは君のオリジナルの所作や言動を記録し、解析して、思考傾向をデータ化した。そしてキジールのプシュケ・メディアが引き抜かれた後の、何の権利も認められていない感染者の生体脳髄に残存した、中期記憶や短期記憶、および非陳述記憶をスキャンした。それを私、アルファⅡの情報処理装置で整合性がとれる形で統合し、キジールのように振る舞う擬似人格として仮想構築し、その演算結果を君の首輪、隷属化デバイスと呼んでいるんだが、そこから肉体に入力しているのだ」
憤怒と恐怖、理解不能な現実から来る恐怖が、少女の表情を凍てつかせた。
「何を……言ってるの?」
「つまり、君は自分をキジールだと誤認している、ただの感染者だ。記憶と振る舞いを再生しているだけで、決してキジール本人ではない」
「では、これはいつわりの魂なの? あたしはまた、再誕したの?! どうしてそんなことを?! そんなことは望んでいなかったのに! あの子のところに行きたかったのに、なんでこんな……!」
「それも誤解だ。君は断じてスチーム・ヘッドではないし、キジールの意思を継いでいるわけでも無い。人工脳髄に君の純正な人格データベース、人格記録媒体は入っていない。そもそも君の思考判断は現在、専ら私の代理演算で成り立っている。君の生体の脳は情動の入力を受けて反応しているだけだ。少なくとも君自身に何か命だとか魂だとか言う要素は備わっていない。欠損部分のデータは当機のメディアで補足しているし、仮想人格の演算にも君の脳は使っていない。君が思っている以上に、君が君である部分は少ない。君が思い出せるのは精々がここ数日の記憶だけだ」
「嘘、嘘よ! 私はずっと昔、前のあの日、聖父様と一緒に抱いたあたしの娘、私のミチューシャの香りを確かに覚えています! あの胸に抱いたときの、愛しい柔らかさを……」
「毎日のように思い出していたのか、機能停止する寸前に思い出したのかは知らないが、それは最近強く想起された記憶であって、遠い昔の死蔵された記憶では無い。そしてそれ自体は君本来の記憶ですら無い。我々が君に流し込んでいる虚構の記憶だ。一部はオリジナルに由来している。しかし、揮発し始めたときの記憶というのは壊れやすくて、輪郭を掴むのが精一杯なんだ。だから補正を加えて、それらしく君に認識させている。どれだけ鮮明な光景でも、君のその記憶は、君の実在性を保証するものではない」
名も無き少女は嗚咽し、美しい金色の髪に爪を立てた。
「それじゃあ、それじゃあ私は、あたしは、誰なの? キジールじゃ無いというのなら、記憶さえも本物じゃ無いなら、ミチューシャを抱いた思い出すら嘘なら。いったい、あたしは……」
「どうしてそんなに混乱しているんだ? そこまで突飛なことはしていないと思うのだが……。そうだな。君はキジールというスチーム・ヘッドの、その残響から生み出された、作業用の存在だ。我々は残留思考転用疑似人格と仮称している」
「そう」少女は諦観の笑みで喉を震わせた。「まるでユイシスさんみたい。あたしは、幽霊なんだ」
「ユイシスも君も幽霊では無い。ただのデータだ。何の特別性も持たないデータだ。私もまた、そうだ」
「あたしは……死んだら、どこに行くの?」
「それは分からない。君は死なないし、厳密には存在していないからだ」
「どうして、どうしてこんなことを……」
「君が我々にとって有用だと判断されたからだ」
「うう、うううう……」金髪の少女は苦痛に耐えるかのように我が身を抱き、震える声で問いかけた。「あなたがたは、いったい、何者なのですか……? 貴い人だと思ったのに。きっと神様の遣いなのだと思ったのに。どうして、どうしてこんなことを。あなたたちは、何のために……いったい、何者なのよ……」
「有益だと判断したからだ。順を追って答えようか。我々は調停防疫局の全権代理人。エージェント・アルファⅡ……アルファⅡモナルキアだ」
黒い鏡面のバイザーが、恐怖に歪んだ少女の泣き顔を覗き込んだ。
「この疫病の時代を制圧し、全ての争いを調停するものだ。そしてこれは……これからは、君の名前でもあるのだ、新しいアルファⅡモナルキア。君の合流を歓迎する」