忘れていたなぁ
犬の死体を揺らすことで蘇生に成功したとする研究がある。
その論文を提出した科学者は、犬の次に死刑囚、つまり人間の蘇生に挑戦した。結果は残念ながら失敗に終わったが、これは実に興味深い実験だと思う。
その方法というのが、ただ死体を揺らすだけなのである。右へ、左へ、フラフラと、まるで振り子のように。
ただそれだけで、ひとたび失われた魂が、地獄の底から瞬時に舞い戻ってくるというのだ。
この方法は、遺体の損傷さえ激しくなければ有効であるという。
多くの人は作り話だと笑い飛ばすかもしれない。しかしこの研究は、単なる狂人の作り話だと一蹴にするには、余りにはっきりとした証拠資料が数多く残されている。
蘇生術。
それは、 酷く夢想的で、非現実的であり、世にありふれたくだらない数多の妄想の一つである。
しかし一方で大変魅力的でもあり、その妄想に取り憑かれる者が今日でも後を絶たない。
人は遅かれ早かれいずれ死ぬ、しかしその境界は曖昧だ。人は何を以ってして死を定義するのだろう。心臓が止まったら?それとも脳が?我々はあの恐ろしい死を出来る限り遠くへ追いやる為に、一体どんな工夫をしてやれるだろうか?
ロシアには、生きて眠っているようにしか見えない少女の木乃伊があると聞く。その肌は濡れたように若々しく、その頬には薄っすらとだが血色さえも見え、…しかし確実に死んでいる。
我々はそれを死体と呼ぶ。そしてその”事実”を疑いもしない。しかし何故?
我々は死が一体どういうものなのか、我々自身で思っている程理解できていない。特に死の境界線に関しては、全くと言って良いほどに無知である。
果たしてその美しい木乃伊の少女は本当に死んでいるのだろうか?生きてものを考えていることを、誰にも伝えられずにいるだけなのではないか。こうしてその気が遠くなるような長い年月を、ひっそりと、まるで死骸のように寂しく暮らしているのではないだろうか。
誰が確信できるだろう…心臓が止まり、体温は失われ、体の一部が既に腐り始めさえもしているのに…その頭蓋に仕舞い込まれた脳髄が、唐突に物を考え始めることがないと…。首吊り自殺をした一個の死骸が、風に吹かれて、右へ左へと揺らされる内に、その脳髄に何か一つの奇怪な働きが起こることがないと…。死体の見る悪夢を…。
彼は風呂の中で立っていた。
足を見つめた、青白かった、死人のようだと思った。 しかしすぐ奇妙だと思い直した。…死人は水の中で立つものだろうか?
死人は立たない、それは浮かんでいるか、沈んでいるかの二つに一つである、だからこれは死骸ではない…ではこの紫色の足はなんなのか。
私はそれを順に辿って見つめた…足裏、踵、踝、足首、脹脛、膝、太腿…それらはなだらかな曲線をもって繋がっていた。そしてそれはいつしか自らに繋がる足だった。
ではこれは私の足だ。
ならば私は死骸なのか?死骸は…立たない、立ちやしない。しかし、ぶら下げられることは往々にしてあるだろう。果たして私の首には、きっちりと荒縄が巻き付けられていた。
水は茶色く淀みきっている。首は、そのうち自重に耐え兼ねて分断した。