疑心暗鬼の死
第一章 疑心暗鬼の死
嘘――この言葉を知る人はほとんど存在しないだろう。
日常生活で用いるにしても簡単な意味合いで使われてしまうのが関の山。
「嘘」の意味を「欺く」や「騙す」といった意味で捉えているのが普通だ。
だが考えてもみてほしい。
――嘘。
人間には知能がある。
故に、騙す。その多くは利己的な精神から。
どんなお題目を述べた所で嘘をつかれた、欺かれた者にとっては「嘘」というのは排除されるべき極悪でしかない。
正義を名乗った「嘘」も存在するがこれは騙し手の考え方だ。
騙した方は憶えていないかもしれないが、騙された方は決して忘れることは無い。
正義だ悪だと言ったところで、考え方や見方を変えればどちらにもなる。
何が正しくて、何が正しくないのかは――誰にもわからない。
それにそもそも答えすら無いのだろう。
しかし人間社会とは俺にとって残酷なものでいつかは誰かを信じなければならない。
そうしないと、何も始まらない。
平凡に生きるとしてもそれ相応に他人と関係を深めなければならない。
関係を深めるという事は、それ相応の「付き合い」もあるだろう。
だからと言って簡単に「信じる」と口が動く奴とは関わりたくないものだ。
ここで言う「信じる」について少々語りたいのだが――今はそれどころではない。
こうやって冷静に考え事をしている暇でもなかった。
「ごめんね、体育館裏なんて……でも、大事な話があるの」
目の前の女子生徒は俺に背を向けたまま話を続けている。
「えぇ、と……その――」
昼休みの体育館裏。そこに俺は一人の女子生徒に呼び出しを受けた。その女子生徒について俺の知っている知識は、「学内では知名度がある人――」ぐらいだ。それに染髪は禁止という我が校の規則に反し若干茶色に染めている。
……というかその茶髪で有名なだけか?
体育館裏に来るときに何人かの生徒は見かけたが、今は昼休み。皆、教室で弁当を食べている時間なので俺と茶髪の二人だけである。
「……」
……待っても言い出しそうにない。
呆れて俺から話しかけた。
「言いたいことがあるならハッキリと言った方がいい。あらぬ誤解をもたれたくなかったらな」
女子生徒はようやく俺の方を向いた。
制服を着崩すのが今の流行なのか、女子の流行はわからないが、印象としては下品な感じが強かった。だらしなく上履きのかかとを踏み潰し、中途半端に胸元を開けて、更にはスカートも正座したら間違いなく中が見えるだろう。
髪に付けているアクセサリーなのかカチューシャなのか得体のしれない物。
それが可愛い、のか?
茶髪は意を決した様な素振りを見せると――
「私と、付き合ってみない? ていうか、付き合えば?」
と言い放った。
「……あ」
告白か!
一瞬、心臓がドギリと跳ね上がった。
告白なんて十五、六年生きてきて初めてだ。噂には聞いていたが、言われる方はやはりいい気分なんだな……。
――だが。
ここで舞い上がる程状況判断に乏しくはない。それは俺の信念が、危機察知能力が警告を告げていたからだ。
結論から言うと――これは告白のようで告白じゃない。
貴重な昼休みの時間に何かと思えば告白。確かにこの狭い学び舎に男女不特定多数を押し込めば恋愛でも起きそうなものだが――
断言できる。告白のように甘酸っぱ過ぎて吐き気がするものじゃない。断言できる程の証拠が十分にある。
ちらり、と俺を見る茶髪。すぐ脇に視線を戻した。
「……」
一丁前に照れている……これはこれでアリか。
同級生が恥辱に耐えて頬を赤らめるなんて仕草――立つものが立つ!
……ふぅ、さてどうするか。
冷静に長考する俺を訝しげに見る茶髪。
脅して強引にその体を調べてやろうかと思ったが――記録されていると面倒だ。
俺は肩を竦めて応えた。
「……NO」
「え?」
今度ははっきりと。
「NO、だ」
「……え?」
茶髪は目を丸めて言った。俺の口からは自然に溜息が漏れる。
「聞こえなかったか? NO。そんな話はこっちから願い下げって意味」
「う、嘘!? 振られた!?」
嘘じゃない。これは本当だ。
俺が話そうと口を開いたとき、後ろの茂みからガサガサと揺れた。
俺の視界に茂みは入らないが、さっきの音は不自然すぎる。人工によるものだと考えるのが妥当。やはりビンゴだ。
俺は茶髪を背にし、教室へと足を向けた。
「ちょ、ちょっと!」
それでも茶髪は俺に食い下がってきた。
「教室で俺の弁当が待ってる。「お前らの遊び」はもう終わり」
俺が「お前ら」と口にした時、茶髪は口を半開きにした。
「罰ゲームなんだろ? なら「お前が」罰を受けろ」
それを聞いた茶髪は怒鳴るように、
「最っ低! 何の根拠も無しに女子の告白を罰ゲーム扱い?」
と責めた。
とばっちりもいいところである。俺が最低なのは認める、が。
「根拠ならその茂みに隠れてる奴に訊いたらどうだ? カメラ持ってガタガタ震えてんじゃないか?」
そ、それは……と茶髪は俺から目を背けた。
今気づけて良かったな茶髪共。
嘘をつくと――
「罰ゲームだろ? 「嘘」をついたなら罰を受けろ」
そう言い放ち、俺はまだ何か言っている茶髪を背にし、弁当の待つ教室へ戻った。
◆◆ ◆
放課後の日の暮れた教室。そこで俺は昼休みに起きた喜劇を――
「っはははははは!」
豪快に笑う、この唯一無二の親友である、高浜穂希に話した。
「鹿島らしいやり方だよ。まさか罰ゲーム返しとは! 看破された時の表情が目に見える!」
「その通り、鳩がロケラン喰らった顔してた。それにあいつの罰ゲームだ、俺が罰を受けるわけじゃない」
自然と口元が緩む。
「昔っからの用心深さが役に立ったな。俺も用心深く生きてみようかな」
目の前にいるこの男は高浜穂希。中学からの付き合いでクラスメイトだ。口の減らない奴で余計な一言がたまにキズだが、それを余りある人望がある。高浜は俺の捻くれた性格も十分に理解してくれている一人でもあった。
俺の生き方はオススメしないぞ? と小さく笑い返す。
誰にでもあるだろう、捻くれている部分――俺の場合は、「信じる」という行為に酷く抵抗があるのだ。
幼少時に親が詐欺師に騙された――親友だと思っていた奴に裏切られた――とかそういうトラウマな思い出は無く、いつの間にかこうなっていた。こんな性格もあり、中々気の置けない友人は出来なかった。
しかし高浜はそんな面倒臭い俺の性格を気に入り、相当な時間を費やして仲良くなってくれた。高浜を信じるなと言われれば、俺はそう言った人間の方を信じない。俺はそれほど高浜を信頼しているのだ。
微笑みを崩さず高浜は聞いてきた。
「だけど罰ゲームだってよくわかったな。俺ならあいつ達の思惑通りになってた自信があるよ」
彼女いるくせに他の女からの告白を承諾するな。
肩を竦めながら答えた。
「簡単だ。体育館の裏に行くときに二、三回同じ顔の生徒を見かけた。それに手に持ってたのはビニール袋を丸めた何か。明らかに怪しい」
「友達の告白を陰ながら応援する友情深い人だったかもしれない、って思わなかったのか?」
「思わん」
「何で?」
即答した。
決まっているだろう――
「俺は告白を受けるような人間じゃないからだ」
「……」
あぁなるほど、と納得した顔をする高浜。
俺はお前のようにイケメンじゃない。変な期待も持っていない。現実主義者というか、合理主義者というか……まぁ打算的な人間なんだ。
更に俺は付け加える。
「もしかして告白か? なんて一ミクロも思わなかったよ」
「それ、自分で言ってて悲しくならないか?」
ニヤニヤして意地悪く言われた。
ふん、と鼻で返す。
「世の中には深く考えない方が幸せな事象があるのだよ、高浜君。それに俺は嬉しいんだ、このクソみたいな性格に……助けられたからな」
もし高浜のようにあっけらかんとしていたらまんまと俺が罰を受ける羽目になっていた。
「まるで助けてもらいたくなかったかのような言い草だな」
高浜は憐れむような瞳を俺に差し向ける。
「俺だって男子高校生だ。恋の一つや二つ、憧れる。現に好きな人だっているんだぞ」
「あぁ、そういう話もしたね。えぇっと名前は……」
「荒川沖だ、同じクラスの」
誰だっけ? と考え込む高浜。
本当にこいつは自分の彼女以外に興味無いんだな!
「いつも本読んでる……大人しい感じでメガネかけてる人だよ」
そう言うと合点が言ったのか、
「あぁあの人か。女優を可愛くした感じのね」
冗談っぽく言いくるめた。
「口説くには肉体言語を使わないとな。俺が使ったみたいに」
高浜の言うとおり、俺は「言葉」を信じない。言葉と言うのは抽象的で、そして大事なものではないのだ。例えば「ごめんなさい」なら九官鳥でも言える。そんな言葉で誠意など俺は感じない。
俺が信じるのは肉体言語――つまりは「態度」だ。
謝りたいという場合――私はこんなことをしてでもあなたに謝罪の気持ちがあるんです、こんなことをしてまでもあなたに謝る気持ちがあるんです――という具体的な姿勢を俺は求めているだけなのだ。
高浜は俺に近づくために何日もの「時間」を費やしてくれた。
俺はそれに「惚れた」。
だが、そんな面倒な事を考える人なんてまずいない。
荒川沖には普通に口で告白するつもりだ……普通に。
一層笑みを深くする高浜。
「さぁそろそろ告白の時間だな。派手に散ってこい」
そう言ってドアを指差す。
「そうだな、散り際こそが、最上の美と聞くしな!」
教室に高浜を残し、屋上に続く階段を目指す。
ふと高浜が言っていたことを想い出した。
――どうして告白じゃないとわかったのか。
あいつらの悪巧みを見抜いたのは他にも理由はある。告白と言うものをあいつらは全然わかっていなかったからだ。
告白と言うのは――男子が女子に行うものだ。
辿り着いた屋上への扉。この先には荒川沖が待っている。
二年生に進級し初めて荒川沖を見た。その瞬間の事をよく憶えている。見た瞬間に鼓動が早くなって、見蕩れた……それから自然に荒川沖の方を向くようになった。
俺はショートカットが好きだが、特にサイドが一番長いショートカットが好きだ。理由は――好きなゲームの登場人物がそうしているから……。情けない理由とはわかってはいるが、好きなものは仕方ない。
加えて大人しい性格の女子がタイプ……典型的な童貞の発想である。
荒川沖がする仕草のほとんど全てを無意識に見ていた。
特にメガネをふいに直す仕草がたまらなく――
という事を高浜に話すと「で、今日の予定だけど――」と俺と高浜がやっているオンラインゲーム、「ドラゴンハンター」の話にすげ変える。笑いながら変えやがったからあいつのオレンジゼリーを横取りして争った事がある。
そんなこんなで接点が「携帯が同じ」しかない荒川沖に――俺は告白する。
意を決し、震える手を押さえながらドアノブに手をかけた。
「あ」
と、後ろから声がした。女子の声。振り向くと――
「あ、荒川沖……」
荒川沖が、階段の下にいたのだ。
制服は着崩さず、もちろんスカートもひざの少し下。ワイシャツのボタンも一番上まで止めてある。
女子の制服だと変に制服を着崩すと下品に見えるので、俺としてはこの「清楚」な雰囲気がドストライクだった。
その荒川沖が――
「…………」
「……あ」
待ち合わせ場所を決めたのに途中で会ってしまった……。
――気まずい!
でもこのまま黙ってても解決にはならない。
意を決して話しかけるしか――
「あの……屋上行きましょうか」
慌てて取り繕う荒川沖の後に着いていく形に。
情けなさすぎる。
しかし、ようやく場はセッティングされた。
屋上は基本的に出入り自由なので昼休みには弁当をここで食べる生徒が多い。
掃除の手もありそこまで汚れてもいない。だが、いつも教室で食べている俺にとっては無縁の場所だ。
その屋上で――
「えっと……話って、何でしょう?」
「あぁ……話ってのは……その、な?」
異性を屋上に呼び出しただけでも察してほしい……のだが。
告白かもしれない、という変な期待を打ち崩された時が辛いので考えないようにしているかもしれない……。
無意識に頭をかき、それから手をポケットに突っ込む。
荒川沖はその動作を目で追いかけていた。緊張しているのだろう。
情けなさすぎる俺から先制しないと!
「話ってのは……告白だ」
荒川沖が驚いて頬を赤色に染め上げる。大げさな表現ではなく確かに赤色だ。荒川沖は色素が他の人と比べて薄いのでちらりと見るだけでよくわかった。
俺は考える。
もっと荒川沖の近くにいたい。荒川沖にとって大切な人になりたい。
ただその思いだけで――
「俺は荒川沖の事が、好きだ。好きになった。良かったら……仲良くしてほしい」
何事も消極的な、欲しいものはただ願うだけだった昔の鹿島皐とはおさらばだ。
俺は初めて、欲しいと思うものに手を伸ばすことが出来た。
手を伸ばすことは恥ずかしいかもしれない。
だが、手に入れられた時の事を考えれば、勇気を出した時の恥ずかしさなど小さい。
俺は溢れる興奮を抑えながら返事を待った。体の節々が燃え上がるように熱い。
「あの……どうして、ですか?」
困ったように首を傾げる荒川沖。
「どうして、私なんかを、好きに……?」
「大人しい雰囲気が……好みだったから」
「……そう、ですか」
まだ理由はある。だが――口が動いてくれない。
俯く荒川沖は背が小さい方で更に小さく見える。並んだら頭一個分は違うだろう。
早く並んで歩きたい。
「そ、その……」
と、俺を見上げる。その視線は俺の心臓の鼓動を更に早くした。
赤い頬と見上げる視線、そして――その仕草を荒川沖がしているという事が!
もう心臓が激しい位振動して……苦しい!
だがここで心臓を抑えてはいけない。静かに動脈を宥めるのだ……それくらい出来るだろ!
「へ、返事なんですけど」
正直、名前ぐらいしか知らないクラスメイトから告白されたとして、審査基準はどこなのか、と問われれば第一に「顔」だ。生涯で一度もイケメンと言われたことが無い(お世辞では何回かあるが家族限定)俺にとってその審査は重要だった。携帯が同じだということも荒川沖は知らないだろうから今回の告白も結局ダメだろうと覚悟はしていた。
生唾を飲み込み返事を待つ。
「あ、あの……私、鹿島さんが思っているほど、可愛くないですよ?」
「いや! 普通に可愛いから! 一番だから!」
私は告白される程の人間じゃありません、と言いたげな表情で荒川沖は答えたが俺は即答していた。
「俺の中で……一番だから。ダントツで……可愛いから」
ダメなら色恋沙汰から身を引こうと俺は決めていた。
そして荒川沖は――
「……ごめんなさい」
◆◆ ◆
屋上から高浜のいる教室までどうやって歩いたのか記憶に無い。
記憶にあるのは――荒川沖の申し訳そうな顔と「ごめんなさい」。
「女なんて星の数程いるよ。星に手は届かないけど、星だって俺達には届かないよ」
それは励ましているのか。それとも黄泉の国への棺桶を用意してくれているのか。
机に突っ伏していた頭をのそりと持ち上げ、
「高浜、お前はどうして彼女がいるんだ?」
「主人公だからかな」
即答だった。同時に納得もした。
「確かに高浜は主人公だよな……両親共働きで隣の家に幼馴染いるし、姉と妹いるし、昨日は彼女と交わったせいでオンラインに来なかったし」
自然とため息も混じる。
この学校で一番青春をしているのは間違いなく高浜だろう。カラオケもゲームセンターも街に行かないと存在しないこの田舎村でやることといえば「やること」しかないのだ。
「とは言うものの、鹿島は青春してるよ」
「してるか? 帰ってオンラインゲームしかやる事無い人間に言う言葉か?」
高浜なりの配慮だろう。失恋の辛さを知らない奴がでしゃばるなと言いたいところだが、こうやって他の事に意識を傾けると辛さは幾分か和らぐ。
こういう行動がモテる所以であり、彼女がいて順風満帆な主人公足り得るのではないかと俺は思う。
冗談交じりに高浜は言った。
「俺だって面白半分だった時が無かったわけでも無いけど、それなりに気付かれないように配慮しようと頑張ったぞ? 帰りにジュースでも奢ってもらおうかと思ってた」
「高浜、そういうのは言わないで配慮するのが正解じゃないか?」
「鹿島にとっては不正解。見えない配慮は本当に鹿島には見えないからね」
どうあっても口の減らない奴だ。
イスに気怠く座り込む俺の肩を叩いて、高浜は教室を出た。恐らく彼女と一緒に帰るんだろう。
二階の教室から見える夕日。既に山にかかり始めていた。
「あぁ、辛い。こういう時は逃避行だ。帰って二次元に旅立とう」
今日は高浜がいないから独りでレベル上げでも――
山に沈みかけている夕日を見ながら、そう呟いた。
……もう恋なんてしない。したくない。こんなに辛いなら……。
異性を好きになる事なんて――
しばらく放心した後、溜息と共に教室を出た。
開けられたままの窓。
サッカー部か陸上部かわからないが走り込みに精を出す生徒を横目に、
「スポーツか……運動神経、あんまないんだよなぁ」
とため息交じりに肩を落とす。
「いかんいかん、俺はもう決めたんだ。モテようなどこっちからお断り――」
靴に履きかえようと下駄箱を覗くと、
可愛らしく装飾がされた一枚の――手紙。
◆◆ ◆
緩やかな山道の登坂。
「はぁっ……んぐっ、はぁっ!」
自転車の節々がギシギシと嫌な音を立てる。
かれこれ数分、登坂を立ち漕ぎしていて息を吸う事も吐くことも辛い状況。
だが、今の俺に息を吸うだの吐くだの――そんなことなんてどうでもよかった。
ペダルにかける力で足の骨が折れたっていい位だった。
とにかく全力でこの登坂を越えたかった。
そしてまもなく――
「はぁ……見えた、頂上!」
登坂が始まって以来、足が棒になるまで力を入れ続けた結果、足の筋肉が硬直する感覚に襲われた。
だが、それを痛いとも思わなかった。
それをも超える感情が今の俺には溢れ出る程あったからだ!
「いよっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
頂上を越えたら後は下り――自転車が勢いよく加速し始める。
両手でガッツポーズをしながら山道を凄まじいスピードで駆け下りる姿は――まごうことなき変態。
俺の事だけど。
前のカゴに入れた鞄も上下左右に揺れて今にも落ちそうになる。
だが今の俺には小さい事だ!
「はぁっはっはっはーーー!」
――遡ること数十分前、学校の下駄箱。
「らぶれたぁ!?」
いや、そんなはずはない。俺の記憶ではここ最近、女子と会話してないし。あぁ、最近と言えばあの茶髪があった。もしかしてこれは茶髪の策……?
だけど俺は荒川沖の事が好きなんだ。振られたけど!
新しく恋人をつくろうなどと如何わしいマネはしない。
そう思いながらも、俺は手紙を読んだ。
そこにはたったの五文字。
「あ――」
されど五文字。
――なんてね?
差出人は……荒川沖だぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
――そして現在。
「待ってろよ高浜ぁ! 俺もこれから青春だ! 謝礼ならいくらでもする、ジュースならいくらでも奢ってやる、五百円以内でな! だから俺の話を聞けぇ! たった今俺に、彼女が出来たぁーーー!」
五月の夕方、ワイシャツに冷えた風が透き通る。不思議と肌寒いとは感じなかった。途中でエロ本っぽいものが捨てられていたがそれも拾おう、とは思わなかった。
とにかく速く自転車を漕ぎたかった。この嬉しい気持ちをどこかにぶつけたかった!
「まだだ。まだだぁーー!」
車輪からハンドルに伝わる振動を受けるのが心地いい。この感触を俺は一生忘れないだろう。
勿論、今から起こる衝撃も忘れない。
「それ」を視界に入れた瞬間、ガッツポーズをしていた両手が瞬時にハンドルに――
目の前の小石と言うには小さすぎる、岩と言うにも大きすぎる、
――石。
「っやば!」
車輪は石に乗り上げバランスを崩す。ハンドルをとられ、俺と自転車はガードレールに激しく衝突した。
「っがぁっ!」
衝撃で体が宙を舞った。脇の雑木林は下り坂になっていて、ゆっくりでも入り込みたくない程急だ。
そんな斜面に思い切り体を投げ出されたらどうなるか――
「がぁっっっ! ぐっ! くぅ……あ……あぁ……」
学生服はとことどころ擦り切れ、靴も片方が無かった。
擦り傷、切り傷、生傷が絶えず、更に――
「っつ! ……いってぇ」
体のあちこちの骨が軋み、激痛が走る。
俺はどうなって、どんな体勢で……今俺はどんな状況で、どうしてこうなって……。
考える暇も無く、目の前は真っ暗になった。
起き上がろうと足や手に力を入れようとしても体が動かない。まるで手と足が無いかのように、感覚が失われていた。
こんなところで寝てないで早く家に帰って高浜に連絡しないと。
あ、そういや彼女と一緒だった。邪魔しちゃ悪いな。
風で巻き上げられた葉が横になった俺の体に寄せ集まってくる。その風は数秒前と全然違う感触、そして何より――寒かった。
これから……眠いから寝て、そしたら何をすべきか考えよう。少し寒いが寝られない程じゃない。そもそも体の感覚が無いからな。これはもしかしたら夢じゃないか? 夢ならいいな。醒めたら学校に行って早く荒川沖と話をしよう。昨日は嬉しすぎて山道でコケた夢を見た、という話をしよう……。
不思議と呼吸が楽になっていった。