不死鳥 -シナズノトリ-
アカリお姉ちゃんが死んだ。
死んでしまった。もう二度と戻ってこない。
アカリお姉ちゃんが、死んだ。
「何か月も前から、分かってたことじゃねェか」
近所の釜じいさんは、毛むくじゃらの暖かい手で、僕の頭をポンポンと叩いた。僕はせり出した木造屋根の下で、剥き出しの地面に蹲って、地べたをぼんやりと見つめていた。何もしたくなかった。動きたくなかった。口を利くのも、嫌だ。
「お前さんだって、知ってただろう。労咳になって、あそこまで持ったことの方が不思議なぐれぇなんだ。一度なったら、治らない。仕方がなかったんだ」
僕は何も答えなかった。答えたくなかった。僕の頭の中では、アカリお姉ちゃんとの思い出だけが、お姉ちゃんと過ごした記憶だけが、何度も何度も繰り返されていた。どうしてこんなことになってしまったのか分からない。お姉ちゃんは、何も悪いことなんかしていない。いつも明るく笑ってて、僕が何か困ったことがあればすぐに助けてくれて。手料理もおいしかった。寝る前の話も、毎回新鮮で面白かった。楽しかった。お姉ちゃんが死ぬわけなんてないって、ずっと思ってたんだ。なのに。
アカリお姉ちゃんが、死んだ。
近くの森の奥で、ウグイスたちが鳴いていた。
緑の匂いを運ぶそよ風が、木々の枝をざわめかせた。
外では子供たちが遊んでいる。畑の稲も、段々と育ち始めていた。
「お姉ちゃん。また出かけてくるの? おうちにいないの? お姉ちゃん」
「ごめんねぇ、ミツル。夜ごはんの時は、ちゃんと一緒にいられるからね。それまで待ってて頂戴ね」
アカリお姉ちゃんは、僕の髪を撫でて、ぎゅっと僕のことを抱きしめてくれた。お姉ちゃんの身体はぽかぽかして、好きだった。何年前のことだろう――確か、まだ僕が十にも達していない頃の記憶だ。
「お姉ちゃん、お仕事の準備しないといけないの。ミツルいい子だから、ちょびっとだけ我慢しててね」
アカリお姉ちゃんは、僕の肩から手を放して、そっと笑った。しゃがみ込んだままだから、僕と目線が同じだ。こんがりと日焼けした肌、深い深紅の瞳、優しい笑顔。長い黒髪を、後ろに無造作に束ねている。これから山に入るところだったから、服装だけ見たら、狩人の男衆ともたいして変わらない。
「今年死んじゃった人たち、燃やすの?」
お姉ちゃんが行ってしまうことに不安感を覚えながら、僕は聞いた。
「山のてっぺんに行ってくるの? また、皆、燃やしちゃうの?」
「そう。でも、悪いことじゃないわ」
お姉ちゃんが、僕を安心させようと、髪を優しくなでる。
「魂をね、こう、ぐるっと、この世界をいったん飛び越えて、回転させてあげるの。するとね、輪っかみたいな風に、その人の魂は戻ってくるの。丁度太陽が毎晩沈んで、毎朝戻ってくるみたいにね。分かる?」
「……死んじゃった人が、生き返るの?」
「元の姿じゃないけどね。この世界のどこかに、別の人として生まれ変わるの。私たちの、この《送り手》の仕事は、とても大切なのよ。これをやめたら、人々が生まれてこなくなってしまうわ。魂は、炎によって清められて初めて、もう一度きれいな姿で戻ってくることができるから。私たち渡火一族がいなければ、この村の人たちの魂は、輪廻することができないから。
炎は、聖なるもの。穢れを祓い、万物を清めるもの。世界で最も偉大な炎は、私たちの頭上で燦燦と輝くあの太陽。だから、太陽の力が最も強くなる、一年の中でいうと第六の月の半ば、《送祭》の日になるとね、私たちはその一年で死んでいってしまった人たちの遺骨を集めて、あの天の山の頂上へと運んでいくの。たくさんの香料や薬草を混ぜて、夜明け前にそれを、祭壇に置いておくの。すると、太陽が昇ってくると同時に、その全てに火が付くの」
アカリお姉ちゃんの話を、僕は一心に聞いていた。お姉ちゃんの話は、素直に僕の頭に入ってくる。お姉ちゃんは、少し唇を噛んで――どこか寂しそうに、笑った。
「不死鳥って、知ってる?」
「……しなずの、とり?」
「そう。毎年死んで、毎年生まれ変わる、ある種の神様……かしら」
お姉ちゃんは、笑ってはいたけれど、どこか伏せ目がちだった。この時は分からなかったが、後になって僕は理解することとなる。この時お姉ちゃんは、とても辛い出来事を思い出していたのだ。
「不死鳥はね。自分が死にそうになると、身を炎の中に投げ込むの。そうして一度灰になって死んでしまうんだけど、それと同時に、もう一度幼い雛の姿に戻って、その灰の中から蘇るの。毎年、毎年、それを繰り返すの。私たちのこの儀式は、不死鳥の姿を見て学んだもの。人も、生き返ることができるようにって、そういう願いを込めてね。
上手くいくと、ね。その年の薬草とか、香料とかの配合が丁度よくできてると、《送り手》の目の前で舞い上がる炎が、不死鳥の姿をとることがあるの。とても綺麗なのよ、それは」
「……お姉ちゃんは、見たことあるの?」
「えぇ、あるわ。何度もある。あの不死鳥を見たおかげで、今の私はいるんだって、私はそう思ってる。不死鳥の完成は、一人前の《送り手》の証。それはその村に、そして旅立っていった魂たちに、これ以上ない幸せを運ぶ、現世と来世、全ての幸運の印。……ミツルもいつか、見ることになると思うわ。《送り手》の仕事を、継いだらね」
「でも、ぼくが《送り手》になることなんてない」
僕はその時、はっきりと首を横に振ったのを覚えている。
「だって、お姉ちゃんがいるもん。お姉ちゃんがやってる間は、ぼくはその仕事、しないんでしょ? そうしたら、お姉ちゃんはいつか結婚するから、お姉ちゃんの子供が、次の《送り手》になるんじゃないの」
「まぁ、そうね。場合によっては、そうなるかもしれないけど」
アカリお姉ちゃんは、どこか躊躇いがちに囁いた。
「――将来どうなるかなんて、誰にも分からないからね」
縁起でもないって思った。なんてことを言うんだって思った。そんなことが本当にもし起きたら、きっと僕は耐えられないって思った。
そして現に僕は今、耐えられていない。アカリお姉ちゃんがいなくなったとき、僕の小さな世界は、脆くも崩れ去っていってしまったんだ。
父さんも母さんも、物心つく前に亡くなった。僕をたった一人で育ててくれたのは、アカリお姉ちゃんに他ならない。父さんと母さんを同時に失ったのと同じだ。急に世界に、独りぼっちだ。
世の中には、強い子供っていうのがいる。大人みたいに力が強かったり、周りをまとめるのが上手かったり、頭が良かったり、勇気に溢れてたり。でも僕はそういうのの一人じゃない。畑仕事だってろくにできないし、かけっこも遅いし、人と話すのも下手だ。頭が悪いとまでは思わないけど、口が裂けても、良いとは言えない。怖いもの、知らないもの、分からないもの、全部苦手だ。自分が他人より優れていると考えたことも無いし、自分に、他人よりよくできることがあるとも思えない。僕には、一人じゃ、何もできない。ずっとアカリお姉ちゃん一人に頼ってきたというのに、そのお姉ちゃんがいなくなってしまった今、僕は本当に、自分が何をすればいいのか分からない……。
「俺らだって、悲しいさ」
釜じいさんは、僕の横で溜息をついた。
「お前さんだけじゃない。アカリは村全体にとって光だった。希望だった。いなくなっちまったのは死ぬほど辛ぇが、いつかは折り合いをつけなきゃあならん」
僕は答えなかった。口も喉も乾ききっていた。喋る気力が湧いてこなかった。
――そんなことは分かってるんだ。アカリお姉ちゃんが、僕だけじゃない、皆から好かれてたんだってことぐらい。皆も悲しんでる。僕だけじゃない。折り合いをつけなきゃならないってことも分かってる。でも。それでも、僕は――。
「丁度あと一か月で、次の《送祭》だ」
僕は顔を上げた。釜じいさんの顔を見た。釜じいさんは、唇を噛んで、顔を曇らせていた。染みだらけで、鍛冶の煤で汚れた顔。溜息をつき、僕に視線を合わせる。
「なぁ、ミツル。今度はお前さんが、《送り手》をやる番なんだ。俺からだけの頼みじゃない。村の皆、お前が頼りなんだ。アカリのためにも、ちゃんと魂を弔って、輪廻させてやってくれないか」
「……」
僕はなんて答えればいいのか分からなかった。乾いた口が、少しだけ開きかけたまま固まっている。釜じいさんの顔を、ぼんやりと見つめた。
「……頼んだぞ、ミツル」
釜じいさんは、僕の背中を優しく叩いた。そうしてゆっくりと立ち上がると、自分が営む鍛冶屋へと、のっそのっそと歩いて行った。僕はその背中を見送った。
「……」
しばらくの沈黙の後、僕はやっと腰を上げて、横の木の柱にもたれかかって、ふらつくようにして立ち上がった。手にも足に、ろくに力が入らなかった。でも、せめて、目的ができた。
僕がお姉ちゃんを弔わなかったら、お姉ちゃんはいつまでも、次の人生へと進むことができない。これは僕にしかできないことだ。僕がやらないと、示しがつかない。
それに……。
僕は深いため息をつき、お姉ちゃんの部屋に向かった。お姉ちゃんの手帳を確認しに行くためだ。どこにどういう香草や薬草があって、どうやればそれが手に入るのか。
《送祭》のための準備に、取り掛からないといけない。
「……カラシナ……」
片手のくしゃくしゃの手帳を頼りに、積まれた木箱を掻き分ける。どれも手のひらの上に乗るぐらいの大きさで、新しいツヤツヤした奴から、何十年も前に採取されたような、木が腐りかけた奴まで、色々ある。目当てのものを探っていくと、幾つかはカラコロと音を立てて、階段状に積み上がった木箱の上を転がっていったりもしたけれど、今はあまりそんなことを気にする余裕はない。
「鬼アザミ……マンネンロウ……ノコギリソウ……ナンマンジャ……」
額の汗と、少しその表面に張り付いた埃を腕で拭って、僕はため息をついた。
「……多いなぁ……」
片手の手帳は、お姉ちゃんの遺品だった。渡火一族が長年かけて積み上げてきた知識の、ごくごく一部に過ぎないが、一番基礎的な内容、最低限理解していないといけない内容、即ち《送祭》に必要な知識は、ここに全部詰まっている。お姉ちゃんはよく、その内容を断片的に、僕にも教えてくれた。体系的に教わったことは一度もないけれど、毎日のように少しずつ聞かされたからか、こうして手帳をめくって読んでみると、意外とほぼすべて理解できている。
――ノコギリソウは、止血草とも言われてて。怪我をしたら、磨り潰した葉っぱを傷口に塗るといいのよ。血も止まるし、痛みも引きやすくなる。《送祭》だけじゃなくて、日ごろからとても大切だから、常にある程度の在庫があった方がいいわね。今だってほら、あの木箱の山あるでしょ? あれ全部ノコギリソウなのよね。山の相当高いところに行かないと生えてないから、摘むなら一度に沢山摘んだ方がいいの。それでついつい、前行ったときに採り過ぎちゃって……。
――鬼アザミは、前一緒に摘んだの覚えてる? 南座草原で、ほら、あのとげとげの奴。河から少し離れ気味のところに行けば、纏まって生えてるわ。水辺過ぎるとあんまり生えて無いから、そのあたりだったらハチノスグサを先に摘んでから、鬼アザミの方に移るといいかもね。あとは鬼アザミは、頭痛にも効くの。新芽は味噌漬けにするとおいしいわ。
手元の箱を拾い上げ、筆で書かれた草の名を確認する。
――かがり火草。秋になると、毒々しい赤い花を咲かせるけれど、重要なのは葉っぱの方ね。油を多量に含んでいるから、乾かして火をつけるとよく燃えるわ。《送祭》の性質上、在庫は多いに越したことはないわね。ほら、あの箱あるでしょ? そうそう、あのでっかい奴。あれ全部かがり火草。
――連銭草。薄紫の、小さな花を、春先にたくさんつけるの。食用にもなるし、重要な生薬でもあるわ。子供の夜泣きや、老人がかかりやすい一部の病気に効果があるって。
――三度草。花は、表面が少し粉っぽくて、小ぶりで白い……見たことあるでしょ? 茶にも入れるけど、健康にもいいの。痰や喉詰まりとかに、特に。摘んだ時、磨り潰したとき、それと飲んだ時の三回、特にこの匂いが強く出るから、「三度草」って呼ばれるの。夏の終わりによく咲くから、その時に一年分収穫しておかないと……。
手帳を参考にしつつ、残った薬草・香草を確認していく。何時間もぶっ続けで探してきて、だいぶ疲れが溜まってきたことだし、一休みついでに、どうしても実際に外に駆り出さないと入手できない草、即ち新鮮でなければならない草についても、一度整理して理解しておかないといけない。
例えば、蜂巣草。腐りやすいから、摘む時期は《送祭》の直前期に限られる。鬼アザミとの絡みでお姉ちゃんが教えてくれた通り、これは南座草原に行けばあるらしい。茎の先端が、蜂の巣のようになっている植物だ――即ち、小さな六角形を敷き詰めた形状の、筒のような器官が生えている。水辺、特に川辺に、水岸に沿うようにして群生し、春と夏によくみられる。食べると、あまり粘つかないオクラのような、柔らかい歯ごたえのある触感がする。醤油で濡らして、おにぎりの具にするとおいしい(実際旬の時期には、よく僕も蜂巣草のおにぎりを、お姉ちゃんに作ってもらったことを覚えている)。
そして、蜂巣草を多く食べて育つと、女性は美人で子だくさんになるとの言い伝えがある。アカリお姉ちゃんも、蜂巣草が好物だったし、客観的に見て綺麗だったと思うけど、子だくさんも何も、結婚する前に死んでしまった。結婚しようという話の矢先にあの病気が分かって、近くにいるとうつるからって、縁談が取りやめになったんだ。
――辛いこと、思い出しちゃったな。
次の頁に、移る。
――どうして、お薬の草とか、いいにおいのする草を、入れる必要があるの?
幼いころ、僕がお姉ちゃんに聞いたのを覚えている。
――燃やしたら、死んだ人の魂はちゃんと生き返るんでしょ? どうしてわざわざ、たくさん草を集めるの?
「その人の来世に幸あれっていう、お祈りのようなものよ」
アカリお姉ちゃんは、いつものように、優しく笑って答えてくれた。宝石のように赤い瞳を、明るく煌かせて。
「薬草と一緒に燃やされて、一緒に清められた魂には、その薬草の効果の加護が付くの。例えば連銭草だったら、その生まれ変わった人は、赤ちゃんの時に夜中に泣き喚いたり、年老いた後も、具合が悪くなったり、しにくくなる。ついでに言えば、名前の縁起もいいじゃない? 特に商売屋さんとかにとってはね。だから覚えてる、ミツル? 古屋婆ちゃんが亡くなった年の《送祭》、あの人の遺骨には、沢山の連銭草を備えたの。生まれ変わっても、立派な商人さんになれますようにって」
「へぇ……」
「香草も、似たようなものかな。その香りのよさが、その人の次の人生に染み渡っていくようにって。だからこれもまた、人によって、微妙に配分を変えたりするの。この人といえばこれが好きだったなぁとか、この香りが似合う人だったなぁ、とかね。
ここに記されている五十七種類の薬草・香草はね。その人の来世の幸せを願うための、大切なものなの。だからミツルも、大きくなって《送り手》になったら、皆を沢山、幸せにできるようにね」
「――ぼくは《送り手》にはならないよ」
僕はやはり、首を振って答えた。思えば僕は、ずっとこれの一点張りだった。
「だって、お姉ちゃんがいるんだから」
お姉ちゃんは、少し目を伏せて、どこか悲しく笑った。
「私も昔は、お父さんお母さんがいてくれた頃は、同じことを思ってたわ。でも、現実には違った。二人とも、私がああして送り出すことになったじゃない。お姉ちゃんがいつまでいるとも、限らないでしょう?」
「でも……」
僕はそれでも首を振って、純粋な思いを打ち明けた。
「――ぼく、お姉ちゃんがいなくなった世界で、生きていけるとは思えないよ」
そうだ。
今まで、僕はずっと、お姉ちゃんに支えられて生きてきた。
お姉ちゃんのいない世界なんて想像できない。
お姉ちゃんのいない世界に生きていも、もう意味なんてない。
こんな空っぽな僕に、一個だけ願いがあるとすれば。
お姉ちゃんと一緒に、死にたい。
転生というものが、お姉ちゃんの言う通りであるならば、転生したお姉ちゃんが僕の元にやってくる可能性というのは限りなく無に近い。でも僕がもし、お姉ちゃんの灰と一緒に、あの《送祭》の炎の中に飛び込むのであれば。二人きりで、飛び込めば。ひょっとすると、一緒になれるかもしれない。
仮に一緒になれなくても、仮にすべてを忘れてしまうとしても。お姉ちゃんのことを忘れることができるのであれば、もう二度と会えない以上、それもまたいいのかもしれない。
《送祭》の夜、《送り手》はたった一人で、天続の丘の頂上の祭壇へと昇り、たった一人で、すべての儀式を遂行する。僕が仮にその炎に飛び込んでしまっても、僕を止める奴なんて一人もいない。
全ての義務、全ての悲しみ、この世界の全てから解放されるのであれば。僕も一緒に、この人生をやり直してみたいなぁと、僕は今、そう思う。
《送祭》までの一か月。僕が真面目に取り組んだことは、たった一つだけだった。
そしてそれは、お姉ちゃんを送るときの、薬草や香草の配合を、自分なりに研究してみるということだった。
手帳には、「無難な配合」というものも、当然書かれていた。この配合でやればまず失敗しないっていう配合ではあるけれど、本人の人生とか、来世の希望とか、そういったものが反映されているとは言い難い。本来は一人一人の死者に合わせて、色んな草の配合を考えたりするのがいいのだ。商人の連銭草っていうのが一番わかりやすいけれど、他にも色んな「気を付けなければならない点」は存在する。それらを念頭に置きつつ、僕は筆を執り、お姉ちゃんの次の人生において、大切だと僕が思うものを、漉返し紙の手帳に書き留めていった。
――一番気を付けないといけないのは、健康に関してだ。特に労咳には、一度かかってるぐらいだし、絶対に注意を配る必要がある。労咳は不治の病だから、「かかった後」を考えるよりかは、「かからないようにすること」を重視するべきだろう。喉や肺にとっていい薬草。三度草や、車前草、王様百合、そのあたりを重点的に入れるべきだ。
蜂巣草も、お姉ちゃんは好きだった。だから沢山入れてあげよう。せめて次の人生では、きちんと子だくさんになれるようにしてあげないといけない……。
書くのをやめ、窓の外の天気を確認する。今日ならば、出かけるにもよさそうだ。
蜂巣草を、摘んでこないと。
――銅の鐘の音が、死んだように静まった村に響き渡る。何度も、何度も、重々しく、厳かに。日が沈んだことを知らせる鐘だ。
今日は、当日。
《送祭》が、始まる。
《送祭》は、おおよそ二日に分けられる。一日目の夜は「死」を現す、弔いのための夜だ。日が沈んで以降は、誰も家から出ず、暖炉で香草を燃やし、死者にただひたすら思いを寄せる。一方二日目の朝は「再生の朝」であり、人々は家から出て、盛大に賑わい祝い、互いに贈り物を贈ったり、踊ったり歌ったりする。魂の輪廻、死と再生を表現する、何百年も前から続く、一年で最も重要な祭り。
だが実際のところ、この「再生の朝」に、僕が参加するつもりは全くない。お姉ちゃんがいなくなった世界で、楽しく過ごすなんてことは、僕にとっては到底考えられない話だからだ(あくまでお姉ちゃんは、僕の目の前からいなくなるだけで、世界のどこかに生まれ変わっているのだということぐらい、僕にも分かる。でも、そんな気休めを言われたところで、僕にとっては同じことだ。僕の知る世界からは、消えてしまうことに変わりはない)。
しかも、家族を失う悲しみを感じているのは、この年、この村で僕だけなのだ。
今年の死者は、まるで僕に嫌がらせをするかのように、「お姉ちゃんただ一人」だった。皆はきっと、「再生の朝」を、騒いで遊んで、不謹慎にも存分に楽しむに違いない。僕だけがそこに取り残される。僕だけは何も喜べない。僕だけは、悲しみと絶望に囚われただけ。そんな理不尽な話があってたまるか。僕は翌日の朝、ここにいるつもりはない。
お姉ちゃんと一緒に、生まれ変わるからだ。
以前からあったものも、この一か月で新しく摘んだものも。薬草や香草は、いずれも既に、背負子に収納されている。
カラシナ。鬼アザミ。マンネンロウ。ノコギリソウ。ナンマンジャ。かがり火草。連銭草。車前草。三度草に、王様百合。それに、蜂巣草。
それだけじゃない。他にも、たくさん。――五十七種類、全て揃っている。何度も何度も確かめた。数も、分量も、配合も、混ぜ方も。お姉ちゃんの弔いは、僕がきちんとこなす。後はもう、丑の刻まで待ってから、天続の丘を登り、夜明けを待つだけだ。
天続の丘は、村から少し山岳地帯の方面に行くと現れる。全体が鬱蒼とした森に覆われてはいるが、その中を突っ切る獣道を通れば、多少険しく、多少荒れているところさえ除けば、なんの問題もなく頂上に辿り着ける。このあたりには、危険な獣もたいしていないし、いたとしても、松明を掲げて行けば、怯えて襲ってこない。
暗い森の中、足元を松明で照らして、僕は一人で進んで行く。普段の僕にとっては、ここは恐ろしい場所だ。夜だし、暗いし、何がやってくるかもわからない。でも今は不思議とそうでもない。なんでだろう? 義務があるからだろうか。大人になったからだろうか? いいや、恐らく、全然違う――ただ単に、僕の、自身の命への執着が無くなったからっていう、ただそれだけのことだ。ただの、投げ遣りな諦め。崇高でも何でもない。悟りからは程遠い、まるで対局の精神状態だ。
足元も悪い、夜の闇に覆われた獣道。その中を、ぼんやりと、何も考えずに、重い荷物を背負って歩いていく。
孤独な夜は、長い。
――お姉ちゃん。お父さんお母さんも、送ったの?
僕がある日質問したのを覚えている。
――《おくりまつり》で、送ったの?
「そうよ」
お姉ちゃんは、悲しく笑って、答えてくれた。
「うん。私、お父さんとお母さんも、送ったわ。それどころかそれが、私の《送り手》としての、最初の仕事だった」
僕は、実際のところ、お父さんお母さんについて、ほんとうにぼんやりとした記憶しか残っていない。ごくごく幼い頃、家で一緒に四人でご飯を食べたり、遊んでもらったりしたのは覚えている。二人の暖かい笑顔だって、覚えている。でも、顔そのものは、どんなに頑張っても、思い出せない。それだけ僕が幼かったころに、二人とも亡くなってしまったんだ。
だから僕は、お姉ちゃんだけを頼りに生きてきた。
「――辛かったわ」
お姉ちゃんは、相変わらず、その悲しい笑顔を浮かべて――見ているだけでこっちが泣きそうになるような笑顔だ――僕に語り聞かせてくれた。
「本当に辛かった。二人とも一緒に、突然病気で逝っちゃったんだもの。最後の会話も無かった。こっちの心が受け入れる前に、二人とも死んじゃってたの。ミツルは幼くて、覚えてないかもしれないけど、ミツルもたくさん泣いてたわ。状況が分かってたとは思えなかったけど、なんか怖いことが起きてるってことだけは、漠然と分かってたんでしょうね。
お父さんお母さんが亡くなった後、私、しばらくね、何もできないでいたの。情けないでしょ? でも本当に、何もする気になれなかった。一日中ぼうっとして雲を眺めたり、突然泣き出して、そのまま何時間も泣き喚き続けたり。なんで死んだのが自分じゃなくてあの二人なんだろうって思った。自分だけが残されたところで、何もできるわけが無いって思ったわ。だから二人を送り出す《送り手》の仕事だって、自分にはこなせるとは思えなかった」
「……でも、やれたの?」
「……紆余曲折を経て、ね」
お姉ちゃんは、僕の頭をポンポンと叩いた。
「この話は、ちょっと大人。今のミツルに話すと、ミツルがびっくりしちゃうかもしれないから、言わないでおきたいな。もっとミツルが大人になったら、その時の事、もっと詳しく話してあげる。
ただね、ミツル。一つだけ言わせて。私はそれまで、自分がただの子供だって、本当に弱くてどうしようもない存在なんだって、二人がいなきゃ、自分には何もできないんだって、ずっと、ずっと、思ってた。でも、そんなことなかったの。やってみたら、意外とできたのよ。人間そんなもの。気づいた頃には、もう一人立ちできるぐらいの力は、身についているものなのよ、きっと。
いつかミツルも、分かると思うわ。だから、余計な心配、しないで頂戴ね」
僕はふと、その場で立ち止まった。
――いいのだろうか。
ここで死んで、いいのだろうか?
ここですべてを投げ出すことは可能だ。簡単だ。でもそれをしたところで何になる? 今の人生を投げ出して、全てから逃げ出して、それで本当にいいのだろうか?
お姉ちゃんは、それを望むだろうか?
「……お姉ちゃんは……」
――お姉ちゃんは、耐えたんだ。お父さんお母さんがいなくなった後も。
それに引き換え僕は、なんて弱い存在なんだろう。
天続の丘の山頂には、何百年も前に作られたという石造りの祭壇がある。中央に、薬草と香草と、死者の灰とを撒いておき、水晶や鏡を地面の正確な位置に設置し、夜明けを待つ。日が昇り始めると、水晶や鏡によって集められた光が中央へと集まる。そして、かがり火草や、その他燃えやすい草に火がついて、全体が轟轟と燃え上がる。
今僕は、その全てを用意し終わって、祭壇の前の地面に座り込んでいる。膝に顔を埋めて、目だけ僅かに、太陽の上る方向に、恐る恐る向けて。もうすぐ日が昇る。今はまだ真っ暗だが、いつ朝が訪れても全くおかしくない。
そうして、その時、僕は――。
情けない話、この期に及んで、僕は炎に飛び込むべきか否かを決めかねていた。ついさっきまでは、そうしよう、そうしようとばかり思っていたのに、今になって、僕は怖気づいていた。怖気づくというより、本当にそれがいいことなのか、迷いかねていた。お姉ちゃんがそれを望んでいるとは、到底思えなかったからだ。
――じゃあやっぱり、お姉ちゃんの意志が、僕にとってはすべてなのか?
僕は未だに、お姉ちゃんに頼り切っている。お姉ちゃんの判断はすべて正しいと思っている。でも、本当に僕はそれでいいのか? そんなことで、この先の人生は――?
お姉ちゃんを頼るのは、どうしてだ? 自分を正当化する術を他に持たないからか? 生きるにしても、死ぬにしても、僕はすべてお姉ちゃんを基準にして考えている。お姉ちゃんは、あれだけ僕に何度も、「いつか自分はいなくなる」と言い聞かせてきたというのに。未だに僕は、お姉ちゃんがいなければ、きっとダメなんだ。
何が正しいのか、全くわからない。僕は未だに迷いに塗れている。こんなんでこの先、やっていけるのだろうか? 一人で? 自分の足で、自分の意志で? 無理に決まってる。到底できるわけが無い!
僕には、自力じゃあ、結局何もできないんだ。そう考えると急に、本当にこの《送り手》の仕事すら全うできるのかどうか、それですら不安になってきた。変に凝って、お姉ちゃん用にって工夫した配合が、もし失敗したらどうしよう? そもそもきちんと火がつくのだろうか? いや、それ以前の問題として、本当に僕には、この使命を果たす資格があるのだろうか……。
空の彼方が、仄かな紫色にかすみ始めた。僕は思わず立ち上がり、地平線の山々を、引き寄せられるようにして、一心に見つめた。
紫色が、段々と滲んで広がってゆく。その奥から、橙色の光も。僕は思わず、反射的に一歩下がった。急に逃げ出したくなったのだ。
けど、その必要はなかった。
――パチパチ。
――パチパチ、パチ。
前方から、弾ける音がした。恐る恐る見てみると、広げられた薬草と香草の山のところどころから、小さな火の手が上がり始めている。僕の目の前で、炎が徐々に燃え広がってゆく。見る見るうちに、炎は互いと混じり合い、その香草と薬草の山全体に行き渡っていった。
僕は、胸を抑えて、深く安堵の息をついた。
……上手く行った。
僕は、乾いた口の中のなけなしの唾を飲み込んで、その様子を見守った。炎は激しく、高く燃え上がり、しばらくおさまりそうにない。何とか成功できたみたいだ。せめて、この仕事ぐらいは。
どうしよう。最低限のことはこうして僕にも出来たけれど、この先生きるべきか、死ぬべきか。変な話、もしかすると、この「渡火一族のミツル」としての人生の中でできる限りのこととしては、今回の《送祭》を成功で終わらせるっていうのは、願ってもないぐらいの幸運じゃないか? この先これを超える成功があるとも思えない。お姉ちゃんがいなくなった今、もう僕は……。
僕は、どこか虚ろな心で、どこか投げ遣りに、一歩前に踏み出した。妙な達成感と安堵、そして何ともぼんやりとした気の緩みが、僕の足を前へと押し出していった。そのまま、さらに、踏み込むつもりだった。
その時だった。
――嘘。
僕は絶句した。全身が金縛りにあったかのように硬直した。動けない。何もできない。目の前に広がる、この光景は――。
噴き上がった炎が、形を取り始める。最初はただ漠然と、淡く、陽炎のように。しかしやがてある種の確実性を以て重なり合い、交じり合い、折り重なりながら織り成してゆく。有無も言わさず美しい、畏敬さえ覚えるその造形。
灼熱の翼。細長い、鶴のそれのような首と頭部。洗練された胴と脚。ゆったりと広がり後を引く、流れて散らばる紅蓮の尾。息を飲むことすらままならなかった。
――不死鳥。
不死鳥が、灼炎を纏った両翼を広げた。足元には、宙に揺蕩う灰を散らし、羽の先からは、鮮やかな火の粉の雨をゆっくりと降らせて。静寂の中に、雄雄しく、堂々と、且つどこか繊細な気品と雅趣を以て羽搏き、炎塵を巻き上げながら回転し、御旗のようにその翼をはためかせ、僕の目の前で不死鳥が、有終を飾る舞を舞う。
いつの間にか、僕は、炎に飛び込むことを忘れていた。眼前に広がる光景に、完全に心を奪われていた。瞬きも、息も、できなかった。僕はただ我を忘れて、不死鳥の炎天の演武に魅入られていた。
丁度その時だった。不死鳥の深紅の瞳、宝石のような瞳が、振り向きざまにこちらを向いて、僕を捉えたような気がした。存外に、優しい目だった。慈愛に満ち満ちている目だった。見間違いようもなかった。
それは、お姉ちゃんの目だった。
「――」
口を開きかけた。金縛りが急に解けて、僕は炎の中へと、手を伸ばした。
「――お姉ちゃん――」
炎がパチパチと弾けて散った。煙が、粉塵が噴き上がった。不死鳥の表面を這い上がり、翼の羽の一枚一枚を舐めていった。不死鳥は渦巻き、徐々にその輪郭が崩れていった。僕はその場に、手を伸ばしかけたまま突っ立っていた。不死鳥がゆっくりと消えていく。ぼんやりと薄れ込んで、ただの地上の炎の中へと戻ってゆく。僕らの目には見えないどこか、始原の彼方へと、お姉ちゃんの魂が還ってゆく。
そして、入れ替わるようにして、その奥から、遥か低い天空から。太陽が、その全貌が、新たなる姿を現した。それは遥か彼方の山脈の輪郭を照らし、周りの深い森の木々を照らし、石造りの壮大な祭壇を照らし、僕の全身を覆いつくすようにして照らした。明るい。包み込むように暖かい。明確に実感する――新しい朝が来た。新しい一日が、今日という日が、この世界に遂に訪れたんだ。
僕はただその場に呆然として立っていた。しばらくは動けなかった――心が震えて、それどころじゃなかったんだ。ふと気が付いて見てみると、足元前方の炎は、消え入るようにして小さくなってゆき、ほとんど何も残さない。あれほどたくさん散らばっていた灰も、朝緑の香りを乗せた風の中でどんどん巻き上げられては、あたりの森の中へと運ばれてゆき、早くも少なくなってゆく。
「……お姉ちゃん」
僕は呟いた。でも、不思議とそこに、以前のような悲しみは無かった。あれほど張り裂けそうだった胸が、今はもう痛くない。涙も乾いていた。僕の心の中には、まるで自分が、そう、生まれ変わったかのような感覚があった。自分でも驚くぐらいに沸いてくる、自信と、そして、未来への希望があった。生きる気力が沸いてくる。巣立った雛のような気分だ。「再生の朝」の祭りにだって、今なら参加できる気持ちだ。
何故だろう? 理屈としては、きっと、とてつもなく単純だ。僕は、認められた。自分にも、一人で、こんなにも完璧に「できること」があったんだと、やっと気づいた。あの配合は、僕が自分で考えたもの。それが不死鳥の形を成した。そうだ。お姉ちゃんがそうだったように――僕は、この村にとって必要な存在だ。
――頼んだぞ、ミツル。
言われたじゃないか。皆、僕を頼ってる。僕にしかできないこと。僕にならできること! 何をあんなに投げ遣りになっていたんだろう。今になってみると馬鹿馬鹿しすぎて、なんだか笑いがこみ上げてくる。死ぬ必要なんて、本当にどこにもなかった!
お姉ちゃんの魂は、次の人生へと旅立って行った。もう僕がお姉ちゃんのことを心配する必要なんてない。そして、お姉ちゃんが僕の心配をする必要だって、きっと最早、どこにも無いんだ。安心していいんだ。――安心していいよ、お姉ちゃん。
僕はもう、自分の足で立てる。自分の足で、この先の人生を歩める。お姉ちゃんの魂を、きちんと送り出すことが出来たんだ――アカリお姉ちゃんの背中を、自分の意志で、押してあげることが出来たんだ!
ひょっとすると、お父さんお母さんを送り出したときのお姉ちゃんも、こんな風にして変わったのかもしれないなと、僕はふと思った。そう考えると、少し可笑しい――お姉ちゃんも、昔あんなこと言っていたぐらいだし、意外と僕と、根っこは似ていたのかもしれない。
アカリお姉ちゃんに別れを告げることが、寂しいことに変わりはない。でもこれから先だって、人生にはきっと、悲しいこと、辛いことがあるように、たくさんの出会いや、楽しいことが待ってるんだ。もう僕は、手を引かれる側じゃない。いつかはきっと、今度は僕が、誰かの手を引いてあげられるように……。
ふと振り返って見ると、彼方地平線の笹葉山脈に至るまで、見渡せる世界のすべては太陽の眩しい光に照らされていて、薄い朝霧がかかった深緑の山々から、風がなびき行く黄金の草原、雄大な蛇のようにして大地をうねりゆく紺碧の大河に至るまで、夜の深い暗闇に覆われた場所は一寸たりともなく、その景色は、まるでその全てが、新しい生命の輝きに溢れているかのように見えた。蒼穹を渡り鳥たちがかけてゆく。僕は彼らに手を振った。そして、村へと戻るこの道を、一歩一歩堂々と、自分の足で歩み始めた。
新しい生命を告げる灯りが、世界に満ち満ちていった。