3・海辺のカフェ
「ゴキブリ見たことある?」
ぽこぽこタウンには、広場のほかにもカフェやサロンなど、人の集まる場所がたくさんある。最初は一人ずつ、ぽつりぽつりと立っていたのが、なんとなくグループになっていき、話し始める。
「ない人なんているの?」
「リアルじゃなくて、タウン内で」
「そりゃないわ」
「俺はあるよ」
たいていは、しなくてもいいような話ばかりしている。どこ出身なの、そこってお蕎麦がおいしいよね、うどんとお蕎麦どっちが好き、今何してる、働いてるの、今日は休み、結婚してるのしてないの。
ぽこぽこビーチのカフェは、今日から三日間限定でアロハシャツを配布するというので、朝から人でいっぱいだった。
エレジーのアドバイスで、初回無料のガチャやくじびきで服を集めた。膝下のジーンズも星柄のキャスケットも、今の顔なら違和感なく身につけられる。アロハシャツもさっそく着てみた。
「似合いますね」
同じくアロハシャツを着た、髪の長い女がそばに来た。ぺこりとおじぎをする。シャツと同じ、マリンブルーのマスカラをしている。
「みんな同じですけどね」
「そんなことないですよ。プリズムさんかっこいいとおもいます」
女はぽっと頬を染めて言った。
「わたしはどうかな?」
「似合ってますよ」
「そうですかあ? さっきフレンドに会ったら、前の服のがいいって言われちゃって、なんか落ち込んじゃって」
俺が黙っていると、女は困ったような顔で足踏みをし、また話し続けた。
「わたしってどうなのかな? リアルではけっこう可愛いって言われるけど、じぶんではよくわかんなくて」
可愛いよ、と男のアバターが寄ってきて言った。こちらもアロハシャツ姿で、くっきりした目鼻立ちをしている。
「可愛いし、なんか優しそうだなーって思う」
「ありがとうございます」
女はまたおじぎをし、ヒールの高い靴でぴょんぴょん跳ねる。
「でもフレンドには嫌われちゃったかも……」
「なんで?」
「最近ぜんぜん部屋にきてくれなくて。ほかの人とは会ってるみたいなのに」
ぽこぽこビーチは、空も海も真っ青だ。砂浜には丸っこいカニがいて、遠くの波間にはイルカが跳ねて、NPCがサーフィンをしている。波は規則正しく穏やかだ。
男は女をくどき始めている。女はいいとも悪いとも言わず、自分の相談ごとを続けている。テーブルの上のソーダ水は、飲んでも飲んでもいつの間にかお替わりが用意されている。
俺は持っていた袋を取り出した。
昨日、俺の部屋に黒いものがいた。リアルなら驚かない。でも、いくら住んでも汚れないアバターの部屋を、それはかさこそと歩き回っていたのだ。殺そうかと思ったが、生かしたままビニール袋に入れた。
奴らはどんな反応を見せるのか? お行儀のいいカニやイルカしか知らない奴らは、この黒いのを見たらどう対処するのか?
知りたかっただけだ。嫌がらせではない。……とも言い切れない。
俺は袋の口をえいやっと開けた。
意外なことに、大した騒ぎにはならなかった。
「ゴキブリだ」
「え、うそ」
「NPC?」
「誰かのペットじゃないの」
アバターたちはさっと避けたり、またいだりして、ゴキブリの動きを目で追っている。正確にはパソコンの画面越しに見ている。彼らの目線では、マウスポインタに触覚が生えた程度にしか見えないのだろう。
なるほど、そういうところがアバターの強さなわけか。
そんな中、青いワンピースを着た女の子が前に進み出た。迷いもなく、履いていたパンプスを脱ぐと、ゴキブリに向かって振り下ろした。
ゴキブリはころんと転がり、動かなくなった。女の子は触覚をつまんで持ち、砂浜に捨てた。
ほかのアバターは何事もなかったように会話を続けている。
俺は女の子に駆け寄った。大丈夫だった、と聞くと、にっこり笑う。目がくりっとしていて、こげ茶色の髪も飾り気がなくて可愛い。
あのさ、と俺は言った。
「なんでみんな、せっかくの仮想世界で、しょうもないことばっかりしてんのかな」
「しょうもないこと?」
女の子は首をかしげる。小動物のようだ。
「人間関係のしがらみとか悩みとか、わざわざ持ち込んで馬鹿だな〜と思ってさ」
「そうでしょうか」
さっきまでゴキブリを持っていたその手を、頬に当てる。
「人が集まればそうなるんじゃないですか。リアルも非リアルも関係ないでしょう」
「ゴキブリも?」
「ゴキブリは」
女の子の丸い瞳が、ふっと鋭くなった。
波の音がひいていき、周りの話し声が遠くに聞こえる。俺は女の子を見つめた。アバターなんて、所詮パーツの組み合わせと思っていた。でも、その組み合わせによってはまるで生きているように見える。
「最近急に増えました。あれはいけませんね」
女の子はパンプスを履き直し、カフェを出ていった。
一瞬、日差しがかげったような気がした。
「こんにちは」
「こんにちは!」
「こんにちは〜!」
すぐに、波の音と談笑が戻ってくる。ナンパに失敗した男たちは次の相手を物色し、女たちはそれとなく待ちながら、適当な相手と話している。
「プリズムさんこんにちは〜」
「その髪いいね」
「なんで青なの〜? かわいいけど」
俺は黙って、さっきの女の子が歩いていったほうを見ていた。
何か良からぬことが起きている。そんな予感がした。