18・そしてまた、出会い
俺が作ったみそ汁を、エレジーとナノは飲んだ。昆布だしに合わせ味噌を溶き入れて豆腐とネギを煮込んだ、昔ながらのみそ汁だ。
「これ、おいしいですね」
「ただの豆腐だけど」
「おいしいです」
ナノは丸い目をさらに丸くして、箸先でつまんだ豆腐を眺める。
そういえば、ぽこぽこタウンでは豆腐を見かけなかった。米もみそも、梅干しもなかった。唐揚げはどうだったか、と思って手を伸ばすと、紙カップはもう空になっている。
Lを買ったのに。
「ピザとラザニアも作れる?」
エレジーは焼き海苔でごはんを巻きながら言った。慣れた手つきだ。操作主の好物だったのかもしれない。
「無理。レトルトで我慢しろ」
「前は作ってたじゃん」
「麦こねるだけでパンになる世界とは違うんだよ」
エレジーがふえるわかめを欲しがったので、戸棚から出してきた。手渡す時、触れた指先が温かかった。やっぱり生きてるのか、と今さら思う。
エレジーはみそ汁にわかめをつまみ入れ、ふやけていく様子をじっと眺める。何かを見つけようとするように、目を見開いている。
ナノは豆腐を一つずつ口に運び、不思議です、と言った。
「豆腐もみそも大豆なのに、わざわざ別にして、そしてまた一緒にするなんて」
いや、不思議がるのはそこじゃないだろう。
俺が死ぬ思いで穴を抜けている間に、エレジーとナノはすんなりと別の道を通り、この部屋にたどり着いた。二人とも、いい具合に面影を残したまま人間になっている。
ナノはイメージ通り、清楚な女性だ。飾り気のないセミロングヘアに、くりっとした目と小さめの鼻、青いワンピースもそのままで、年頃は俺と同じか少し若いくらいに見える。
いっぽうエレジーは、黒いショートボブに色白の肌がよく映えている。赤茶色の瞳は、角度によって時折ルビーのような光を放つ。奇矯な目つきをしているが、整った顔立ちだ。体はほっそりしていて、少年とも少女ともつかない。おっさんだよ、と本人はあくまでも言い張っているのだが。
「プリズムさんは、ずいぶん変わりましたよね」
ナノが頬杖をついて言った。
「前はロケットみたいに速かったのに、今はお料理もお片付けもゆっくりで」
いや、だからそこじゃないだろう。
俺は席を立ち、窓に映る自分の姿を見た。
あの痛すぎる大移動で揉みくちゃにされ、元の顔に戻るのかと思いきや、そうではなかった。髪や肌、骨格は元の自分に近いが、目鼻立ちはプリズムのものだ。
そして痩せた。腹の肉も、たるんでいた頬も、別人のように引き締まっている。ぽこぽこタウンであちこち走り回ったせいなのか、単に元の体に戻りそこねたのか、とにかく痩せた。
痩せて小ぎれいになったのは良いが、周りはどう思うだろうか。職場の同僚は。実家の親は。どんなダイエットをしたのかと聞かれるだろう。いや、整形したと言われても仕方ない変わりようだ。
いいじゃん、とエレジーが言った。
「自分で思うほど、周りから見れば変わってないものだよ」
「そ、そうか?」
「そうそう。堂々としてれば気づかないよ」
そんなものだろうか。
コンビニの女の子の反応を思い出す。痩せたね、髪型変えたね。みんなその程度で済むのだろうか。あれは元々感心が薄かっただけではないだろうか。
エレジーはみそ汁を飲み干し、目を光らせる。
「どうしてもって言うなら、エレジーが元に戻してあげるよ」
「え。そんなことできるのか」
「できるよ。またタウンに行かなきゃならないけど」
そりゃ勘弁。
笑おうとしたが笑えず、うつむいた。振り払うことのできない影が、心にぴったりとくっついている。この部屋へ帰ってきた時から、それは少しずつ大きくなっていた。
「タウンに行けば、テディさんの新しいアバターにも会えますね」
ナノがさらりと言った。
テディは空の裂け目に入るか入らないかのうちに、塵になってしまったという。
あいつのことだから、飛び込む瞬間までもたもたしていたのだろう。着ぐるみの中、幽霊のような姿になっていたのを思い出す。せめて薄笑いを浮かべたまま、苦しまずに散っていったのならいい。
エレジーが立ち上がり、お湯沸かすね、と言った。洗い物をする俺の横を抜け、やかんを手に取る。ナノは食卓についたまま、ぼんやり窓の外を見ている。二人にとっては、やはりタウンが故郷なのだろうか。絵のような空や色とりどりの畑に、思いを馳せながら生きていくのだろうか。
エレジーとナノの操作主も、もう新しいアバターを作っているかもしれない。どこにいるのか、男なのか女なのか、俺は何も知らない。これからもずっと、知ることはないだろう。
外は夕暮れ、街灯の白い明かりが送電線を照らしている。
玄関のチャイムが鳴った。出ようとするナノを止め、食器を置いて走っていった。
ドアを開けると、お下げ髪の女の子が立っていた。茶色いパーカを着て、落ち着かない面持ちで腕を後ろに回している。
「あの、これ」
片方の手を差し出し、開いて見せる。そこには、小さなブタとアルパカのマスコットがあった。
「部屋に落ちて……ました」
「え。あっ」
ネットカフェで倒れていた、あの女の子だ。気絶しているように見えたが、追いかけてきたらしい。
俺はブタとアルパカを受け取り、どこから話すべきか考えた。画面。侵入。頭突き。いや、まずは謝るべきか。怪我はないですか。パソコン大丈夫でしたか。
俺が口を開く前に女の子は頭を下げ、それじゃ、と言った。後ろのフードがぴょこりと跳ね、頭にかぶさる。てっぺんに二つ、小さな耳のついたフードだった。
クマの着ぐるみが、瞬時に頭をよぎる。
「テディ」
走っていこうとする女の子に、俺は思わずそう言った。
女の子は立ち止まった。そのまましばらく、背を向けたままでいた。
ぽこぽこタウンでの出来事を思い返す。最初にあの空の亀裂を見つけた時、そばにいたのは誰だったか。迷わずに、行き方を示してくれたのは誰だったか。
「プリズム、見てこれ!」
「エレジーさんがお湯をかけたら……!」
ばたばたと二人が飛び出してくる。エレジーは大きなスーツケースを抱え、ナノは籠いっぱいの野菜や果物を持っている。水がしたたり落ち、湯気が漂っている。
「何それ。まさか」
「ふえるわかめと同じだよ。お湯をかければ復活。エレジーの思った通りだった」
スーツケースが開いて、中身が溢れ出す。珍妙なアイテム、鮮やかなお菓子、金色の燕尾服、水玉模様の壁紙。
ぽこぽこタウンにあったもの。詰め込んできたもの全てが、爆発するように溢れてくる。クッション、ラグマット、カップとソーサー、猿のぬいぐるみ、二枚で百円のパンツ。
「さっそく模様替えしましょう。あ、刺叉は私に返してくださいね」
「エレジー、キャンプファイヤーも置きたい」
「待て、待て、お前ら、ちょっと待て」
お下げの女の子が振り向き、笑った。少し重たげな目で、俺をじっと見る。
「よかったね。不細工に戻らなくて」
口元の笑みに、さっきよりも皮肉が混じっている。
「あ、でもよく見ると、ちょっと顔が劣化してるね。ざんねーん」
「テディ? マジでお前なのか?」
「たまにはさ、遊びに来るよ。学校とかあるから、毎日ってわけにはいかないけど」
女の子はお下げを揺らし、さっと向きを変えて走っていった。階段の途中で足を踏み外し、もたつきながら駆けていく。その姿に、アバターのテディを重ねようとした。あの嫌味な笑顔と、おかしな動きを重ねようとした。
操作主なんて関係ない。そう思っていた。思おうとしていた。
女の子が去っていったほうを見て、俺は立ち尽くした。
早く、とエレジーが呼んだ。がさがさと何か広げる音、大きなものが転がる音がする。海のにおいや、甘く懐かしいような、不思議なにおいもしてくる。
「プリズムも手伝って。あ、アルパカにもお湯かけていい?」
俺は一体、どこに帰ってきたんだろう。
いろいろなことが頭を巡り、一気に弾け飛んだ。
笑みが自然に広がっていく。どうしようもない安堵感が、心を満たしていく。
俺は帰ってきた。本当に帰ってきた。ここは俺の家だ。いや、俺たちの家だ。
「アルパカは明日にしろ。あと、刺叉はしまっとけ!」
目を閉じれば、緑の庭が見える。賑わう街と広場が見える。塵一つない空にかかる、七色の虹が見える。
全てが作られたものだとしても、この感覚は本物だ。空気があって、肌に触れて、その中を動いていく。これまでも、これからも、あの世界はずっと本物だ。
俺は小さくうなずき、部屋へ向かった。部屋からは、色とりどりの光と笑い声が溢れていた。
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