エリカに嫉妬心
「もーういーくつ寝るとー、クーリースーマースー」
事の始まりは、12月の中旬ごろ。 ひどくご機嫌に歌を歌いながら、夏輝は廊下をスキップしていた。
お分かりの通り、クリスマスが来るのは2週間も先のこと。いささか浮かれ過ぎである。
しかし夏輝とて、むやみやたらにこんなハイテンションになっているわけではない。やんごとなき理由があるのだ。
「あーあ、もう、もう、もう耐えられない! 今ですらこんなに楽しみなのに、当日が来ちゃったらわたし、どうなるんだろ。ああー、やばいなあ、棗との初クリスマス! 初記念日! 楽しみっ!」
そう、夏輝の笑顔はこのためだったのだ。はじめて出来た彼氏と、いかにもなイベント。ここまで来ちゃったら盛り上がらないわけにはいかんだろうと、まあはりきってしまっているわけなのだった。
それにしても彼女ははしゃぎ過ぎた。胸一杯に乙女チックな甘い想像を、普段の夏輝らしくもなく膨らませて、だからこそ、その事実は夏輝を強く打ちのめすことになったのだった。
一週間に一度きり、夏輝は恋人の棗と下校をともにする。
予定に折り合いがつけばその頻度は変わることもあったが、棗の部活は園芸部。その名の通り植物を弄る部活であるからして、休めることなどはあるはずもないが、そこはそれ、夏輝の希望した放課後デートの一日だけはさっさと切り上げることにしていた。
夏輝はと言えば、こちらは華のバスケットボール部に所属し、それなりの有望株として活動にいそしんでいる。連日遅くまで練習は続くが、部活柄恋愛がらみの用事に関しては多少融通を聞かせてもらえた。
眼鏡をかけ、穏やかと言えば聞こえはいいが、要するに地味な印象の棗と、活発でキャラキャラとした笑い声の賑やかな夏輝。
何度比べ見ても釣り合いのとれない二人だが、これで案外うまくいっているのだ。
今日もそんな、恋人同士の何気ない一日だったのだが………。
夏輝は棗との待ち合わせの時間までの暇を、三階の教室で友達とおしゃべりをしながら潰していた。
しかし、どんな話をしていても気になるのは時計の針ばかりで、いつものように呆れたような視線で見送られつつ、教室を出た。
運動部ならではの運動神経の良さで、あっという間に一階まで駆け下りた夏輝は、珍しく先に来ていた様子の棗を見つけた。
すぐさま声をかけようとしたが、運悪く電話が入った様なのだ。邪魔をしては悪いので、かといって中途半端に突っ立っているのもなんだかなぁ、と壁に寄り掛かり待つ事にする。その時、驚くべき言葉が夏輝の耳に飛び込んできた。
「もしもし、ああ、えりか。どうかしたの?」
夏輝は息を止めた。棗が女の子の名前を呼び捨てにしたことも、そんなに親密な女の子がいたのか、という発見も、極めつけに悪かったのは、えりか、と呼んだその声が、夏輝の聞いたことのない甘い、柔らかな声だったことで、それらのこと全ては夏輝の事を存分に打ちのめした。
「うん……うん、元気? そう、あんまり体を冷やさないようにね……え? あはは、そうかも」
ただの女友達だ、と思うにはあまりに気安く、優しい思いやりのこもったやり取り。気が利くのはよく分かっていたが、口下手で、直接伝えたりするところは見たことがなかったから、こんなふうに相手の心配をするのだとは知らなかった。はじめて見る一面がのぞけて嬉しいけど、出来るなら、そうされるのはわたしに対してであってほしかったな、と夏輝は自嘲するように小さくつぶやいた。
「後は何かある? うん、じゃあ、そろそろ夏輝も来るだろうから、切るね。 ……やだな、冷やかさないでくれよ」
だが、夏輝の感傷タイムはここまでだった。冷やかす? 本命の彼女が、浮気されてることにも気がつかないお馬鹿で能天気な彼女に、冷やかし?
「ふざけんじゃないわよ……」
口を衝いて出た怒号は予想よりもはるかに大きな声になり、携帯電話をしまった棗を飛びあがらせた。
「なにがえりか、よ、なにが元気?、よ、なにが体を冷やさないように、よ!!!」
「な、夏輝? 」
「あんたみたいなのを好きになったわたしがばかだった! 勝手に、その人と仲良くやればいいじゃない! 真剣に考えてくれないんなら、どうして告白に良い返事なんかよこすのぉ!!!」
普段よりも少しだけ声を張ったつもりで、もうボロボロのくせに夏輝は怒鳴った。絞り出された声は恐ろしく掠れて、泣きごとのようにしかならないのが悔しかった。ぼろっといきそうになる涙を鼻先三寸にとどめ、最後の力でパン、と棗の頬を打った。けれどそれすらも、もはや力は入らなくて。
「え?」
夏輝はあまりに軽い平手打ちの感触に戸惑い、じっと掌を見つめた。こんな力しか残っていないことが信じられなくて、じっと。
事態を把握しきれない、といった顔で立ち尽くしていた棗だったが、ここでやっと口を開こうとし――
「棗なんて、大ッ嫌い!!」
今度こそ、満身の力で振りかぶられた右手に打ち据えられた。
憤懣やるかたなし、という顔で夏輝が去っていくのを横目で見送り、ほうっとひとつため息をついた棗は、思わずその場にへたり込んでしまった。
いつもにも勝って直情的な夏輝の怒りは、いくら鈍感な棗にも応えた様だった。
「というわけでっ! わたしはもう、金輪際、あんなのとは口きかない! もう知らない! 棗のばかやろーーー!!!」
「はいはい」
家までの道を、棗から逃げるように全力でペダルをこぎ、ただいまも言わずに部屋に駆け込み布団にくるまるまで、わずか20分。
普段高校まで行くのにかかるのは30分。必死になってみると、人間、何でもできるのかもしれない。
一度涙が引くのを待って夏輝が携帯に呼び出したのは、こんな時の相談相手、槙の電話番号だった。
気のすむまで棗の悪口を言って、こきおろして、涙も枯れよと泣きとおした夏輝は、すっかりいつも通り、とはいかないまでも、元気を取り戻した。
「でも、変だね、棗君ってそんなことができるような人には見えないんだけど……」
「理由なんて関係ないからね、棗、ううんあの腐れ外道がわたしのことをもて遊んだ、ってことは確実なんだから!」
「で、着信拒否?」
「そーだよっ! もう一切かかわらないって決めたんだから!」
そう啖呵を切ったところで、急に槙の声が途絶えた。
「ん、槙? どうかした? まきー?」
「ちょっと待ってて、あー、これは……」
「どうしたの、いったん切ろうか?」
「いや、大丈夫。ねえ夏輝?」
「はいはーい」
「本当に、棗君なんてどうでもいい?」
「……ヨリ戻したりは絶対ないからね、何言われてもこればっかりはわたし、変えないからね」
「んー、じゃあこれはいらない? 棗君から釈明のメールが来てるんだけど」
「え!」
「いらない?」
「………は、話くらいは聞いてあげても」
「じゃあこれ、転送するから。 着信拒否をやめればいいんだけど、それは嫌なんだろうし」
「………ありがと」
そうして送られてきたものは、一枚、見覚えのない植物の写真が添付されていて、その下にそっけなく『これがエリカです』とだけ添えてある、そっけないシロモノ。しかし、夏輝にその意味を理解させるには十分だった。
用心深くネットでも検索をかけてみるが、すでにそれが本当のことであることくらいわかっていた。
ずいぶんな量の蕾の中に、ピンク色の小さな花がちらほらと見える。つまり、咲きかけ。
さあっ、と夏輝の顔色が変わったところで、槙から着信がはいった。飛びつくようにして電話を取る。
「どうしよう槙、わたし平手打ちしちゃったのに!」
「ううーん……ま、誤解だったみたいだね」
そりゃあ元気かどうか心配もするだろう、冷やさないようにしてやれと助言もするだろう。その名を呼ぶ声が甘くなることだってあるのだろう!
なにしろ、彼は生粋の花好きなのだ。
「まあ、普通に謝るのが一番だと思うけど。 電話番号を知らないってわけじゃないんでしょ?」
正直、夏輝はそれをばっちり知っていた。かさねて、彼の家の場所も、それはわずか5分足らずの場所にあることも。
「知ってる……けど」
「けどじゃないでしょ、じゃあ、夏輝は自分が悪いってわかってもまだ、謝るつもり、ないんだ?」
「ない、訳じゃないよ、ちゃんと、ごめんくらい、言えるよ……」
言いながら、自分でも苦しいと分かっていた。今まで何度、こうやって早とちりしては迷惑をかけることをしてきただろう。そしてそのうちの何回で、わたしはあやまることができただろう。夏輝は自分でも、ごめんと一言いい、頭を下げることが苦手なのだとよく分かっていた。
「ねえ夏輝? ちゃんと、言わなきゃだめだよ」
「うん、わかってる」
「明日、会ったらすぐに謝るんだよ」
「うん………」
尻つぼみに通話を終えて、ばさりとベッドに横たわった夏輝は、脳内で何度もシュミレーションを繰り返し、そうしていつのまにか眠り込んでしまうのだった。
「夏輝ー、一年生が呼んでるー」
次の日、昼休みになってもまだ、夏輝は謝れていないままだった。何度となく繰り返したシュミレーションはまったく効果をなさず、棗の方でも夏輝に話しかけてくれようとしているのが分かるのだが、目が合うと、とっさに逃げ出してしまうのだった。
本日何度目ともしれないため息をつきながら、重い腰をあげて出ていくと、そこで待っていたのは二つ結びの可愛い女の子。
「えっと……」
見たことのない顔に、何の用かと困惑していると、がばりとお辞儀をされてしまった。
「すみません、棗先輩と電話の相手、私だったんです」
率直に謝られて、自分には出来ていないことをこんなにも簡単にしてしまう彼女が夏輝は羨ましくなった。
「そんな、謝られることじゃ、ないよ。 悪いの、全部わたしのせいなんだし」
「でも、きっかけになったのは私のしたことですから、申し訳なくて」
「気にすることないのに」
「棗先輩、昨日すっごく落ち込んでたんです、夏輝先輩に悪いことした、って」
「そうなんだ……」
夏輝の心は少しだけ明るくなった。もう嫌われたと思い込んでいたから、まだ元に戻れるかも、と。
「そうだ、エリカの写真、みてもらえましたか?」
「見たけど……何でそれ、知ってるの?」
「棗先輩に相談されたんです。 何かいい方法ないかな、って電話で」
「そうだったんだ」
「あ、でも、電話っていっても、それだけですから! 棗先輩、ほんとに夏輝先輩のことが好きなんだと思います、だから……」
「ごめん、ちょっと、一人にさせて」
すみません、すみませんと平謝る女の子を帰らせ、御手洗によって頭を冷やす。正直、棗があの子に相談をしていたことのショックが大きかった。確かに『エリカ』ではない。だけど、同じくらい仲のいい子はいたのだ。それも、優しそうで、夏輝のように気性の荒くない、素直に謝れる良い子が。
そうして迎えるクリスマスイブ。
親友4人で集まって、明日のクリスマスを満喫するための作戦会議だ。
一番おしとやかでおっとりとしている結城は、告白という大イベントをこの後に控えていて、その準備も兼ねていた。
いつものんきに構えている奈那希ですら、意中の人を誘いだすというミッションがあり、裏方に徹するらしい槙はその用意に忙殺されているので忙しい。つまり、時間をもてあましているのは夏輝ただ一人。
結局一言も交わさないままに土日に突入してしまい、うだうだと電話もできないまま今に至るという訳だ。
「ほら、次夏輝の番だよ」
奈那希の分を終えた槙がやってきて、問答無用に夏輝の顔を彩っていく。
「ねえ、もう無理だよ、何にも話しなんて出来なかったのに、メイクなんて意味、ないじゃん」
「黙ってなさい」
「いいよ、もう」
「うるさい。 必ず電話は来るから、おとなしく待ってればいいの」
はいおしまい、と仕上げ終えたらしい槙は道具を片づけはじめてしまうが、夏輝にはいまいち、槙の確信の根拠が分からなかった。
もしかしたら槙が約束でも取り付けたのかも、なんてことを考えたが、それこそあり得ないことだった。いらぬお節介をすることを好まない槙だ、そこまで踏み込んではこないだろう。
やっぱり、連絡なんてあるわけない、と諦めかけた頃に、夏輝の携帯は鳴り始めた。
名前は知らない、でもメロディが気に入っているクラシック。それは棗だけの着信音。
まだ怖い、だけどさすがに電話に出る勇気ぐらいは振り絞った。すぐに話し始めようとして、周りの目に気付きあわてて部屋を出た。扉を閉めて、ようやく話に入る。
懐かしい声だった。大好きで、でもここのところずっと聞くことのかなわなかった声。
その声に安心感を覚えるのと同時に、謝罪の言葉が滑り出た。
「ごめんね、意地張ってごめん、叩いたこと、悪いと思ってる」
「俺こそ、勘違いさせるようなこと、した。 ごめんな」
「また、彼女にしてくれる?」
「まだ、彼女でいてくれる?」
重なった言葉。想いが同じなのだと、ひどく安堵した。
「会いたいな、今。どこにいる?」
「槙の家。棗は?」
「俺は家に……来てもらってもいい?」
「分かった、すぐ行く!」
会話の余韻さえ惜しむように通話を切ってすぐ、夏輝はドアを勢いよく開けて部屋に入り、荷物をひっつかんで飛び出した。
「ごめん! 先帰る!!!」
顔も見ずに一言いって、猛然と出ていく。
その顔にはやはり、抑えきれない喜びと、棗への想いが溢れていた。