十の積荷
一機の爆撃機を飛ばすために、十人の乗組員が搭乗する。
野戦飛行場の機体脇、出撃間際の簡単なブリーフィングだ。私はこれから命を預かる搭乗員たちの顔を見回す。彼らはミルストーンの街から来た若者であり、これから敵国の軍需工場を爆撃に向かう。すでに十を超える爆撃をともに遂行した、かけがえのない私の仲間だ。
機長にして操縦士、H.グレイ。私の名だ。階級は大尉。故郷では機械工をしていた。
副操縦士のR.コリンズ大尉。大学で生物学を学んでいた。
航法士のP.バーンズ中尉。車のセールスマンだった。
爆撃手のJ.ミラー中尉。大学で歴史学を修めていた。
無線士のT.デイヴィス軍曹。現場作業員。
機関士兼上部機銃手のW.トンプソン軍曹。車の整備士をしていた。
右側機銃手のD.ハミルトン軍曹。カフェの店員。
左側機銃手のS.ライアン軍曹。郵便配達員。
後尾機銃手のA.ベイカー軍曹。弁護士事務所の下働き。
下部機銃手のE.ウォーカー軍曹。ハイスクール通いの一番若い坊や。
「準備はできているな、ミルストーンズ」
私の呼びかけに、全員がうなずく。その顔に過度の緊張は見られない。すでに幾度も死線を乗り越えてきたという自負と、仲間への信頼。どんなに困難な爆撃でもやり遂げるという覚悟の表情だ。
「今日は兵器工場を爆撃する。俺たちの同胞を撃つための銃を生産している工場だ。周囲には高射砲部隊が配置され、ぐずぐずしていれば戦闘機部隊が駆けつけてくるだろう。つまり、いつも通りだ」
軽い笑いが起きる。すでに開戦から三年だ。海峡を挟んでなんとか持ちこたえている戦況では、護衛の戦闘機に護られた安全な爆撃など望みようがない。出撃のたびに編隊の何機かは戻らない。私たちが従事している爆撃というのはそういうものだった。
「酸素マスク着用の指示には従え。無線で大声を出すな。俺たちはやるべきことをやり、ここへ帰ってくる。了解したら、搭乗を始めろ。愉快な空の旅を存分に楽しんでくれ」
搭乗員たちは口々に応じて、狭い搭乗口に身体をねじこむようにして乗り組んでいく。爆撃機の主役は爆弾で、搭乗員の快適さは考慮されない。銃座に着けば身体を伸ばすこともままならないし、高度八〇〇〇メートルまで上がれば外気はマイナス四〇℃まで冷えこむ。地上では身動きするのも億劫な防寒着は手放せないし、酸素マスクなしでは二〇分で死に至る。
私たちが向かうのはそういう場所だ。
誰も好んで行きはしない。この戦争が始まるまで、想像もしなかった世界だ。
搭乗前に、機体を見上げる。爆弾を担ぐ十人の小人のノーズアートと、その足元に記された出撃回数を示す爆弾のマーク。『テン・リトル・ミルストーンズ』あるいは単に『テン・リトル』。それがこの機の名前だ。規定回数の飛行を終えるまで、私たちはこの機と運命を共にする。
操縦席に着き、誘導に従って滑走路に出る。長大な滑走路には同じ基地に所属する十五機、総勢一五〇人の男が乗り組んでいる。今回は大規模な作戦で、空に上がってから他の基地の爆撃機隊と合流して防御編隊を組むことになっている。頼もしいが、それだけ危険が予期される作戦でもある。
前方の機が動き出す。それに続き、私は爆弾を満載した機体を加速させていく。二五〇キログラム爆弾、計一〇発。世界でもっとも危険で物騒な配達任務が始まる。
*
「……大尉。グレイ大尉! 起きてください!」
肩を揺さぶられ、意識を取り戻すと同時に酸素マスクから流れるゴム臭い空気を大きく吸いこみ、自分がどこにいるのかを思い出した。ここは『テン・リトル』の操縦席で、私は高射砲の弾幕を潜り抜け、目的地の上空で爆弾投下の命令を下した。その後は? なぜ意識が飛んでいた?
頭が痛い。右頬が強張り、視界がかすむのは流れた血が固まったからか。一体、なにが起きたのか。隣に目をやり、ぎょっとする。副操縦士のコリンズは血塗れだった。キャノピーに穴が開き、操縦席に風が吹きこんでいた。酷く寒く、身体の震えが止まらない。
「コリンズ。俺はいつから……いや、ここはどこだ?」
「よかった、目が覚めたんですね。まだ敵地の上空です……ああ、本当によかった」
腕時計に目をやる。まだ爆撃から五分と経っていない。だが空での五分は致命的になりうる。墜落していないのは、意識を失った私に代わってコリンズが操縦を続けてくれたからだ。
「怪我をしたのか。俺たちは高射砲を浴びたんだな」
操縦桿を握るコリンズはかなり辛そうだった。飛行服には血が滲んでいる。高射砲から放たれる炸裂弾は、直撃しなくとも衝撃を叩きつけ、破片だけで機体を切り裂く。操縦席に至近弾を喰らえば、中の人間はずたずたに切り裂かれる。そうして墜落する僚機を何度も見てきた。
「コリンズ、俺が操縦を代わる。各所、被害を報告せよ。航法士」
返事がない。
「航法士。返事をしろ、バーンズ!」
バーンズに代わり、無線士のデイヴィスが応える。
「無線士、デイヴィスです。中尉は意識がありません。俺も足をやられました……血が止まらない」
「爆撃手、二人を助けにいけるか。ミラー中尉?」
やはり返事はない。並行して、計器とキャノピー外に目を走らせ状況の把握に努める。油圧計の針が不安定に揺れ、高度計は機体の降下を示している。速度も巡航速度に満たない。四基あるエンジンのうち、左翼の一基が止まっていた。炎上していないのは幸いだが、もう一基も損傷している。
おそらく、左下方で高射砲弾が炸裂したのだろうと当たりを付ける。爆撃手の持ち場は照準器を通して地上を見下ろせる機体下面であり、ミラーもまた返事ができる状態ではないのだ。
「機銃手、順番に被害を報告しろ。上部機銃手、トンプソン」
返事がない。
「左右機銃手、ハミルトン、ライアン……尾部機銃手、ベイカー。どうだ、返事をしろ」
やはり返事はない。
「下部機銃手、ウォーカー。聞こえているか?」
くぐもった音。無線がやられただけで、実は全員生きているのではないかという考えがよぎる。
「ウォーカーです。僕は……いえ、自分は無傷であります」
*
「……荷物は届けた。基地へ帰るぞ、ミルストーンズ」
見上げれば、はるか上空に編隊が確認できた。まだ飛んではいるが、群れからはぐれた爆撃機は格好の獲物だ。いま戦闘機に襲われたら、機銃での防御もままならない。そうなったら終わりだ。助けも期待できない。編隊を崩せば全滅という結果を招きかねないし、お互いに空中ではどの道できることは限られている。いま考えるべきはそこではない。もっと切実な問題がある。怪我人と燃料だ。
機体と搭乗員、どちらも被害が大きい。無傷なのはウォーカーただ一人で、会話ができるのは副操縦士のコリンズと無線士のデイヴィスのみ。残りの六人は重傷もしくは生死不明で対処は一刻を争う。機体も酷い状態だ。左翼のエンジンは一基が停止、もう一基も損傷している。最悪なのは、燃料計が半分を切りつつあることだ。
いい材料もある。酸素マスクを外しても問題ない高度に降りつつあることだ。負傷しているコリンズとデイヴィスは難しくても、ウォーカーなら動ける。意識がない連中も応急処置ができれば助かる目がある。
「ウォーカー軍曹、機銃はもういい。生きている者の応急処置に当たれ」
「はい、大尉」
「急激に動くな。低酸素で意識を失うぞ。いいな、仲間を助けられるのはお前だけだ」
「了解です、大尉」
酸素マスクを外す雑音を最後に、機内に沈黙が落ちた。割れたキャノピーから吹きこむ風とエンジンが発する轟音と振動で、機内は無線なしでは会話もできないほどの騒音に満ちていたが、その静けさがたまらなく恐ろしかった。ずいぶん長い時間が経ったと思ったが、腕時計の針はいくらも動いていない。こらえきれず呼びかけようとした瞬間、無線を通じてウォーカーの声が届く。
「……機長、聞こえていますか」
「聞こえているぞ、ウォーカー。状況を報告せよ」
「後尾機銃座はめちゃくちゃです。ベイカー軍曹は、もう……」
「言わなくていい。他は?」
「左右機銃手のハミルトン軍曹とライアン軍曹も……ダメです。息がありません。トンプソン軍曹は……上部機銃座がありません。ないんです、ここにあったのに……脱出したのか、それとも……」
「……了解した。報告は以上か?」
「はい。デイヴィス軍曹の処置に向かいます」
軍人らしく、言葉を濁さず報告しろとウォーカーを責める気にはなれなかった。凄惨な死体を前にして、吐いていないだけでも上出来だ。あいつはハイスクールに通っていたのだ。
後方も気がかりだが、減り続ける燃料計からも目が離せなかった。航法士のバーンズが意識を失っている以上、針路の決定と航続距離の計算は操縦士である私がするしかない。副操縦士に操縦を預けようと横を見て、私は愕然とした。コリンズは首を落とし、手足を力なくだらんと垂らしていた。その時になってようやく、足元に血溜まりができていることに気付いた。
「コリンズ……」
私自身の頭部からの出血はすでに止まっている。ならば足元の血はコリンズのものだ。彼は最後になんと言っていた? 本当によかった、と言ってはいなかったか? あの言葉の意味をいまさら理解し、私は自らの鈍さを呪った。彼は致命傷を負いながらも操縦を続け、私を叩き起こしてくれたのだ。
「デイヴィス、怪我の処置はできたか? ウォーカー、どうなっている」
急かすべきではない。そう思いつつも、生きている者の声を聞きたくてたまらなかった。
「大尉、報告します」
嗚咽混じりの声が無線を通して耳を打つ。ウォーカーの声だ。
「デイヴィス軍曹の大腿部の傷に応急処置を施しました。今は意識を失っています。バーンズ中尉はいびきをかいています。どうしてこんなときに?」
「ウォーカー」
「ミラー中尉はどこに? 下から風が吹きこんで酷く寒いんです。爆弾倉が開きっぱなしなんです」
「ウォーカー、聞け! 落ち着くんだ。パニックを起こすな。深呼吸をしろ。今すぐに!」
荒い呼吸を聞きながら、状況を整理する。デイヴィスは出血多量。意識を失うのはよくない兆候だ。バーンズは頭部を負傷し、いびきをかいている。ミラーは行方不明。コリンズも、おそらく助からない。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。地図と地上を交互に睨みつけ、現在位置に当たりを付ける。基地まではおよそ九〇〇キロメートル、最後の五〇キロメートルは海峡だ。残燃料は半分を切っている。爆弾を投下して軽くなったとはいえ、ギリギリの距離だ。おまけに左翼のエンジンは片方が止まっていて、高度を落としたせいで抵抗が増え、速度も落ちている。速度と高度を補うために出力を上げた右翼のエンジンは恐ろしい早さで燃料を食い続けている。
現在の速度を維持できるという楽観的な見こみで計算しても、基地に着くまで四時間はかかる。そして燃料計がゼロを指すのは約三時間後。どう計算しても一時間分の燃料が足りない。敵地を離れ、海峡を越えるための最後の燃料が。
「ウォーカー、聞こえるか?」
「……はい」
「基地に帰るための燃料が足りない。武装、弾薬、工具箱、なんでもいい。動かせる物を捨てろ。とにかく機体を軽くするんだ。頼めるな?」
「……了解です、大尉」
無線を通して、荒い息遣いと物音が続く。わずかな振動と同時に、操縦桿にかすかな手応えがあった。投棄が始まったのだ。操縦席からは捨てられた物は見えない。燃料計を注視するが、目に見える変化はない。分かってはいたが、暗澹たる気分になる。
燃料が尽きれば不時着を試みるしかないが、運よく胴体着陸に成功したとして、負傷者を連れて敵地を逃げ回るのは不可能だ。遅かれ早かれ捕虜になるのは避けられないが、重傷者に手厚い治療が施される見こみは薄い。それどころか、捕虜を取るのを嫌った敵兵にその場で銃殺される可能性もある。一人でも多く助かるために、なんとしても基地へ帰還せねばならない。墜落死なら我慢できても、戦友たちが獣のように銃殺されるのは耐えられなかった。
時間はあっという間に過ぎていき、燃料計は容赦なく減っていく。
投棄開始から三〇分ほど経過したころ、無線を通して取り乱した声が響き渡った。
「ああ、くそ! ちくしょう!」
「どうした、ウォーカー! 状況を報告しろ!」
「工具箱を捨てちまった! 機銃が取り外せない!」
「……」
とっさに言葉が出なかった。捨てる順番を指示しなかった私のミスだ。だがそれを口にできなかった。罵倒の言葉が飛び出るのを抑えるので必死だったからだ。いま、言うべきことではない。言えばウォーカーを追い詰めてしまう。その代わりに、ずっと考え続けていたことを口にする。
「もういい。聞け、ウォーカー軍曹。俺の指示に従え」
「すみません、大尉……」
「いいんだ。これから下す命令は、すべて俺に責任がある。お前は俺の命令に従っただけだ」
「……はい、大尉。命令をどうぞ」
「死体を捨てろ」
「それは……大尉」
「復誦するんだ、ウォーカー軍曹」
「死体を捨てます、大尉。っ、ですが……」
「捨てるんだ、軍曹! そうしなければ燃料が持たない!」
返事はなかった。恐ろしいほどの沈黙が落ちる。
間を置いて、操縦桿に何度かの手応えが伝わってきた。
ベイカー。ハミルトン。ライアン。すまない。連れ帰ってやれなかった。
報告はなかった。求める気にもなれなかった。
*
奇妙なほど静かな空だった。左翼エンジンの不調、迎撃機に発見されずにいる幸運だけがその理由ではない。無線を通した十人の男たちの息遣い、交代で居眠りをするコリンズの身じろぎ。これまでの爆撃行を通じて、意識せずとも常に傍らにあった生命の気配はすでに失われている。
あるのはただ、なにか恐ろしいものに見つかるのを恐れるような、身を縮こまらせて息を殺す気配だけ。震えるほど寒いのに操縦桿を握る手が汗で滑る。片方ずつ手袋を外して、掌を太腿に擦りつける。
不意に、生きているのは自分だけなのではという恐怖に囚われる。
「ウォーカー」
返事はなかった。
「ウォーカー軍曹、聞こえていないのか。返事をしろ!」
「……はい、大尉」
そのしわがれた声の暗さにぞっとした。
「……大尉? どうかしましたか」
黙りこんだ私を不審に思って呼びかけるその声は、普段のウォーカーのそれだった。高空の乾燥した空気で喉をやられることはよくある。先ほどの声もそうだったのだろうと自分に言い聞かせた。
「……バーンズ中尉とデイヴィス軍曹の様子はどうだ」
「中尉のいびきは止みました。軍曹は……寒い寒いとうわごとを繰り返していました。ですが今は静かに寝ています。二人とも変わりありません」
震えを抑えた、動揺から立ち直りつつある人間の声。おそらく、バーンズもデイヴィスも助からない。だが二人とも寝ているだけだと思わせておけば、これ以上ウォーカーを動揺させずに済むだろう。
もう一度、計器に目を走らせ、頭の中で計算する。やはり足りない。燃料計の仕組み上、ゼロを指した瞬間に燃料の供給が止まるわけではない。車と同じだ。しかし残された時間でどれだけ飛べるかは誰も知らない。身をもって体験した者は例外なく墜落しているからだ。飛行機は車ではない。
速成教育で叩きこまれたのは、爆撃機乗りとして最低限の知識だけだ。熟練の操縦士であれば打開策を知っているのかも知れないが、いまの私には機体を軽くする以外に思いつけない。それでもやるしかない。もっと機体を軽くして、生還の可能性を少しでも上げねばならないのだ。
「ウォーカー。投棄できる物はもうないか?」
「何度も確認しました。もう捨てられるものなんてありません」
「命令だ。周りを見ろ、ウォーカー軍曹。見えた物を言え」
「バーンズ中尉とデイヴィス軍曹がいます。機体は穴だらけで、機銃が揺れてて……壁にパラシュートがありました……五人分残してあります」
五人分、の意味がわからなかった。一瞬遅れて、理解が追いつく。それは、ウォーカーが考えている生存者の数だった。
呼吸が速くなるのを意識する。私は残酷なことを言おうとしている。
「ウォーカー、聞くんだ」
最初に出たのは、一番言いやすい単純な誤りの指摘だ。
「俺とコリンズのパラシュートはこっちの操縦席の下にある。壁に掛かってる余分のふたつは必要ない。捨てろ」
「了解です」
指示通り、パラシュートを捨てる気配が伝わってくる。反動はないに等しい。わかっていたことなので落胆はない。次だ。言葉を選び、告げる。
「それから、バーンズとデイヴィスはパラシュート降下できる状態じゃない。二人の分も捨てていい。万が一を考えて、お前の分だけ残しておけ」
「それなら、自分の分も捨てて少しでも機体を軽くした方が……」
「絶対に捨てるな! ウォーカー軍曹、パラシュートはひとつ残せ!」
「……はい、大尉」
再び、パラシュートを投下する気配。こうしている間にも時間は経過し、燃料は減り続けている。嫌でも隣席のコリンズに目が行ってしまう。彼の死体と座席の下のパラシュートも投棄すべきだが、ひとつ問題があった。
操縦席から機体後部へ向かう通路が狭すぎるのだ。腹這いで匍匐前進しなければ通れず、万全の状態であってさえ頻繁に身体をぶつけ、ベルトが引っかかる代物だ。私が操縦桿を手放すのはもちろん、ウォーカーに操縦席まで来てもらい、すでに事切れたコリンズを引っ張っていってもらうのも現実的ではない。ベルトが変に絡んだりすれば、通路を塞いでしまいかねない。
もしそうなれば、私自身が逃げ道を失ってしまう。
「ウォーカー、バーンズとデイヴィスの様子はどうだ……」
おぞましい考えが脳裏をよぎる。
いっそ死んでいてくれれば、遠慮なく投棄命令を下せるのに、と。
「さっきから変わりありません」
その言葉にわずかな欺瞞を感じ取り、呼吸が速くなる。
「息はあるか」
返事はなかった。
「二人は呼吸しているか。ウォーカー、確認せよ」
「……それを聞いて、どうするんですか、大尉」
質問に答えろ、という言葉が喉まで出かかる。平時であれば、命令に対して質問で返せば即座に叱責しているところだ。しかしウォーカーもそんなことは理解している。その上で聞いているのだ。死んでいたらどうするのかと。
「……息は、もうないんだな?」
「……バーンズ中尉の、呼吸が止まっています」
ぎゅっと目を閉じ、ため息をつく。静かにしたつもりのそれは、マスクを通して大きく響いた。当然、ウォーカーにも聞こえたことだろう。
「バーンズを外に出すんだ、ウォーカー軍曹」
「大尉、ですが……」
「命令だ、ウォーカー!」
「さっきまで生きていたんです!」
悲鳴にも似た反駁が無線を通して響く。沈黙と荒い呼吸が続いた。
「ウォーカー、聞いてくれ」
「俺が、順番を間違えなければ……機銃を取り外せていれば、バーンズ中尉を諦めずに済んだんでしょうか? 教えてください、大尉」
「それは違う! いいか、ウォーカー。死んだやつらはそんなことを思っちゃいない。俺たちはチームだ。ミスは全員の責任で、お互いにカバーするのが当たり前だ。忘れるなとは言わん。だが引きずるな。責務を果たせ!」
一息に喋って、反応がないのを見て、さらに説得を重ねようとした瞬間。
「了解です、大尉」
端的な返答から、私はウォーカーの感情を読み取れなかった。間を置かず、なにかを引きずるような気配があり、ふっと機体が浮き上がった。一人の男性による体重変化が、それほど顕著な変化をもたらすものか、もう私には判断がつかない。あるいは、罪悪感がそう思わせたのかもしれなかった。
*
友軍はもちろん、敵軍の戦闘機一機すら見当たらない、奇妙に静かな空だった。いっそ、撃ち落とされてしまえば楽になれるだろうという考えが頭をよぎり、即座に打ち消す。血を流したせいで、弱気になっているのだ。
本当は理解している。静かだと感じるのは、無線の沈黙を恐れているからだ。バーンズを投下してから、ウォーカーは一言も喋らず、気配すら殺している。これもまた弱気がもたらした妄想だろうか。私にはわからない。
沈黙を破ったのは、ウォーカーの方だった。
「大尉」
「なんだ」
「デイヴィス軍曹が死にました。まだ温かい……けど、もう死んでいます」
「ウォーカー……」
「軍曹を、投棄します。よろしいですか、大尉」
違和感が噴き出す。その声は間違いなくウォーカーのものだが、つい先ほどまでの彼とは別人のような響きを伴っていた。だが、それは望ましい変化だと囁く私もいた。そうだろう。違うのか。戦友の死体を機外に放り出せと命じておいて、その命令に傷つき取り乱す様子を見せて欲しいのか。
自覚する。
冷酷な機長と葛藤する部下。その役割に安住していたことに。
抗命を撥ねつけ、動揺をなだめることで、私は救われていた。
なんという矛盾。
「……ああ」
死体を引きずる気配。ふっと浮き上がる機体。
これでもう、生きているのは二人きりだ。
そう意識した瞬間、海岸線の青が見えた。見間違いではない。海峡だ。あれを超えれば基地に帰還できる。ほんの少しだが、光明が見えてきた。
再び計器に目を走らせ、エンジンとプロペラの音に耳を傾ける。考えつく限り、捨てられるものはすべて捨ててしまった。燃料もあらかた消費し、機体はほぼ空っぽだ。左翼エンジンの不調を補うため舵を当て続けているので手足は重い疲労と痺れに包まれていたが、そもそもこれだけのダメージを受けて操縦系統が機能し続けているのが奇跡なのだ。文句は言えない。
「海が見えたぞ。もう一踏ん張りだ、ウォーカー」
思わず声が弾む。だが期待していたような反応はなかった。
「大尉。グレイ大尉。俺は気付いたんですが……」
「なんだ、言ってみろ」
「隣にいる、コリンズ大尉の声を聞かせてください」
「……ウォーカー。コリンズは……」
「大尉……そこにいるんですよね?」
「コリンズは声を出せる状態にないんだ。黙っていてすまない」
わずかな沈黙。
「それは、死んでるってことですか?」
「……そうだ」
再びの沈黙。
「大尉……俺、できますよ」
「ウォーカー……」
「コリンズ大尉と……ああ、パラシュートも捨てなきゃいけませんよね」
無理だ。操縦席に開口部はないし、キャノピーが開く構造にもなっていない。匍匐前進がやっとの通路を往復し、復路は死体を引っ張っていく。コリンズは体格もいい。軍隊暮らしで筋肉はついたとはいえ、どちらかと言えば細身のウォーカーが引きずっていける重量ではない。
「待て、ウォーカー。いま、最後の燃料計算をしてるんだ。足りなければ、海上に出る前に機体を捨ててパラシュート降下も検討しなけりゃならん」
「だったら、なおさら早くしなけりゃならんでしょう!」
なにか、熱に浮かされたような、狂気を孕んだ声が耳朶を打つ。思わず身体がすくみ、操縦桿を握る腕がぶれた。機体が揺れ、慌てて立て直す。だが、その動揺を意に介する様子もなくウォーカーが続ける。
「自分たちが帰り着けなければ皆の犠牲が無駄になる。責務を果たせ。そうですよね、大尉。命じてください。いえ、命令がなくてもやりますよ」
「待つんだウォーカー。通路の狭さは知ってるだろう。コリンズを運ぶのは不可能だ。それに、もし運ぶ途中で何かあったら身動きが取れなくなる。お前はもう十分やってくれた。パラシュートを付けて待機してろ」
「……本当にそれだけですか」
「……当たり前だろう。他になにがある?」
「いいえ……了解です、大尉。パラシュートを装備して待機します」
間違ったことは言っていない。そのはずだ。しかしウォーカーの声に滲む不満は、彼が納得していないことを示している。あからさまな抗命ではないにせよ、この期に及んでそうした感情をぶつけられたことに私は苛立った。
コリンズを特別扱いしているとでも思ったのか。
捨てられるものならとっくに捨てている。
だが、なにを言っても言い訳がましく聞こえるだろう。
計算結果は出た。しかし根拠となる数字の中でもっとも重要な、燃料計がゼロを指したときの残燃料が自動車のそれを参考にした推測に基づく数値だった。楽観的に見積もったその数字で計算しても、海峡を越えられるかは五分五分。要するに、コイン投げと変わらない。海上に出る前に脱出するか、海峡越えに賭けるか。だが、今さら脱出するなど願い下げだ。
*
洋上に出る。天気がよければ対岸が見えてもおかしくない距離だが、運悪く行く手に雲が流れてきた。嫌らしく垂れこめる分厚い雲だ。きっとここまで天候に悩まされることのなかったツケだろう。雲の上下どちらかに出てしまえば視界を確保できるが、燃料が心許ないのでどちらも選択できない。
計器は、正常に動いている。少なくとも、今はまだ。
このまま雲に突っこみ、計器飛行するしかない。
世界が少しずつ灰色に染まっていき、やがて視界が失われる。雨粒が機体を叩き、割れたキャノピーから冷たく湿った風が吹きこむ。高度計と水平計で機体姿勢を保ち、変化に対応して細かく舵を当て続ける。
操縦席にしっかり体重がかかっているという感覚だけが、正立で飛んでいるのを保証してくれる。これがなかったら、きっと背面で飛んでいても気付かないだろう。飛行中に視界が失われるというのはそういうことだ。
速度は落ちているが、海峡を越えるまで三十分はかからない。そう考えたところで、私は自らの愚かさを呪い、舌打ちしたい思いに駆られた。直前のウォーカーとのやり取りに気を取られ、時刻を確認していなかった。洋上に出てから、燃料計がゼロを指してから、いったいどれだけ飛んでいる。
いや、もう考えまい。
いまさら引き返すという選択はない。
燃料が尽き、エンジンが止まるその瞬間まで飛ぶのだ。
そう思った瞬間、右翼から異音がした。ぐずつくエンジンと不規則な回転音。プロペラが止まりかけていた。無傷のはずの右翼エンジンがいったいなぜ。左翼エンジンは生き残りの一基が稼働し続けている。いや、それらはどうでもいい。肝心なのは右翼エンジンが止まったら即座に墜落することだ。
混合比の針を濃い側に調整。効果なし。
プロペラピッチを低回転に変更。効果なし。
ダイブしてプロペラに風を当てる方法もあるが、視界不良かつ高度を取れない状態でやりたくはない。そこまで考えて、はっとする。調子が悪い左翼エンジンは正常に回っている。つまりエンジンそのものの問題ではない。
エルロンを切って、バンク角を調整。
流れる機体をラダーで制御。それでも右に逸れる。
だが、思った通りエンジンは復活した。おそらく、燃料の流入が途絶えたのだ。もう燃料はギリギリということ。加えて、もはや針路は維持できない。エンジンを止めず、飛び続けるために、針路はどんどん右へ逸れていく。
どれだけ逸れているのか、視界が失われた状態では判別がつかない。逸れた先が陸地であれば不時着を試みることもできるが、最悪、その場でぐるぐる旋回しながら燃料切れを迎えることもありうる。
コリンズが生きていれば、と詮無いことを考える。
いつだって冷静で、安心して操縦を委ねられる副操縦士だった。
あるいは航法士のバーンズが生きていれば。
もっと効率よく飛んで、基地に帰り着けていたかも知れない。
二人とも、もういない。他の連中もだ。爆撃手のミラー。投下した爆弾は常にドンピシャ、目標に吸いこまれるように落ちていった。無線士のデイヴィス。冗談が好きなやつで、よく管制官に叱られていた。機銃手のトンプソン、ハミルトン、ライアン、ベイカー。みんな気のいいやつらだった。
「ウォーカー……聞こえてるか?」
返事はなかった。ボロボロの機体が奏でる騒音と自分の呼吸音がうるさく、無線越しの相手の気配を読み取るのは困難だった。
「すまんが、悪いニュースしかない。雲に視界を奪われ、燃料は尽きかけてる……少しの距離なら滑空できるだろうが、海上への墜落を覚悟してくれ」
海面に頭から突っこめば地面に激突するのと大差ない。できる限り水平に、滑らかに着水するしかないだろう。その衝撃に耐え、身体を固定するベルトを外し、浸水する通路の中を這い進み、機体下部のハッチを開けて脱出。考えるまでもない。不可能だ。樹脂製のキャノピーを割る道具もここにはない。
「パラシュートはもう必要ない。衝撃に備えて、身体を固定できる場所を探せ。着水して、機体が沈み始めたら、落ち着いて機外に出るんだ。運がよければ、味方の船が拾ってくれるだろう。聞こえているか、できるな?」
ふと、違和感を覚えた。
あるいは、ある種の予感を。
「ウォーカー! 返事をしろ!」
無線の故障を疑い、スイッチを何度か切り替える。片手を伸ばしてコリンズの頭からヘッドセットをむしり取り、もう一度呼びかける。
「ウォーカー!」
ヘッドセットから、かすかに自分の声が聞こえた。無線は生きている。悪い報せだ。それはウォーカーが無線を無視していることを、あるいは、彼はもう機内にいないことを意味している。いったいなぜ。膨らむ想像を、私は無理矢理にも断ち切った。いよいよエンジンは完全に停止しつつある。
「ウォーカー……返事はしなくていい。命令に従え……いや、違う。俺の……俺たちの頼みを聞いてくれ。お前は生きろ。諦めるなウォーカー!」
私は呼びかけ続けた。繰り返し、繰り返し。
返事が返ってくることは決してないと、半ば知りながら。
*
その瞬間は不意に訪れ、
エンジンとプロペラの唸り、
それらがもたらす振動が失われた。
燃料は尽きた。私の気力も限界だった。
やるだけはやった、という虚脱感に包まれる。
呼びかけに応える者はいない。機内はとても静かだった。
ヘッドセットが煩わしい。酸素マスクも不要だ。外して捨てる。
割れたキャノピーが笛に似た高い音を上げている。
私はその音色に耳を傾ける。
もう少しだけ、聴いていたかった。
進むために、高度を支払って速度に変換する。
灰色の雲の中で、浮かんでいるような錯覚を覚える。
風を受けたプロペラが緩やかに逆回転するのを横目に見て。
機体のあちこちに空いた大穴。その抵抗を感じながらグライド。
操縦桿を左に傾け、エルロンで針路を修正。陸地あれと祈るように。
前方下方がぼんやりと明るい。天国があるとしたら、きっとその向こう。
もちろん、そんなものはない。雲を抜けた先にあるのは、水か土だ。
雲を抜ける。予想より何秒か遅れて、視界がさっと開けた。
キャノピーについた水滴が上へと流れていく。
その水滴を視線で追いかける。
「ウォーカー、そこにいるか?」




