第9話 クロエル市長
ヘキサからルクスへ。
自然とクレオを運ぶ腕が変われば、先導役はヘキサになる。見た目では分からない青い鱗肌の容態を気にしつつ、玄関の扉を開け放ち――直後、足を止めたヘキサ。
思わず息まで詰めてしまったのは、何もいなかった開けた灰色の地面の中央に、黒一色の姿を見つけたからだ。
しかし、一瞬のこと。
再び駆け出したヘキサは黒一色へ声を掛けた。
「市長!」
遠目では鴉にも見えるその姿。
近づけば分かる山高帽の下は、文字盤時計の中身のように常にどこかが動く機械仕掛け。目と思しき二つの大きな歯車は右へ左へと不規則に回り続け、その中心やや下方から伸びる鋼鉄は鳥の嘴のよう。身体はケープ尽きのコートで覆われており、そこから伸びる足は三脚の太いマイクスタンドで、腕らしい腕は見当たらない。
彼こそ、多面重層都市クロエルの市長にして創設者、そして、双賢の司書クロウその人であった。
『やあ、私の可愛い市民。手続きに手間取ってしまってね。到着が遅れてすまない』
嘴は動かないまま、クロウから男とも女ともつかない声が流れたなら、ヘキサを追ってきたルクスが不思議そうな顔をした。
「先ほどの所長ではないのですか?」
役所で会った所長の見た目は、目の前のクロウとほとんど同じだった。違うところと言えば、役所のシンボルマークが刺繍された帽子くらい。
それゆえのルクスの問いかけに、ヘキサは簡潔に説明する。
「クロエルの公的機関の長は全て市長の分身なんです」
これに嘴を上下に振って頷きを示したクロウが引き継ぐ。
『分身、とは言っても、それぞれに独立した記録媒体と思考プログラムを持っているがね。だから所長からこの場所の話を聞いた時は驚いたよ。てっきり、ビクトールとのいざこざで更地になったものだと思っていたから』
「その時に探されなかったのですか?」
『探したよ。でも、私の”目”には映らなかった。だから記録通りの結果に終わったと思っていたんだが……』
カチャカチャと小さな音を立て、クロウの顔が屋敷を仰ぎ見る。
しばらく同じ姿勢を保っていた彼は不自然な動きで首を振った。
『まあ、その辺の話は別の機会にでも。まずはここを修復――の前に、その子どもは……ああ、捜索願いの出ていた私の可愛い市民じゃないか』
「はい。できれば先にこの子を診ていただけませんか?」
『もちろんだとも。ルクス翁、彼をそこへ寝かせていただきたい』
公的機関の長には病院も含まれており、当然分身の大本であるクロウにも医療知識は備わっている。その場で造りあげられた簡易ベッドへクレオを横たえたなら、淡いピンク色の半透明の膜がベッドを半円に覆った。
『ふむ。気を失っている他には、コレという症状はなさそうだ』
「本当か? 暴漢に酷い扱いを受けていたようだが」
「急に意識が遠のいたようにも見えたのですが」
ただクレオを見ているだけにしか見えないクロウに、ヘキサとルクスが矢継ぎ早に問えば、こちらを向いた歯車の目が得心行ったとばかりに声を上げた。
『ああ。この子よりも君の方が酷い有様じゃないか』
「いえ、私よりも」
『いいから、じっとしていなさい』
先を封じる声と共に水嚢に似たモノが額にくっつく。程なく弾けたかと思えば、額の傷口に大判の何かが貼り付けられていた。正体は察しが付いているものの、ついつい触れたなら布地の感触。
「傷口の保護より治癒魔法の方が早いのでは?」
不服そうなルクスの声にクロウは軽く嘴を振った。
『これくらいの傷なら洗浄と保護で十分さ。というか、近年では余程急を要する状態でなければ、治癒魔法は使わない方が良いという考えが一般的だ。治癒魔法に慣れすぎると逆に身体が弱くなるという研究結果も出ているそうだからね。……さておき』
一言置いたクロウが、ルクスに向けて黒い嘴を傾がせる。
『私の可愛い市民たちへの処置はこれでいいとして。ルクス翁。そろそろここを修復したいのだが、姿を整えて貰っても良いかな?』
「姿? ああ、この顔か」
自身の身体を見てから頭の形状に思い至った様子のルクス。
たちまちオウルの老紳士姿に戻ったなら、『では』とクロウが三脚の足の一つを上げ、灰色の地面を打ち鳴らす。
途端、空気が一変した。
いや、正確には空気しか一変しなかったというべきか。
「なるほど。本来ここにあるべきなのは、この屋敷の方だったんですね……」
ヘキサが驚きに目を丸くしていれば、建設途中の建物で立ち往生していたはずの警邏たちが、門扉を飛び越えて屋敷に突入していく。てっきり増設された「面」に造られていたと思っていた屋敷だが、その実、あの建設途中の建物こそが造られた「面」そのものであり、この屋敷を隠すための暗幕の役割を果たしていたようだ。
先ほどまでなかった環境音を耳にしたヘキサは、「下層」の淡い陽光の下、長い間秘匿され続けてきた屋敷の、特に代わり映えはしない本当の姿をしばし眺める。




