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親指姫騎士の誓い

 その後、聖女の誕生に歓喜した宮廷魔術師たちによってルチルは王宮に引きずられていき、リリシアも聖騎士として王宮に従事するにあたっての準備で、三日ほど離れることになった。

 生活はそれまでと打って変わって、突然、慌ただしくなり、ようやく会えるようになった頃には二人とも疲弊しきっていた。


 リリシアは任務を終えると、王宮を出て、一目散に回廊を駆け抜けてルチルに会いに行った。

 聖女の住まう宮殿は、王城の最奥にある。いくつもの内庭と回廊を抜けて、小川に架かる橋を越えたところに、ひっそりと存在していた。覆い隠すように鬱蒼とした木々に囲まれ、まるで御伽噺に出てくる老婆の家のように隠されている。

 こじんまりとしつつも、細部の意匠が美しい立派な宮殿だ。もう、タオルをひいた籠はルチルには必要なくなってしまった。

 二人で宮殿の中の小さな庭に佇んだ。


「――そうか。じゃあ、もうリリシアはあの屋敷には戻らないんだね」

 事の顛末を離すと、ルチルはほっとしたように言った。

「うん。聖騎士として、聖女付きになったから。管轄も元の騎士団とはちょっと違うしね。それに……家もちょっとごたごたしてるし」


 ギデオンは、リリシアひいては聖女に刃を向けたとして、反逆罪に問われることになった。またその責を取って、父親たるハイドン・ルジュレは近衛騎士団総監を後退することになった。爵位もいずれ降格するという。今回のことでハイドンは相当に参っているらしく、このまま大人しく隠居してくれれば、とカイは疲れたようにぼやいていた。

 一時期は、近衛騎士団の礎とまで謳われたはずなのに、なんとも情けない結末である。


「よかった」

「え?」

「リリシアがもう奴らに理不尽に傷つけられることはないのなら、少しでもリリシアを救えたのなら、よかった。俺はそのために聖女になったんだもの」

 月に照らされる満足げな横顔を見つめる。

「孤独に空を飛ぶ翼なんかよりも、リリシアを守る手が欲しかったんだ。俺は。いつもいつも、立ち向かおうとしては、叩かれて地面に転がるだけの自分が、嫌だったから」

 ルチルは「結局、翼は残ったけど」と茶目っ気たっぷりに翼を広げた。


「もう、その翼では飛べないの?」

「試してみたけど、ダメだった。翼は、ツバメには命と同等のものだったけれど、神からすると飾りに過ぎないらしい」

「……そう」

 ルチルの言葉に胸が締め付けられた。たとえ、ルチルの気持ちがリリシアを純粋に想うものだったとしても、

 ――じゃあ、私のために、ルチルの美しい翼を手折らせてしまったんだ。

 そう自分を責められずにはいられなかった。


 惜しむように穏やかに呼吸する翼をそっと撫でた。一枚一枚が指先で形をなぞれるほどに大きくて、ツバメの頃とは比べ物にならない。

「ルチル。ちょっとこっちにきて」

 リリシアは、近づいてきたルチルの腰に前から両手を添えた。子どもにするように、ぐっと体を持ち上げる。

 ルチルはきょとんと目を瞬く。夜闇のせいでほの暗い青髪が、カーテンのように頬に落ちてきた。


「……重くなったわね。貴方。ちょっと前まで私の肩でごろごろしていたくせに」

 拗ねたように言えば、ルチルはころころと可愛らしく笑った。

「だって俺はもう人間の形だもの。そういうリリシアこそ、よく持ち上げられるね。もうツバメじゃないのに」

「鍛え方が違うのよ。これからは小柄でも甘く見ないことね。……そうね。人間になっちゃった。……ねぇ、ルチル。私はちょっと後悔してるの。私のために、貴方が聖女になったこと」

「なぜ?」

「だって。人間ってそんなにいいものじゃないわよ。貴方は私のことを好いてくれているけれど、私だって完璧な善人じゃないし、人並みに汚い欲望や感情がある。でも、ルチルは違う。貴方は純粋無垢なツバメだった。ただ、優雅に美しく飛ぶ、人間とは程遠い、何のしがらみも背負わない――正真正銘の自由を持っていた。でも、聖女になって……人間の体を得てしまった。もうルチルは純粋無垢ではいられない。人間の意地汚さを真正面から受け止めなければならなくなっちゃったわ」


 聖女選定儀のことを思い出す。欲望と侮蔑をむき出しにしたギデオンたちに対して、ルチルは怒るでも悲しむでもなく、理解することを拒絶していた。まるで熱いものに触れた手を引っ込めるように。

 ルチルはこれから、何度もそれを体験することになるのだ。

 人間だったら精神が成熟していく成長過程で、「そんなもんだよな」と自然と受け入れるようになる悪意に、新鮮な気持ちで相対し、何度も向き合い、絶望し、心を痛めなければならない。


「貴方はとても大切で素敵な存在だから、これから人の悪意に直に晒され、そのたびに、ただ人の何倍も深く傷ついていくのが、私はすごく嫌なの」


 人間の醜さに鈍感なまま、ずっと遠いところで、ただ自分の肩の上で笑ってくれるだけでも良かったのに。

 しばらく見つめあう。その間、ルチルの瞳は考えを巡らすように揺れていた。自分の心に問いかけるように。

 リリシアは待った。


「……リリシアは本当に俺が守りたいってだけで、そんな清い思いだけで人間になったと思ってるの?」

「違うの?」

 ルチルはわずかに歪んだリリシアのまなじりに触れて、苦笑した。

「守りたいのは本当だけど、それだけじゃない。リリシアは勘違いしてる」

「勘違い?」

「そもそも、俺はそんなに無垢なツバメなんかじゃなかったよ」


 ルチルはリリシアの頬を両手で包んで、輝かしい宝石を撫でるように親指を滑らせる。

「人間が羨ましかった。手を繋いで、唇を動かして微笑みあう人間たちを見るたびに、リリシアと俺では、それができないことが寂しくて、仕方なかった。だから俺は、君とこうして、皮膚をあわせて、体温を直接分かち合える肌を持つ人間の身体が、ずっと欲しかった。同じものになりたかった。これは紛れもない、俺の願いで、欲望だよ」


 リリシアは目を丸くした。カップに注がれた紅茶が波打つように、奥底にくすぶっていた後悔が揺らぐ。

「リリシアに出会って、もうとっくに、ただのツバメではなくなっていたんだよ。俺は。だから、傷つくことが……人の悪意に触れることが、君と同じ人間になることだと言うのならば、喜んで受け入れよう」

 ルチルは幸せそうに微笑む。

「きっと人間と同じように、相応に汚くなっていく俺を、拒絶しないで」

「ルチル……」


 リリシアの胸は痛みは消えない。けれどそれは、もう逃げたくなるような悲痛さを伴うものではなくて、じわじわと水が染み込んでいくような、甘ったるい痛みだった。とくとくと穏やかに脈打つ心音が、耳の奥で反響する。

 こんなにも愛おしい痛みがあるとは。

「これは貴方が選び取った結果。ルチルの、意志なのね」

「そうだよ。俺はこうなりたかった。ごめんね。リリシア」

 リリシアは首を振った。

「そっか。なら、私がすることはただ一つだけね……」


 守ってみせる。ルチルの命だけじゃなくて、心さえも、すべて。

 聖騎士だからではなく、これから共に生きるものとして、リリシアはそうしたかった。ルチルが傷ついたときには時にはじっと寄り添い、時には言葉をかける。いや、その前にルチルの心を傷つけようとする奴はリリシアが斬る。

 誰にもルチルの心を傷つけさせはしない。


「リリシア。俺の聖騎士になってくれる? もう綺麗なツバメじゃなくなっても、幻滅せずに、一緒に生きてくれる?」

「……もちろん」

 ルチルを降ろし、おもむろに膝をつき、剣を立てる。

「私のルチル。出会ったあの時から、ずっと一緒よ。騎士として、私の一生を貴方に捧げるわ」

 ルチルはその言葉に頷くと、自らの翼から羽根を一本抜き取って、リリシアの髪に優しく差し込んだのだった。



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