聖女選定儀1
翌日、リリシアがヴィシャーナ大聖堂に入れた頃には、すでに聖女選定儀は始まっていた。
入れた、といっても正規の手段で警備に加えてもらったわけではない。ルチルと共に大聖堂の周りをうろうろしていたら、偶然にも三番目の兄カイと出くわした。彼の手引きによって、聖堂に転がり込んだリリシアは「最初からここの担当ですよ」とでもいうような澄まし顔で壁際にくっついて立っていることにした。
ちらりと肩に乗っているルチルを見る。
――静かにしててって言ったからかな。全然話しかけてこない。なに考えてるんだろう?
ルチルは翼を畳み、毛玉のように丸くなりながら、儀式が行われている内陣をじっと見つめていた。
リリシアもそちらに視線を向ける。
吹き抜けの天井を持つだだっ広い聖堂には、ひんやりとした清廉な空気が漂い、開閉する扉の音がよく響いていた。
いつもなら天窓のステンドグラスから降り注ぐ光が神々しく聖堂内を照らすのだが、今日は生憎の雨。硝子の向こうはくぐもっている。太陽の光の代わりに、いくつもの蝋燭の灯りが厳かに辺りを照らしていた。
しとしとと壁を叩く雨粒の音が、まるで鐘の余韻のように反響している。
普段は子どもたちの讃美歌や、礼拝者で溢れているけれど、今日は様子が違う。
長椅子には先日、成人したばかりの貴族の男女が整然と並んでいる。聖女選定儀を受ける参加者たちだ。控えめなドレスやタキシードに身を包んだ彼らは、皆、緊張の色を隠せずにいた。
その向こうの内陣では、祭壇の前の床に描かれた魔法陣の中心に、石造りの重厚な両開き扉が召喚されている。遺跡の入り口から切り取ったかのようなアーチ状の壮麗な扉。その周囲を、四人の宮廷魔術師が囲んでいた。
その扉を、参加者たちが一人ずつくぐるというのが、聖女選定儀のしきたりだ。
「……ギデオン……」
吐息まじりに零れた。
祭壇の傍では、タフトールとギデオンが警護にあたっていた。さらにハイドンの姿も見える。どうやらルジュレ家の人間は全員、この大聖堂に集まっているらしい。
――考えてみればそうよね。ヴィシャーナ大聖堂が一番大きい聖堂だし、そのぶん、集められている貴族たちも高位の者ばかり。あの人たちがいるのは当然だわ。
その光景を眺めながら、リリシアは小声で隣に立つカイに囁いた。
「聖女は今年もいなさそう?」
カイはちらりと扉の方を見て、渋い顔をした。
「さあな。俺はお前と違って、勘が働かないほうなんでね。ただ、儀式が始まる前の宮廷魔術師たちはかなりピリピリしてた。もう聖女がいなくなって四年もたつからな。今年こそ、聖女を見つけたいんだろうよ」
「そっか……歪みが生まれ続ける以上、遅かれ早かれ聖女は必ず現れる、とはいえ、現れた頃にはもう手遅れじゃ、笑い話にもならないものね」
その間にも、貴族の名前がひとつずつ読み上げられ、彼らは淡々と魔法陣をくぐっていく。選ばれなかった貴族たちは、どこか憑き物が落ちたような表情で、あるいは絶望の表情で椅子へ戻る。
もし、聖女として選ばれれば、扉を抜けた瞬間、その者には美しい翼と羊の角がたちまち現れ、歪みを祓う光の渦に辺りは包まれるという。
「そういやあ、お前も儀式受けたことあんの?」ふと、カイが尋ねた。
「あるわ。三年前。騎士団入るちょっと前にね。前の聖女様が亡くなられて、一年くらい経った頃だったかな。……もちろんダメだったけれど」
「へえ。全然知らなかったな」
「まぁ、父親は私が聖女になれるなんて思ってなかったし、私の聖女選定儀なんてどうでもよかったみたい。カイが知らないのも無理ないわ」
カイは気まずそうに視線を逸らす。
「カイは受けたことあるの?」
「いや、ないな。俺が成人した時、まだ前の聖女様は存命だったからな」
思えば、あれを境に、家族の冷遇は苛烈さを増した気がする。欠片ほどあったリリシアの存在価値が、ついに文字通り、すべて無くなったのだ。リリシアは“完全な役立たず”の烙印を押され、そういう扱いされてもいい人間に堕とされた。
「さっきは助かったわ。カイが大聖堂の外で拾ってくれなかったら、今頃、私はすっかり不審者になってたもの」
「気にすんな。俺にはこれぐらいのことしかできねぇし。……昨日のことは悪かったな。庇ってやれなくて」
カイは罰が悪そうに眉間に皺を寄せた。
「昨日? ……ああ。報告日の時のことね。いいわよ。別に」
兄弟たちの中で、唯一、カイだけは積極的にリリシアを虐げることはなかった。
カイ曰く、「単純に誰かが一方的に暴力を受けていることに快楽を感じないから」らしい。
とはいっても、ギデオンたちの前に堂々と立って守ってくれたりはしない。ただリリシアへの暴行に、なるべく加わらないように立ち回り、彼らが見ていないところでこっそりリリシアを手助けしてくれる程度。
リリシアは仕方なさそうに笑った。
ギデオンを絶対的頂点とする兄弟の中で、逆らうのは難しい。
クラークのように、腰巾着になってもいいところを、わずかにでも抗うカイを尊敬こそすれ、責めることはできない。
境遇は違えども、カイもリリシアと同じ、ルジュレ家に縛られている一人だ。
「そっちも大変でしょ。ギデオンたちと、腰巾着のクラークに挟まれて。そっちにはそっちの。私には私の苦がある。こういう時にちょっと協力しあえるだけで十分よ」
「立つ瀬がねぇな。そう言われると。いっそ罵倒してくれた方が気が楽だ」
「そんな余裕は持ち合わせてないわよ。敵が多いのに、同士討ちみたいなことなんて、したくないだけ」
カイは疲れたように「それもそうだな」と頷いた。
「でも、今のところ上手くやっているようだけど、私に肩入れしすぎると、ギデオンたちに目を付けられるわよ」
「それなら心配する必要はねえよ。俺の隊はあいつらとは別行動なことが多い。顔を合わせる機会はそうないからな」
「ならいいけど」
その時だった。
聖堂の静寂を、女の甲高い声が切り裂いた。
「ちょっと! 私が聖女になれないってどういうことよ!」
全員の視線が一斉に注がれる。
怒鳴っていたのは、ひとりの貴族令嬢だった。扉をくぐり終えて、宮廷魔術師たちに詰め寄っている。カイが小さく「あ」と声を漏らした。
「ロセリー・ヴィネッタ嬢じゃねえか?」
「誰?」
「ほら、ヴィネッタ伯爵家のご令嬢。……って、お前は知らねえか。ギデオンの恋人だよ。公にはなってないがな」
「恋人? あれがぁ?」
リリシアはまじまじとロセリーを見た。
成人したばかりの顔立ちはまだあどけない。しかし、伏し目がちなつれない表情が趣深い美人だ。それなのに、今は落ち武者のように凄まじい形相で暴れている。
「なんで公表してないのよ? というか、ギデオンに恋人なんていたのね。あの人の浮いた話なんて、いっさい聞いたことないわよ」
「そりゃあ、アイツ、徹底的に隠してるからな。クラークでも知らねぇんじゃねえか? この四年で確か五、六人いたぞ。いや、思わせぶりも数にいれるならもっとか」
「六人!?」
思わず肩を震わせる。ルチルがぴくりと身じろいだ。
「アイツ、聖騎士に確実に選ばれるために、聖女候補の高位貴族に唾つけてんだよ。もしその令嬢が聖女になったら、親しくて力もある自分を聖騎士に選んでもらえるだろ? 歴代の聖女は圧倒的に、女のほうが多いしな」
「……そんな理由で?」
開いた口が塞がらないとはこのことだろうか。
「ギデオンが聖騎士の地位に異様に執着してるのは知ってるだろ。お前も」
正直、そこまでとは思っていなかった。
ギデオンは自分が聖騎士になることを疑っていないのだとばかり思っていた。誰が聖女になろうとも、聖騎士に選ばれるのは自分だと信じ切っているのだと。それほどの自信があるからこその、あの態度なのだと。
しかし、なんて博打を打つのだろう。
ロセリーは騎士に羽交い締めにされていた。それでも怒鳴り続け、魔術師は困り果てている。
当たり前のことだ。聖女はなろうとしてなれるものじゃない。聖女は“選ばれる”もの。いつ誰が聖女になるのかは神のみぞ知る。
「ロセリー嬢ほどじゃなくとも、みんな同じ気持ちだろうな。聖女には宮廷を左右できるほどの権力がある。一族から聖女が出れば、高位貴族はより権力を盤石に、逆に低位貴族は一気に政界でのし上がれる。一縷の望みをかける貴族は多い」
「……そういえば、私の時も、なんだか参加者同士がピリピリしてた覚えがあるわ」
「だろ? 去年なんて、儀式直前にライバル貴族同士が殴り合ったんだぞ。ロセリー嬢なんてまだ可愛い方さ」
騒動を見つめていると、突然、すくりとルチルが立ち上がった。「どうしたの?」と囁くと、息を吐くような鳴き声が返ってくる。
『何か、来る。気を付けて』
「え……? 何かって……」
――ビキ……ビキビキ……。
乾いた土の塊がひび割れていくような、不快な音がどこからか聞こえてきた。
初めはずっと遠くにいたその音は、徐々に近づいてきて、やがて地震のように聖堂全体に重く響き始める。
「……何の音?」
周囲がざわつき始めた瞬間、誰か叫んだ。
「歪みだ!」
リリシアはきょろきょろと視線を動かして、祭壇の左側に止める。
空間に細い亀裂が走っていた。少しずつ、何かにこじ開けられるように、ビキビキと縦に割れていく。鋭い切り傷のように一本の線だったそれは、すぐに人が飲み込めるほどに広がり、ぱっくりと口を開けた。真っ暗闇が瞳のように覗いていた。
「……まさかそんな……聖女選定儀に歪みができるなんて」
見つめるリリシアの背筋を悪寒が這いずりまわった。
誰もが恐怖にその場に釘付けになっていると、闇色の獣がどろりとした質感で割れ目から這い出てきた。地鳴りのような唸り声が木霊する。
「逃げろ! 魔獣だ!」
一気に聖堂はパニックに陥った。
悲鳴をあげて出口に殺到する貴族、呆然と魂が抜けたように立ち尽くす貴族。騎士たちは、人波に押さえて動けない者と、魔獣に立ち向かおうとする者たちとで二分した。宮廷魔術師たちは、即座に扉の周りに結界を形成する。
混乱の渦が瞬く間に広がり、辺りを飲み込んでいく。
「まずい……。貴族に押しつぶされて狩るどころじゃ……リリシア!」
カイの声を背中で聞きながら、リリシアは人込みに飛び込んだ。
「ルチル! 危ないから上にいて!」
『なぜだ。俺もいる!』
「だって! ……駄目! この混乱じゃ、貴方のことを守ってあげられない!」
『でも、リリシア』
「お願い。言うこと聞いて」
ルチルはしがみつくようにリリシアの肩にとまっていたが、苦々しく鳴き声を漏らして、天井に向かって飛び立った。
「ごめんね。気持ちだけ受け取っておくわね」
それを見届けてから、リリシアは縫うように人並みをすり抜けた。
「魔獣を聖堂の外に決して逃がすな!」
ギデオンが騎士たちに指示する声が微かに聞こえてくる。
鳥が卵を産むように、魔獣たちは、ぽこりぽこりと歪みから這いずり出てくる。
リリシアは人込みを抜けて、中央へ転がり出た。すぐに、騎士の追撃から逃れた魔獣と鉢合わせした。
獣、と呼ぶにはあまりにも異形な姿。全身は闇に覆われ、黒い靄がガス漏れのように纏わりついている。まるで影が意志を持ち、形を取ったかのようだ。野犬を模した体に瞳はなく、それらしい場所は粘土で埋めたように落ち窪んでいた。
魔獣は躊躇いなく飛びかかってきた。
刹那、リリシアは一歩も怯まず、剣を抜くと、獣よりも一息早く懐に飛び込んだ。
諸刃が艶めく。
下から腹を貫き、流紋を描くように滑らかに断ち切った。倒れ込む影を横目に、別の魔獣に斬りかかる。断ち切られた魔獣の残骸は、砂のように崩れ、消えていった。
その所作は清流のようにわずかの静止もなく、そして無駄がない。まるで“分別作業”をひたすら高速で処理しているかのような合理的な剣捌きだった。
――ルチルは?
ふと胸騒ぎに襲われて、慌てて視線を真上に動かす。
ルチルは天井のシャンデリアの付近でくるくると旋回していた。魔獣に襲われてはいない。リリシアはほっとして、また魔獣に刃を突き立てる。
『リリシア! 左前の長椅子の近くに人間がいる!』
突然、頭の中に響いた声にハッとして、瞳を必死に動かした。
魔獣の足元に、椅子の陰に隠れるようにして倒れている貴族がいるのが見えた。逃げ遅れ、気を失っている。
「……っ!」
リリシアは咄嗟に滑り込んで、その体を抱え上げた。
その瞬間、魔獣は屈強な前足を振り上げる。
――避けられない!
その時だった。
選定の扉が青白い光を放ち、瞬く間に聖堂全体が閃光に呑まれた。風の刃が吹き荒れたような衝撃が走り、空気が震える。
「眩しい……っ、何が……」
痛みを感じるほどに眩しく、リリシアはぎゅっと目を瞑って俯いていた。
瞼の向こう側が静かになるまでどれくらいかかっただろうか。長くも感じ、短くも感じ、まるで時間間隔が狂ったようだった。
やがて何者かに導かれるようにリリシアは目を開け、ゆっくりと立ち上がった。
「何が……起こったの?」
聖堂は元の静けさを取り戻していた。暴れていたはずの魔獣が一体残らず、塵となって消え去っている。いつの間にか外の雨は止んで、雲間から差す日の光が差し込んでいた。
キツネに摘ままれたように誰もが呆け、扉の方を向いて立ち尽くしている。
その無数の視線を辿った先で、リリシアは息を呑んだ。
扉の前に、ひとりの青年が佇んでいた。
白い肌と整った横顔。朝露を象る透明な線で描かれたように、人間離れした美しさを宿し、触れれば壊れてしまいそうなほどに儚げだった。頭には磨き上げられた羊の角が渦を巻いている。
「青い翼……」
それを映したリリシアの瞳は青に染まる。
青年の背中から、大きな翼が生えていた。深く艶やかな藍色は、まるで夜空を背負っているかのようだ。
その心奪われる鮮やかな色を、リリシアはよく知っている。あの豪雨の夜から何度も肩に乗せてきた色だった。




