侯爵令嬢ロザリンドと平民騎士の話 その2
「他に行きたいところはございませんか?」
ギルバートは、隣を歩くロザリンドに優しく話しかけた。
「ええ、もう十分よ。最後にこうしてお前とデートが出来ていい思い出になったわ。デートと言っても、ただ街を歩いただけだけれど」
「いえ、俺も楽しかったですよ。ロザリンドお嬢様さまの隣は、やはり見える景色が違います」
「まあ、ギルバートったら」
「本当のことです」
告白を受け、星が衝突するまでの短い期間ではあるが晴れて恋人同士になったロザリンドとギルバートは、初デートと称して街中を歩き回った。
ロザリンドが意外に思ったのは、昔からの付き合いだと言うのに、ギルバートが実は無口でも何でもなかったという事実を知らなかったことだ。
これまでずっと護衛として付いていた期間、ギルバートとお喋りする機会は余りなかった気がする。
ギルバートはいつだって静かに黙ってロザリンドの背後に控え、鋭い目つきで終始周りに目を配っていたし、何か話しかけても、基本的には「はい」か「いいえ」のどちらかしか返って来なかったのだ。
だから、こうして隣にいることも、にこやかに笑いながらお喋りすることも、手を取ってエスコートされることも、優しく耳元で囁かれることも。
何もかもが初めてのことばかりで、ロザリンドは軽い目眩を覚えてしまう。
元婚約者と一緒にいた時は、こんな風にドキドキすることはなかったのだ。
ただ二人で街をそぞろ歩きしているだけだと言うのに、隣に立つのがギルバートだというだけで、こんなにも見える景色が変わるものなのか。
そんな事をロザリンドがぐるぐると考えている事も知らず、ギルバートは「ですが、本当にホールに入らなくてよろしかったのですか?」と聞いてきた。
それは、先ほど覗いた音楽ホールの事だった。
--- 寝る間も惜しんでピアノを弾いている人がいる ---
そんな噂をギルバートがうっかりロザリンドの前で口を滑らせて、それに興味を示したロザリンドが行ってみたいと言い出して。
デートと称して二人が街中へと繰り出して、ホールを覗いてみたのが一時間半ほど前の事。
「いいのよ。演奏の邪魔はしたくなかったし、入り口でも十分よく聞こえたし。それにしても、音楽家って最後までピアノを弾いていたいものなのかしらね」
先ほど見た光景を思い出し、ロザリンドは不思議そうに呟いた。
実際にそこに行ってみれば、噂の通り、音楽ホールからは、少し悲しげなピアノの旋律が流れていた。
ホール入り口付近にまで足を運び、そっと中を覗き込めば、若い男性、それも社交界で評判を高めつつあった若き作曲家ランセルが、取り憑かれた様に一心不乱にピアノを弾いている。
だけど、遠目にも少しやつれて見えるし、顔色も悪い。
「ねえ、ギルバート。あの人、ろくに食事も取ってないのではないかしら」
ふと湧いた不安を、ロザリンドが口にすると、ギルバートも首肯した。
「その様に見えますね。恐らくは睡眠もあまり取っておられないかと」
「・・・まるで、何かに追い立てられる様に弾いてるわ。見ているこっちが怖いくらい」
そう言いながら、ロザリンドは両手で自分の体を抱きしめる。
そう。
怖い、なのにどうしてだろう。
この旋律は。
聞こえてくるこの調べは、悲しくて、とても悲しくて、心が揺さぶられる。
まるで、手の届かない何かに、懸命に手を伸ばしているような。
そんな焦燥が伝わるほどに。
その時、ホール内に視線を巡らせていたロザリンドは、座席の片隅、その最奥に一人の女性が座っていることに気づく。
だが、ピアノの演者は彼女に気づいていない様だ。
場内の光は、ピアノが置かれた壇上にのみ当てられている。
最奥の、一番端の席に座る女性は、恐らく作曲家の目に入らないのだろう。
入り口付近で曲を聴いているロザリンドたちに気付かないのと同じだ。
あの人は、ランセルのファンなのかしら。
それとも、わたくしたちの様に、ただ偶然に通りかかって聴いているだけ?
音楽が気に入ったのなら、もっと前で聴けばいいのに。
何故あんな隅に座っているのかしら。
訝しむロザリンドに、「演奏の邪魔をしたくないのでは」とギルバートが耳打ちする。
なるほど。
よほど熱心なファンなのだろう。
ロザリンドたちも少しの間音楽を聴くことにしたのだが、その女性はやはりずっと座ったまま曲に聴き入っており、結局、ロザリンドたちがホールを後にした時も、まだそこに残っていた。
時刻はすっかり夕方になっていた。
夕焼けの赤い空と上空に迫る水色の星が、美しくも奇妙なコントラストを形成する。
「ねえ、少しだけ回り道をしてから戻りましょう」
ロザリンドの願いにより、二人は少し遠回りして川辺の遊歩道を歩く。
最後の日だからか、あるいは最後の日だというのにと言うべきか、あまり人はいなかった。
ロザリンドたちの他には、車椅子の親子くらいだ。
車椅子に乗っているのは、随分と若く見えるが恐らくは母親なのだろう。
足に巻かれた包帯が痛々しい。
車椅子を押す少年は痩せ気味で、でも顔には穏やかな笑顔を浮かべている。
その姿はいかにも幸せそうだ。
きっと仲の良い親子なのだろう。
そんな事を考えて、ロザリンドの口元は綻んだ。
今夜には、世界のありとあらゆる物が消え去ってしまう。
そんな非現実とも言える現象こそが本当は現実なのだけれど。
それでも、こうして大好きな人とデートをしている自分や、親子でのんびりと車椅子で進む姿があることに、ロザリンドは現実を忘れて安堵する。
突然に終わりを迎えてしまうこの世界にあっても。
それでも、ここには美しく優しいものがあったと言える気がしたのだ。
だからだろうか。
別に何の深い意味もなく。
本当に心から。
言うことが出来たのだ。
「幸せだわ」と。
この状況に不似合いな言葉である事は分かっている。
明日など、もう決して来ないのだから。
けれど、ギルバートもまた、ロザリンドに優しい笑みを返した。
「俺もです。ロザリンドお嬢さま」
そう言ってそっと手を握り、ぬくもりを確かめ合う。
「最後にこうして想いを告げることが出来て、俺は本当に幸せでした」
そうして彼は、ロザリンドの掌に口づけを落とした。




