レクトン男爵家の話 その2
夕刻が近くなり、日の光が作る影が横に長く伸び始めた頃。
川沿いの散歩道を、車椅子に乗った女性とそれを押す少年の姿があった。
「サリナ義母さん、足は大丈夫ですか? 振動が怪我に響いてはいませんか?」
気遣わしげに声をかける少年に、サリナと呼ばれた女性は、穏やかに笑いながら振り返った。
「大丈夫よ、クロード。久しぶりに外に出られて、とても気分がいいの」
「なら良かったです」
川の流れるサラサラという水の音は人を宥める効果があるのだろうか。
つい二日前の、あの悪夢のような出来事が嘘のような穏やかさだった。
それでも、父を刺した時のあの感触は未だにクロードの脳裏から消えることはない。
実際、クロードは一昨日、昨日と何度も何度も父に短剣を突き立てる夢にうなされていた。
生々しい感触と、肉を突き通す不穏な音と共に、悪夢が何度もクロードに襲いかかるのだ。
・・・後悔はしていない。
ただ、心が重くて苦しい、それだけだ。
今の僕があの男から義母さんを自由にしてやるには、あの方法しかなかった。
義母さんはもうボロボロだった。限界だった。
母さんの二の舞になることは目に見えていた。
だから仕方ない。
仕方ない。そう、それは絶対に間違いないのに。
実の父親を自らの手で刺し殺す、そんな咎を背負うにはクロードは純粋すぎたし、まだ十分に成長しきってもいなかった。
苦しくて、苦しくて、そしてまた苦しい。
きっと、この感覚が消える事はないのだろう。自分が生きている限りずっと。
知らず、ぎり、と奥歯を噛み締めた時だった。
「まあ・・・」
義母が上げた感嘆の声に、ハッと我にかえる。
進む先、その斜め前の空が茜色に染まり始めたのだ。
だがそれは、それまでずっと見てきた夕焼けとは異なっていた。
地平線に沈む太陽と、茜色に美しく染まる空と、そして上空に佇む威圧的な星の影。
綺麗で、だけど禍々しい。
「・・・」
「綺麗ね。クロード、貴方もそう思うでしょう?」
「・・・」
サリナの声は、クロードの耳にも届いていた。
だがそれでも、目の前の空で刻一刻と変わっていく空の色の美しさが、不可思議な現象への畏怖が、クロードの心を奪う。
・・・ああ。
「世界は・・・こんなにも美しいのですね・・・」
我知らず、呟きが漏れた。
ぽつり
車椅子を押すクロードの手の甲に、温かい何かが落ちた。
ぽつり ぽつり
その雫は、一滴では足りず、クロードの両手の甲をどんどん濡らしていく。
父を、殺した。
その記憶も、この手に残る感触も、未だ脳裏から離れない。
とても苦しくて、ずっと苦しくて。だけど。
やっぱり後悔はしていない。
絶対にしていないのに。
今夜には全てが砕けてしまう、そんな期限付きの世界でも、まだこんな厳かな美しさを湛えているのだと今更ながらに気づいて。
この美しい景色に、父親の血で汚れた自分が入り込んでしまっていいのかと。
自分という存在は、この世界を汚しているのではないかと。
そう思うと悲しくて堪らなくて。
夜を待たず、今すぐにでも死にたくなる。
「・・・」
声を立ててはいけない、義母に気づかれてしまう、そう思い、袖でそっと涙を拭った時だった。
「ねえ、クロード」
サリナが前を向いたまま、クロードの名を呼んだ。
「何でしょうか、サリナ義母さん」
「私ね、随分と世間知らずな娘だったのよ」
サリナは後ろを振り向かない。
目の前に広がる夕焼けを、ただじっと見つめている。
「だから、ロナウドに口説かれたとき、すぐに彼の甘い言葉を信じてしまったわ。あのひとの表の顔を、そのままそっくり信じ込んでしまったの。夢見てたのよ、幸せな結婚生活を」
「・・・」
「会って三回目で求婚されて、四回目はあなたに会いに行っていたわ」
ふ、と息が漏れる音がした。
微かに笑ったのだろう。
「あなたは私に、父と結婚するのは止めた方がいいと忠告してくれたわね」
夕焼けの茜色の光が、サリナの顔や髪を鮮やかな橙色に染める。
「なのに、私はそれを聞かなかった。信じてなかったから、あのひとが暴力を振るう酷い人だなんて、アル中だなんて、そんなの嘘だって」
サリナは振り向かない。
「きっとこの子は私を嫌っている、だから父親と結婚させまいと意地悪してるんだって、そう思ったの」
「・・・」
「あなたは、私を守ろうとしてくれたのにね」
「・・・サリナ、義母さん・・・っ」
クロードの声が震える。
それまで必死に堪えていた涙が、とめどなく溢れてきた。
「結婚して三日目には分かったわ。あなたの言ってた事の方が本当だったって・・・もう遅かったけど」
「義母・・・さん・・・」
「クロード・・・ごめんね。そして・・・ありがとう。忠告を無視したのは馬鹿な私なのに、そんな私をそれでも助けようとしてくれて」
クロードの眼に、サリナと母の姿が重なる。
小さすぎて、無力すぎて、守れなかった母が。
「私のために、あんな・・・辛いことを、あなたにさせてしまって」
クロードは頭を振った。
「結婚生活は地獄だったけど、あなたを義息子に持てた事だけは幸せだった。不甲斐ない義母親で・・・ごめんなさい」
クロードは、再び頭を振る。
そして、いえ、と小さく呟いた。
いえ、大丈夫です。
大丈夫です。
あれは、自分を救うための行為でもありましたから。
もうこれ以上、自分に失望したくなかったのです。
だから、自分のためでもあったのです。
せめて死ぬ前は・・・死ぬ前は、己を恥じる自分ではいたくなかった。それだけだったんです。
そんな、絞り出すような言葉を、サリナは黙って聞いていた。
何度も頷きながら。
何度もごめんねと呟きながら。




