ある老夫婦の話
「いよいよ最後の日になってしまいましたねえ」
「そうだな」
普段通りの朝食を口にしながら、チャールズとフォウセットはいつもと変わらぬ調子で会話を交わす。
「もうカーティスたちには昨日会いましたし・・・今日は何をしましょうか」
妻フォウセットののんびりした問いかけに、チャールズは真面目な表情を崩すことなく口を開く。
「いつも通り、畑に行く」
「そうですか。では水筒にお茶を詰めて来ます」
「いや」
仕度しようと立ち上がりかけたフォウセットを、チャールズは制する。
「茶はいらん。畑は午前で仕舞いだ」
フォウセットは、珍しいと首を傾げた。
「あら、そうですか。では午後からはどうなさるので?」
「お前と出かける」
「・・・はい?」
フォウセットは目を瞬かせ、聞き間違いかもしれないと首を傾げる。
「お前と出かけると言った」
「お出かけ、ですか?」
「そうだ」
「私と」
「そうだ」
いよいよフォウセットの目は大きく見開かれた。
堅物のチャールズが、自分から妻を誘うなんて、滅多にない事だったから。
「今日が最後の日なんだ。二人で出かけてもバチは当たるまい」
バチが当たると言うかなんと言うか、今夜には星がこの地に当たるのだけれど。
そんな考えが頭に浮かんだものの、もちろんフォウセットは口にはしない。
その代わり。
「良いですねえ。最後に夫婦でお出かけなんて」
と、しわくちゃの顔に更にしわを寄せて、にっこりと笑った。
それは、昔チャールズが一目惚れした向日葵のような笑顔だ。
まずは畑に行き、雑草を丁寧に抜く。それから水をやる。
「お前たちも、今夜にはなくなってしまうのねえ」
そんな言葉をのんびりと口にしながら、たっぷりと水をあげた。
今日はとても良い天気だ。
最後の日とはいえ、これまでずっと丹精込めて育てた作物たちが萎びるのは見たくない。
今日の料理に使う分の野菜を収穫すると、家に戻り着替えをし、二人で町へと出かけた。仲良く手をつないで。
チャールズは無口で無愛想で、しかも強面だ。
だけれど、その見た目に反して非常な愛妻家であった。
外出時は、恥ずかしがることもなく妻と手をつないで歩くし、荷物は全部チャールズが持つ。
黙ってドアも開けるし、妻のために椅子も引く。
結婚してはや40年、一男ニ女に恵まれ、それぞれが立派に巣立った今も、その愛妻家ぶりは変わらないままだ。
そして、フォウセットもまた、照れることなく夫からの愛情を正面から受け止め、そして返していた。
「そういえば、広場に素敵な絵を描いている方がいらっしゃるそうですよ」
フォウセットが夫を見上げる。
「壁や道路に、それはそれは綺麗な絵を描いてるんですって。見に行きませんか?」
「・・・ああ」
そうして、町の中央に向かった二人だったが、広場の手前で何やら騒ぎが起きていることに気づく。
男性の怒鳴り声が聞こえたのだ。
だが、騒ぎもすぐに収まった様で、怒鳴り声はやがて聞こえなくなった。
訝しみながらも二人が広場に足を踏み入れると、若い男が酔っ払いの男性を後ろ手に取り押さえているのが見えた。
その傍らには、たぶん噂の絵描きであろう青年が驚いた表情で立っていた。少し後ろには少女の姿もある。
あちこちに割れた酒の瓶が散乱しているから、恐らくはその酔っ払いが何か仕出かしたのだろう。
チャールズはフォウセットの肩を抱いて側に引き寄せると、その騒ぎの中心である人たちへと歩を進めた。
フォウセットが見たがっていた絵は、その辺りにあるのだから仕方がない。
「大丈夫か? 何か騒ぎがあった様だが」
農夫として50年以上働いてきたチャールズは、かなり屈強な体格をした大柄な男だ。
そんな男が無愛想に話しかけてきたことに、酔っ払いを押さえつけていた若い男は警戒の色を浮かべる。だが無視はしなかった。
「この酔っ払いが、突然大声で絡んで来たんだよ、この絵描きさんと隣にいたお嬢さんにさ」
若い男は、両手を拘束するのに使っているためか、側に立つ男女二人を顎で示す。
「終いには、酒瓶とか振り回して暴れ出したからさ、こうして取り押さえたってわけ」
そうして、若い男はくるりと後ろを振り向くと、アンタたちは大丈夫か、と声をかけていた。
絵筆を持っていたジャスティンは、慌てて頭を下げて礼を述べた。続いて隣にいたレイラもだ。
助けに入ってくれた若い男性の名前は、ダンテスと言った。
どういう訳か胸元に隠し持っていたロープを取り出して酔っ払いを縛り上げたダンテスは、「酒が抜けたらこの縄を解いてやるよ」と言って男をその辺りに転がした。
何故か手慣れた様子だが、あまり根掘り葉掘り聞く訳にもいかず、ジャスティンとレイラ、そしてリチャードとフォウセットは、その一部始終を黙って見ていた。
噂の通り、広場の壁一面に美しい絵が描かれている。見れば足元の石道にも。
フォウセットは大喜びで、その一つ一つを丁寧に見ていく。
レイラは、自慢の兄の絵が褒められたのがよほど嬉しいのか、フォウセットにくっ付いてあれもこれもと案内している。
きゃあきゃあと楽しそうな女性二人の様子を見守っていると、後ろでジャスティンに話しかけるダンテスの声がした。
「実はさ、俺もあんたの絵を見に来たんだよ。今、結構な噂になってるんだぜ。見ると心が癒される絵ってさ」
「そんな・・・お恥ずかしい」
「いや。実際に見て思ったけど、あんたの絵、すごいよ。心が洗われるっていうか何ていうか・・・死ぬ前に見に来てよかった」
ぽつりと最後に言った言葉が、ジャスティンもリチャードも気になった。
死ぬ前。
確かに今夜、この世界にいる全ての人が死ぬ。
だがなんとなく、ダンテスの言っているのが、今夜の星の衝突の事ではない様な気がしたのだ。
リチャードは、それとなくダンテスを観察する。
短く刈った髪。
黒の上下の服。
護衛も出来そうな程のしっかりとした体格。
そう言えば、自然な動作で胸元からロープを出していた。
まあ、なんの仕事をしてようと、世界の終わり騒ぎでなくなっただろう。
そこでリチャードはある事に気づく。
「・・・今日が最後の日だが、あんたたちはここにいても良いのか?」
余計なお世話だと思いつつも、リチャードはそれを敢えて口にした。
ジャスティンとレイラは互いに顔を見合わせてから、家を出て来たのだと打ち明けた。
絵を描くのをずっと反対されて来て、最後に好きなことをしたいと思って出て来たと。
そしてダンテスは。
「・・・とっくの昔に家族は皆、死んじまったから」
会いたい人もいないのだと、ぽそりと呟いた。
なんの感情も見せずに、ただ無表情にそれを口にしたのだけれど。
なんとなく、そうなんとなく。
とても寂しそうに見えたから。
もしかしたら、この男は死に場所を探しているのではないかと、何故かそう思ったから。
だからついリチャードは、お節介と自覚しつつも、更にこう続けてしまった。
「だったら、今夜はうちで飯を食わないか? あんたも・・・そうだ、そちらの画家さんたちも」
驚くダンテスとジャスティンに、リチャードは言葉を継ぐ。
「子どもたちとの別れは昨日までに済ませた。今夜は俺たち夫婦二人しかいない。畑で取れた新鮮な野菜で美味い料理をご馳走しよう。妻の自慢の果実酒もあるぞ」
「あの、でも」
遠慮する2人に、リチャードは続ける。
「こんな事でもなければ出会うこともなかった俺たちだ。世界最後の夜を過ごすに相応しいと思うんだが」
どうだ?と続けたリチャードに、ダンテスも、そしてジャスティンも、何故か泣きそうな顔で頷いた。




