エンリケ公爵家の話 その2
「・・・この三日間、わたくしは一度も旦那さまの不在を心配してあげなかったわ。探しに行くことすらしなかった」
自嘲する様な、微かに震えるソルネアの声が室内に響いた。
「ねえ、エーリクさま。わたくしは酷い女ね。こうしている間だって外に探しに出ようとはしないのよ? あと何時間かしたら、この世界は全て砕け散ってしまうのに」
「それを言うなら俺も同じだ。こうしてわざわざ兄の屋敷に押しかけて、君に会わせてくれと頼んだのだから」
弱々しく呟くソルネアの肩を、エーリクは包むように抱きかかえた。
時刻は午後の六時半。既に日は落ちている。
ソルネアの夫エンリケ公爵家当主マルケルムは、世界の滅びが宣言された日、つまり今から3日前に姿を消した。
妻であるソルネアに一言もなく。
代わりにソルネアの前に現れたのは、マルケルムの弟であるエーリクだった。
エーリクはソルネアのかつての恋人で、二人は将来を誓い合う仲だった。
公爵家のエーリクと侯爵家のソルネアは家格も釣り合っており、このままいけば二人は何の障害もなく結ばれると、そう思っていた時。
突然、ソルネアの婚約が決まった。
相手は愛するエーリクではなく、その兄マルケルム。
ソルネアの父は当然、娘の想いを知っていた。そして尊重しようとしてくれていた。
だが、ソルネアの祖父が許さなかった。
態度を急変させた祖父が、強硬にマルケルムとの婚約を進めたのだ。
爵位は父が継いだとはいえ、未だなお強大な影響力を持っていた祖父の決定に、逆らうという選択肢はなかった。
何より、それはエンリケ公爵家からの強い要望でもあった。
家格が上であるエンリケ公爵家から願われれば、断れる筈もない。
エーリクの父親は二人の仲を知っていた筈なのに何故、と疑問には思った。
だがそれを面と向かって嫁ぎ先の当主に尋ねる勇気など、ソルネアにはなかった。
エーリクは最期までソルネアとマルケルムの結婚に反対を唱え、父親によって領地の屋敷に軟禁されてしまう。
婚約期間を経て結婚に至るまでの2年間、ソルネアとエーリクとは、一度も会うことは叶わなかった。
ソルネアはエーリクを想い、修道院に行く事も考えた。果ては自害する事も。
だが政略結婚の意義を軽んじれば、自分の生まれた家に甚大な影響が及ぶ。
それをよく理解していたソルネアは、貴族の娘としての責務を果たすべくマルケルムのもとに嫁いだ。
愛のない政略結婚。
冷え切った関係になるのだろうと思っていた。
夫となったマルケルムは、妻ソルネアの過去の恋人が誰だったかを知っている。
妻のかつての想い人は、他ならぬ彼自身の弟なのだ。
だが、予想に反してマルケルムは優しかった。
ソルネアに無理を強いることも、不愉快な思いをさせることもなかった。
燃えるような愛はそこにない。だが静かで穏やかな愛情は確かにあった。
ソルネアはエーリクに心を捧げていたものの、夫であるマルケルムに敬意を払い、妻として夫に従った。
きっといつかは自分の中にあるこの恋心も風化するだろうと、いや風化させねばならないと思っていたし、そうなるよう努力していた。
だが、そんな思いも、一年と半年で終わりを告げる。
ある日、ソルネアは知ってしまったのだ。
この政略結婚を仕組んだのが誰だったのかを。
このまま順当に行けば、何の問題もなく婚約し結婚出来た筈の二人を、誰が引き裂いたのかを。
弟の恋人であると知りながら。
ぜひ自分の妻にと父親に、そしてソルネアの祖父にマルケルムが働きかけ、画策した事を。
平和で穏やかな結婚生活を送っていたからこそ,裏切られた気分だった。
互いの間に燃えるような愛はなくとも、敬意と信頼という絆はある、とそう信じていたからこその失意だった。
その日以来、ソルネアは心から笑うことはなくなった。
口に出して夫を罵ることはない。反抗も怒りも、何も示さなかった。
ただ諦めたのだ。
政略結婚でも、敬意と家族の愛情と信頼をもって夫婦関係を育んでいくならば、きっといつかは、などという幻想を。
マルケルムはそんな妻の変化に気づいていた筈だ。
だが何もしなかった。
言い訳も、謝罪も、何ひとつ。
ただ何事もなかったかの様に、それまでと全く変わりなく妻に接し続けた。
静かで、穏やかで、礼儀正しく。
それでも、このまま共に年を取っていくのだろうと思っていた。
マルケルム・エンリケの妻として生涯を終えるのだろうと。
本当に愛する人と添い遂げることは出来なかったけど、それは仕方がないことだ。
貴族の娘の人生なんて、大抵はこんなものなのだから。
今となっては、恋が叶うと無邪気に信じていたあの頃の自分を滑稽にすら思った。
そんなある日、国王陛下からの発表があった。
結婚して既に三年近く経過していた。
二人の間に子どもは生まれていない。
三日後にこの世界は滅ぶ、そう聞いた時、なぜ、どうしてと思った。
世界が滅ぶことについてではない。
自分の心を犠牲にしてまで守ろうとした侯爵家も、貴族の娘としての矜持も、何もかもが無意味だったと悟ったからだ。
・・・ああ。
どうせ滅びるのなら、どうせ何もかもが塵芥と化すのなら。
心を殺してまで旦那さまのもとへ嫁ぐ必要などなかった。
何もかもを捨てて、エーリクのもとへと駆ければよかった。
誰の迷惑になろうとも、この気持ちを貫けばよかったのだ。
涙が溢れて止まらなくなって、そのまま二階へとかけ上がる。
もう夫の顔を見ていたくなかった。
そのまま部屋に閉じこもって、数時間は経っただろうか。
階段を上ってくる足音が聞こえた。その足音は段々とこちらに近づいて来る。
夫に会いたくない。
もういい加減に、そう口にしてしまいたい。
どうせ三日後には全てが終わる。
取り繕う必要もないだろう。
最後にエーリクに会いたかった。けれどソルネアは馬に乗れない。
しかもエーリクが閉じ込められている屋敷まではかなり遠いのだ。
ああ、でもせめて最後に。一目だけでも。
そう願った瞬間、扉が開き、エーリクが現れた。
ソルネアは立ち上がり、エーリクの腕の中に勢いよく飛び込む。
二人の頭の中に、マルケルムのことを考える余裕など残ってはいなかった。
それから三日間、二人は失った時間を取り戻そうとするかの様にひたすらに愛を確かめ合う。
そうして、三日目の夜にようやく気づいたのだ。マルケルムが姿を消していたことに。
マルケルムは最後まで行方が分からないままだった。
星が落ちてくる最後の瞬間まで。
それは、だって。
何故なら、マルケルムはもうーーー




