第七話 岩瀬兄妹の母・大森
岩瀬家の宅は、京橋南新両替町にあった。現在の銀座一丁目である。
九年前。父伝左衛門が深川にあった質屋・伊勢屋甚兵衛を長女夫婦に譲り、六一歳で両国橋北吉川町の町屋敷を管理する家主に収まった。
家主は、町行政の三役「町年寄」「町名主」「家主/大家」で一番下。店子からは「差配さん」と呼ばれたりもする。
主な仕事は町の道路保守管理や防犯・防火、紛争の仲裁など様々な役割を担った。
また名主と家主は五人組をくみ、月行事という当番で自身番(大抵、番太郎の向かいに設置された小屋)につめて、町の自治管理も受け持った。
父は前質屋ということもあってか、吉川町周辺の町名主からも頼りにされているようで六十を過ぎたのに忙しくしている。
伝蔵は家の勝手口をそっと開くと、裾を尻っ端折り草履の鼻緒を指の股に挟んで、こそこそと庭を横切る。
土間では朝餉の支度だろう包丁がまな板を叩く音がする。
鬼の居ぬ間とホッと胸を撫で下ろし、自室前の縁廊に腰かけて足袋の底を払い始めた時だった。
背後、自室の障子が勢いよく左右に開いた。
薙刀が耳そばを掠め、母・大森の白足袋がドンと縁廊に踏み出された。三十で長男を産んでから、八年後と十年後に男児と女児を産んだとは思えぬ円熟した美貌が今は──。
「鬼紅葉が出たぁ。いや待ったっ、それなら台所にいたの誰っ!?」
伝蔵は草履を履いた両手で四つん這いに逃げ出して振り返った。その間にも跳躍の影。母の薙刀が情け容赦なく伝蔵の頭頂へ振り下ろされていた。跳び躱したところへ横薙ぎ。
「なんのっ」
草履で白刃取り。すぐ左へひねって流れた薙刀の柄を足袋で蹴り、勝手口まで逃げる。
母大森は伝蔵が生まれる前は、尾張藩上屋敷で奥女中をしていた。
その名残なのか、父伝左衛門も「大森殿」と役職名で呼んでいる。
二十年以上過ぎても両親がいがみ合いをする声を伝蔵は一度も聞いたことがなく、おくびが出るほど仲睦まじいので、子の教育は母たるおのれの役目と自負し、伝蔵も江戸で一廉の達人をあてがわれた。
「門限破りは、木刀の素振り千本っ!」
母は絵筆に慣れた長男の手に今さら武士の手習いをさせたがる。
「なんで、私だけなんですかっ」
「あなたが一番、軟弱! 我が家の糸切り凧だからです!」
心外な。糸を断ち切って母や父、弟妹を置いてどこへ飛んでいけるというのか。
凧は糸で繋がっているから糸をピンッと張って空高く力強く飛んでいけるのだ。
手放されれば、凧は糸が切れる前に右へ左へ風に流れる浮き蜘蛛となり、地へ落ちてしまう。
「本日は先日申しました通り、森島万蔵殿の〝宝合会〟で柳橋の河内屋へまいります」
「母であるわたくしに、ご心配をおかけして申し訳ありませんの一言もなくですかっ」
薙刀が横一文字に払われる。伝蔵は庭先に平伏して躱す。
「帰宅が遅れてしまい、申し訳ございませんでし、たっ!」
ほぼ土下座で謝っている間にも薙刀が翻り、後頭部へふってくる。
伝蔵は地面を転がり躱した。自分がいた場所に反り返った大刃が穿つ。
「詫びるにしても手と足が逆です!」
「これはしたり。母上も夜なべで倅の顔が尻に見えておりませんか?」
伝蔵の軽口に、台所からぶふっと吹き出す声が漏れた。
「百樹ーっ!」
伝蔵と母で雷を落とせば、物見高い二男が台所の格子窓からバタバタと逃げ出した。
隙あり、伝蔵は母の脇を走りぬけた。
が、踏み石で躓き、もんどり打って一回転。腰から自室に飛びこんで左右の障子を閉める。
「つつつぅ。は、母上、こたびも私の勝ちですね」
伝蔵は勝ち誇るが、閉じた障子に頭が挟まり額だけ逃げ損なった。
その額に薙刀の石突がそっと押しつけられる。
「あなたというのうらく息子は……桂川様のご迷惑にならぬよう、早めに引き揚げてくるのですよ」
母が障子の隙間から見おろしてくる。その鼻は弟と妹と同じ、まっすぐな矢印鼻だ。
「戯作に目を逃がしたとて、桂川は公方様奥医師の家格です」
家格。岩瀬家にも重箱をひっくり返せばどこかにありそうな、伝蔵にはついぞ身に覚えのない感覚だ。
「私は森島万蔵を桂川の一族として接したことはありません、だから交誼を続けてこられたのです。それに、よねの体調を気にかけてくださいましたよ」
「それは、かたじけなく。あの方は町屋相手よりも奥医師として武家の就職を余儀なくされる身上、伝蔵も節度をもって接するように」
母が薙刀を手にしたまま朝餉の支度に土間のほうへ向かうと、伝蔵はようやく大きな安息を吐いた。
母とて武家の内情は見てきたはず。武家社会の窮屈を知らぬはずがないのに。
医号・桂川甫粲を名乗らず、元姓の森島万蔵を名乗っているのは、奥医師である父や兄への遠慮ではなく、自由を謳歌したい彼の矜持なのだ。
くすくす……。
襖の向こうから密やかな笑声がこぼれてきた。
伝蔵も微笑んでから体を起こし、四つん這いで自室の窓ぎわに置かれた天神机に座る。大あくび一つ、それから両腕を伸ばして机に突っ伏した。
父が買ってくれた天神机はうたた寝するにも居心地が良い。このまま眠ってしまいたいが、今夕に催される宝合会の種を用意しなくてはならない。宝合会は、狂歌師たちが宝……。
「兄様、伝兄様、今よいですか」
「んぅっ? ああ、よいとも」とっさに寝落ちしかけた。
となりの納屋から襖が開くなり、わあっと突っ伏した背の上に覆い被さられた。
困惑しつつも鼻先に巻きつく襦袢の袖のにおいが甘い。
無邪気にじゃれかかる頬は冷たく、ほつれ髪から若葉の薫りがした。
幸福とはかくなる物か。伝蔵は知らず一夜の疲れを忘れられた。
伝蔵は華奢な背中を支えながら上体を起こして振り返り、懐に取り寄せた。
母大森によく似た卵みたいな容貌、大きな目は潤いかがやき、化粧っ気をまとうには早いが、早乙女の輝きに目が覚めるほどだ。
よね。十二歳である。
この妹を置いて、どうして糸切り凧になれよう。
あと二年、無邪気に腕の中に飛びこんで来てくれる妹でいて欲しいと願うばかりだ。
「よね、昨夜は何を読んだ?」
「徒然草。吉田兼好はヘンクツなおじさんなんですよ。どんなに大きな象でも、女の髪で編んだ綱に繋がれると何もできなくなるんですって」
「ん、ああ。第九段か。女は髪のめでたからんこそ、人の目たつべかめれ。か」
伝蔵は諳んじてから、よねに下心を見透かされたような気がして背筋がスゥッとした。
よねが不満を持ったのは末節だろうか。
『女の髪すぢをよれる綱には、大象もよくつながれ、女のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿かならず寄るとぞいひ伝へはべる。みづから戒めて、恐るべくつつしむべきは、この惑ひなり』
〝(女の色気という力は強烈であるから)女の髪を縒った綱には、大象もよく繋ぐことができ、女が履いた下駄で作った笛には、秋の鹿が必ず近寄ると言い伝えております。ゆえに、男は自分から戒め、恐れて慎まなければならないのは、この色欲である〟
という内容だったか。世の婦女にしてみれば大きなお世話だろう。
末節の象のくだりは、兼好が『五苦章句経』という仏典を引用している。
どんな権力や武力を持とうとも男が女への色欲を断ち切るのは容易ではないと諭す。
扇屋主人の墨河に聞かせてやったら、「言い得て妙」と腹を抱えて大笑することだろう。
「象……女の髪。綱。ん、これ、いけるか?」
廊下から足音が近づいてきて、障子を開けたのは百樹だった。
「兄上。羽織と三味線──よね、お前まぁた朝から兄上にじゃれついてんのかよ」
「よいでしょう。あたし、伝兄様のこと大好きですもの」
妹の笑顔のまぶしさに一瞬、伝蔵は至福のまま気が遠くなりかけた。
まさに恐るべく慎むべきは、この惑ひなり、か。