第五話 親友・森島万蔵
「伝蔵、途中まで一緒に帰ろう」
朝帰り。
吉原名所〝見返り柳〟の袂で後ろから声をかけられた。
ふり返ると黒絹の十徳を羽織った総髪青年が追いかけてくる。
伝蔵も立ち止まって待った。
近づくごとに彼の顔の真ん中にある大きな獅子鼻に目がいってしまう。
森島万蔵。伝蔵より五歳年上の、二七歳。戯名は森羅万象。竹杖為軽。万象亭など。
平賀源内から蘭方医術を学ぶために入門して十五年間、源内から直接戯作を学んだ。平賀流戯作の忘れ形見と称されて、洒落本を中心に刊行しているが、いまだ評判は限定的だ。
四方赤良とは、師の源内を通じて画師・北尾重政ともども交誼を結び、その交友関係は諸藩にまで渡るとか。
「万蔵さん、吉原に泊まってよかったのですか」
「ふっ、なに言ってる。伝蔵があの土山様に物申した話を、他の遊女にも聞かせてやらなくてどうする。一晩で揚屋を三軒もはしごしたぞ」
言いふらし過ぎだろ。もう忘れてほしい。
まさか花魁一人の費用が、あの酒宴全体の費用と釣り合うなんて想像もしてなかった。
菊園から一晩中語り明かした中で聞き出したから間違いない。
「それで馴染みから笑いは取れましたか? 旗本に噛みついたが入れ歯(入れ刃=付け焼き刃)で歯が立たなかったと」
「若造が説教したところで、今の曲がりくねったご政道がまっ直ぐになるでなし。だがね、あの方の勘違いで無名からここまでやって来た江戸の狂歌が昨日、仲違いにならなかったことだけは避けられた。そこだけ伝蔵の手柄かな。まあ、あの人の恋路は天竺ほどに遠く険しそうだがね」
伝蔵と万蔵は肩を並べて土手八丁(日本堤)までの衣紋坂を登る。
「なあ、伝蔵。ぶっかけめし、食っていかないか?」
「今時分は、花見舟も出てるでしょうから、次の舟もとっくに着いてますよ」
「いいじゃないか、奢るからさ」
二人は土手八丁の上に葦簀で拵えられた腰掛茶屋が連なる。腰かけ茶屋は吉原大門が閉じるまで開けているが、朝の帰宅客を当て込んだ小屋が飯屋をやっている。
酒、醤油、ほうじ茶で米に色味をつけて炊きあげた茶飯に、醤油で煮付けた浅蜊や蜆の貝汁をぶっかけ、刻みネギを散らした一膳飯を十八文(約二二〇円)で売っていた。
町方の規則では、吉原周辺の腰掛茶屋で飲食させてはならないことになっている。なので、どの小屋にも腰掛ける床几がない。夜は閉門までお茶と焼き餅を売っている。ぶっかけめしは味も値段もいいので、吉原帰りの男たちが空腹を満たすのに重宝した。
「およねちゃんの最近の調子はどうだい?」
飯をかき込んでから、万蔵が訊いてくる。
「おかげさまで。善くもならず悪くもならずといったところです。〝江戸患い〟ですからね」
江戸に蔓延する病の一つだ。鍼灸書では〝脚気〟と呼ぶそうだ。
杉田玄白が日本橋浜町に開校する医塾天真楼から伝蔵の自宅へ往診に来る。そこの若医師から聞いた話では、上方や京でも多くの患者が出ているらしい。江戸だけの病ではないけれど江戸が圧倒的に多い。足がむくみ指先に痛みが続く。これが重くなると心痛腹痛に変わり、やがて死に至る。
一方で江戸を出ると病が快方へ向かうことは商家を中心に根拠のある噂として広まっていた。なぜそうなるかは、まだ誰も知らない。
家族に江戸患いが出ると、どこをどう聞きつけたものか怪しい団体が家の前に現れて、笛や太鼓を叩いて念仏を唱い踊りだす。
「霊験あらたか厄除けの札を買えば、たちどころに疫病退散、ついてはお布施を所望いたす」と。
去年ついにそれが伝蔵の家にも出たので、「もと飴や、まえ唐辛子!」と連呼して掃除用の桶水をぶち撒けてやったことがある。笛や太鼓を叩く拍子が、唐人飴売りや七味唐辛子売りのそれとまったく同じだったからだ。伝蔵は耳がいいのだ。
人は稼ぎのためなら、唇を噛んで悲嘆に耐える家族の傷に塩を塗ることも涼しい顔でやってのける。それを逞しいと評していいのか、賤しいと蔑めばいいのかも分からない。
「いっそ江戸の外へ出てみないか。病を快癒させるのに環境を変えることも治療だよ」
万蔵が箸の手を止めて忠告する横で、伝蔵は茶飯をかっこみ続けた。
「もちろん、費えがかかることは確かだ。でもな伝蔵」
「万蔵さん。別に費えを躊躇ってるわけじゃないです。よねが助かるなら箱根にでも草津湯にでも、私が担いで運んでいってやりますよ」
「うん」
「玄白先生のお言葉は、もともと幼い頃から体が弱かったところに江戸患いでさらに心の臓が弱ってる。だから江戸の外へ湯治に出せたとしても江戸患いが治って戻ってきた後、今度は旅の疲れで心の臓がやられちまわないかを心配なさってくれています」
「そうか、江戸患い快癒の後か……わたしみたいなヤブ医者より、さすが老師は先ざきまでお見立てか」
万蔵はしょんぼりとした顔で、乾いた声で笑った。
正真正銘の〝医術の申し子〟を兄に持つ弟だって医師として頑張ってる。なのにどうしても比べられてしまうから、それなりに思うところはあるのだろう。
伝蔵は米粒ひとつ残さず平らげた茶碗を盆に置くと、銭袋から文銭を六枚おいた。
「とっつぁん、お代ここに置いとくよ」
「毎度どうも。旦那、江戸患いなんざ、べっこう飴舐めときゃ治りますよ」
小屋の主人が妙なことを言った。
「べっこう飴?」
「流れの飴売りが長屋に来ましてね。江戸患い知らずだと唱いながら買わせるんでさあ」
朝営業の店終いをしながら、こちらの話を聞いていたのだろう。
「で、買ったのかい?」
「ええ、二年ほど前から。一丁五粒で四文(約四八円)、駄菓子ですから」
「それで誰も江戸患いにならないって?」
「ええ。うちのババアも長屋の連中もぴんしゃんしとりますよ」
伝蔵は万蔵を見たが小首を傾げられた。とにかく江戸患いの罹患者が多いだけに平癒の迷信、俗説は江戸に掃いて捨てるほど飛び交っていた。
──舟がでるぞーっ!
今戸橋から船頭の声がかかった。
万蔵は紙入れから一分銀を出して、文銭の上に置いた。
「旦那。おつり、おつり!」
「面白い話が聞けたから、おひねりだよ。じゃあまたな、とっつぁん」
二人は草履を蹴立てて、土手を朝陽に向かって走った。