第三一話 他不知思染井(ほかしらずおもいそめい)後
はぁっ、はぁ……はぁ、はぁ……はぁっ、はぁ
夕陽が西の空に暮れなずむ。
「なあ、よね~、兄上はどこへいったか知らないかあ?」
家に人気が無いのを不審に思った百樹は、まっさきに納戸の障子を開けた。
部屋に立ちこめた血腥い臭いに鼻を叩かれ、百樹はとっさに我を失った。
四畳半間で、よねが全裸で仰向けに倒れていた。
虚ろな目が天井を泳ぎ、未熟で薄い白い双丘を激しく上下させ、珠の汗が腋に伝いおちた。浴衣は丸めて枕許に捨て置かれ、四肢を投げ出し、時おりビクッビクッと痙攣させている。
そして下腹部から太股にかけて広範囲が真っ赤に染まっていた。
「よ、ね……っ!? うっ、うわっ、うぁあっ!」
百樹は悲鳴とともに後退った。そのまま勢い余って縁廊から足を踏み外し、頭から地面に落ちて気を失った。
息子の叫喚を聞きつけた母大森が廊下を駆けてくると、娘の小部屋に踏みこんだ。
「よねっ、よねっ!? これ、どういうことなのっ? 伝蔵っ、伝蔵さんはどこっ!?」
「ここです、母上」
庭の隅で水を溜めた盥に(たらい)座り、伝蔵は体を洗っていた。
「あなた、よねに何をっ。どうして!?」
「少し出かけてきます。帰ってきてから事情を説明しますので、よねのことを頼みます」
伝蔵は背を向けて行水を続けた。
面と向かって、母を見られようはずもなかった。
日本橋通油町・耕書堂。
蔦屋重三郎は鉄燭台で絵入狂歌本『絵本虫撰』を校合(確認作業)中だった。
「重三。物忌みをこうむった」
「おい、そりゃあ何の冗談だ。板刻は五日後だぞ。馬女の股ぐらにでも顔を突っこんだのか」
言い方。重三郎の怒りの直感をあえて聞き流した。
「山東唐洲の『〈首尾松見越松〉雪女廓八朔』と『曽我糠袋』の挿絵の代行を頼みたい」
「記憶にねえ戯作者と題名だ。鶴屋の案件か。なんでうちに?」
「今回の画は、歌の兄さんに頼みたい」
代作を頼もうとしている喜多川歌麿は、伝蔵より八つ上。蔦屋重三郎の食客だ。師匠から「生涯女を描いちゃなんねえよ」と美人画を禁じられて風景や動植物ばかり描いていたそうだが、最近その禁を破って化物になりつつある。
「あいつならひと仕事して今、吉原だよ。一夜で三十両もふんだくられちまったぜ」
振り向きざま重三郎がニヤニヤと相好を崩すので、ふんだくられても笑っていられるほどいい仕事をしたのだろう。
「年内の刊行、急ぎ働きで頼みたいんだ」
「なら、おれに貸しか?」
「ああ、借りとく」
文机に五両の包みを置いた。重三郎は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ばか。ここじゃ金は、おれがお前に渡すもんだろうが」
「歌の兄さんに渡してくれ。どうしても正月に刊行してほしいんだ」
「なら尚更、あいつが怒り出すぜ。──伝ちゃあん、それやったら吉原くり出す前にわしの手に載せとかなあ、ってな」
重三郎があごをしゃくって、肉筆画の前に誘う。隣に立つと、伝蔵は目を見開いた。
「この書歌、四方赤良(大田南畝)先生か」
「ああ。御公儀に睨まれても、まだまだ筆は鈍っちゃあいねえよ」
「画も、紙の上で虫や花が息をしているようだ。くそ、かなわねぇな」
「ここまで色気のある線を出せる画師は江戸屈指だ。本人は女を描きたくてたまらねぇらしいがな」
「それで今、描きに吉原に出かけたのか」
「扇屋にな。この間、留新に落ちた新瀧川を(画に)堕とすんだと」
「墨河にしてみれば願ったり叶ったりだろうけど。兄さん、美女にかけては鼻が利くな。普通なら格下げた名跡なんて、先代の馴染み客しか目を向けなくなるもんなのに」
「そりゃあ、あいつが筋金はいった助平だからだよ」
二人で笑って、重三郎は文机に置かれた金包みを伝蔵に投げ返す。
「その金持ってさっさと鶴屋に行ってこい。他の書店なら揉めるが、鶴屋ならおれに貸しがある。おれは話を聞いた。これ以上、おれのささやかな楽しみを邪魔すんな」
伝蔵はうなずくと、耕書堂をでた。
帰宅したのは宵五つ(午後七時)。
父が戻っているかと怖気づきながら帰ったが、伝蔵の自室に母だけが座っていた。
「あの、親父殿と百樹は?」
「外に食べに出てもらいました。よねは自室で眠っています」
「百樹は、大丈夫でしたか」
「頭の後ろにコブができていましたが、それ以上にあの部屋で血塗れで倒れていたよねを見て魂消てしまったようです。旦那様に気晴らしへ連れ出していただきました」
伝蔵は母の正面に座り、両手をついて深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。この度の責はすべて、私にあります」
ことの発端から順番に詳細に、誠意を尽くして説明した。
母にとっても、よねはいつまでもあどけない娘なのだ。
伝蔵が返事しないでおくと、母はどっと疲れた大息をした。
「この先、自分はどこにも行けない。いつ死んでもおんなし……なんて。あの子にとって、百樹の養子話がよほど悔しかったのかしら」
「いいえ。よねは純粋に自分の将来を悲観したのだと思います。兄として憐憫の情を動かさざるを得ませんでした」
「だからといって、兄と妹がとぼしていいわけありませんっ」
落雷に背中を低くしたが、伝蔵は顔を伏せたまま強くかぶりを振った。
「誓って。誓って手籠めにはしておりません。ただその、なんと言いますか……吉原で覚えた手管を、よねに用いたことには間違いありません」
「手管ってあなた。あの様子は……あの子を何度、果てさせたのですか」
大森が顔をしかめてたずねた。伝蔵は視線を落としたまま、
「たぶん……七回ほど?」
「よねを殺す気ですかっ!?」
母に生まれて初めて憤激一喝されて、伝蔵はまた畳に額を押しつけた。
大森は胸許を押さえて、喘ぎ気味に大きく呼吸を整えるとおもむろに立ちあがった。
「麦茶を持ってきます。あなたはお酒がいいですか」
「いえ、私も麦茶を。それと少し腹が減りました」
「そうですね。取り置いた甘藷を持ってきます。わたくしは食気がありません」
「母上、食べた方が今後の知恵が湧くかも知れませんよ」
誰のせいで。母は疲れた眼ざしをのうらく息子に一瞥くれて、部屋を出て行った。
伝蔵は平伏したまま頭を抱えた。実はずっと後悔と安堵で吐きそうだったのだ。
母に激高されて薙刀でお手討ちにされるも、やむなしと諦めていた。
母も情況から、兄妹で間違いを犯したと早合点したはずだ。けれど、その一方で十九歳から吉原通いをして審美眼を磨いてきたのうらく息子がわざわざ病弱な妹に手を出す卑劣も考えにくいと理性を保ってくれたことに伝蔵は感謝した。
いずれにしても、これまで積み上げてきた両親からの信用は地に墜ちたと思わなければならない。
滝澤左七郎の言葉で人倫の崖から突き落とされたとはいえ、伝蔵はこの不祥事以外に方法はなかったのかと何度も反芻するが、答えは一文字も出てこない。何より、よねの体調も悪かった。
「今日、よねは、馬の日だったようで」
馬の日。いわゆる、女性に月もののアレだ。
「百樹の養子縁組、戯作完成後の空虚、季節の変わり目、それらで心に隙間ができた不安定な所に月のものがきて、心の落ちこみが助長したのかもしれません」
伝蔵とて詳しいわけではないが、あの多めの出血が自分の手管による怪我でないことくらいはわかる。
母はぬるい麦茶で喉を潤すと一息つき、湯飲みの水面を見つめる。
「今月のは少し出血が多かったようです。あなたも驚いたでしょう」
「ええ、いささか……と申しますか、戯作の執筆途中だったので弱りました」
「ああ。物忌みに触れたことになりましたね」
女性の月経血を穢れとする風習は平安時代からあり、月水、月役、お馬などと呼ばれ、名を変えつつも忌み事の扱いは後世まで長く続く。この時においてもそれ用の下着もなく、男性用の褌を直して御簾紙という前張り紙をつけて月経帯とする工夫がなされたようだ。
男性はこのような女性の苦労はもちろん、生涯にわたり女性に備わる潮候すら知らずじまいという家庭がほとんどだ。
「まったく、殿方を知らぬ妹を七回も……吉原通を許すんじゃなかったかしら」
甘藷を口に押し込んでから、母にジロリと睨まれた。
伝蔵は胸を叩きながら詫びようか、麦茶をおかわりしようか迷った。




