第一話 狂歌連の火種
天明三年。江戸――吉原。
明け六つ(午前六時ごろ)とともに吉原大門が開く。
一夜の夢を見た男たちが三々五々、ゆうべの夢名残を引きずって家路につく。
「戯作者は~、気楽な稼業ときたもぉんだぁ! っとぉ」
初夏の先触れすら感じる強い朝陽に目を眇め、伝蔵は通い馴れた土手八丁(日本堤)を歩きだす。
前日──三月二三日。
今年の九月に耕書堂蔦屋重三郎が吉原から日本橋通油町への本店移転する。その準備で忙しい重三郎を捕まえて、伝蔵が次の新作内容を聞かせていると、外から身丈五尺(一五〇センチ)にも満たない五十がらみの禿頭が合羽に手甲脚絆姿で入ってきた。
「ごめんなさいよ。お二人さん、ちょいっと話を聞いてもらえるかい」
客の旅装に、伝蔵と重三郎は顔を見合わせた。
「東作さん、今からどちらへ。材木の商いはお手すきですか」
重三郎がたずねると、旅客は眼鏡の猿顔をあごでしゃくって奥へ揚げろと促してくる。
平秩東作はこのとき、五七歳。本名を立松懐之というが、戯名の方が通りがよかった。十四歳で親の煙草売りを継ぎ、その傍らで狂歌や戯作に遊ぶ。九年前に伊豆の製炭商を長男に譲って自分は材木商に鞍替えし、なんとかやっているらしい。
「その話、伝蔵もですか?」
「うん、二人に話しておきたいことがある。あたしの遺言」
重三郎は伝蔵と顔を見合わせると、紐で束ねた版木を抱えたまま二人を奥へと案内した。
「明日から蝦夷へ向かうことになってねえ」
伝蔵が応接間にはいって振り返ると、平秩東作は後ろ手に障子を閉めたまま切り出した。
「田沼の御前から御下知を受けた勘定組頭・土山宗次郎様からお指図をいただいた」
平秩東作は跋悪そうに微笑んで、
「別に。お前さんらも一緒に蝦夷まで来いって話じゃないよ。明日、直次郎さんの母君の還暦祝いがあるだろう?」
直次郎とは、大田直次郎南畝のことだ。平秩東作とは十年以上の旧誼で、狂歌界隈では戯名四方赤良のほうが有名だ。
「ああ、その話ですか。東作さんが行けないって話は四方先生に通してなかったんですかい?」
重三郎が表情を明るくすると、平秩東作はじれったそうに顔をしかめた。
「その話でもねえんだ。そっちは橘洲先生にまかせてるよ」
唐衣橘洲は武家狂歌師として著名で朱楽菅江、四方赤良とならび、江戸狂歌の三大家と呼ばれている。
「えっ。橘洲先生も宴席に顔をお出しになる?」
「そりゃそうだよ。別に赤良・菅江のお二人は橘洲先生と喧嘩してるわけじゃあないよ」
そこで伝蔵もようやく察しがついた。
「それなら誰かが赤良先生と橘洲先生が仲違いさせるように仕向けてる、とかですか?」
平秩東作は、わが意を得たりと頷いた。
「相変わらずお前さんは若いのに察しがいいねえ、伝蔵さん。土山様は知ってるよな」
伝蔵は一度目線を逃がしてから、戻した。
「前に四方連(サークル)の歌会でお見かけしましたが、こっちが町屋敷の家主の倅だとわかった途端に、私に振る愛想が尽きていましたがね」
相手は勘定組頭の旗本で、こちらは一代士分の町人の息子。
歌会ではそんな武士や町人の垣根を越えて和気藹々と狂歌を捻ってきた。
その会趣が土山宗次郎という強い支援者の参入で、少し濁った気はする。そして、その土山を四方赤良に引き合わせたのは、目の前にいる平秩東作というのは狂歌界では有名な話だ。
「土山様が須原屋を焚きつけ、明日の祝宴を戦勝祝いにすげ替えようとしてるらしい」
「須原屋といえば、正月の『万載狂歌集』と近江屋本十郎から出た『狂歌若葉集』の同時刊行の件ですか」
重三郎が草双紙問屋らしい直感を口にした。
平秩東作は苦った様子で唇をひん曲げてうなずく。
「書いたもんを売りに出した以上、売れた売れないで白黒はっきり着けるのはわかりやすいよ。でもさ、あたしらは相撲とってるわけじゃねえ。狂歌の良し悪しじゃなく、売上げの多寡で優劣をつけて誇ってもねえ。土山様は少し、独り合点をしなさってるのさ」
平秩東作は自分がこれはと見込んだ相手には、とことん面倒を見てやろうとする侠気がある。四方赤良に『寝惚先生文集』刊行を励ましたのも彼なんだとか。とにかく顔が広い。
「自分が支援してる連に世間の好奇な目が集まれば、誇らしいでしょうからねえ」
重三郎は抱えていた版木の束を畳におろすと、応接間の隅に置かれた煙草盆を引き寄せた。
煙管に葉をつめて一服つければ、たおやかな紫煙が欄間まで届いて消えた。
「お、越後の大鹿葉か。悪党にしちゃあ軽いヤツを呑んでるねえ」
平秩東作が紫煙の匂いで煙草の産を言い当てたので、伝蔵は目を見開いた。
「夜更かしが持病みたいなもんですからね。最近はコレばっかりですよ」
こんっとたばこ盆に火種を落として、重三郎は板木の束に脇息よろしく頬杖をついた。
「けどまあ、四方連は処士の連、唐衣連は武士の連だ。あの文集競べで人気は歴然だったが、土山様があえて軍配を切ることで、連に上下ができると面倒なことになるかもな」
重三郎は空煙管をくわえたまま袖袋から紙搾りを出すと、旅人に握らせた。
「ほんの餞別ですが、道中お気をつけなさって。こっちも何とか取りなしてみますよ」
「悪いね、蔦重。発つ鳥、跡を濁すような頼みごとをしちまって」
「なに。鳥が発つ前から泥鰌(土壌、転じて土山)が動いたから濁ったんでしょう」
「迷惑をかけるが恨んでくれるなよ。あの人も宮仕えで心ない同僚から嫉まれて、たまった鬱憤の羽目を外そうとしてるだけなんだ。それじゃあ半年後、達者でな」
平秩東作は言い残して、耕書堂を慌ただしく去っていった。
「と、請け負ったもののだな」
重三郎は煙管に新しいたばこを詰めるう。
伝蔵は袖に腕を入れて、小首を傾げた。
「土山様と四方先生とは断琴の交わり、同時刊行なんて出し物は須原屋と近江屋の結託だが、持ちかけたのはあの二人だろうな」
重三郎はたばこ盆から火種を移して、長く息を吐いた。
「狂歌集の評判は大差で四方・朱楽の山の手連『万載狂歌集』に軍配があがってる。互いに遺恨もねえだろうが、唐衣連は武士らしく腹の中に悔しさがないと言ったら嘘だ」
「明日の還暦宴。三人が集まるのなら、そのことを気にするなと言っても?」
「無理だな。土山様の手前、四方先生もできるだけ穏便にするために還暦の母君を担ぎ出した、という一計かもしれん。ったく、面倒くせえなあ」
「なあ、重三。それ、私にもおくれよ」
重三郎が吸いかけをよこすので、伝蔵は不承不承うけ取って一服吹かす。
えぐみが少ない軽い口当たり、紫煙がぷかりと障子を撫でて昇っていく。
「なあ。重三……さらの判取帳、ある?」
「判取帳? そりゃもちろん、あるが……どんな戯作を思いついた?」
ぷかり、ぷかり。伝蔵は形を変えていく紫煙に目を眇めた。
「要は、土山様に戦勝気分を味あわせなければいいわけだ。なら勝ち振る舞いをさせない」
「土山様の財布を使わせない、てのか。それで判取帳が?」
「これから私が扇屋まで行って外堀を埋めておくってのはどうかな?」
重三郎が煙管を奪い返して咥える。
「外堀ねえ。その戯作、費えはどれくらいだ」
「五人囃子と舞妓一人くらい?」
「お前、大見世〈扇屋〉の遊女六人分の揚げ代だけで、いくらだと思ってんだよ」
「墨河には、重三の指図だって言っておくよ」
「ったくよお。東作さんの置き土産は、金がかかってしょうがねえや」
かこんっ。重三郎はたばこ盆に火種を落とした。