69話──そして脅迫3
自分の命あってこその人生だ。そうワーサーは考えていた。
しかし、ここで逃げたりアリスを利用して勝ったりすること。それこそ死んだも同然なのではないかと、そう思い始めていた。何故なら、まともなやり方ではどう足掻いてもセイジに勝てないのだと、そう認めるようなものだからだ。
散々嘲笑ってきた人間に対して、負けを認めることなど、ワーサーでなくとも心の奥底から断固拒否するだろう。
人間が元々持っていない、その人物自身が作り出した誇り。それは絶対に傷付けられたくないものだ。
だからワーサーはアリスに手を出せない。
出さない。
「いいですよ……もう。もう小娘なんてどうでもいい」
この選択を負けだとは思わない。寛大な心でアリスを見逃しただけだ。
そもそも希人は一度も自分に勝ててないのだ。追い詰めた気でいたのかもしれないが、自分は逃げてきただけ。戦略の一つとして逃げの択を取っただけだ。全ては小娘を利用し、希人の心を徹底的に潰すためだ。
ワーサーは内心で言い訳をして、己の自尊心を守る。
「お前を殺して、それから小娘のことは考える」
本当に動かせない左腕を摩って、アリスを眼中から外してセイジを睨む。
覚悟を決めれば、心を占める敗北感は薄れる。ワーサーはセイジを真正面から見据えることができた。
「俺を殺していいのか?」
「組織のことなんて知ったこっちゃない。ぼくは、ぼくの生き方をする。絶対にお前を殺す」
「……調子に乗ってるつもりはないけど、お前に負ける気がしない」
「ぼくだって君に負けるつもりはない。だから小娘から手を引いたんだ」
「言葉遣いが変わってるぞ」
「これから死ぬ相手に対して取り繕う必要なんて無いだろ」
互いに真剣な表情。
既に最終ラウンドは開始されているのだ。
「……ぼくの全てを知ったつもりでいるなら大間違いだぞ」
「知らないよ。この世界は知らないことだらけさ。未だに文字だって読めやしない。魔術も使えない。これについてはお前が教えてくれたが、信憑性に欠けるから後で確信を掴める情報を探る」
「馬鹿にしている自覚ある?」
「思ったことを口にしているだけだ」
「……生きて帰ってこそ、探ることができる。つまりお前はぼくから逃れられると。そこの小娘を連れて外に出られると思っているわけだ。……ここまでぼくを馬鹿にしてきたのはお前が初めてだよ」
「お前の初めてになれて嬉しいよ」
「……………………」
無言のワーサー。
しかしその表情筋はワーサーの内心を、心の激流を物語っていた。
歯を砕くほどではないが、歯軋りをして右手に爪を食い込ませて血が滲み出るほどに、肉体に怒りが反映されていた。
「……女が邪魔だ。場所を移そう」
またもやローブの中から注射器を取り出し、本心からそう提案したワーサーだったが、
「お前の部下にアリスを攫われたりしたらたまったもんじゃない。ここから離れることはできない。せめて鉄格子の外でやらせろ」
「……」
セイジのその提案。それはつまり、アリスのことを気に掛けているということ。
アリスを気に掛けながらでも勝てる自信がある。そういう意図の言葉なのだと、ワーサーは受け取った。
「……いいですよ。ただし条件があります。それを飲んでもらわなくちゃぼくは言う事を聞けません」
「なんだ」
「……こちらを」
ローブの中に手を入れるワーサーに警戒するセイジ。取り出されたのはまたもや注射器。
ワーサーはそれをセイジの足元に投げる。セイジは咄嗟に後ろに下がって距離を取るが、注射器はなんの反応も示さない。
「ぼくが触ったんだから触れてもなにも起きないって分かりますよね?そんな警戒しないでくださいよ」
「特定の場所だけセーフかもしれないだろ」
「頑固ですねぇ。でもそれがぼくからの条件ですよ?拾ってくださいよ」
その言葉に、セイジは思案する。視線を、ワーサー、アリス、足元の注射器へと移し……
「わかった」
喉から声を絞り出した。
そして、ワーサーの動きに注意を向けつつ腰を下ろす。
「……」
セイジにとって嫌なのは、失った右目側にワーサーが立っていること。
体の正面をアリスに向け、即座に駆け付けれるようにしておきたい。だからこの姿勢は変えられない。
「ッ……」
膝を曲げるときに、軽い立ちくらみのようなものに襲われ、セイジはつい唇を噛んでしまう。
片目を失ってしまったせいで、遠近感や立体感が掴みにくい。平衡感覚が乏しくなってしまっているのだ。
このことが悟られないよう、セイジはワーサーから顔を逸らし、さっさと注射器を拾ってしまおうとした。
だが……
「ぁ……」
指先が注射器に僅かに引っ掛かる。しかし、そのまま滑ってしまい、次はカリッと爪に引っ掛かり……それも外れて、僅かに弾んで転がっていく。
遠近感が曖昧で、体もボロボロなせいで注射器を掴み損ねてしまった。
「だから君は──!」
セイジの意識が目の前の注射器に集中してしまった瞬間──
「──愚か者なんだよ!」
顔を上げたセイジの目に、アリスへ急襲するワーサーの姿が映った。
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