60話──手のひらの上で2
視界が紫に染まったセイジは、口を抑えて更に息を止めた。
あのワーサーの道具。ただの煙玉とは思えない。吸えば毒に犯される可能性は捨てきれないのだ。
「……」
急いでこの煙から抜け出さなくては。
使用者であるワーサー自身が、この煙で視界を奪われているとは思えない。自分にも影響があるものを使うとは思えない。
ワーサーの位置をどうにかして把握し、とにかく距離を取って反撃のチャンスを窺わなくては。
「……」
酸欠というタイムリミット付きの、焦燥を強いられている状況に陥れられていた。
のうのうと歩いて脱出できるとは到底思えない。
だからと言って、ボロボロになってしまった洞窟内で、走るための安定した足場を確保することは難しい。見えないとなればなおさら困難な課題だ。
ワーサーが近寄ってくる音は聞こえない。となると、息を殺して立ち止まり、セイジの接近を待っているかもしれない。
下手に行動して接近してしまうのはマズい。それはわかっているが、行動するしかない。……この思考もワーサーの手の内なのだろうと思うと、気持ち悪さを感じた。
しかし、時間は刻一刻と迫っている。
恐る恐る一歩踏み出すと、ジャリっと音が鳴ってしまった。
「ッ──」
吐き出しそうになった息の飲み、ワーサーの僅かな動きにも反応できるように意識を耳に集中させる……
「……」
しかし、なにも聞こえない。
この場には、セイジ一人しかいないような静けさだった
「…………ッ!」
ずっとワーサーの動向を探ろうとするわけにはいかず、遂にセイジは駆け出した。
濁りの無い煙の外まで逃れようと走った。幸い、ワーサーはセイジに対してなにもしてこない。だからと言って、危機から免れたわけではない。
ひとまずワーサーを無視して逃げようとしたセイジの判断は正しかった。正しかったが、その判断に行きつくまでが遅かった。
疾走には体内のエネルギー物質を多く消費してしまう。そのエネルギー物質を作るには酸素を消費しなければいけない。筋肉を動かせば動かすほど酸素が枯渇し、心臓が鼓動を早める。
体を動かさなくても、生命活動を維持するために体内の酸素は減っていく。息を止めてから行動するまでが長く、そこから走ったせいで限界が来ていた。
走って、壁にぶつかり、方向を変えて……けれども煙が晴れることは無い。
どこまでも煙が充満し、セイジを追い詰めてくる。
「はあ……ッ!!」
耐え切れずに一呼吸してしまう。
次はどんな症状に襲われるのか。痛みか、痒みか、幻覚幻聴の類か、吐き気などの気持ち悪さか……
「……」
しかし、セイジの身に新たな異常が訪れることは無かった。
体の痺れと、喉を狭められたような苦しみ。そして、痛みと痒みがまばらに襲ってくる以上のことは起きない。
セイジはその事実を踏まえ、一か八か、息を吸い込んだ。
吸引量が増えれば効果が出てくる可能性のあるが、それ以上に、このまま我慢し続けることの方が、次にワーサーと戦う時に支障をきたすだろうと考えた。
「はぁ……はぁ……」
思い切り吸い込んでも、喉に引っ掛かる異物感が無い。
そういえば煙が目に染みていなかったことを思い出す。
とにかく、呼吸ができるのであれば、下手に動く必要は無い。呼吸を最低限に抑え、冷静に脱出を図る。
セイジは壁に手を付いて、慎重に進んでいく。
入口方向に進めているのか、戻ってしまっているのかはわからないが、とにかく今は視界を確保することが優先。
自分の安全を確保できなければ、ワーサーを殺すこともアリスを探して救い出すことも叶わなくなってしまうからだ。
やがて、視界が晴れた。晴れてわかったが、煙はその場に漂っているわけではなく一方向に流れていた。
ただ、通路の先まで見渡せる状況になっても、ワーサーの姿は見えない。
逃げているとは思えない。今もどこか近くで監視しているのではないかと、セイジは不安になる。
この状況でセイジがワーサーに対してできることは警戒するくらいしかない。
そしてセイジは、風が流れてくるならきっと外からだろう。そんな憶測で、風上へ進み始めた。
だが──
「ッ……」
不意に、セイジは意識が朦朧としてふらついてしまう。
壁に手を付けた右手に力を入れ、倒れぬよう耐えようとした。
その瞬間、壁が砕けて手首までめり込んだ。意図してない出来事に、少し驚きつつ手を抜くと、更に壁が砕けて周囲に破片が散らばった。
「……本当に、なんなんだよこれ」
この力がなんなのか、セイジにはわからない。
ワーサーの言葉を加味するのであれば、スキルなのかもしれない。
「クソ……」
今にでも眠ってしまいたい気持ちを押し殺し、洞窟内を進んでいく。その付近の灯りは安定していて、元の場所からは確実に離れていることがわかった。
セイジはワーサーの狙いを考える。
あんな無防備な状態のセイジに攻撃してこなかったのはなぜなのか。
「殺すつもりがないから……?」
しかし、こうしてセイジに好き勝手行動させて良いのか。
ワーサーはセイジを敵と見なしていないのか。
「……奴にとって一番良い状況とはなんだ?立場を変えて、考え……」
これまでの会話。自分の状況。互いの目的。
考えに考えて、一つの結論に辿り着く。
「……そういうことなのか?」
自分の事ばかり考えていたから、セイジは簡単なことに気付けていなかった。
単純な、ワーサーのその狙いに。
答えに至ったセイジは、全速力で走った。ゆっくり進んでいる暇は無い。
「やられたッ!」
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