私と彼女と大親友、魔術で最優秀~魔術学園であの子にキスを~
10年ぶりに見るフレンは、美しかった。
学生の頃と変わらぬ、筋肉質でありながら過剰ではないスタイルの良さ。
華やかで、それでいて卑しさのない金の髪。
何より大きなその瞳。
彼女を見た瞬間、この場に存在する他の物体全てが灰色になったように感じた。
「……久しぶりね、フレン」
「……だな」
机一つを挟んで、私達は向かい合った。
「……聞いていいか、ラピス」
「ええ」
「……恋人は、出来たか?」
「いいえ。貴女は?」
「全く」
「……でしょうね」
「だよな」
安心したように、諦めたように、私達は笑った。
そして、殆ど同時に左手を掲げあった。
互いの姿が夕陽に染め上げられている。
二人の両手には、その夕陽程に赤い、血のような指輪が張り付いていた。
「ではラピスさん、お手本を」
「はい、先生」
私は立ち上がり、杖を掲げる。三日月が先端に取り付けられた、特注の杖。
青い髪がはためき、少しばかり視界を奪う。けれどこの程度の魔術に、明瞭な視界なんて必要ない。少なくとも私にとっては。
そうして、早く、正確に詠唱を行う。
『弾ける者よ』
唱えた瞬間、宙に浮いていた大きな緑色の風船がぱん、と乾いた音を立て、辺りに散った。
周囲からどよめきが伝わる。大小、様々な称賛の声が私の耳へと届けられてゆく。
「はい、よく出来ました。流石学年トップ、ザ・ステラと言ったところかしら。皆さん、拍手!」
先生の言葉と共に、私は拍手の音に包まれた。
洪水のような賛美。耳に届くそれは、心地よく鼓膜を震わせる。
皮膚が微かにぴり、となる感覚。雪の降り積もった只の校庭が、楽団の演奏ステージに変わったような錯覚。
透き通るような青い空の下、私は全身で、世界の素晴らしさを味わった。
やりたいことをやっているだけで、こうして賛美までついてくる。特別、というものは、どこまでも心地がいい。そんなことを思った。
拍手が鳴り終わる頃、丁度授業の終わりを告げる鐘の音が校舎からこちらまで響く。
「では授業はここまで。ストーブを切るので、さっさと校舎に戻るんですよ」
そう言うと先生は、傍に鎮座している黒色のストーブのノブを捻った。
瞬間周囲を包み込んでいた、ドーム状の温暖な空気が霧散し、一気に現実的な冷たさが私達を襲う。
生徒たちは震えあがり、慌てて校舎へと戻っていく。
「……走りたくないわね」
私はというと、ストーブと同じ要領で、自らを包む温暖な空気を発生させた。これで暫くは、外にいることを意識せずに済む。
私が歩き出すと、左右から二人の生徒が身を縮こまらせて走ってきた。
「さ、さみいさみい、あ、あたし達にもそれ寄越せ!」
「お、お願いラピスちゃん、死んじゃう……!」
「死にはしないでしょうに、もう……」
思わず笑顔をはみ出させながら、私は二人を一気に暖かい空気で包んだ。
二人は手を擦り合わせ、大きく息を吐いた。
「はーっ、あったけぇ……」
「あ、ありがとう、ラピスちゃん……!」
「いいのよ、気にしないで。どうせ私達、どこに行くにも一緒だし。三人ぐらいなら楽勝よ」
「これ魔力切れとかになんねぇのか?」
「魔力なんて減ったと感じたことすら一度もないわね」
「人間発魔機じゃねぇか……」
「キンキンに冷えた空気を味わいたいなら言ってくれればいいのに」
「冗談だって!これやるから機嫌治せよ、ヘラにもやるから」
フレンは腰に付くポーチから、カラフルな数個の塊を取り出した。
「わっ、これって……購買部のパン?」
「ああ、試作品だってよ。あそこのおばちゃんがくれたんだ。三個あるから丁度全員分だぜ」
「……でもこれって」
「ああ、食べる前からわかるよな。好きに選べよ」
「……ラピスちゃんから決めて?」
「じゃ、赤色のこれ」
「あたしは金のこれにするか」
「じゃあ、わたしがこの黒いやつだね?せーの、で食べよっか」
「ええ。じゃあ、せーの……」
そうして私達は、各々が選んだパンに一斉に齧り付いた。
少し咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。そして、互いに顔を見合わせた後、同じ一言を発した。
「まずい!」
その様子がなんだかおかしくて、思わず私達は笑いあった。
魔術学園、入学して二年目の冬。
どこまでも広がる青空の下、積もった雪に太陽の光が反射して、辺りは眩く輝いているように思えた。
魔術。クレイン教の秘儀から派生し、実践的な技術へと姿を変えたそれは、世の人間一人一人を自立する機械へと変化させた。
自然現象の模倣から、鳩が飛び出る手品まで。遥か昔から体系的に培われた知は、全盛を迎えつつあった。
その時代において、魔術を教える学園は特権的な地位を占めている。
そしてその中でも際立って優秀な生徒と言えば、光り輝く希望の卵。暗い世を照らす灯台である。そう、誰しもが思っている。
学園はそういった生徒達に、『星』という呼称をつけた。
私とフレンは二人とも『星』である。それぞれタイプは違えど、一定の成果を収めている自負もある。
光栄なことだ。好き勝手やっていたことが勝手に評価されているだけではあるが。
しかし、もっぱら今の私達には、そんな対外的な評価なんてものよりも重要なことがあった。
校舎に戻ると、入ってすぐの踊り場、その階段の暗がり。
二人の女が身を寄せ合い、顔を近づけ、赤くし、親密な雰囲気を醸し出していた。
「……お熱いこって」
「ええー?それはほら、二人もそうじゃない……?」
ヘラがどこか悪戯っぽく笑い、フレンは顔を逸らした。
私もそうだ。顔を赤くし、俯くしかない。
私達は付き合っている。フレンと私。付き合って一年近い、新米カップルである。
幼い頃から一緒にはいたけれど、恋心を自覚したのは一年前。燃え盛る喫茶店で、フレンが私を助け出してくれた時だった。
あの時彼女から言われた言葉は、今も脳裏に焼き付いている。
『誰でも助けるわけじゃない、お前が大切だから助けたんだ』と言われたあの瞬間から、私の人生の操舵手は彼女との兼任になってしまった。最も、フレンの方はとっくの昔から私への想いを自覚していたようだったけれど。
そこから付き合うまでに時間はかからなかったし、冷めた瞬間なんて一度もない。間違いなく順調ではあるはずだ。
しかし、課題もあった。
「……わ、私達は、人前ではあんなにべたべたしないから……」
「そ、そうだ。いいか、恋仲ってのは寝室で内緒話をするみたいにこっそり振舞うもんでだな……」
「誰も見てないところでも内緒話みたいな距離感なの、知ってるんだからね?」
「……」
何も言えない私達を、ヘラは呆れた目で見つめた。
私達は恋愛に関して未経験も未経験、初心な雛そのものだった。お互いが初恋相手。
進展らしい進展がない。一歩踏み出すきっかけづくりが出来ない。この一年、悩み通しだった。
お互いが悩んでいたことは、付き合ってから半年で判明した。二人ともヘラに相談していたからだ。
ヘラは学園に入ってすぐの頃からの付き合いだ。長く豊かな黒い髪を三つ編みにして纏めている、小柄な少女。そして、私達の親友。
このトリオで課題に取り組んだことがあった。その時に彼女が披露した防御魔法、回復魔法の腕前は見事なものだったし、何より誰に対しても優しくて、努力を惜しまないストイックさも併せ持つその中身が素敵だと思った。
私とフレンは恋仲だけれど、ヘラも同じく大切な親友だ。私達は、いつも三人で一人だから。
私達専用の恋愛コンサルタントになってもいるヘラも恋愛経験がないらしく、相談相手を間違っていると何度も言われているけど、誠実に対応をしてくれている。
しかし結果らしい結果はない。私達はまだ、唇を合わせていないのだ。
「二人とも悩んでるんだし、なんとかなりそうだと思うんだけど……」
「いや、なんつーかさ、きっかけがないと難しくねぇかこれ」
「きっかけって……あ、あと数日で大事なのがあるよ、二人とも!わかるよね?」
「わからん」
「同じく」
「……」
異形の生き物を見る目でヘラが私とフレンに視線を彷徨わせた後、鞄から手帳を取り出し、ある日付をさした。
「ここ!付き合って一年の記念日だよ……!」
「……あっ」
言われてみればそうだ。丁度一年前、この日に私から告白した。確かに覚えている。
「あっ……」
フレンもハッと表情を変える。ヘラのあきれ顔も納得だった。
「折角記念日なんだし、何か思い出に残るようなことをすればいんじゃないかな。一番いいムードに出来る日だと思うよ?」
「思い出ねぇ……デートとかってことだよな」
「どこに行くかが問題だけどね。周り、雪しかないんだから」
周囲の環境も問題だった。学園は都市部から大きく離れた場所にあり、おまけに今の季節、辺りは雪に埋もれている。自然しかない。
「学園内でどこか、と言っても、記念日にいくようなところはないわよねぇ」
「改めて考えると、この学園って青春を過ごすのにはちょっと厳しめだよな……」
「となると、何かプレゼントとか?」
ヘラの提案に、思考を巡らせる。
プレゼント。言われてみれば、私達の間で行きかった物なんて魔術しかなかった。
この機会に何か渡してみたい、という想いはある。カップルらしいこととして、悪くはないだろう。
そしてカップルらしいプレゼント。わかりやすいもの。
そこまで考えて、私の脳裏に、あるものがよぎった。
「……いいのがあったわ」
「お?なんだ、お前からそんな上等なもんが出てくんのか?」
「ええ。カップルと言えばやっぱり……」
少し勿体ぶった後、私は唇の端を上げる。
「指輪、でしょ」
「ほお、なるほど……」
「あっ、それ、いい……!ロマンチックだね?」
「ええ。しかも、私達にふさわしいとびきり上等なものを用意できるわよ」
私は廊下の白い壁に貼ってある、簡素なポスターを指さした。
「……なるほど、面白いじゃねぇか」
「えっ、えっ、指輪ってこれ……!?」
フレンは笑い、ヘラは狼狽えた。
そのポスターが宣伝しているのは、学園の歴史上でも数名しか挑戦したことのない伝統的な試験。
受けようと思うことすら生半可な実力では躊躇われる、固き門。
『星試験』の案内だ。
その報酬は、空に似た、ブルーの指輪。
試験に向けて追い込みの勉強、なんてことはしない。そもそも毎日やりたくてやっているからだ。私にとって魔術の研究とは生きがいで、ライフワークだ。一日たりともそのことを忘れたことはない。
そうしていつものように図書室のドアを開ける。建付けが悪く、ぎいぎいと耳障りな音が鳴るので、消音の魔術をドアにかけてから開けるのが習慣になっていた。
そしてドアを開けた先、大人数が座れる大テーブルに、見知った顔を発見した。
大量の本を脇に積み、山に埋もれるかの如く必死に勉強をしているヘラがそこにいた。
その姿を見ていると、どうにも愛おしさが湧いてしまう。彼女のああいった姿勢が好きだった。
愛おしさついでにこっそりと傍に寄り、耳元で囁いてみる。
「……こんばんは」
「うひゃあ!?」
ヘラは大きくのけ反り、反射的に両手を上げた。降参の構えだ。
「ら、ラピスちゃん!?び、びっくりしたぁ、こ、怖いよ……!って、あ、やば……!」
ヘラは慌てて口元を抑え周囲を恐る恐る見渡していた。しかし、誰一人としてこちらを見ている者はいない。
「大丈夫よ、消音の魔術、私と貴女にかけてあるから。踊ったって何も言われないわ」
「よ、よかった……!い、いや、よくないけどね!びっくりしたし!」
「ふふ、ごめんなさい。埋もれてる貴女が可愛かったから、つい」
「か、可愛いって……もう、こんなに必死なのも、二人のせいなんだからね?」
「あら、そうなの?」
「そうだよ!だって……わ、わたしまで、『星試験』を受けて欲しいなんて……」
ヘラは視線を落とした。声がしりすぼみに小さくなっていく。
「わたし、『星』じゃないんだよ?成績だって普通ぐらいだし、得意な魔術だって、防御とか、回復ばっかりだし」
「その二つが素敵なんじゃない。それに、『星試験』は名前にこそ『星』ってついているけれど、別に受けようと思えば誰にでも受けられるものなのよ?気にすることなんてなにもないじゃない」
「……そういうことを本当に心の底からそう思って言っちゃえるのが、ラピスちゃんの凄い所だよね……」
ヘラは深く息を吐くと、ずるずると力を抜き、テーブルに突っ伏した。
「……『星試験』は最後の砦、この学園の最高峰……この試験をパスすることが、英雄への第一歩。誰だって知ってることだよね」
「そうらしいわね」
「今までにクリアした人はほんの数人、その人たちは皆、魔術界に何かの形で歴史を残しているような偉人ばっかり……」
「先人たちは偉大よね」
「……わたしじゃ、足手まといじゃないかな」
そう、彼女はぽつりと呟いた。
「聞いたことないよ、『星』でもなんでもない一般生徒が、試験を受けるだなんて。そもそも、二人の記念日の話なのに、わたしが参加する意味、ない気がするし……」
彼女が話す様子は独り言のようだった。言葉が宙に溶けていく。
「……わたし、って。そもそも、二人と釣り合っていないんじゃないかなぁって……」
「……あのね、ヘラ」
私は彼女の頭に手を置いて、可能な限り努めて優しく、撫でさすった。
彼女は静かに目を閉じる。
「私ね、確かにこの指輪を、記念日の品にしようと思っているわ。けれど正直、記念品になんてこれまで興味が全然なかったの。いいアイデアなんて思ったのは今回が初めてよ。興味のない私が良いと思った理由、わかる?」
「……」
ヘラは返事をしなかった。ただ、体がピクリと動いただけだ。
「貴女達だからこそ、なのよ。ずっと一緒にいる、大好きなフレン。出会いからこそ一年ほどしかたっていないけれど、家族も同然だと思っているヘラ。貴女達二人がいる今の時間が幸せだから、この思い出を形に残したいって思ったの。どちらか一人でも欠けていたら、わざわざ試験なんて受けようとも思わなかったわ」
「……わたしも必要なの?」
「むしろ、貴女が主役なのかもね。三人で、取りたいの。フレンとの記念日なんてそのおまけよ。私達三人が、お互いのことをいつになっても思い出せるように。指輪を見ればいつだって、ね」
「……ううん」
暫く机に顔を突っ伏した後、ヘラは勢いよく顔をあげ、乱れた前髪のまま、眉を下げて笑った。
「マリーちゃんにそこまで言われたら、もう、仕方ないなぁ……わかった、頑張ってみるね」
「その意気よ、ヘラ」
彼女はいつだって謙遜しているけれど、内に秘めたその実力は申し分のないものだ。彼女が頑張る、と言ったのなら、もう全てはきっとうまくいくだろう。
ヘラの言葉に安心して、私は軽い調子で言葉を投げかけた。
「私が信頼しているんだから、安心して。フレンだってそうよ。貴女はいつだって、誰よりも素敵で、強い人よ」
「……」
ヘラはすぐに返事をしなかった。そうして頷いた後、また本に顔を埋める。
彼女の表情は見えなくなってしまったが、きっと笑顔でいるだろう。私は立ち上がり、差し入れに飲み物でも買ってこようかと考えた。
「……ラピスちゃんは、さ。いつも……」
「うん?」
ヘラの言葉に振り向くと、変わらず本に顔を埋めている。
「……ううん、なんでも。ちょっと聞いてみたかっただけだけど、また今度にするね」
「……?ええ、わかったわ」
彼女の真意がうかがい知れないが、それ以上何を話すでもなさそうだった。
彼女に話す気がないのなら、無理に聞き出すこともないだろう。私は席を離れ、また図書室の扉から外に出た。
「よう」
「うわっ」
脇から突然話しかけられ、振り向くと、にやけ面をした長身の赤髪女がそこにいた。
「……びっくりさせないで頂戴、フレン。ほんと子どもっぽいんだから」
「悪い悪い、驚かせるつもりはなかったよ」
表情からその言葉が嘘であることを見てとれた。私はため息で返事をする。
放課後だというのにまだ陽は明るく、空の青さもぎりぎりのところで保たれていた。窓から差す鈍い陽光が、私達二人を淡く照らし出していた。
「中でヘラと話してただろ?あたしも入ればよかったんだけど、なんか真剣っぽい話してたからな。入りそびれちまった」
「……ちょっと待って。私、周りに聞こえないようにしていたはずなんだけど」
「だろうな。めちゃくちゃ声小さかったし。中にいたって聞こえてないだろうさ。あたしじゃなけりゃな」
「……」
思わずフレンの顔をまじまじと見つめてしまう。呆れかえる程にとんでもない身体能力、そして魔術だ。
彼女が主に使う魔術は身体強化。己にのみ作用する魔術ではあるが、使いこなせれば人間の能力限界を飛び越えることも出来る。
加えて彼女は元の身体能力も飛びぬけていた。相乗効果で、彼女は最早戦場で一人踊ることすら出来るであろう戦闘能力を誇っている。実戦経験こそないが。
私の視線に、彼女は肩をすくめる。
「別に盗み聞きしようってわけじゃなかったけどさ、ヘラがあんだけ悩んでるんだし、知っとく方がいいかなって思ったんだよ」
「別に、聞いてたことを責めるつもりはないけど……」
意外と小さなことを気にする、と昔から思っていた。根が誠実なんだ。その誠実さが向けられる相手は、基本的に周囲の人物に限られているとはいえ。
「まあ、基本的にはお前が言ってたことに同意だよ。ヘラは自分が足手まといって言ってたけど、そんなことはねえさ。あいつはあたし達と同じ所に立ってる。あたし達は三人で一人だ。三人でやることに意味がある。そう思ってるよ」
「ええ、そうね。貴女ならそう言ってくれると思っていたわ」
「けどな。一個だけ違うところもあった」
そう言うと、彼女は突然、私を抱き寄せた。
「えっ、な、なに!?」
廊下には人気がないとはいえ、いつ誰かが表れてもおかしくはない。それに脈絡もない。行われた唐突な行為に、私は身を固くする。
けれど、伝わってくる彼女の熱が、その緊張を不快なものにはさせなかった。
フレンは低い声で、私の耳元に囁く。
「記念日はおまけ、なんて、あたしは思ってねえよ」
「あ……」
何気なく言ったその一言に、嘘偽りはない。けれどヘラを励ますために、調子のいいことを言っていたのも確かだ。
「あたしにとっては両方大切だ。三人での友情も、お前との恋路も。同じくらい大切なんだ」
「……ええ、そうね。そこは、私も同じ気持ちよ……」
罪悪感で胸の中がかき回されるようだった。私は彼女の大きな背中を撫で、強く抱きしめた。
「ごめんなさい、軽率なことを言って」
「いいんだよ、聞いてたあたしの方も悪いし。けどさ、あたしがお前のことをどれだけ大切に思っているか、伝えたかったんだ」
彼女はそう言うと、身をかがめ、私と額を触れ合わせる。
「……お前のことが好きだよ、マリー。大好きだ」
「……私も。大好きよ、フレン」
私達は目を閉じる。お互いの表情を見なくても、考えていることは伝わるはずだから。
「……指輪、頑張って取ろうな。だから……指輪を三人の思い出にも、あたし達二人の思い出にするためにも、あたし達だけの、恋人の証が欲しい。……いいか?」
「……ええ」
そうして私達は、どちらからともなく、顔を寄せ合った。
静かに、しかし頭の中は熱でいっぱいになっている。
恋とはなんて美しいものなのだろう。そんなことを考えながら、私は息を止めた。
私とフレンは、軽く、唇を触れ合わせた。
静謐な廊下に、微かな湿った音が一度だけ流れる。
時間が止まっているかのような空間の中で、陽光のスポットライトに当てられた私達の間にだけ、淡い幸福が循環していた。
学園付近、箒移動で10分程の更地の中心。
そこには学園が所有している大ホールがある。
入学式から卒業式、表彰式から体育大会まで、幅広く用いられるそこは今日、熱気に満ちていた。
会場中がざわめき、あれやこれやと熱心に話し込んでいる。
そしてその視線の先、会場の中心には、私達がいた。
「思ってたより人が多いわね」
「だなぁ。皆そんなに見たいもんかね?」
「そ、それはそうだよ、フレンちゃん……!だ、だって……」
ヘラは一息を置いて、自らに言い聞かせるように話した。
「10年ぶりの星試験、なんだもん。もう始まっちゃうんだから……!」
その言葉を吐くヘラが、会場にいる誰よりも興奮しているような感じがして私とフレンは思わず顔を見合わせ、笑った。
応募したときには意識していなかったが、どうにも星試験を受ける人はそう多くないらしい。星に値する生徒であれば誰でも、というわけにはいかないようだ。
「ま、皆応募したがらない理由はわかるけどね。おっかないし」
私はちら、と脇を見やる。
既に試験の準備は整っているようだった。試験の課題が、そこに悠々と立っている。
そこにいるのは異形の怪物、魔力で編まれた神話の幻獣。
まるで学園一つを飲み込んでしまえそうな程に大きな紫の体。歩行するだけで私達を踏みつぶせそうな重量感。魔獣特有の、感情の籠らぬ冷徹な瞳。地面に付く4つの手足は、一つ一つが樹齢1000年の大木のようであった。
名を『ノーマル』。私達の、討伐対象。
これに立ち向かっていくなど、並の人間には出来ないだろう。その気すら起こさせないだろう。
「他のやつらなら、確かにおっかないかもな。けど、あたし達だぜ。だろ?ヘラ」
「確かにそうね。でしょう、ヘラ?」
「えっ、わたし!?わたしなの!?」
私達二人の間に視線を高速で行き来させるヘラの姿に思わず顔が緩む。本当に愛らしい親友だ。
ヘラは何か言いたげな口をした後、諦めたように肩を落とし、静かに頷いた。
「……うん、大丈夫。わたし達なら、大丈夫!」
「おう、その意気だ」
「ふふ、そう言ってもらえてよかったわ」
私達も合わせて頷いた。
ここまでヘラは努力した。私達は誰よりそのことを知っている。
私達の実力だって申し分ない。私達はいつだって、神に愛されている。
最早後は始めるだけだ。始まってしまえば、やることは一つ。全力を出して、あいつを打倒するのだ。
「じゃ、始めましょうか。二人とも、頑張りましょうね」
「おうよ、すぐぶっ倒してやる!」
「う、うん……!がんばろ!」
二人と軽く拳を合わせ、私達はそれぞれの武器を構える。
月が設えられた杖。無骨な、それでいて品のある巨大な斧。素朴な、使い込まれた杖。
私達の様子を見ると、ノーマルの脇に控える校長先生が頷き、軽く杖を振った。
そして、ノーマルが大きく唸り声をあげると同時に、会場中が歓声に沸き立った。
『星試験、開始します!』
響き渡るアナウンスと同時に、私達はそれぞれ動き出す。
私は杖に魔力を循環させ、詠唱を脳内で響かせる。
『破壊する者よ』
青く発光する大きな球体が目の前に出現し、一瞬で形を変え、ノーマルへと突き進む光線に変わる。
フレンは大きく飛び上がり、優に彼女の背丈を超える巨大な斧を、ノーマルの頭めがけて振り下ろしている。
「喰らいやがれ!」
ヘラは瞳を強く閉じ、唇を引き締めながら、私達に固く、壊れない半透明のオーラを纏わせた。
「守る者よ……!」
それぞれの立ち上がりは万全だった。
光線が炸裂し、フレンの斧は突き刺さる。ノーマルの体が、今にもはじけ飛ぶだろう。
私の思考が現実になると思われた、その瞬間だった。
光線が、何かに弾かれた。
「ん?」
ほぼ同時に振り下ろされたフレンの斧も、何か壁のようなもので阻まれたかのように、耳障りな音を立てて跳ね飛ばされる。
「おあっ!?」
その光景を見たヘラが、つっかえながら叫びだす。
「あ、あれ、見たことないぐらい固い、防御まじゅ──」
彼女が言い終わるよりも前、フレンがまだ空中にいる瞬間。
私は既に二度目の充填を終えていた。
杖が再び青く発光する。今度は先ほどよりも遥かに眩く。
『溶かす者よ』 『切り裂く者よ』
私は紫と緑の球体をそれぞれ同時に出現させ、瞬時に怪物へと放つ。
「つ、だよ──!?」
ヘラが言い終わった瞬間、二つの光弾はノーマルへと到達していた。
それぞれ液体と刃物の形を模して。
紫の液体はあえなく防がれる。空中へべったりと、液体がまとわりついた。
しかし、緑の刃物は違った。
刃物が透明な壁へ突き刺さると、一瞬抵抗を感じた後、するり、とその抵抗を乗り越え、ノーマルの皮膚へと接触する。
刃物はわずかにノーマルの皮膚を切り裂いた。紫の肌から微かな魔力が迸る。
私は魔力を練りながら叫ぶ。
「フレン!」
「お前バケモンかよ、任された!」
二度目の大ジャンプで空中にいた彼女は再び大きく斧を振り上げ、先ほど私が裂いた、透明な壁の隙間へと飛び込んでいき、そのまま壁を突破する。
彼女を阻むものは最早何もない。みしり、と、彼女の両腕に大きな力が込められている。
そしてそれが、一気に開放された。
「ふんっ!」
斧がノーマルへと、目にも止まらぬ速度で叩きつけられる。絶大な破壊力を込められたその一撃は、怪物の皮膚を抉り、編みこまれた魔力の繊維を何層にもわたって引きちぎる。
ノーマルの体の一部が欠けた。
フレンが体を蹴り、後退すると同時に、ノーマルが大きく咆哮し、体を震わせた。
会場中から、どっと歓声がなる。皆が腕を振り上げ、声が幾重にも連なり、地響きを立てていた。
「ヘラ、来るわよ!」
「う、うんっ……!」
私は次の魔術のため、魔力を充填し始める。その一瞬で、ノーマルの巨大な腕がこちらに届くまでには十分な時間だった。
私とヘラ、その目の前に、質量を伴った魔力の塊が振り下ろされる。
この攻撃で死んだり怪我をすることはない。私達の体が羽毛のように吹き飛ばされたとしても、見守っている先生方がすぐに私達を守ってくれる。実際的な意味での実戦ではない。
けれど私達にとって、負けとはつまり死と同義だ。私達の存在意義が、得た栄光が失われてしまうのだから。
だからこそ、三人が全力を出さねばならない。ヘラも例外ではなく。
ヘラは再び防御魔法を展開する。今度は半透明なんてものではなく、はっきりと目に見えるような壁を編む。
「砕けぬ、守る者よ……!」
その声に決死の想いを乗せながら、ヘラが解き放った魔力は、白亜の壁を作り出した。
薙ぎ払われたノーマルの腕が、壁に衝突する。
そして壁にヒビが入ると同時に、ノーマルの腕は大きく後方へと弾かれた。
「ナイスよヘラ、このままいくわ!」
「お、お願い、マリーちゃん……!」
ヘラに軽く微笑みかけた後、私は練り上げた魔力を光の玉へと形作る。
全て緑色。その数は8個。
そしてその大きさは、それぞれが巨人の瞳程。
「火力勝負よ、一気に出るわ!」
杖を軽く振り、それぞれを鋭利な凶器へと変え、同時に射出した。
そのどれもがノーマルの障壁を突き破ると、それぞれが繰り返し、何度もノーマルの皮膚を引き裂いてゆく。
行きつ戻りつ、刃物は跳ねるような形で、ノーマルを的確に削り取ってゆく。
そして障壁の隙間にまた、フレンが飛び込んでゆく。
「もういっちょ!」
圧倒的な破壊力を叩きつけられたノーマルは、悲痛な咆哮を上げ続けた。
「ら、ラピスちゃん……!」
「ん?なあに、ヘラ?」
ノーマルの攻撃を必死に防ぎながら、ヘラがこちらに振り向き、苦しそうな笑顔を浮かべている。
「こ、このままいけば、なんとかなりそうだね……!」
「……うん、そうね」
魔術を飛ばしながら、私は頷いた。
恐らくこのままこれを繰り返せば、ノーマルを削り殺せる。
ノーマルの攻撃はヘラの防御を貫通出来ず、怪物の障壁は私の魔術を防げない。
フレンの斧もよく響いている。あの速度でダメージを与えられるなら、こちらのスタミナ切れを心配する必要もないだろう。
実力を示すという意味では、もう既に決着はついていた。ノーマルは、詰んでいる。
喜ばしいことだった。星試験にも、しっかりと私達の実力は通じているのだ。
けれど、と。頭の中で、自らに問いかける。
相手を削り取って勝つ。
この行為は、相手の弱さに依存した決着ではないだろうか。
決着の瞬間を、ノーマルの耐久性によって決めさせることになる。主導権をノーマル側に渡しているような気がする。それは私にとって気分の良くないことだった。
やはり、明確な一撃を持って決したい。そういった欲望が、私の中で頭をもたげる。
私は息を大きく吐く。頭の中を空っぽにして、力を抜こうと努めてみる。
そうして、一つの結論を出した。
「ヘラ」
「ど、どうしたの、ラピスちゃん……?」
「今から私とフレンの全防御を貴女に任せることになるから、しっかり守ってね?慣れないことをするから、私とあの子、多分余裕がなくなるの」
「え?」
ヘラの何を言っているのか理解が出来ないといった顔を見て満足した後、私はノーマルの方へと一目散に駆け出した。
「えっ、えっ、ラピスちゃん!?」
後方にヘラの叫び声を置き去りにしたまま、私は次のジャンプに備えるフレンへと叫ぶ。
「フレン!あれで終わりにしましょ!」
「えっ、ハア!?お前……」
「行くわよ、準備!」
「お前もう……ほんとバカなやつだな!やるけど!」
フレンは悪態をつきながら笑い、そのまま大きく、斧を振りかぶる。
私は一つの魔術を自身に施した後、フレンと同じように、杖を振りかぶった。
そうして、お互いへと向け、互いの得物を思いっきり、可能な限りの力で投げた。
「よっしゃきた!」
「あっぶない、ちゃんとキャッチしたわよ……!」
フレンは左手、私は右手でそれぞれの武器を摑まえると、そのままそれを構える。
フレンは杖を構えると、慣れない様子で一つの呪文を詠唱した。
「えー……切り裂く者よ、だったか!?」
そうして出現した一つの、私が出したものよりも小さな緑の球体は、ノーマルめがけて勢いよく飛び出してゆく。
そうしてまた、同じように傷をつけた。ここで空いた障壁の隙間が、怪物にとって致命傷になる。
私は足に思い切り力を籠める。日常では味わうことのない、人知を超えた力を楽しみながら。
自らに施した、身体強化の魔術。その効力が全身の隅々までいきわたっているのを感じる。
そうして思いっきりと飛び上がり、フレンの見よう見まねで斧を振りかぶった。
密かに練習したとはいえ、酷く不格好ではあるだろう。
そのうえ、フレン程早く降りることが出来ない。ノーマルは意志を感じさせない瞳をぎょろりとこちらへ向けると、見た目には想像が出来ない程勢いよく、右の腕をこちらへと振り回してきた。
けれど、防御姿勢を取る必要はない。彼女が居るから。
丁度私にぶち当たるタイミングで、また半透明の膜が張りなおされる。地面の方を見ると、ヘラが死にそうな顔をしてこちらを見ていた。
「ふふ、よく出来たわヘラ!これで終わりよ!」
私はみしり、と音が鳴る程腕に力を籠め、息を止め、体を思いっきり逸らせた。
「──ふっ!」
そうして万力の力で、ノーマルへと斧を振り下ろす。
フレンのものには劣れど、しっかりと効力を発揮する強化魔術。フレンが事前に施している、斧そのものへの強化魔術。
相乗効果による破壊力で、斧はノーマルの頭部、その大部分を抉り取った。
怪物の体が硬直する。最早反撃もままならないようだった。
しかし、まだ怪物は消滅していない。まだ終わっていないのだ。
だから私は、最後の一撃を構える。
斧を捨て、フレンが再度空中へと投げてくれた杖をひっつかむ。
ノーマルへの一撃で空中へと跳ね上げられた私は、観客たちの遥か頭上で杖を構え、体中の魔力を装填する。
そうして、一言だけ、静かに呟いた。
『鳴る者よ』
その瞬間、金に輝く巨大な光球が現れ、そして。
光の剣に姿を変える。自然がもたらす神の裁き。落雷そのものに。
ノーマルの体を雷が貫いた。鼓動を狂わす、衝撃波と言えるような音を鳴らしながら。
貫かれた胴。そこから順繰りに、一瞬のうちにふくらみが拡散してゆき。
──怪物ははじけ飛ぶ。魔力の痕跡すら残さずに、一息に雲散霧消した。
辺りに風が吹く。ノーマルが消えた空間を埋めるように風が吹く。
風が皆を洗い、受けた衝撃を全体に行きわたらせる。
そうして風がやみ、一瞬の間が空いた。
そして、その次の瞬間。
一つの掛け声から、割れんばかりの拍手が一斉に轟いた。
会場中に音が跳ねて響き渡り、一つの不定形なリズムを刻むようで、鼓膜の心地がひどく良い。
勝利は確定した。これを持って、星試験は完全に終了し、私達は英雄になった。
熱狂渦巻く中、大きく息を吐く。左右から、彼女達が向かってくる。
「お前いきなりすぎるんだよマジで、よくやったな!」
「あ、あのままでも十分なんとかなったのに、本当にラピスちゃんはもう……凄いね!」
「二人とも、言いたいことを我慢しながら褒めてくれてありがとう。あっちの方が面白そうだったから、後悔はしていないわ」
言った瞬間、二人からほぼ同時に頭を叩かれた。わかっていて言ったので後悔はない。
少しの間ふざけあっていると、会場の上空から三つほど、小さな青い光がゆっくりと私達の手元へ落ちてくる。
「おっ、これか……」
「ら、ラピスちゃん……!」
「ええ。……『とこしえの指輪』ね」
軽く掴むと、指輪は光を失った。
とこしえの指輪。星試験の合格者に与えられる、形ある名誉。
この指輪そのものに効能はない。そんなものは必要ないからだ。これを手にしているということは、道具などに頼らなくても星のように輝く実力を持っているに違いないから。
ただそこにあるのは誇りのみ。一面が青いその指輪は、私が今までに見たどの美術品よりも美しい。そう思った。
それは勿論、指輪そのものの美しさによるものが大きいはずだ。だけど、それだけではない。
「……ねえ、フレン、ヘラ」
「あん?」
「どうしたの、ラピスちゃん……!」
「私、貴金属ってよくわからないの。この試験を受ける前、どこかのお店にこれが展示されていたとしても、見向きもしないと思うわ。だけど今、確かに、私はこの指輪がこの世で一番美しい物体だと感じているの。何故かわかる?」
「……そりゃあな?」
フレンは頷き、ヘラは微笑んだ。彼女をなぞるように、私も笑みを浮かべる。
「三人で手にしたものだから、に違いないわ。この指輪そのものにも、きっと価値はある。けれど何よりも、三人でこの場に立てて、この指輪を手にしていること。それがとても嬉しいの」
私は指輪を会場の灯にかざす。
青にきらめく一つの指輪。会場中の光が指輪に反射し、辺りが眩く輝きだすような錯覚を覚えた。
「とこしえの指輪、その意味はとこしえに刻まれる栄光。だけれどきっと、私達三人がずっと一緒、って意味にもなるに違いないわ」
「……なんかこいつ、恥ずかしいこと言ってないか?」
「うん、ちょっとだけ、そうかも……?」
「良いこと言ったんだから素直に褒めなさい!」
顔が熱くなる。思わず叫ぶと、二人はあまりにも楽しそうに笑った。
「……もう、ふふ」
だからつられて私も笑う。
私達の笑い声は、いつまでも鳴りやまない拍手の音の中へと吸いこまれ、会場中に溶けていくようだった。
いつまでもいつまでも、拍手の音が響いていた。
「なぁ、お前表彰式の話聞いたか?」
「ちょっとだけ、先生からね。あと二カ月後ぐらいにやるらしいって、それだけだけど」
「まあ年度末ってことなんだろうけどさ、正直遅えよなぁ……あの試験から丁度今日で一か月ぐらいだろ。そこでようやく表彰式の話で、実際やるのは二か月後だ?欠伸が出ちまうよ」
「まあ、やってもらえるんだからいいじゃない、歴代の伝統だし。先生方も気合入ってるわよ。生徒も全員集まるみたいだし。気長に待ちましょう。ね、ヘラ?」
「……」
ヘラは何故か顔を赤くして、黙りこくっていた。私はフレンと顔を見合わせ、肩を竦める。
あの試験から一か月経つ。雪はまだ降り積もり、辺りを寒さで覆っているが、もうじき春の兆しぐらいは現れるだろうと、皆が期待するようなタイミング。
私達は以前と変わらず、三人で過ごしていた。違いといえば、おそろいの指輪を全員左手の薬指にはめていることぐらいのものだ。そう、とこしえの指輪を。
以前にもまして三人で過ごすことも増えた。次の休暇ではお互いの家に行こうなんて話もしている。正しく、三人で一人。そういった様相だった。
しかし、今日はヘラの様子がおかしい。ずっとおかしい。私達に何かを言おうとするも、口をぱくぱくさせたかと思うと何も言わず、走って逃げ去ってしまったり。今のように顔を赤くして黙り込んでしまったり。日ごろは程ほどにおしゃべりな彼女が、今日は明確な言葉を何一つ発していなかった。
「ね、ヘラ」
「……」
「ヘラってば」
「あっ、ら、ラピスちゃん!なに、かな……」
「なにかなじゃないのよ、このっ」
「あうっ」
軽く額に指をあてると、ヘラは小さくのけぞった。
「朝から変じゃない。自分でもわかってるでしょ?」
「鈍いあたしだってわかるぜ。ずっと顔赤いじゃねえか」
「……そう、なんだよね。その……実は二人に、言いたいことがあって」
額をさすりながら、ヘラはまた俯いた。
「言いたいこと?」
「う、うん……」
「なんだ、言いにくいことか。言えよ、あたしらなんでもきいてやるぜ」
「そうよ、なんでも聞くわよ。私達、三人で一人じゃない。遠慮なんてしないで?」
ヘラに何かあったなら、すぐに助ける。親友の悩みなんて、他の何よりも優先するべき事項だ。
フレンも同じ心づもりだろう。例え彼女の悩みが火の中にあろうとも、喜んで足を突っ込むはずだ。
「ほら、言ってみて?ゆっくりで大丈夫だから」
「……う、うん。実はね、悪い報告とかじゃなくって、その……」
言ってから暫く、ヘラは言いよどんだ後、赤い顔のまま、勢いよく私の顔を見て言った。
「じ、実は……彼氏が、出来ました……!」
「……」
「……か、彼氏が、出来たんだよ……!」
「……」
「ら、ラピスちゃん……?フレンちゃん……?な、何か言ってくれないかな──」
ヘラがきょろきょろと私達の顔を見始めた直後、私の瞳から熱い塩水が迸った。
「えっ!?ラピスちゃん!?」
「……そ、そうか……」
「フレンちゃんも!?なんで泣いてるの!?」
ヘラが両手をわたわたと振り回すのを他所に、私達は静かに涙を流し続けた。
悲しんでいるのではない、断じて。本人がこれだけ恥ずかしそうに、けれど明るい声のトーンで話していることだ、嬉しいことに違いない。祝うべきことだ。
けれど、それでも。
「……よ、予想外すぎて……あと、なんだか、寂しくて……そっか、そうよね、ヘラにも出会いはあるわよね……」
「む、娘が家を出ていくってのはこういう気持ちなのか、この年にして知ることになるとはな……」
「わ、わたし、娘じゃないよ!?というかどこにも行かないよ、出ていかないよ!」
ヘラが私達を宥めてくれて尚、私達が落ち着くまでには時間がかかった。鼻をかみ、涙をぬぐい続けた。
そうしてようやく落ち着いた頃、ヘラから詳細を教えてもらった。
なんでも街で相手の男が道に迷い、困っていたところを偶然助けたことが出会いのきっかけだったらしい。そこからボイス手紙でやりとりを続け、つい昨日付き合うことになったのだとか。
学内に男性はおらず、私達は相手の男のことを何も知らないため、不安はあったが、ヘラが選んだ相手なのであればきっと大丈夫だろう、暫くやりとりはしていたようだし、と、そこについては言及しないことにした。
とにもかくにも、ヘラにとって、初めて出来た恋人だ。私達が祝わなくて誰が祝うというのか。
私は目を擦り涙をぬぐった後、頬を緩めた。
「おめでとう、ヘラ。貴女にとって大切な人が増えたこと、心から喜ばしく思うわ。幸せになって頂戴」
「そうだぞ、絶対幸せになれよな。なんかあったらすぐ言えよ、あたしがすぐ解決してやっから」
「うんっ……!二人とも、ありがとう……!二人みたいな素敵な恋、してみせるね……!」
ヘラは幼い子どものように輝く笑顔を浮かべた。
その笑顔を見ていると、胸の中が温かく、前が明るくなったような気がした。
私達は強い絆で結ばれている。その上こんなに喜ばしいことだって起きてしまう。きっとヘラの笑顔の量は、更に増えていくのだろう。
どこまでも幸福に向かっていく私達の道のりは、余りにも順風満帆すぎて恐ろしい程だった。
ただこうやって三人で話をするだけで、私達は幸福を実感することが出来る。こんな時間がずっと続くのだろうと、私は一人、噛み締めていた。
それから二週間程経った。
「……」
「ヘラ?大丈夫?」
「……ああ、ラピスちゃん。ごめん、ちょっとぼーっとしちゃって……」
眉を下げ、どこか困ったようにヘラは笑った。
その笑みに何も言えず、フレンの方を見ると、彼女も難しい顔をしてこちらを見ていた。
考えていることは同じようだった。いや、誰にだってわかることなのかもしれない。
「……ねえ、貴女、ここ最近、凄く疲れているように見えるんだけど……本当に大丈夫?」
私は正面に座る彼女へと、恐る恐る問いかけた。
近頃、ヘラの様子がおかしい。
異変が顕著になったのはここ数日のことだったけれど、思い返してみれば一週間程前からその兆候はあったように思う。
元気がない。疲れていそう。覇気のなさが、顔に表れていた。
彼女はいつも必死そうな様子を見せることはあれど、人に疲れた様子を見せるようなタイプではなかった。彼女の眩しい笑顔に、優しい言葉に、何度救われたことか。
それが近頃は、くたびれた表情、薄い反応、暗い顔。誰が見ても、彼女の疲労感は明らかだった。
けれど彼女からは何もこちらに言ってこない。悩みがあるなら何でも聞く、と伝えたばかりなのに。
「あはは、大丈夫……ちょっと、勉強頑張ってるんだ。だから寝不足で……」
このように、躱されるばかりだった。私もフレンも、彼女が何か嘘をついていることには気が付いている。誠実な彼女は、嘘をつくのが下手だったから。
原因に心当たりはある。けれど軽率に踏み込んでいいものか、私にもフレンにも、躊躇いがあった。
それにしても、ここ数日の彼女の落ち込み様にはひどいものがある。目の下には隈、顔は始終俯いていると言った様子だった。
私は慎重に言葉を選びながら、心あたりに関しての推測を話す。
「……彼氏さんとの仲、大丈夫?」
やはりこれしか思い浮かばない。彼女にとって大きな変化と言えばこれだろう。
私達は彼女の報告を聞いた時、何かあれば必ず助けると誓った。何か一言でも助けを求められたのなら、私はすぐさま相手の家にでも乗りこむつもりだった。
しかし。
「っ、ち、違うよ!変なこと言わないで!」
私が声をかけた途端、彼女は声を荒げ、勢いよく立ち上がった。
「恋人とか、そういうことがうまくいってないとか、そういうことじゃないから!変なこと言わないで!」
「えっ、あっ……ごめん、なさい」
彼女の剣幕に、思わず身がすくんだ。
「……おい、どうしたんだよヘラ、急にそんな──」
フレンが立ち上がり、ヘラの肩に手を置こうとすると、ヘラは身を避けて、
「……ごめん、ちょっと用事、思い出しちゃった」
そう呟くと、こちらを見ずに俯いて、教室を出て行ってしまった。
後には私達二人がぽつり、と残されるのみ。
「……どうしたのかしら、ヘラ」
「どうしたもこうしたも、彼氏のせいだろ。うまくいってねぇんじゃねえの?」
「やっぱりそうよね……」
ヘラの相手のことは何も知らないが、あの温厚なヘラがこんな状態になってしまうんだから、性格に相当問題がある人なのだろう。
私達としてはすぐにでもそんな相手からは離れて欲しいと思うし、助けたいと思う。
「……けど、あそこまで拒絶されちゃあ、ね……」
「勝手に手出しするわけにもいかねえよな……」
ヘラがあれ程激昂しているのだから、下手に手を出せばどうなるかわからない。
それに、まだ付き合って間もない。お互いに少しのすれ違いでうまく行っていないだけなのかもしれない。
私達はひとまずヘラを見守ることにした。
けれど心の中では、ひとさじの不安が渦巻いている。
「……ヘラ……」
彼女が出ていったその後から、私は何故か目を離すことが出来なかった。
それから一週間。
「あ、ヘラ……」
「ごめん、今日も先に帰るね」
私達の顔を見ないまま、ヘラは足早に教室から去っていった。
「……今日もろくに話せていないわね」
「ああ……」
私とフレンは大きく息を吐き、俯くしかなかった。
ヘラの様子は改善の兆しを見せない。それどころか悪化の一途をたどっているように感じる。
いつも顔を伏せて周囲を見ず、ずっと考え事をしている様子。声のトーンも低くなり、あれだけ素敵だった天使のような笑顔もなりを潜めた。
私達とも、どこかぎこちなく数度の会話をするのみで、いつも一人で帰ってしまうようになった。
「なあ、いい加減、ちょっとでもあいつのことを探るべきじゃねぇか?」
フレンがこちらを向き、どこか不安げな声でそう言った。
「でも、彼女自身の問題だし……」
「それはそうだし、無理に介入するのはよくねえよ。けどさ、限度ってもんがあるだろ。このまま見過ごすわけにはいかねぇよ」
「……そうだけど」
フレンの言うことはもっともだ。
今のヘラは、誰が見たって様子がおかしい。数日ならまだしも、これだけ長い間顔が曇り続けているし、その原因もある程度は予測できる。この状態で放っておけば、更に何か悪いことが起きるのではないかと考えてしまうのは当然だった。
「……」
そうね、と言いかけた瞬間、脳裏にヘラの顔がよぎった。
つい先日、彼女に彼氏のことを訪ねた瞬間のあの表情。
私がまだ見たことのなかった彼女。
あの顔を思い浮かべてしまうと、私の手足はぴしり、と石化したように動かなくなってしまう。背筋が伸び、嫌な汗が背中に垂れた。
「……もう少しだけ、様子を見ましょう。やっぱり、彼女の意志も大切だから……」
「……お前がそう言うなら、いいけどよ」
唇を曲げ、何かを抑え込んだような様子で頷くフレンを見て胸が痛む。
けれど、私はどうしても、一歩進む気になれなかった。
「……さあ、帰りましょ。暗くなる前にね」
私は立ち上がり、席を後にしようとした。
すると、目の端に一つの異物が目についた。
「……フレン、これ……」
席を立ち、私が拾ったそれをフレンにも見せる。
「ん?なんだこれ、ボロボロの手紙じゃねぇか」
「ただの手紙じゃないわよ、これ。ボイス手紙だわ」
指先でつまむように掲げながら、私はそれを見つめる。
ボイス手紙とは、声を直接録音することの出来る手紙だ。
声を封じ、宛先に配達し、受け取り手が開いた瞬間音声が流れる。文字よりも直接的に想いを伝えることが出来る優れモノだ。
このボイス手紙は繰り返し利用することが出来る。お互いに送りあうことで劣化し、音声が掠れるようになっていく。ある程度の使用回数で買い替えていくのが一般的だった。
しかしこの手紙は明らかに耐用回数以上に使われた形跡があった。これでは一部の声がもう聞こえなくなっているはずだ。
つまんだ手紙を裏返し、書いた人物の名前を探す。
「……これ」
右下の方に小さく、ヘラの名前が記載されていた。
「……フレン」
「……」
フレンは首を振り、私を顎でさし示した。お前に任せる、ということだろう。
これを聞けば、彼女の置かれている状況がある程度把握できるかもしれない。それも本人に知られることなく。
躊躇いはあった。他人の想いを覗くなんてことは許されることではなく、ましてや親友のものだ。本人にバレないとしても、やってはいけないことだろう。
けれど、このまま放っておいて、状況がよくなる兆しもない。せめて知ることさえできれば、彼女を助ける良い方法が思い浮かぶかもしれない。
私は暫く口を開けたり閉じたりした後、強く、手紙に指をかけた。
「聞くわよ、手紙の中身を」
「おう。あたしも共犯だ」
短く、けれど確実に私の心を支えてくれるその一言に頷きを返しながら、私は手紙を開いていった。
そうして、彼女の想いが流れ始める。
「……っ、ヘラ……」
聞きながら私は、ずっと拳を握りしめていた。
聞き終えた後手のひらを覗くと、食い込んだ爪によって、一滴の血が流れ落ちていた。
「……そんなことしたんだ」
翌日。日が暮れ始め、うっすらと赤く染まり始めた校舎の壁を背に、私達はヘラに手紙を聞いたことを話した。
ヘラの細く、射貫くような視線が私に突き刺さる。息が詰まり、頭がさっと冷えていく。
けれど、言わずにはいられない。あの内容を聞いて黙っていては、友達とは呼べないだろう。
「あ、貴女のことを思って、よ。最近の貴女が、とても苦しそうで、見ていられなかったの」
「頼んでないでしょ、そんなこと」
「頼まれてなくても心配すんだよ、あたしらは親友だろうが!」
フレンがヘラに詰め寄り、手に持った手紙を突き出す。最早擦り切れ、まともに声を聴くことは出来ない、ボロボロの手紙を。
「で、聞いてみればこれだ。聞いたこともねえような苦しい声で、悲しそうな声で、お前は相手のクソ男にお願いしてやがる。『貸した金を返してほしい』、『次はいつ会えるのか知りたい』、『わたしの他に何人女がいるのか』、『わたしは何番目なのか』ってな!」
顔を真っ赤にしながら、フレンは手紙を地面に叩きつけた。そしてそれを指さし、叫びを上げる。
「なんであたしらに言わない!?こんなクソ野郎、すぐにでもぶっ飛ばしてやる!誰が見てもこいつはクソだ、一度や二度ぶん殴ったって誰であろうと許してくれるだろうよ!そもそもこんなやつと付き合い続けてる時点でおかしい話だ、それだってあたしらに話してくれれば助言できた、お前に気づかせてやれた!こんなのに、お前が傷つけられてるって思うと、あたしは腹が立って仕方ねぇ……!」
言いながら、フレンは涙を流していた。声は震え、うまく言葉が出なくなっている。
その光景に、胸が潰れそうになりながら、私も一歩踏み出し、ヘラを正面から見据えて、なんとか言葉を絞り出す。
「そうよ、ヘラ。私達は親友じゃない、三人で一人なのよ!貴女が言ってくれれば、いつだって助けに行ってあげる。こんな男、余りに酷すぎる……!一緒にいてはいけないわ、貴女にふさわしくないもの!だから言って頂戴、助けてって。私とフレンなら、きっと貴女を助けられる……!」
目から涙が溢れ、胸を抑えていないと話せない。呼吸が荒くなり、背中の方まで痛みが走る。
けれど、必要なことは言えたはずだ。きっとヘラも、本音を話してくれるはずだ。
ヘラは暫く俯いた後、静かに顔を上げた。
「……え」
その表情は、私が予想していたものとは大きく違った。
彼女の顔は引きつり、真っ赤になっている。恐ろしいほどの剣幕を浮かべながら、歯をむき出しにしている。強くかみしめながら。
強く強く拳を握りしめ、微かに見える指先は真っ白になっている。
まるで、野生の獣のような姿。恐ろしいまでの威圧感に、私は一歩も身動きが取れなかった。
低い声で、ヘラは唸るように話し始めた。
「いっつも、いっつも、そうやって、わたしを馬鹿にする。わたしに出来ないことでも、自分たちなら出来るって偉そうに、自信満々で、平気な顔して言ってくる。いつもいつもいつもいつも見下して……優しそうなふりをして、見下している癖に、見下しているから気まぐれで助けてるだけの癖に……!」
「そ、そんなことは──!」
「うるさい!」
声を裏返しながらヘラは叫び、頭を掻きむしった。その指には血が付着していた。
「見下されて見下されて、わたしがどれだけ惨めだったか、知ろうとしたこともない癖に!自分たちなら出来るからって見下さないで、強いからって偉そうにしないで!わたしは、わたしは恋だって、二人に憧れて始めたのに、わたしには恋なんて出来ないって、どうにもならないって見下して!指図しないで、近寄らないで!二人に助けてもらいたくなんてない!」
地面を蹴り、最早理性がなくなったかのように叫んだ後、ヘラは走ってどこかへと行った。
私達は、その場から一歩も動くことが出来なかった。彼女の慟哭が、私達をこの場へと縛り付けていた。
「……フレン……」
頭の中の血液が全て抜けたかのような感覚を覚えながら、彼女の方を振り返る。
フレンも、ただ静かに首を振っていた。目を見張り、口を小さく開けながら。
いつの間にか、陽は大きく落ち始めていた。もうすぐに辺り一面が赤く染まるだろう。
その夕陽の眩しさで、私の目にはもう、ヘラの姿が見えなくなっていた。
あの日から一週間。
私とフレンは、何度も彼女に声を掛けようと言いあって、お互いに励ましあって。
結局、一度も話しかけることは出来なかった。
視界に彼女が入りかけるだけで、体が震えた。
助けなければいけない。何度自分にそう言い聞かせても、体は言うことを聞かなかった。
日に日に彼女は疲弊していく。背を丸くして歩き、声も小さく、萎れていく花を見るようだった。
痛ましく、辛い彼女の姿は誰もが認めているはずなのに、誰も声をかけようとしなかった。
そして、本日最後の授業が終わった直後。
「では皆さん、本日も残りの時間を有意義に使うよう……ん?」
薬学のマリー先生は突如ヘラの方を向くと、訝しげに目を細めた。
「……貴女、右腕に秘匿の魔法をかけているわね。外れかけているわよ」
「っ!」
ヘラは目を見張り、すぐ二の腕辺りを抑え、俯いた。
今の一瞬で、彼女の腕がどうなっていたか、見た者はきっといないだろう。私以外には。
私の胸は、不快な、ばくばくとした大きな音を奏で始めていた。
先生は気にする様子もなく終わりの挨拶を済ませた。
皆が教室を出ていこうと準備を始める中、私の足は止まることなくヘラの元へと進んでいった。
恐怖よりも何よりも、胸を埋める不安が私を突き動かしている。
彼女の元へとたどり着いても、こちらを見ようともしなかった。けれど、もう、見逃せない。
私はすぐに彼女の右腕を取った。
「……何」
低い声でヘラが言う。
「何、じゃ、ないわよ、貴女これ……!」
その二の腕に記されているのは、焼き印だった。
小さなものに見える。ただの軽いやけどに見える。
けれど私はそれがただのやけどではないことを知っている。この焼け方は事故によるものではないと、過去の研究からわかっている。
これは、自傷行為の痕だ。
自らの魔術によって腕を焼いている。この焼け方はそれ以外にあり得ない。
加えて、焼け痕の周囲に微かだが継ぎ目がある。恐らく彼女は、自らを焼き、自ら回復魔術で傷を治す、そんな行為を繰り返している。焼け痕の全体像は腕を覆うほどになるだろう。
彼女の精神がどれだけ擦り切れているのか、それがこの腕にありありと表れていた。
「こんな、こんなこと……酷い……!い、今すぐ、こんなことはやめないと──」
「……いいよ、もう。もう、終わるから……ほっといて……!」
彼女は私の手を振りほどき、腕をこちらに勢いよく押し付けた。
「痛っ……!」
その勢いに私は突き飛ばされ、しりもちをついてしまう。
ヘラは私をちら、とだけ見据えた後、すぐにその場を走り去ってしまった。
「おい、大丈夫か!?」
すぐにフレンが駆け付けてくる。彼女の腕を借りて立ち上がると、私はまっすぐに、彼女の目を見据えた。
「私は大丈夫。それより、彼女を追いかけましょう」
「……やばいのか?」
「ええ、あそこまでいってしまっているなら、もう、何としても止めないといけない。怯えている場合じゃないわ。私達二人で、彼女を止めましょう」
「……わかった」
それだけ言うと、彼女は私の手を取ったまま、すぐに急ぎ足で歩き始めた。
説明は不要、ということだろう。彼女のこういうところは、本当に頼もしい。
心のなかでありがとう、と呟く。
きっと彼女と一緒にならば、ヘラを止められるはずだ。
二人ならきっと説得できる。嫌われるかもしれない。けれど、その覚悟はもう出来た。
ヘラが自分を傷つけてしまう程に悩んでいるのなら、親友として、例え彼女と生涯話せなくなろうと止めてみせる。
ヘラが幸せになるのならそれでいい。だって彼女は親友なのだ。
私達はいつも三人一緒。例え離れることになるとしても、いつかきっとまた出会えるはずだ。
ヘラと私達は親友で、何物にも代えがたい関係なのだから。
廊下を走る。固く、手を握りしめあいながら。
彼女の言っていた一言が頭をよぎる。けれどそれについて考えている暇はない。
ただ、走った。
ロンサムの森。ここはそう呼ばれている。
この森は、年中地面が白く染まっている。
積雪が原因ではない。灰だ。
遥か昔、付近の山が大噴火を起こした。自然を大切に扱わない人間に、山の神の怒りが落ちた、と伝説では言われている。
そうして当時暮らしていた狩猟民族ごと、灰は森全体を覆った。
それ以来、この森の中は外界と隔絶され、時間が止まっているとされる。新たな植物の類は育たないばかりか、既に育っていた木々は成長も、腐敗もしない。遥か昔、数百年前と同じ姿でそこに立っている。
地面の下で眠っている人間達の恨みによるものだ、という見方もある。死者が、生者の立ち入りを許さないのだと。
そういった経緯もあり、今やこの森に近づく人は殆どいない。若さを持て余した学生が自身の無謀を誇るために立ち入って、その静けさに気圧され立ち去っていく。そんな姿が時折観測されるぐらいのものだった。
そんな森に、ヘラは住んでいる。たった一人で。
節約のため、だとか。
私とフレンは灰を蹴り、ヘラの元へと急いでいた。
「おい、ほんとにこっちにいるんだろうな!?」
「ええ、痕跡を残す魔術をかけたもの、間違いないわ!私には見えてる!それに彼女、この辺りに住んでるって前に言っていたから……!」
「ならいいけどよ!会った後、どうする!?何を話せばいい!?」
薄く光る足跡を目で追いかけながら、フレンに叫び返す。
「まず彼女の身動きを取れなくしましょう、私が縛るわ!話を聞いてもらうことすら、きっと今は難しいから……!」
「そんぐらいしなきゃいけないってぐらいヤバいってことだな!」
「ええ、だって、あの子、自傷行為をしているし……」
「マジかよ、あいつ……!」
フレンの顔が歪む。私の脳裏にも、再度あの痛々しい傷跡がよぎり、胸に痛みが走るようだった。
「そこまでいってんなら、確かにもう止めなきゃなんねぇ段階だな!」
「……それに、その……」
「あぁ、まだなんかあんのか!」
「確証は何もないけど、あの子……」
ヘラの最後に発していた一言。その一言が、私をとらえて離さない。
終わる、とはどういうことなのか。
今の彼女の状態で終わる、終わらせる、なんてことの意味を考えるとするなら、それは──。
「……荒っぽいことになるかもしれない、覚悟しておいて」
「……わかった」
フレンは短く頷くと、息を乱しながら、無理に作ったような微笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、あたし達なら。最強コンビだろ?全部何とかなるさ。いつだってそうしてきたんだ」
「……ええ、そうね」
「それにさ、あいつは大切な親友だ。お前と同じぐらい大切なやつだ。この世で最も大切な二人を、あたしは絶対守ってみせるよ。お前だって同じ気持ちだろ?」
その言葉に、思わず目の端が熱くなる。
そうだ、私達は輝く星だ。誰よりも優れている。その二人が力を合わせれば、どんな事態にだって対応できる。
それに、ヘラのことを誰よりも思っている。ヘラなしでは私達は生きていけないだろう。私達は三人で一人だ。
どんな状況になっていたとしても、手遅れになる前に、彼女を必ず止めてみせる。
「……一緒よ、フレン。一緒なら私達、なんだって出来るわ」
「ああ、一緒だ、ラピス。あたし達なら大丈夫だ」
頷きあい、前を向く。
重い足を振り上げながら、只管走った。
そうして前へ前へと向かっていくうちに、ようやく一つの建物が見えてくる。私達は息を切らせながら、足を止めた。
小さな小屋だった。三角の白い屋根、木製で作られた壁面。正面に向けて小さな窓が一つ設置されており、その右手側に入り口が見えた。
小屋の周囲に人の気配はない。辺りは他と変わらず、死の気配が漂うばかり。
いつの間にか落ちていた夕陽が、小屋全体を赤く染め上げている。灰に覆われた景色の中で、小屋だけが、異質な生き物のような存在感を放っていた。
「……痕跡が途切れてる。間違いなくこの中にいるはずよ」
「そうか。どうする?入っちまうか」
少し状況を頭の中で整理した後、私は首を縦に振った。
「ええ。余裕もないもの、入りましょう。躊躇っている暇もないし、後で謝ればいいから、ドアを無理やり──」
フレンに指示を出し、中に突入しようとしていたその時だった。
どん、と。
小屋の中で大きな物音がした。
「……え?」
フレンの動きが止まる。私の視線も、吸い寄せられるように小屋へと向かった。
一瞬の間が空く。一切の音がない、静寂の瞬間。
そしてそれを切り裂くように、また激しい音が鳴る。小屋の中で、何かが倒れるような音。
ついで、何かが壊れる音。陶器の類だろうか、不愉快な、甲高い音が鳴り響き、何度も何度も小屋が揺れた。
そうして、
「──!」
小屋の中からくぐもった声が聞こえる。
低い、それでいて野太い叫び声。
怯えたような、男の声だった。
「こ、これって──」
思わず口元に手をやりながら、私は目の前の現実を受け止めようと必死に頭を回す。
中にいる人物は、ヘラともう一人。
今この場所にいる人間なんて一人しかありえない。
それは今まで何よりも憎んできた相手。今回の事態の元凶とも言える男。
ヘラの彼氏が来ているに違いない。
しかもそいつが叫び声を上げている。聞く者の体全体を縮み上がらせ、震わせるような、恐ろしい叫び声を上げている。
中で何が起きているかは明白だった。
「……っ」
歯がカチカチとなり、口元を強く抑えてしまう。
ヘラ一人の状況を想定していた。ヘラの元へと駆け付けて、彼女と話をし、必要ならば抑えつけて、心を開いてくれるまで話す。その状況のため、走りながら頭を回し続けた。
しかしこれは違う。
私達が相対することになるのは、恐らく、もっと直接的な暴力の現場。
ここに顕現しているのは、戦場だろう。
「……ふ、フレンっ」
震える体を何とか抑えようと、私はフレンへと目をやった。
彼女は両手を強く握りしめながら、私へと低い声を返す。
「……まずは、様子を確認しないとな。大丈夫だ、あの窓のところへ行こうぜ……」
フレンは足をゆっくりと動かし始める。
彼女が懸命に恐怖と戦っている。その事実が、足を止めることを許さない。
大丈夫だ、私達二人なら大丈夫、と、何度も心の中で言い聞かせながら、慎重に前へと進む。
窓のすぐ傍へと張り付き、中の様子を伺おうと、カーテンの隙間を覗いた。
その瞬間、私達の目の前へ、衝撃を伴いながら人影が突如張り付いた。
「ひっ!?」
目の前の恐怖に詳細を見ることも叶わず、私は仰け反った。
そうして離れたのとほぼ同時。
窓が破壊され、吹き飛ばされ、中から大量の赤い液体が迸った。
「ぐっ!?」
私もフレンも真正面から勢いよくそれを浴び、立っていられなくなり、思い切り背中を地面に叩きつけられる。
鈍い痛みが一瞬の内に背後を走り、一瞬の間呼吸が止まった。
「ひっ、ひゅっ」
痛みに全身が支配される。背中が燃えているかと錯覚してしまうようだ。無理やり呼吸を静めながら、なんとか上半身を持ち上げる。
「ふ、フレン……!?」
辺りを見渡すと、フレンも丁度起き上がったタイミングのようだった。だが。
「はっ、はっ──!」
フレンが息も絶え絶えに、自らの両手を見開いた目で見つめていた。
フレンは、全身が赤黒く染まっていた。髪も、顔も、体も、元の状態である部分を判別することが出来ない程に赤黒く、ねっとりとした液体に包みここまれていた。
その姿は、生まれたての胎児のようだった。しかし胎児のような崇高さはない。そこにあるものは、圧倒的なまでの恐怖と、匂いたつ忌避感のみ。暴力的なまでの生が、彼女に纏わりついている。
彼女の元へ行くために、なんとか体を起こそうとした、その時だった。
「……た、たすけ……」
「えっ、あっ……!」
声のした方へと首を曲げる。
そこには一人の男が倒れていた。
短い髪、異様なまでに細長く白い体。背中には、今しがた刻まれたと思われる、黒く滲んだ刺し傷。何度も何度も刺され、えぐり取られているようだ。漏れ出る血液が、男の全身を覆っている。
怪物のような男を想定していた。ヘラを傷つける怪物であると。
しかし、そこに見えるのは、頭の中で思い描いていた姿には微塵も似ていない小男。人間だった。
「た、たすけて……」
男がずり、ずり、と、虫のように這い寄ってくる。体を動かすたびに、ぴちゃぴちゃと、血液が跳ねる音がする。
私の体は、金縛りにあったかのように動かない。頭から首筋にかけて走る冷たく気持ちの悪いものが、少しでも動けば何かが壊れてしまうと私の脳に直接警告を発しているかのようだ。
男が足元に這い寄ってきた。顔を上げ、こちらを見るその目からは既に光が失われかけている。この男を構成する決定的な何かが、急速に漏出している。
男はゆらゆらと腕を持ち上げ、私の左手を掴んだ。
冷たく、濡れた手。手のひら全体が、ねっとりとした粘液で包まれる感触。人間の腹の内側に、直接手をねじり込み、ぐちゃぐちゃとかき回しているような光景が脳内に過った。
「ひっ……」
「たすけて……たすけてくれよぉ……」
握られた力は弱く、簡単に振りほどけるはずだった。
けれど、動けない。体に力が入らない。
「ら、ラピス……!」
フレンが膝に手を置きながらふらふらと立ち上がり、よろめきながらこちらに近寄ろうとしてきた。
その姿が目に入ったと同時に、一つの物音が聞こえた。
灰を踏む音。
軽く、小さなはずのその音は、しかし確かに私の鼓膜へと到達する。一歩ごとに、静謐なこの世界へヒビを入れるような音。
音の鳴る方へ、油を刺し忘れた機械のように、首を無理に動かす。
ヘラが、こちらへ歩いてきていた。
左手には杖、右手には小さなナイフ。
その銀の凶器から、点々と赤黒い液体が滴っている。ぽつ、ぽつ、と、冷えた血液が、彼女の一歩を大地に刻み込んでいる。
そしてなにより、ヘラからは、生気が感じられなかった。肩は落ち、足を引きずるように、重苦しい一歩を重ねている。両の手はだらりと力なく下げられ、俯いているその顔は、何十年も幽閉された囚人のように見えた。
「へ、ヘラ……?」
声が震える。冷え切った私の頭は上手く働かず、気が付けば発していた。
彼女は、私のことに今初めて気が付いたかのように、うつろな目をこちらに投げた。
「……ラピスちゃん、来てたんだ……フレンちゃんも……」
ほんの少し、私とフレン、両方に視線を行き来させた後、ヘラは微かに息を吐き、小さく笑った。
「……わたしね、うまくやれると思ってたの。いい気になってたんだね、きっと。二人と一緒に試験に受かって、指輪を手に入れて。自分だって二人に負けないぐらい特別なんだって、そう思っちゃった。だから二人に出来ることならわたしにも出来るんだって、二人に並んでるんだって思って。素敵な恋だって出来るって、そう思ったし……何か問題があっても、わたしだけで解決できるんだって、そう思っちゃった」
言った後、ヘラは空を見上げた。
夕陽と返り血が、その全身を赤く染め上げていた。
「でも、だめだね。だめだったよ。わたしじゃ、だめだ。その人と付き合って、ほんの少しだけ幸せな時を過ごして、それから苦しい思いを沢山した後、気づいたの。わたしって、何にも出来ないんだって。その人がわたしにしてきたこと、わたしが許せなかったことは、普通の人なら何でもないようなことだったのかもしれない。けど、許せなかった。それに、許せないけど、止められなかった。それと……二人ならこんな人とはすぐに離れることが出来るんだろうけど、それも出来なかった。離れることが怖くって。どうしようもないよね」
何一つ音を発しない世界で、再び彼女の乾いた笑い声だけが辺りへと響く。
「わたしは何にも特別じゃないんだ。普通の人が出来ることも出来ないんだ。どうしようもない愚図だって、とっくにわかってて良いはずなのにね。勘違いしちゃってた。二人とずっと一緒にいたから、わたしまで特別なんだって。素敵な恋だって出来るんだって。……今になってやっとわかったんだ。素敵な恋なんてない。特別な二人の間にある恋だから、素敵なだけなんだって。わたしじゃだめ、どうしようもない、何をやっても素敵になんてならない。何をやっても醜く汚い。そうなるように、わたしは生まれてる」
「そ、そんなことは……!」
声を上げようとした私に、ヘラが笑みを向けた。
その表情は、生涯私の脳に刻み込まれることとなる。
そこには、何もなかった。
張り付けたような笑み。頬の筋肉が自立して動いているだけであるかのような笑み。そこには喜びや、悲しみの感情すら見受けられない。
ただ、ほんの少しだけ。漏れ出る殺意が、私を刺しているかのような表情。
私の中の何かが凍り付いてしまった。
笑みを浮かべたまま、彼女は無理やりに言葉を吐き出すように、低く、震えた声で、言葉を発した。
「ラピスちゃんに出会わなければ、こんなことを思うことはなかったかもね」
「……え」
そう言うと、彼女はまた、下を向く。そうしてまた、歩き出す。
「……おしゃべりは終わり。もう、わたしはわたしを生んだ世界を許せない。だからもう、全部終わらせる」
彼女はこちらに向かってくる。小さな姿が、徐々に迫ってきている。
この男にとどめを刺すつもりなのだろう。彼はまだ、私の手を握っている。
「……あ」
ここで気付く。私は、選択をしなければいけないということに。
ヘラは彼を殺すつもりだろう。この状況ではもう、そう考えない方が不自然だ。
なら、親友としての行動の正解は何だ。
この男にはきっと非がある。だから、ヘラに手を貸すべきなのか。
それとも、親友にそんなことをさせるわけにはいかないと、ヘラを止めるべきなのか。
選択をしなければならない。ヘラが辿り着くまでの、僅かな時間の中で。
体中の細胞が悲鳴を上げ始めていた。精神と肉体、その両方が過度に摩耗している。ヘラが一歩進むごとに、頭の中の核に当たる部分が軋み、捻じれ、目の前の景色が歪むほどに緊張を訴える。
吐いた息が重みを伴い、かけがえのないものが失われていくようだ。
そうして軋む頭で、ある一つの事実にぶち当たる。
この選択は、どちらにしてもある重要な共通項が存在している。
どちらを選んでも、私自身の命を懸けなければいけないということだ。
男は瀕死だ。きっともう長くはない。だが、死に際に何かをしないとも限らない。ヘラを手伝うのであれば、必然的に男から反撃され、命を失う可能性がある。
そしてヘラを止めようとするのならば当然、彼女との戦闘になる。
ヘラはもう、私相手でも退くことはないだろう。必ず私の命を狙うだろう。
二つに一つ。どちらも確実に訪れる未来だった。
「……ひっ、ひっ……」
鈍化する時間の中、肺が直接絞られるような緊張感が私を襲う。
顎が震えて歯がかちかちと鳴り、手足は末端まで冷凍されているようだ。
その選択の重みで、体が潰れそうになる。
命を懸けること。ヘラのために。
どちらの選択をしても、私はやりとげられるはずだ。
私は星だ。偉大な魔術師だ。
私ならやりとげられる。この男であっても、ヘラであっても、必ず下すことが出来るはず。
震える手で、背中の杖を掴む。
私達は親友だ。
親友だから、彼女のために出来ることがあるはずだ。
力の入らない足を無理やり地面に押し付けながら、ゆっくりと立ち上がる。
もう彼女は目前まで迫ってきている。決断の時だ。
短く息をし、杖を両手で握り、構える。
私はヘラを、その顔を見た。
この世の全てに憎しみを向けているような、それでいて誰よりも自分を罰したいと願っているような、その目を見た。
それを見た瞬間、私の脳の中で、一つの結論が下された。
親友だからこそ、私は──。
足を一歩踏み出そうとした、その時だった。
「ラピス……っ!」
「きゃっ……!」
フレンが恐ろしい程の剣幕で、私の傍に駆け付け、そのまま私の手を握った。
その手は冷え、酷く震えている。
そして──。
「逃げるぞ!」
「あっ……!」
そのまま、私を連れて背後へと駆けだした。
ヘラを、男を、置き去りにして。
不格好な走り方だった。前につんのめり、足を踏み外しそうになりながら、それでもフレンは手を離さなかった。
「な、なんで、フレン……っ!」
私は目の前を走るフレンに、追いすがるように走りながら叫ぶ。
するとフレンが勢いよく振り返った。
その顔は、涙で濡れていた。涙を流し、鼻水を流し、息も絶え絶えになっていた。
なんて醜い顔なんだろう。場にそぐわない、そんなことを思った。
そうして彼女は震える声で私に叫ぶ。
「……へ、ヘラのために、命、懸けられねぇ……っ!お前のためじゃなく、ヘラのためには、む、無理だ、あたし……っ!」
「……あ」
聞き取りづらい震え声でそう言い放つ、醜いフレンの言葉に、私は何も返すことが出来なかった。
私も、同じことを考えていたから。
ヘラのためにここで、命を、人生を懸けることは出来ないと、そう思っていたから。
あれがフレンであったなら、迷わず止めていただろうから。
きっと、今の私は、フレンと同じくらい醜い顔をしているのだろう。
だから何も言えなかった。
そのまま、私達は走った。
時折、男の悲鳴が聞こえる。
断続的な断末魔は、灰に埋もれて消えていくはずなのに、耳に何度も何度も響く。
それを振り払うかのように走った。
けれど、消えない。ずっとずっと、消えなかった。
あの日試験を受けたホールの中心で、私達は喝采に囲まれていた。
表彰式は進む。
あれから、ヘラがどうなったのか、詳しくは知らない。ただ、彼女は今獄中にいて、太陽が真上に昇る頃、司法によって命が絶たれることだけはわかっていた。
私達は二人で喝采を受けている。
大勢の歓声が、拍手が、私達を包む。
その全てが鼓膜を圧迫し、私達を体内から圧し、破裂させんばかりだった。
俯いた私の視線の先には、指輪が輝いている。
真っ赤な指輪が。あの男の血は、どれだけ拭っても拭い去れなかった。
拍手が続く。割れんばかりの拍手が続く。
それがあまりにも耳障りで、私は唇を噛んだ。
拍手はいつまでも続く。
教室で向かい合った私達は、10年ぶりに色々なことを話した。
仕事のこと。日々の生活のこと。
そのどれもが、あの頃思い描いていたものとは違って、無味乾燥で、つまらなかった。
私達からはあの日以来、向上心であるとか、幸せを願う心であるとか、そういったものが消えていた。
何も欲しいものなどなかった。ただ、その日を生きることしか、頭になかった。
死んでしまうことだけは許されないとわかっていたから。
そうして、お互いの顔を見ることもなくなった。互いを見る度に、あの子のことを思い出してしまうから。
そうして会わなくなって10年経ち、こうして学園からの呼び出しを受け、再会した。かつての星、優秀なOBとして。
そして、確信した。
「……ねえ、フレン」
「……なんだ?」
「……愛してるわ」
「……あたしも、愛してるよ」
今にも崩れてしまいそうな表情で彼女は言う。きっと私も似たような顔をしている。
愛は変わらない。私は彼女を愛し続けている。彼女も、私を愛し続けている。
きっとそれは、これからも変わらない。私達が死ぬまで、ずっと変わらないんだろう。根拠のない確信がそこにはあった。
けれど、生涯隣り合うことはないだろう。私達の中のヘラが、それを許さないから。
ただ、一つだけ許してほしい。
私達は許されないことをした。私達が育んでいたものは、恐ろしい程醜く、他者を傷つけるものだった。
それでも、想い合うことを許してほしい。それだけが、私達が生きるために唯一必要としているものだから。
指輪を見る度にフレンを思い出し、ヘラを思い出す。だから私達は一生隣り合うことが出来ない。
けれど指輪を見る度に浮かぶ恋慕が、私を生かしていた。
私達にとって指輪は呪いだった。けれど、希望だった。
キスをするよりもずっと近く、私達は近くにいる。生涯、互いを身近に思う。寄り添いあって生きていく。
私達は幸運なんだろう。誰よりも近くに居られるのだから。
いつの間にか夕陽は沈み、夜になろうとしていた。
赤は消え、色のない世界が、私達を放り出していた。
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