勇気無き勇者の末路
男は、震えていた。
圧倒的な『力』の前に。人間などでは到底太刀打ちのできない『恐怖』の前に。
男は、勇者だった。
世界中の人から崇められ、尊敬され、この世を変える力を持つと期待される人間だった。
そんな彼は、もう勇者では無かった。
彼には、目の前の敵に立ち向かう程度の勇気すら残って居なかった。
全ての生物が平等に抱える『死』の恐怖。本能に植え付けられた最も原始的な感情。
彼の勇気は、感情の前に屈していた。
対して相手はそんな元勇者の事なんてどうでも良いとばかりに餌——元勇者の仲間達を喰らっている。たかが勇者程度の者には自らに致命傷を与える事なんてできないだろうとばかりに。
そんな相手を見て勇者だった頃は短気だった元勇者は悔しいという感情を抱かない。抱けない。そもそも相手を『敵』として見れていない。ただの服従すべき相手にしか見えない。
洞窟の主は戦士を喰い終わった様だった。機嫌が良さそうに喉を鳴らし、次は魔法使いへと首を向ける。その音、動作すら元勇者の体の芯まで響いてくる。彼を即座に跪かせようとしてくる。
元勇者は今更ながら体が冷えているのを感じた。汗が蒸発する時の気化熱で体温を奪われているのだ。しかし体の中は興奮で熱いくらいである。激しい動悸の心臓は全身に血を速く巡らせる。巡る血が体温をより上げていく。
元勇者はもう涙すら流していた。死にたくないという原始的な本能、そしてそれが叶わないと悟った本能が彼を狂わせにくる。元勇者は発狂寸前だった。僧侶と戦士はもう喰われた。もし魔法使いを食い尽くしてもヤツの腹が減っていたら——次は元勇者だ。
元勇者は逃げようとした。しかし足が動かない。動いたら相手を刺激すると識っている本能が彼の足を止めているのだ。危険から逃げようとする本能、危険をそっとしておこうという本能。二つの本能は競合し結局何もできないままに時間は過ぎる。今、ヤツが魔法使いを食べ切った。
ヤツの目が元勇者を向いた。思わずひっと声が漏れる。ヤツはぐるるぅと唸りながら近づいてくる。本能同士の競合はまだ終わらない。元勇者は逃げられない。
ヤツの赤い瞳が光る。獲物を前にした獣の目だ。獣はヤツ、獲物は元勇者。本来なら逆であるべき関係性が両者の間には在った。
そこで相手を刺激するなという本能が切れた。今から刺激するもしまいも変わらない事が分かったのだろう。本能がようやく元勇者に逃走を許す。元勇者は逃げようとして、腰が抜けた。立ち上がる。転ける。立ち上がる。転ける。繰り返している内に立つ事すらままならくなってきた。
ヤツに元勇者の『勇気』は完敗した。もう元勇者には逃げる為の勇気すら無い。元勇者の死は確定した。
——あぁ——
元勇者は思う。
——もし自分にもっと『勇気』があれば、コイツを倒せたのだろうか——
その問いの答えを知る事無く、元勇者は喰われた。
書いた後にこの企画の説明読んだんですけど、多分これ公式が思ってるのと違いますよね、絶対。
結局投稿しなかったんですけどこないだの冬の童話祭の時も悪夢にうなされて夢で良かったー、って思ったら正夢っての考えてました。