タクシー無線
『こちら指令室。二十二号車どうぞ』
「はい二十二号車です……あー。どうぞ」
このやりとりも、もうすぐなくなるのか……寂しくなるな……。
そう思ったタクシー運転手の男は通信を終えたあと、そっと無線機を撫でた。
タクシーの無線機。運転手とタクシー会社のオペレーターを繋ぎ、客を拾う場所、走行ルートなどを伝え、速やかに客を目的地へ運べるようサポートするためのもの。
しかし、この時代。その通信をビルなどの遮蔽物に遮られたり、混線またノイズが酷かったりなどデジタル化に伴い、カーナビ連動の液晶モニターに取って代わられつつある。
客が待つ場所もその目的地もそのモニターに映し出され運転手はただ運ぶだけ。
楽なもんだが味気ない。と、言っても俺は同業者から聞いただけで、まだそこまで詳しくは知らないが、うちのような小さい会社にも、その進化の波が来ている。
だが、やはり俺はオペレーターと時には短い冗談を言ったりとか、厄介な客は隠語で示したりとかそういったやり取りが好き……いや、ただ単に俺が古い人間ってだけか。不安なんだな。変化ってやつが……。
『――ザァァこちら十四番、本部ザアアアァァァ目標を確認した』
ん? なんだ? 他の車の通信か? と、運転手はちらりと無線を見る。
『――問題なし、予定通り十分後。ザアアアアァァァ魂をザアアアァする』
ノイズがひどく、よくは聞き取れなかったが魂? はて、何の隠語だ? と、訝しがる。
『――死因はザアアアアァァァ、今、目標の背についた』
その通信の瞬間、屋根から音がした。まるで鴉がとまったような。しかし、運転手はなぜか自分の背中を撫でられたような気がし、全身に怖気が走った。
『――目標の動きが遅くなった』
運転手はヒッと声を上げそうになった。メーターに目を向けると、恐らく無意識だったのだろうアクセルから足を浮かせたために速度が下がっていた。
この通信はなんだ? そして目標とは? このタクシーがそれとして一体なんの……。
ハンドルをぎゅっと握り、考える運転手。すると思い起こされる、先程の会話の内容。
――魂。
――死因。
……死神?
瞬間、ぐわんと体が、いやタクシーが揺れた。
人でも轢いたのかと、全身を取り巻く恐怖がその恐ろしい想像を連れてきたが何てことはない。ただの道路の凹凸。
しかし、そう思ってもなお、運転手の顔は青ざめたまま。
『――少し揺れるな』
運転手はすみませんと謝りそうになり、慌てて唇をキュッと結んだ。気づいたことに気づかれてはマズいかも、少なくとも良くはない。そう考えた。
『――近くへ移動しよう』
瞬間。車内、後部座席から軋んだ音がした気がした。
運転手は恐怖のあまり思わず声を上げてしまった。
『今、目標が声を上げた。ああ、良い声だ』
クラシックの演奏会に行ったような、ウットリとしたような言い方だった。
反対に運転手の脳内は不協和音のような混乱が渦巻いていた。
なぜだ、なぜ死神が俺に? もうすぐ死ぬからか? 逃げるべきか? タクシーを止めて……だがそれも奴らの予定の内では? 無線が混信していること、会話が聞かれていたことに気が付かないのか? 喋っているからか? そもそも死神なのか? だろうな、その姿は……多分見えない。見たくもない。でも気になる。ミラーに映ったりは……。
『落ち着きがないな。なぜかな』
運転手はヒュッと息を呑み、硬直したように前だけを見つめた。
『こちら指令室。二十二号車、二十二号車。お客様を通過した。どうした?』
「あ、し、ひ、しれいひつ! こちらさんちゅ、二十二号車! 今、あの」
と動揺を露にしていた運転手だが、急にスッと顔に冷静さが戻ってきた。その理由。
「あ、あー、こ、こちら二十二号車。ふぅー、問題ない。すぐに客を拾う」
……そう、客だ。死ぬのは客。客なのだ!
運転手はすぐにタクシーをUターンさせ、街灯を次々と置き去りにしていった。
俺は無事。無事だ無事無事大丈夫。わははは。きっとその客は老人だ。心臓麻痺か何かで死ぬんだ。
自分にそう言い聞かせ、現場まで急ぐ。だが……。
『その必要はない。もう十七号車が客を拾った』
「は? は? は? じゅ、じゅ、あ!」
と、運転手の目の前、赤信号の向こうで一台のタクシーが前を横切る。
暗い中、うっすらと見えた数字は十七。そして、気づいた時には運転手はアクセルを踏み込んでいた。
俺の客俺の客死ぬのはアイツだ泥棒泥棒泥棒泥棒……。
死の恐怖、生への渇望が法も何もかも置き去りにしたのだ。
『ああ、いいぞ、いい、いい。いい顔だぁ』
無線機から聞こえる死神の上機嫌な声に運転手は口角を上げる。
ヒッ、ヒッ、ヒッと口から漏らしたのは笑いか、それとも興奮のあまり刻み刻みになる呼吸音か。なんにせよ、前を走るタクシーにあともう少しで追いつく。迫る迫る。その尻に。迫る迫る迫る……。
『お前、さっきから聞いていたな?』
凄まじい衝撃が走った。
前を走るタクシーはその尻を蹴られ、劈くようなブレーキ音を上げながら弧を描くようにし回転したあと、停車。
ぶつけた方の、彼が運転するタクシーのタイヤが悲鳴を上げることはなかった。
勢いそのままに直進。そして電信柱に顔から突っ込んだのだった。
時折、無線に入る不可解な声。それがタクシー無線廃止の密かな後押しになっている。
ただ、実際それを聞いた者はタクシーを付け回す暇な無線マニアの悪戯だと一笑に付してもいるが。