09:愛の告白なのです
「まあ!では、アルベルト殿下は女性を愛せない方でも少女を好む方でもお年を召された方を求める方でもなかったのですね」
カロリーナがアルベルトに引導を渡してから数日。フェルディナンドはヴィットーリアの家で過日の説明をした。
「申し訳ないことを致しました。周囲の耳目がある中で私が申し上げたことでアルベルト殿下のいわれのない風聞が広まってしまうこととなりましょう」
「気にすることはない。話の出所が母上だということも、ヴィーが場所を移そうとしたのに聞かなかったのがアルベルトだということも分かってる」
ヴィットーリアは慙愧に堪えないという風情である。だが、話を聞いていた者たちは“男の浮気と女の浮気は違う”という発言が発端だったことを聞こえ知っている。そこから男色だのロリコンだのババ専だのと言い出したのが王妃であるカロリーナであることも。
殆どの者がカロリーナの妄想の暴走であり根も葉もない話だということを察し、アルベルトの発言が浮気宣言であり性的嗜好の問題ではないことを承知しているため、風評被害はないと言ってもいい。
そして、国王やヴィットーリアの両親をはじめ両家の人間でアルベルトが男色であると思ったものはいない。母親であるカロリーナとカロリーナに判断を仰いだヴィットーリアを除いては。
婚約解消の判断は、婚前から娘を蔑ろにする発言をされ怒ったヴィットーリアの両親の猛抗議を国王がむべなるかなと受け入れた結果である。
周囲はみな事実を知っていたこと勘違いしたのはカロリーナと自分だけだということを聞かされたヴィットーリアは己の未熟を知った恥ずかしさに思わず両手で顔を覆ってしまった。顔を隠さないでと手を外したフェルディナンドを睨み付けたが、睨まれた当人はそういう顔も可愛いと脂下がっているのだから処置なしである。
「アルベルト殿下のお気持ちは分かりましたが、それでもどうしても納得がいかないんです。女性は浮気をしてはいけないと言いながら、女性を相手に浮気をするという矛盾。王妃殿下が仰ったようにお相手が殿方であるというのなら理屈は通ると思うのですが。フェル様はお分かりになりますか」
ようやく顔の熱さが和らぎ平常心に戻ったヴィットーリアがフェルディナンドに訊ねる。
男女の機微に疎い彼女は“男の浮気と女の浮気は違う”という発言が“自分は浮気をしてもいいが相手には許さない”という意味だと知って衝撃を受けたが、それは一般論なのかアルベルトのみの考えなのか判断がつかなかったのだ。
「アルベルトの発言は駄々をこねている子どもと同じだよ。自分はいいけど相手は駄目だなんて。だけど、確かに男の浮気と女の浮気は違うという風潮はないでもない。私の話ではなく一般論として聞いてね、ヴィー」
少し悩んだ様子で困ったように眉を下げたフェルディナンドが、仕方がないとでも言いたげに口を開いたのでヴィットーリアは頷いた。
「男……というよりも雄は本能的に種を蒔きたい」
「は?」
「あー、えーと、種を蒔くというのは」
「あ、いえ、意味は分かります。フェル様の口からそのような言葉が出たことに驚いただけです」
淑女として教育され、王子の婚約者でもあったヴィットーリアは閨教育も当然受けている。子を儲けることを必然とするのは王家であろうと貴族であろうと、平民であろうとも変わらない。
顔を赤らめることもなく頷いたヴィットーリアを見て、彼女は知識として学んだだけで欲を頭でしか理解していないのだとフェルディナンドは察した。まだ年若いとはいっても婚姻を結ぶに不足するほどではないのにこの反応は予想外であった。
「ああ、うん。で、本能のままに種蒔きの衝動に駆られる男もいる。本能だから、男の性だからと言い訳をしながらね。いい?そういう男もいるというだけですべての男はそうではないからね?」
「弁解なさらなくても宜しいのですよ?」
暗にフェルディナンドも浮気願望があるのだろうと苦笑するヴィットーリア。実際に浮気願望がある男なら大歓迎のセリフも、彼女に恋をしているフェルディナンドにとっては冤罪をかけられたようなもので、無実の証明をさせてもらいたいところである。
だが、アルベルトの件もあり言葉で説明しても表面上納得する振りをされるだけだと予想もつき、自分が浮気をしないと婚約中も婚姻後も態度で示すしかないと心に決めた。
「女性に浮気を許さないというのは自尊心の問題じゃないかと思う。女性は浮気をされると裏切られたことで心が傷つくが、男は矜持を傷つけられたと感じる。動物は雌が雄を選ぶ立場にあるだろう?自分のパートナーが他所の男を選ぶということは、男としての価値を低く見られていると考えるから女性には……というか、自分の妻や恋人には浮気を許さない――んじゃないかな、たぶん」
誤魔化す気があるわけではないのに曖昧な物言いになってしまったことで、浮気をしないとこれから立証していくつもりのフェルディナンドは彼女がどう受け取ったのか気になり、そっと窺った。
「なるほど――とは申せません。仰ったことを理解は出来ても納得は出来ないんですもの。でも、そうですね、先ほどフェル様はアルベルト殿下のことを駄々をこねる子どもだと仰いましたけど、自分は浮気をするけれど妻にはそれを許さないと考える殿方は、身勝手な子どものような思考をされるのかな、と思いました」
ヴィットーリアとしては家の存続が第一で、夫が浮気をしても面倒事を持ち込まないのなら許容する気である。ならば浮気をする者の思考回路が分からなくても問題はないと考え、この件に関してはもう悩む必要はないと判断した。
「ヴィー。母上が言っていたんだ。恋は落ちるもので愛は育むものだと」
フェルディナンドに手を取られ、ヴィットーリアは甲に唇と吐息を受けた。公式の場では挨拶である手の甲への口付けも、私的な空間で行われれば信頼と愛情を伝える行為だ。
驚いて目を丸くするヴィットーリアに微笑みを送り、フェルディナンドは指先にも唇を落とす。
指先への口付けは称賛。
「フェル様?」
「君が政略として私との婚約を受けてくれたことは知っている。だが、君は誠実な人だ。私が真摯に君に向き合えば同じように私を見てくれるだろう。恋に落ちていなくとも向き合うことで互いに愛情を育むことは出来るんじゃないかな?」
フェルディナンドが実直に誠実に思いやりをもって関係を進めていけばヴィットーリアはそれに応えるだろう。互いの努力で家族として愛情を持つことは可能であると彼女は考え頷いた。
少なくともアルベルトのような無茶を言わなければ、ヴィットーリアは自分から関係を壊すような真似はしない。
フェルディナンドに取られたままのヴィットーリアの手が返され、今度は手首の内側に唇が触れる。二度三度と手首に口付けたあと、フェルディナンドは両手でヴィットーリアの右手を押し頂き今度は手のひらを食むように口付けた。
「けれど、私は恋に落ちている。愛を育むのとは別に君にも落ちてもらえるよう足掻くことを許してほしい」
手首への口付けは強い愛情。繰り返したことでそれは強調された。
そして、手のひらへの口付けは懇願。
あなたを乞うている。愛している。求めている。どうか私の愛を受け入れて。私を愛して。
アルベルトとは、ある意味姉と弟のような関係にも似ていた。婚約者となっても恋に落ちていないし、愛を育むこともなかった。もちろん、エスコート以外で触れることもなかった。
初めて直線的に異性からの愛情をぶつけられたヴィットーリアは、驚きすぎて却って平静になってしまっていた。頭のどこかで“ここは頬を染めたりする場面なんじゃないだろうか”などと考えているのが証拠である。
このようなとき淑女はどうふるまうのが正解なのか今までの淑女教育を振り返っても、婚約者がいた身で男性から愛を告白されることを想定した教育は無かったために分からない。
「愛を育むための努力は惜しみません」
どう返せば正しいのか分からないまま出した精一杯の言葉はまるで所信表明のようで。
間違っているとは言えないもののその物言いに色はなく。
それでもフェルディナンドは嬉しそうに笑った。