04:王妃語録は広く知られているのです
「ねえ、トリア。“こどおじ”ってどういう意味なの?」
同席していたヴィットーリアの友人が聞く。彼女は王妃殿下のファンで、王妃語録という少部数しか発行されていない冊子を刊行されたものすべてを所持しているのが自慢だ。
王妃語録とは、王妃の造語を収集した本である。王妃の発言はもとより執筆した小説からもコレクトされている。小説内で語られた言葉よりも直に発言したもののほうが価値が高いとされ、収集に協力したものの名前が巻末に記載されており、そこに名を残すことが王妃ファンの名誉とされていた。
少部数なのはなぜかというと、厳しい審査に合格した王妃ファンクラブの会員にしか配られないからである。しかし、冊子を受け取った会員が王妃語を普及するのはよし、むしろもっとやれと布教活動を是とし推進しているため、王妃の言葉は広く知られているのだ。
その王妃語録の一例として「壁ドン」
壁を背にした女性に対し「逃がさねぇよ?」的に壁を手に突く行動を表す。実際これにときめくかどうかはさておき、夢見る乙女のときめきと勘違い男の暴走を引き起こしたことで有名になった。
その他にも「脳筋」「ツンデレ」「ヤンデレ」「彼シャツ」「萌え」「推し」「スパダリ」「美味しいは正義」「可愛いは正義」「社畜」「風が吹けば桶屋が儲かる」「だが断る」「鋼メンタル」「豆腐メンタル」などなど、うまいことを言うと感心されるものもあれば、それはいったい何なのかと疑問を持たれるだけの言葉もあった。そもそも会社というものが無いのに社畜とは何ぞや、豆腐とはいったい何なのだと物議をかもしたりもした。
そして、彼女は「こどおじ」という単語が現在発行されている王妃語録に収録されていないことを知っていた。
先ほどの「腐海」と合わせて申請しなければと決意を固めてる彼女の手にはメモ帳とペンが握られている。「腐海」の意味はよく分からなかったので今度は理解のできる言葉だといいなとひそかに願っていた。
しかし残念ながら彼女の願いはこの場に現れるはずのない人物によって断たれてしまう。
「ヴィー!すまないが今日は早退して王宮に来てほしい」
「フェルディナンド殿下?」
現れたのはアルベルトの兄の一人、第二王子のフェルディナンドであった。
食堂にいた生徒たちが一斉に立ち上がって礼を執ると、フェルディナンドは彼らに手を振ってそれを止めた。
「すまないね、突然。乱入した私が場違いなのだから、君たちは気にせず食事を続けてくれたまえ。ヴィーは連れていくけれど」
「え、兄上、どうしたんですか、いきなり」
「アルベルトもいたのか。父上と母上の指示でね、急なことだけどヴィーを王宮に連れていくよ?」
弟なのにフェルディナンドの目にはアルベルトが入っていなかったらしい。
「ヴィー……?」
フェルディナンドの視線の先にいるのはヴィットーリアであるが、兄は未来の義妹になる彼女のことをトリアと呼んでいたはずだとアルベルトは疑問を抱く。いつの間に呼び名が変わっていたのだろうか。
「兄上はいつからトリアのことをそんな風に呼ぶようになったんですか」
「ん?お前たちが婚約を解消してからだな」
「え?本当に私とトリアは婚約を解消したのですか!?聞いていませんっ」
「知らなかったのか?自分の事なのに?お前もサインしたはずだし、解消決定の通知はもうずいぶん前にお前の元へと送られていただろう?」
兄の言葉にアルベルトは気まずそうに目を逸らす。そんな書類を見た覚えがない。というより書類というものは指定された場所に自分の名前を書くだけの紙で、アルベルトにとっては精査するものではなかった。
フェルディナンドがヴィットーリアに訊ねるような視線を向けると、苦笑が返ってくる。どうやら本当に知らなかったのだとフェルディナンドは呆れるよりも感心する。アルベルトらしい話だと納得したようだ。
「すまないが話はあとにしてくれ。陛下と妃殿下のお使いだからな、私は」
フェルナンドにエスコートされて去っていくヴィットーリアを、アルベルトは落ち着かない気持ちで見送った。兄が知っているということは本当に確定事項であり、家族内では周知されているのだろう。婚約解消の話が寝耳に水だったのは当のアルベルトだけだったようだ。
「け……結局、こどおじって何だったのよぉーっ」
淑女らしからぬ恨みがましい声がシンとしている食堂内に響いたが、賢明な紳士淑女の面々はそれを聞かなかったことにした。
◇◇◇
「フェルディナンド殿下、何があったんです?」
王宮へ向かう馬車の中で向かいに座っているフェルディナンドにヴィットーリアが問うと、先ほどまでキリッとして王子然とした佇まいだったフェルディナンドが拗ねたように口をとがらせる。
「ヴィー、君、まだ私との婚約を秘密にしているね?」
「あらまあ、秘密だなんて。王家からの発表前に私が口外してよいことではございませんでしょう?」
アルベルトとの婚約解消ののちに王妃自らが取り持った新しい婚約者が、兄のフェルディナンドであった。
「でもさ、ほら、親しい友達には”ここだけの話”って口を滑らすものなんじゃないの、女の子って」
「女の子はそうかもしれませんけれど、淑女はそうではございません」
わざとらしく扇を開いて口元を隠しツンとして見せるヴィットーリアに、フェルディナンドが脂下がった。あまつさえ「私の婚約者が可愛い」と身悶えする姿は、王太子を支える優秀な第二王子としては如何なものか。とても彼の信奉者には見せられないと思われる。
まだ成り立ての婚約者だが、ヴィットーリアはフェルディナンドの稚気や打てば響く会話を好ましいと思っている。7歳も年が離れているが可愛らしいとさえ思えており、それでいて王太子の補佐として優秀且つ出しゃばりすぎない状況を推し量る能力、見栄えもよく剣の腕もそこそこ立ち結婚相手として申し分ないどころかお釣りがくるほどだ。
優良株筆頭と言っていいフェルディナンドが26歳という年でまだ結婚はおろか婚約さえもしていないのには理由があった。
平和で政情が安定しているとはいえ不協和音はある。王太子の三歳下で優秀な第二王子を次期国王にと図るものが、その気の全くないフェルナンドの後押しを画策していたのだ。
まだ幼いうちから次期国王の後ろ盾となり権力を得たい者、或いは腰巾着となり甘い汁を吸いたい者などに纏わりつかれ辟易していたフェルディナンドは、この国の立太子の条件である婚姻を徹底的に避けた。婚約どころか婚約者候補すら拒絶した。その行動の裏には面倒事を引き起こしたくないという名分の他にもう一つ、隠れた想いがあった事は誰も知らない。
国王も王妃もフェルディナンドの立ち回りに否やとは言わなかったので、結果、一つ上の兄が結婚して王太子となり一男一女を儲けた今になってやっと周囲に煩わされることが無くなったのである。
こうなると問題はお相手である。
年と身分が釣り合う御令嬢がたの大方は既に既婚者であるし、そうでない者には問題がある。不品行であったり性格に難があったり家に問題があったりなどだ。
――いっそ、一人でもいいと思ってたんだよ、ヴィーと結婚できないなら。
心の中のつぶやきは向かいに座る可愛い婚約者には伝えない。
――だって、気持ち悪いだろう。12歳の少女に19歳の男が心を持っていかれて、弟の婚約者に納まってしまっても諦められなかったなんて。
ヴィットーリアにとっては婿の顔がすげ替わっただけであろうとも、フェルディナンドにとっては願うことすら諦めていた千載一遇のチャンスであった。