幸福と知性
それからしばらくの間、和希は待合室で待機し続けた。そして数時間が経ち、彼は異様な叫び声を耳にすることとなる。
「どういうことだ! なぜ手術に成功した! 成功率は極めて低いんじゃなかったのか!」
誰か一人、ヴィクト化の手術に成功した者が現れたようだ。そしてその人物は、どういうわけか手術の結果に不満を抱いている。
「妙だな……」
和希はすぐに手術室の前に駆け付けた。そこでは一人の男が、優也に向かって激昂している。
「俺を救えるのはアンタだけだった! なのに! なのに!」
男は拳を勢いよく振るい、優也を殴り飛ばそうとした。優也は彼の拳を片手で受け止め、そのまま手首を軽くひねる。そのまま床に投げ倒された男は、鋭い眼差しで眼前の医者を睨みつけた。直後、優也は白衣の内ポケットから注射器を取り出し、それを相手の首筋へと投げつけた。そして患者が気を失ったのを確認し、優也はいつものような優しい微笑みを和希に向ける。和希には一つ、理解できないことがあった。
「なあ、天宮先生」
「どうしたのです?」
「あの男は、廃人になりたかったのか?」
ヴィクト化の手術の結果に不満を抱く者がいるとしたら、それは廃人になることを望む者だけだろう。しかし、自らの脳に重い後遺症をもたらすことを望む気持ちは、決して常人に理解のできるものではない。優也は小さなため息をつき、語り始める。
「その通りです。彼のように廃人化を望む患者も、決して珍しくはありません」
「わけがわからねぇ。好き好んであんな風になろうとする人間の神経が、オレには全く理解できねぇ!」
「……彼は己の人生に絶望した失業者でした。そしてヴィクト化手術に失敗して廃人となった者は、無邪気な心で知育玩具や教育番組を楽しむ――――悩みとは無縁の存在になるわけです」
それが彼の見解だ。その説明を受けた上でもなお、和希は何一つ納得していない。
「それって結局、自分を失っているのと同じだろ。自殺とどう違うんだよ!」
「僕にもわかりかねます。しかし一般市民には、楽に死ぬ手段へのアクセスがありません。彼はきっと自殺を望んでいて、その妥協点として廃人化を選んだのでしょう。奇しくも、彼の望みは叶わなかったわけですが」
「狂ってる……アイツは狂ってやがる!」
彼が狂気を覚えるのも無理はない。実際、彼は収容施設の廃人たちの有り様を目に焼き付けた身であり、それゆえにヴィクト化の手術に踏み切るのに覚悟を要した身なのだ。そんな彼の頬を、優也は無言で引っ叩いた。唖然とする和希に対し、優也は言う。
「無論、僕にも彼のことは理解できません。しかし、彼が廃人化を望むほどに苦しい想いをした現実を蔑ろにしても良いのでしょうか。少なくとも、僕は彼の決断を狂っていると断ずる気にはなれませんね」
「そうは言っても、知性もアイデンティティも全てかなぐり捨てて得られる幸福なんて、紛い物じゃねぇかよ……」
「幸福など総じて紛い物です。人は『幸福ごっこ』の中で幸福を見いだす生き物です。いずれにせよ、我々に彼の幸不幸を断ずる権利はありませんし、彼の選んだ道を否定する権利もありませんよ」
そう語った優也は、どことなく儚げな顔をしていた。和希は己の掌を見つめ、優也に訊ねる。
「オレが今まで感じてきた幸福も、全て偽りだったのか?」
「僕は、君がどんな人生を送ってきたのかを知りません。しかし人が幸福と呼ぶもののほとんどは人工物です。例えば青春を送る者は、自ら青春を演じているのですよ」
「そっか……」
当然、和希は依然として納得していない。しかし彼は、返す言葉が見当たらなかった。
「さあ、そろそろ手術を始めましょう」
優也は和希を手術室に案内し、出入り口の戸を閉めた。




