こぼれて、くずれて
「みてみて! きれいなお花が咲いてたの!」
澄んだ青空のような花を幾つも抱えて、抱えた花の可憐さを上回る様な笑顔を咲かせて少女は言った。少女に話しかけられた男は屈んで少女に視線を合わせると、「ああ、きれいだね」と目を細めて笑いながら少女の頭をそっと撫でた。
「だからね、はい」
「俺にくれるの?」
「うん!」
「そっか。ありがとう」
頬を赤らめながら、意を決して花を差し出してきた少女に、男はとろけるような笑顔を返した。それを見た少女は一層赤く染まっていく。
「じゃ、じゃあ、またあしたね!」
そのうち耐えきれなくなった少女は、逃げるように男から離れて、でも挨拶だけは忘れずにその場から去っていく。
男は、少女の姿にが見えなくなるまで、空色の花を抱えたままその背中をずっと見守っていた。
「……ああ」
目が醒めると同時に酷く掠れた声が出た。
かつての記憶を夢に見た気分は最悪だった。あの日のことが遠い過去の話で、あの日思い描いていた未来とはかけ離れた現実を自分が生きていて、夢の中での幸せだという感情が一瞬にして消えていってしまったから。
ゆっくり起き上がると、真っ白な髪がぱさりと視界に入ってきた。少女はそれを手で払い除けながら、感情の籠らない瞳でじっと室内を見回した。
部屋には少女が今いるベッドと、小さなテーブルと椅子が一脚。あとはチェストが一つあるぐらいだった。丸い窓からは外の光が差し込んでくるが開けることは出来ない。壁も床も家具も、全て温かな木目調のもので統一されていたが、その中で唯一扉だけが嫌に重々しい鉄製だった。
覚束無い足取りでテーブルまで向かうと、ずきりとこめかみが痛んで眠りにつく前までの記憶が一気に蘇った。
「うっ──」
気付けば少女は胃をひっくり返すように吐き出していた。胃の中は空っぽだったらしく、胃液ぐらいしか出てこない。下手に口元を手で覆ってしまったものだから手はびちゃびちゃに濡れ、服も胃液で汚れた。
吐いた所為か、喉はヒリヒリと焼けるように痛んだ。すぐ側に水は無く、喉を潤すことも、口内を洗い流すこともできない。ただ無気力に、少女はその場に座り込んだ。
しばらくすると、唐突に鉄製の扉が開かれた。柔和な笑みを浮かべた男がひょっこりと顔を出す。男は座り込んだ少女を見ると「どうしたの? 大丈夫?」と心配そうに近寄ってきた。
少女はその声にびくりと肩を揺らしたが、やがてゆっくりと頷いた。大丈夫だと、何ともないのだと主張するように。
そんな少女の強がりを無視して、男は少女に水をと汚れた服の代わりに着るものを手渡した。少女は恐る恐るそれらを受け取ると、水に少しだけ口をつけ、男がいなくなった後で新しい服に着替えた。
汚れた床を丁寧に拭くと、男は食べられそうなものを持ってくると言って部屋から出ていった部屋に一人残された少女は閉じられた扉をじっと見つめたまま立ち尽くしていた。
少女にはもう、何が現実で何が想像で何が夢なのか、その判別がつかない。胃液で傷ついた喉の痛みは確かにあるが、その一方で眠りに落ちる前までの経験したことのない苦痛も確かなものだった。目覚めるまで見ていた幸せな記憶もそうだ。
どれが本当だっただろうか。
今が悪夢だっただろうか。それともただの妄想が、或いは現実か。
現実味がなく、靄がかかったような思考で、どこか他人事のような感覚を抱えたまま、今日も長い長い一日が始まる。
その中で、外を見ようと窓に近づいた時にぶつけた足の痛みだけがやけに鮮明だった。