らいおんとうさぎの出発点:彼女の決意
花の大きな目が、真っ直ぐに司を見つめている。
一瞬、ごまかそうかと思った。
だが、やめた。
「……親が、覚えていた」
何をとは加えずそれだけを告げた司に、花は微かに笑う。
「獅子王くんの小学校、わたしのところに近かったっけ。結構ニュースにもなったんだけど、小学生はそんなの見ないもんね」
軽い口調とは裏腹に、彼女の視線はいつしか床に落ちていた。
花は小さく息をつき、その眼を上げる。
「五年生の時に攫われて、一ヶ月くらい閉じ込められてたの」
彼女の説明は淡々としていて、まるで赤の他人の身に起きたことを話しているかのようだった――その声が微かな震えを帯びてさえいなければ。
花はカップを握る自分の手に力がこもっていることに気付き、それをテーブルの上に置く。膝の上で握られた拳の関節は白く浮き出ていた。
事件から、八年が経っている。
だが、八年という年月は、花の中から暗い翳を払拭するには足りていないのだ。
叶うことなら、未だに彼女を脅かしているその存在の息の根を止めてやりたい。
彼が奥歯をギシリと食いしばると、その音が聞こえたのか、花が呟く。
「怒って、くれるんだ」
その小さな声で、司は我に返った。
(くそ、落ち着け)
己を罵り、司はゆっくりと息を吐く。闇雲に怒りをまき散らしては、花を怯えさせてしまうだけだ。
「悪い」
唸るようにそう返すと、花はくすりと笑った。
「なんで謝るの? わたしのことで怒ってくれるのはうれしいし、わたしも、怒ってるし」
「宇佐美が? ……何に?」
まったくそうは見えなくて、司は眉をひそめる。と、花は訝しむ彼の視線からスイと眼を逸らし、固く握りしめていた拳を開いた。
「今は、自分に、かな」
答えてから、花は声を出さずに空笑いをする。
「最初は、色んなものに怒ってたよ。怒って、怯えて――周りに眼を向けようともせずに殻に閉じこもってた。助けられてからしばらくは病院にいたんだけど、退院してからも、部屋から出なかったの。でも、家に帰ってから一ヶ月くらいした頃かな、由美ちゃんが来てくれてね」
その名が出ると同時に、自嘲めいた笑みが柔らかなものに変わった。
「扉越しに聞こえたのが泣いてるみたいな声でね、思わずドアを開けちゃった。そしたら、覚えてた由美ちゃんとは全然違う由美ちゃんになっててね、びっくりして、なんか全部ふっとんじゃったの」
「違う、金古?」
花が言わんとしていることが理解できず、司は問い返した。
「うん。由美ちゃん、あの頃から強気な美人っていう感じだったんだけど、すっごいしなびちゃっててね。攫われたのはわたしなのに、なんで!? って」
軽い口調でそう言ってから、一転、その声が沈む。
「わたしを見たら、由美ちゃん、第一声で『ごめんね』って。で、大きな声で泣き出したんだ。由美ちゃんとは幼稚園の頃から一緒だったけど、そんなふうに泣くの、初めて見たの」
花は肩を落とし、うつむいた。
確かに、あの金古由美が大泣きをするところなど、年齢を下げたとしても想像すらできない。赤子の頃からふんぞり返っているイメージだ。
「金古は何を謝ったんだ?」
尋ねた司に、花は小首をかしげる。
「解からないでしょう? わたしも、なんで由美ちゃんが謝ってるのか全然解からなかった。そしたらね、由美ちゃん、わたしを一人で帰したからいけなかったんだって、そのせいでわたしが攫われたんだって、ずっと思ってたんだって。その頃はもう事件から三ヶ月くらいは経っていたはずだけど、その間、ずっとずっと、由美ちゃんは自分を責めてたんだよね」
「はぁ?」
思わず司が間の抜けた声を上げると、花は苦笑した。
「ほんと、はぁ? だよね。だって、由美ちゃんのお家って、わたしの家から五軒隣なだけなんだよ? 小っちゃい頃から行ったり来たりしてたし。犯人の人って通りを挟んで斜向かいくらいに住んでてね、道で会ったら普通に挨拶してた人だったの。何ヶ月も前から、チャンスを窺ってたんだって」
そんなの勝ち目ないよね、と花は肩をすくめる。
「それでね、わたしの前でわんわん泣く由美ちゃんを見てね、バラバラって何かが剥がれた感じがしたの。目からうろこ、とはちょっと違うかな。とにかく、あ、このままじゃいけないんだって、思ったんだ」
司は、背筋を伸ばして座る花を見つめる。彼が知る花は、すでにこの花だった。皆の中で屈託なく笑う彼女に、その『閉じこもっていた』頃の名残は欠片もない。だからこそ、今の花になるまでに踏んできた辛苦を思い、彼の胸は搾り上げられるように痛んだ。
グッと奥歯を噛んで大声で怒鳴り散らしたくなるのを堪える司の前で、花は続ける。
「あのね、うちの家族はね、すっごく仲が良いの。お父さんもお母さんも、子どものことが好き過ぎない? って感じだし、弟もちょっとシスコン入ってるよねってくらい。でね、みんな、部屋から出ないわたしをそっとしておいてくれてたんだけど、それもきっと、すごくつらいことだったんじゃないのかなって。わたしを部屋から出そうとあれやこれやするよりも、多分、難しいことだったんだと思うの」
彼女の言葉に、司は眉間にしわを寄せる。
確かに、ただ見守るよりも手を出してしまう方が楽だ。
花が妙な輩に絡まれていたり、重い荷物を持っていたりする場面を目にしたら、司は考えることなく相手を追い払うだろうし、荷物を取り上げるだろう。
日頃の自分を思い出して気まずく眉をしかめた司の心中を読み取ったのか、花がくすりと笑った。
「顔をぐちゃぐちゃにして泣いてる由美ちゃんを見ていて、由美ちゃんだけじゃなくて、お父さんとかお母さんとかも泣かしてたのかもって思ったの。二人は、そんなとこ、わたしには見せなかったけど。でも、だからこそ、わたしが前に進まないといけないなって思ったの。わたしが縮こまったままだと、みんなも動けないままなんだって」
一言一言を踏み締めるようにして花は言い、ふぅと一つ息をつく。
「……わたしね、あの事件のあと、自分がイヤでたまらなくなったの。もしかしたら、わたしにも何か悪いところがあったのかな、とか――」
「そんなことは絶対にない!」
被せるように大声を張り上げた司に、花は一つ二つ目をしばたたかせ、ふわりと笑った。
「うん、ないよね。でも、さっき、獅子王くんだって同じようなこと言ってたよ?」
「それとこれとは――」
「違わない。獅子王くんもね、獅子王くんには悪いところなんて一つもないよ。獅子王くんのことをちゃんと見ようとしない人の方が悪いんだよ」
迷いの欠片も感じさせない口調で、花はきっぱりと断言した。
「事件のことをね、こっそりインターネットで調べてみたことがあったの。そうしたらね、コメントとかで、みんな好きなこと言っててね」
花の声がかすれて、次第に小さくなる。
「宇佐美……」
司自身はインターネットにはほとんど手を出すことがないが、その世界がどんなものかは知っている。
きっと、花は傷つけられたはずだ。
うつむいた花に、思わず司は手を伸ばしかけた。が、それが届く前に、彼女がパッと顔を上げる。
「わたしにはね、わたしを好きだって、わたしのことが大事だって想ってくれる人がいるの。だから、顔も知らない誰かの言葉より、その人たちの言葉を信じようって思ったの。わたしもみんなのことが大事だから、みんなが大事に想ってくれるわたしを大事にしようって、そう思ったの。だから、先に進もうって――過ぎたことじゃなくて、前だけを見て歩こうって、決めたの。これからもね、ああいうことってあると思う。どれだけ時間が経っても、あの事件のことが消えてなくなるわけじゃないから」
そう言って、花はふと笑った。それは苦笑めいていて、微かに諦めも滲ませているものだった。
彼女にそんな笑みを浮かべさせてしまうことが、悔しい。苦々しい不全感が喉元まで込み上げてくる。
奥歯を食いしばった司の前で、花が告げる。
「でも、大丈夫なの」
静かな部屋に響き渡った澄んだ声。花が口をつぐんだ後も、彼女のその声が司の耳に残る。
司は腿の上に腕を置き、花を見つめた。眼が合って、彼女が笑う。
その笑顔はたった今までシビアな話をしていたとは思えないような朗らかなもので、どうしても、司は花がそんなふうに笑う理由を考えてしまう。
花は、大事な者を支える為に強くなったのだ。
こんな話を聞かされた司の気持ちを和らげる為に、明るく笑って見せもするだろう――たとえ彼が『大事な人』の域には入っていなくとも。
確かに花は彼女を想う者がいたから立ち直った。だがそれは、皆が彼女の支えになった、ということとは少し違う。皆の為にと彼女が自身の心に鞭打って奮い立たせたものだ。一番深い傷を負っている花が、皆を守るために懸命に立ち上がってみせたのだ。
八年前に花の身に起きたようなことが再び彼女に降りかかるということは、ないだろう。一度だけでも通常は起こり得ないことなのだから。
だが、きっと、ことあるごとに花は同じことを繰り返す。
同じように、大事な誰かを守るために、力を振り絞る。
(そうするうち、いつか、力が尽きてしまうだろう)
もしも、その時が訪れたら、彼女はどうするのだろう。力尽き、疲れてしまった時には、誰にすがるのか。
すがれる者が、いるのか。
そう思った瞬間、司の中にブワリと衝動が込み上げた。
腕を伸ばし、花を引き寄せ――抱き締めたいという、衝動が。
「獅子王くん?」
名前を呼ばれ、司は我に返った。押し黙った彼に、花は首をかしげている。
花は一方的に守られることを良しとしない。守られるよりも、守ろうとする。
だが、それでも、司はそれを望んだ。花を守り、もう二度と彼女を脅かすような存在を近づけず、誰かの心を守るための笑顔ではなく、彼女自身が幸せだと感じて浮かべる笑顔を、浮かべさせていたかった。
(それが不可能ならば)
司の方から手を伸ばすことが許されないなら、せめて隣に寄り添い、花が疲れた時に掴まる枝になりたいと、彼は心の底から願った。
ここまでで、第一部です。




