始まりの時期に:笑顔の効力
四月。
日本においては、四月は始まりの月だと言えるだろう。出会いと希望、未来が溢れる、輝かしい月。
そんな時期に、眉間に深々とした溝を刻んだ司は、新入生と彼らを刈り取ろうと展開している各サークルの面々とで賑わう大学のキャンパスをうろついていた。
何故彼がここにいるのかといえば、もちろん、この大学に入学したからだ。
三年前、母に押し込められるようにして高校に入学した時には夢にも思っていなかったが、司は今、いわゆる最高学府である地元の国立大学に籍を置いている。
こんなことになった経緯は、言ってしまえば押し流されて、か。
高校一年の秋に花と逢い、以来、チョコチョコ視界に入ってくる彼女に何かと手を貸しているうちいつしか三年生になり、他愛のない雑談を交わす中で卒業後はどうするかという話が出て、何故かここの入試を受けることになり、気付けば彼女の隣で合格発表の掲示板を眺めていたのだ。
高校ですら必要ないと思っていた、彼が。
正直、どうしてこうなったのか、司は入学式を終えた今でも解っていない。
ただ、「一緒の大学に通えるといいな」と言う花に、「否」ということができなかっただけだ――自分を見上げる彼女の大きな目の輝きが曇るさまが脳裏をよぎっただけで、勝手に頭が上下していたのだ。
新入生を勧誘する上級生のがなり声でやかましいことこの上ない中庭を、司は行く。芋洗いさながらの混雑ぶりだが、彼が進もうとする先は微妙に人だかりが別れていくのは気のせいではないだろう。
(まあ、普通はな)
司は内心独り言ちる。
道行く人々が彼を避けるのは、黒山から頭一つ分飛び出た金髪と、その高さから睥睨する眼光の効果だ。ニョキニョキと背が伸び始めた頃から見慣れた光景で、初見で全然ビビらなかったのは、花くらいのものだった。
(いや、ビビらなかったどころじゃないな)
ごくごく自然な笑顔を投げられた時には、正直、面食らった。
司に対してあんなふうに笑いかけてきた者は、後にも先にも花だけだ。
だからなのかもしれない。
こんなふうに、彼女のことが常に頭の片隅に引っかかってしまうのは。
(で、あいつはどこだ?)
司は目を細め、周囲をぐるりと見渡す。
今日は入学式で、午前中いっぱいの式とその後のオリエンテーションを終え、ようやく解放されたところだった。
入学式の会場は全学生同じだったが、司は工学部、花は教育学部だから、座席はかなり離れていた。高校からの彼女の友人の金古由美と乾絵梨もこの大学に入ったが、乾は経済学部、金古は薬学部でバラバラだ。
彼女たちはきっと式が終わったら合流することになっているのだろうが、司は、その約束を取り付けているわけではない。
ただ、この人混みの中で華奢な花がもみくちゃにされているのではないかと思うと――妙な輩に捕まっているのではないかと思うと、司はいてもたってもいられなくなるのだ。
(もう、会えてりゃいいんだけどよ)
その心配が顔に出て、きっと、かなりの圧を放っているに違いない。
すれ違う人は皆、司を見るとビクリとして眼を逸らしていくが、それを無視して目を細める。
と、その時。
有象無象の中で、何かが司のアンテナをかすめた。
(いた)
あれは何のサークルか――服装からして運動系であることには間違いない。上級生と思しき男に捕まっている栗色のくせ毛が見えた。
それだけで、何故か花だと判る。
いつもそうだ。
どうしてなのか、どれほどヒトがいようとも、司は花の姿だけはすぐに見つけられる。
グイグイと距離を詰めるうち、その遣り取りが彼の耳に届いてきた。
「わたし、運動は苦手ですし、もう入りたいサークルは決まってるんです」
「大丈夫だって! 女の子なら誰でも大歓迎だし。うち、すっごくゆるいから掛け持ちだっていいよ。テニスするより飲みの方が多いしさ。何ならマネージャーってことにしていてもいいし」
追い込むようにまくしたてる内容から察するに、つまり、あまり好ましくない集団ということか。
ムッとしつつ、司は花にアプローチをかけている男の真後ろに立った。いち早く気付いた花が、「あ」という顔になる。それを同意と勘違いしたのか、男が彼女の肩を両手で掴んだ。
「オッケー? じゃ、行こうか――」
言うなり、連れ去ろうとする。
すかさず司は花の腰に腕を回し、男の手から彼女を奪い取った。
「ちょ――ッと……?」
苛立ちを含んだ声で振り返った男は、まずは司の体格に、次いで彼の金髪にギョッとする。この流れはお定まりのパターンだ。
司は引き寄せた花を抱き込むようにして、男を見下ろす。
「この子、俺の連れですんで」
じろりと睨み付ければ、彼は目に見えるほど肩をビクつかせた。
「え、あ、そうなんだ? ゴメンね」
男はヘコヘコと頭を下げつつ、愛想笑いを浮かべながら足早に離れていく。
「大丈夫か?」
彼に威嚇の視線を向けたまま問うた司に届いたのは、小さな笑い声だ。
「?」
見下ろすと、花はクスクスと笑っている。司を見上げた彼女は大きな目を楽しげに煌かせた。
「デジャブだ」
「え?」
「ほら、最初に獅子王くんがわたしのこと助けてくれた時も、こんな感じだったよ」
「……ああ」
そう言われると、そうか。
司が納得顔になると、花はまた笑った。彼女が笑っていられるのは、大いに結構なのだが。
「あんたは、よくああいうのに引っかかるよな」
笑顔を見つめながらそう言うと、彼女は小首をかしげて眉をひそめる。
「何でかなぁ。ちゃんときっぱり断ってるのに」
そう言った花は、不満そうだ。
確かに、このフワフワとした外見に似合わず、花は結構頑固だったりする。確かに彼女はお人好しだし、生活時間の八割方は笑顔でいるだろう。その笑顔に騙されるのか、花のことを知らない者は、強引に迫れば言うことを聞かせることができると思ってしまうことしばし、だ。しかし、彼女はダメなことはダメだと言うし、雰囲気や押しに負けることもない。
司も花を見ていると何かと手を貸そうとしてしまうのだが、それがあまりに過ぎると彼女に怒られる。
(割と、自分ができることできないことは見極めてるよな)
本当に助けが必要な時は差し出した彼の手を受け入れるし、不要な時はきっぱりと断られた。
高校三年間の間に幾度かあったそんな場面を思い出していた司を見上げ、花が言う。
「もっと、こう、キリッとしたらいいのかな」
「いや、ムリだろ」
キリッとした花など、想像もできない。
一言で切って捨てた司に、彼女は唇を尖らせる。
「やろうと思えばできるよ」
司は花にチラリと眼を走らせた。
「一時間もったら褒めてやる」
「もう! そのくらい、余裕だよ」
睨んだところで迫力は皆無で、司は思わず笑みを漏らした。と、たった今あんなことを言ったばかりの花がふわりと笑う。
「何だ?」
「え? あ、だって、獅子王くんが笑ったから」
「俺が?」
「うん。貴重なもの見ちゃった」
くせ毛を弾ませながら歩く花は、やけに嬉しそうだ。
(キリッとするってのはどこにいったんだ?)
上機嫌な花を横目で見ながら、司は呆れ半分で声に出さずに呟いた。
彼の笑いごときで何をそんなに、とは思うが、彼女の気分が良いならまあいいかとも思う。それに、自分が傍にいる時なら、別に気を張っている必要もないのだ。傍にいられない時だけ、変な輩に引っかからないようにしてくれればそれでいい。
「乾や金古と約束してるんだろう?」
水を向けると、花がパッと顔を輝かせる。
「あ、うん。食堂で待ち合わせしてるの。一緒に天文サークルに入ろうって」
「天文?」
「そう、星観たりするの。高校の時はなかったから、大学に入ったら絶対入ろうって思ってたの」
頷いた花が、首をかしげるようにして司を見上げてくる。
「獅子王くんは? 何か入るの? 決まってる?」
「いや、俺は……」
司の家は母子家庭で、ここが国立大学だとしてもあまり親に経済的な負担はかけたくない。授業料は奨学金を受けているが、そもそも、高校を卒業したら働くつもりだったのだ。授業以外はバイトをして、多少の生活費は稼ぐ予定だった。
口ごもっている司に、花が窺う眼差しを向けてくる。
「決まってないなら、獅子王くんも、一緒に天文に入らない?」
「俺が?」
思いも寄らなかった提案に、司は目を丸くした。
星なんて、見ようと思って見たことなどない。
「うん。合宿とかもあるみたいだし、一緒だと楽しいかなって」
面食らっている司に、屈託なく、そしてそこはかとなく期待を漂わせた眼で、花はそう言った。
「いや、俺は……」
歯切れの悪い司に花はニコリと笑う。
その笑顔に、強制力などない。
ないのだが。
司は彼女から眼を逸らし、眉間のしわを深くした。