出逢いは突然に
獅子王司は、学校行事が好きではない。
というよりも、学校そのものが好きではない。
千年前の人間のことやら三角関数やら物理の公式やら、そんなものを覚えることに何の意味も見いだせないからだ。せめて高校くらいはそれなりのところに入っておけという母親の厳命がなければ、中学卒業の時点でとっとと働き口を探していただろう。
取り敢えず、家から一番近い高校に入学してようやく半年が経ち、今日は高校生活初の文化祭だ。
クラスの出し物はコスプレ喫茶だが、身長百九十越えで金髪、愛想笑いの一つもできない司に出番はほとんどない。加えて普段から同級生とろくにつるむことのない彼は、お義理程度の裏方業務を割り当てられたくらいだった。
その義務も、果たし終え。
(帰っちまおうかな)
声に出さずにぼやいた司だったが、ふと視界の隅に入り込んだ光景に眉をひそめた。
壁際に、恐らく他校生と思われる、私服の男が三人。
その隙間からピンクとレースがチラチラ覗く。
三人の並びが何かを――誰かを閉じ込めるような配置になっているのは明らかで、歪んだ立ち方で、彼らがどんな類の連中なのかが薄々察せられた。
彼以外に廊下を行き来する他の生徒で気付いている者はいないらしく、皆、明るい笑い声を上げながら通り過ぎていく。
(ったく、しょうねぇな)
司は舌打ちを一つこぼしつつ、そちらへと足を向けた。
「ちょっと、あんたら」
声をかけると、案の定、ガラの悪い応答が投げ返される。
「あぁ?」
真ん中に立つ男が振り返り、一瞬動きを止めてから頭を反らせた。司と目が合った瞬間、ギョッと息を呑む。
まあ、よくある反応だ。
司の背丈は彼よりも余裕で二十センチは高い。加えてちょっと眉の辺りに疵がある三白眼で見下ろされれば、たいていの男は怯むだろう。
「祭りだからって、あんま変なことしないでくださいよ」
司に脅すつもりは毛頭ないのだが、低い声はいつも相手をビビらせる。
「変な事って、別に……おい、行こうぜ」
男はおどおどと視線を彷徨わせたかと思うと、両脇の二人に顎をしゃくってそそくさと立ち去っていく。
(根性ねぇなぁ)
三対一なのだし、多少はイキってくれてもいいだろうに。
穏便に済んだことに少々物足りなさを感じつつ、司は肩越しに男たちの背を追っていた視線を前に戻す。
見えたのは、フワフワのくせ毛が作るつむじだった。そこに白い兎の耳が立っている。どうせ、クラスの出し物のコスチュームなのだろう。ピンクのスカートもふわりと膨らんでいる。
(小せぇな)
司の頭にまず浮かんだのは、その一言だ。
背丈は際立って低いというわけではないが、何というか、そう、華奢、なのだ。細い肩は司の三分の一もないように見える。軽く百キロを超える握力を持つ彼の手で触れたら、撫でただけでもクシャリと潰れてしまいそうだ。
他の女子に対してそんなふうに感じたことはないというのに、目の前の女子には吐息を向けることさえためらわれる。
司がまじまじと見つめていると彼女が小さく息をつき、肩にかかるかどうかという長さのくせ毛が揺れた。次いで丸い頭が反らされ、前髪に隠れていた顔が露わになる。
それを目の当たりにした瞬間。
(うわ、何この生き物)
思わず、司は一歩後ずさった。
見上げてきた大きな目はマッチ棒が三本は乗りそうな睫毛に取り囲まれている。
低めな鼻に、小作りだけれどもふっくらと柔らかそうな桜色の唇。
髪の色も瞳の色も肌も色素が薄いから、余計にはかなげに見えるのかもしれない。
パッと頭に浮かんだのは、「護ってやらねば」だ。護って「やりたい」ではなく、義務の「やらねば」。
小さくて華奢だから、というだけではない何かが、目の前のこの生き物は大事に護られるべきだと司に思わせたのだ。少なくとも、皆がバカ騒ぎをしているこのさ中に、これでもかとレースがあしらわれているピンクのワンピースに似合い過ぎるうさ耳を着けている姿で放置していてはいけない。
そう、取り敢えず、安全な『籠』に戻さねば。
「クラスは?」
気を取り直して訊ねた司に女子の眉根が寄った。
「え?」
「クラスはどこだ?」
もう一度問いかけてしまってから、司は自分の外見と声がどれほど威圧的なものであるかを思い出す。校内では怒鳴ったことも殴ったこともないというのに、入学して半年、いや、ひと月も経たない頃から、見てくれだけでドン引きされているのだ。
このか弱そうな女子も、きっとビビっているに違いない。
何も言えずに大きな目をいっそう大きく見開いているのは、怯えているからか。
「……さっきの奴らとまた会ったら困るだろう」
ボソボソと言い訳じみた台詞を付け加えると、彼女は瞬きを一つした。
真っ直ぐに見つめられて、司はまた半歩ばかり下がる。
「いや――」
やはり、余計な世話か。
あの男たち三人が囲んでいた時には素通りしていた視線が、司の背中にはチクチクと刺さるのが感じられた。彼らよりもよほどヤバそうに見えるのだろう。
「……」
もう、放っておこう。そうするべきだ。
身を翻して立ち去ろうとした司だったが、その袖がクッと引かれて動きを止める。
見下ろせば、小さな手がそこを握り締めていた。
「あの」
澄んだ声で呼びかけられて、司は袖から上へ視線を動かす。
再び目が合っても、彼女はわずかも怯む素振りなく彼を見返してきた。
「わたし、宇佐美花っていいます。一年一組です。さっきはありがとうございました」
彼女がペコリと頭を下げると、見るからに柔らかそうな髪もフワリと浮かぶ。
「えっと――?」
小首をかしげてもの問いたげな眼差しを向けてきた花に、司は気持ち顎を引いた。
「獅子王司。六組」
「三年生、ですか……?」
外見は悪目立ちする方だと自認していたが、同じ学年でも一組と六組では廊下の端と端で接点もないからか、どうやら彼女は司のことを知らないらしい。
「一年だ」
彼の答えに花は微かに目を見開いた。
「おっきいですね」
屈託なく言ったその声には、感心混じりの驚きしか感じられない。
こんなにか弱げなのに、彼のことを少しも怖がっていないのか。
むしろその方が驚きで、司は言葉を失う。
と、不意に、横合いから伸びてきた手がグイと花を司から引き離した。その手の主は、美人だが少し気が強そうな女子だ。
「由美ちゃん」
花に名を呼ばれても、彼女は睨み付けるように司を見上げている。
「ちょっと、あんた、六組の獅子王でしょ。この子に何の用?」
「由美ちゃん!」
「花も、変な奴に絡まれるから一人で出たらダメだって言っておいたでしょ!?」
司がその『変な奴』の一人にカウントされているのは明らかだ。花もそれには気付いたらしく、由美と呼んだ女子を睨む。
「由美ちゃん、獅子王くんは助けてくれた方だってば」
「え?」
眉をひそめた由美から司へと向き直り、花が申し訳なさそうな顔になる。
「ごめんなさい」
「いや」
色眼鏡で見られるのは日常茶飯事だ。
肩をすくめてかぶりを振った司の顔を花は覗き込むように見上げていたが、本当に彼が気にしていないと納得したのか、ホッと表情を和らげた。
そして。
「ほんとに、さっきはありがとうございました」
もう一度繰り返した彼女が、笑った。
まさにその名の通り、温かな色の花が開いたようなその笑顔を目にした瞬間、司の身体の奥がギュッと何かに掴まれたような衝撃に見舞われた。何だか、息も苦しい気がする。
(何だ……?)
みぞおちの辺りに手をやったが、もちろん、何もない。
どれほど殴られようが蹴られようが感じたことがないその感覚に戸惑う司の前から、フッと花が消える。
「ほら、花、行くよ」
「あ、ちょっと待って、由美ちゃん。じゃあね、獅子王くん」
由美に引っ張っていかれながらも、花は笑顔のままヒラヒラと司に手を振ってよこす。
遠ざかっていく彼女の姿が見えなくなるまで、司は指一本さえも動かすことができなかった。