かわいい君にキスしたい
「千春、また乾かさないで寝たでしょう。寝癖がついてるよ?」
湯島遥はそう言って、坂崎千春の髪に指を絡めた。二人の距離は近く、肩や肘は完全に触れ合っている。千春は周りからの視線を感じ、肩をすくめる。渡り廊下で、まるで恋人のように密着しているのだから、注目されないわけがなかった。
「あ、あの、遥先輩」
「ん? なに」
「すごく、目立っているように思うのですが……」
遥は肩まで伸びたサラサラの髪を揺らし、にっこり笑う。
「別にいいじゃない。きっと俺たちがかわいいからだよ」
自分で言うとは恐れ入る。しかし、確かに遥はとてもかわいい。ウィッグとは思えない艶やかな髪、お人形みたいに小さな顔。ぱっちりした目に長い睫毛。スカートから覗く足にはムダ毛ひとつなく、すらっとしている。
対して千春は、分厚いメガネに、ひっつめた髪。スカートは膝丈。かわいいという形容詞はまったく似合わない。
渡り廊下を覗いている生徒たちが、千春たちを見ながらひそひそと話す。
「湯島って男なんだよな……」
「マジ信じらんないよ。その辺の女より可愛いじゃん」
「遥くん見てると女やめたくなる〜でも可愛い〜」
「つか、あの側にいるもっさいのは何」
そう、湯島遥は男である。そして、千春と湯島遥はまるで釣り合っていない。遥は本来なら別世界の住人なのだ。なのに、なぜいちゃいちゃしているかというと──。
湯島遥は、ある日ふらりと千春の前に現れた。
「可愛いね、それ」
千春は顔をあげ、固まった。目の前にいたのが、ものすごく綺麗な人だったからだ。ちょうどその時、千春は家庭科室で縫い物をしているところだった。こちらを見下ろす色素の薄い瞳に、千春は心臓を鳴らす。 その人は、見てもいい? と端切れを指差した。千春はぼうっとしながら答える。
「は、い」
その人は端切れを手に取り、指先で感触を確かめた。千春は、そんな彼女に見惚れる。すっと通った鼻筋。長い睫毛。ぷるんとした唇。
(うちの学校に、こんなに綺麗な人がいるなんて)
季節は四月、遅咲きの桜が満開を迎えている。入学して間もない千春は、同じクラスの人々すらまだ覚えきれていない。
目の前の彼女は上靴がグリーンだから、おそらく二年生だろう。ちなみに、一年生の千春はブルーの上靴を履いている。目の前の美人が、ふいに口を開いた。
「レトロで可愛い布地だね」
「そ、祖母が古着屋をやっていて、たまに端切れをくれるんです」
「そうなんだ」
千春が作っていたのは、椿のブローチだった。美しいひとはさらりと髪を揺らし、
「俺にも一個作ってよ」
──俺? 千春は彼女の口調に一瞬違和感を抱いた。
「だめ?」
「あ、いえ、作ります」
「いつできる?」
「3日あれば」
「じゃあ、木曜日か。また来るね」
「あのっ、お名前は」
呼び止めたら、彼女は振り向いてにこっ、と笑った。
「湯島。湯島遥」
千春は、再びぼーっとしながら遥の後ろ姿を見送った。
そして次の木曜日、遥は先日と同じくふらっと現れた。
「できた?」
「はい、髪飾りを作ってみたんですが」
千春が差し出した髪飾りを、遥はしげしげと眺める。
「へえ、レースがついてる。かわいいね」
「気に入っていただけて嬉しいです」
遥はちらりとこちらを見た。
「なんか、話し方が堅苦しいね」
「す、すみません」
「別に謝らなくても。一個違いでしょ? 普通でいいし」
遥はそう言って、自身の髪に髪飾りをつけた。
「似合う?」
色素の薄い髪に、椿の赤が生える。千春はその様子にほうっ、と見とれた。
「は、はい、似合います。というか、髪飾りが完全に負けているというか、もはやどちらが花かわからないみたいな」
拳を握りしめて力説したら、遥がくすくす笑った。
「面白いね、君」
「あ、すいません。湯島先輩みたいに綺麗なひとと話すなんてめったにないから、舞い上がりました」
「遥」
「え?」
「俺のことは遥って呼んで。君は……」
「千春です。坂崎千春」
「よろしくね、千春」
そう言って、遥は花が綻ぶように笑った。
★
それ以来、遥はよく家庭科室へ来るようになった。終了のチャイムが鳴り響くなり、千春は急いで荷物をまとめる。中学から一緒の友人が声をかけてきた。
「千春、最近授業終わるとすぐどっか行くよね」
「え? あ、うん……最近、上級生と知り合ったんだ」
「上級生?」
「湯島遥さん。すっごく綺麗なひとなんだよ。モデルさんみたいで」
千春の言葉に、友人がぎょっとする。
「千春、その人って……」
「あ、遥先輩からメールだ。ごめん、純ちゃん」
千春は慌てて立ち上がり、カバンを手に家庭科室へ向かった。
家庭科室の擦りガラスに、人影が映っているのが見えた。あ、もう遥先輩来てる。千春はいそいそとドアに手をかけた。そのままがらりと開く。
「遥せんぱ……」
千春は、呼びかけた声を途切らせ、目の前の光景に瞳を瞬いた。
「あ、千春」
この声、まちがいなく遥だ。しかし、人形のように艶やかな髪は、ばっさりと短く切られている。しかも、裸で、あるべき胸が……ない。目の前にいるのは、どうみても男の子……。
「きゃーっ!」
思わず叫んだら、遥がしーっ、と指を立てた。
「静かに。人来ちゃうから」
千春は、真っ赤になって壁に張り付いた。
「な、な、な、はるか、せんぱい!?」
「うん。湯島遥だけど」
「はるか先輩が、お、男」
「そうなんだ。つい言いそびれてさ。千春ぜんぜん気づかないし」
遥は、ウィッグを置いてこちらへやってきた。
「ちょ、よ、よらないで」
「千春、寝癖ついてる」
遥が、千春の前髪を撫でて笑う。千春は、まぶしさでくらりと意識を飛ばした。
鼻歌を歌いながら、遥が千春の髪にヘアアイロンを当てる。千春はといえば完全に固まり、されるがままになっていた。先ほどの光景が、まだ頭の中でぐるぐる渦巻いている。
「な、なぜそんなものを持っているのですか……」
「ウィッグのお手入れ用。ケバってたらださいじゃん」
男だと判明しても、やはり女生徒の服を着た湯島遥は女の子にしか見えなかった。声はたしかにハスキーだが、中性的なので、女だと言われても違和感はない。
「あ、あの、遥先輩はなぜ、女の子の格好をしているのですか」
「かわいいものが好きだから」
「はあ」
「それに、この格好してると、女の子たちと楽しく話せるから」
千春の髪をくるくると巻きながら、遥が話す。
「男の格好ではダメなのですか」
「うーん。ちょっとこっち見なよ」
千春は振り向いて、びくりとした。遥は再びウィッグを取っていた。なぜか髪が短くなると、ちゃんと男の子に見えた。しかし、まつげの長さも、肌の美しさも変わらない。
(男の子でも、遥先輩は綺麗だ)
一瞬見とれかけた千春は、距離の近さに悲鳴をあげる。
「ぎゃあ」
彼は肩をすくめ、
「ほら、そうなる」
「い、いきなり男装に戻らないでください!」
「男装って、俺もともと男なんだけど?」
「わ、私にとっては綺麗なお姉さんですから」
「ま、いいけどね」
遥はかつらをかぶり直し、千春の肩に手を置いた。手鏡を手にし、見るように促す。
「ほら見て。できた」
千春は、鏡の中の自分をまじまじと見た。いつもはまとまりなく顔にまとわりついている髪が、ゆるくウエーブしている。
「似合うよ。可愛い」
「や、やめてください。私にとって可愛いという単語は、銀河系より遠いものです」
「それはまた大袈裟だな……なんで?」
「中学校時代のあだ名はおばあちゃんでした」
「おばあちゃん……」
「猫背で分厚いメガネをかけ、お裁縫をしていたからかと」
「じゃあ、メガネやめたら?」
いきなり視界がぼやけ、千春は慌てる。遥がメガネを取り上げたのだ。
「あっ、か、かえして」
「うわ、度強いね。視力いくつ?」
遥はメガネをかけて、あたりを見回している。
「0.1ですが……」
「俺の顔見える?」
「いえ」
ふっ、と甘い匂いが漂って、遥の顔が接近した。分厚いレンズのむこう、色素の薄い瞳がこちらを見ている。
「これだと見える?」
上目遣いで囁かれて、千春はぶわりと赤くなった。遥がくすくす笑う。
「見えてるんだ。わかりやすい」
「い、いい加減にかえしてください!」
千春はメガネを奪い返し、素早く装着した。視界が元に戻って安堵する。遥はのんびりとした口調で、
「コンタクト買いに行こうよ。お医者さんに処方箋もらってさ」
「絶対無理です。目に異物を入れるなんて!」
「異物って。レンズでしょ」
「もし砕けて、目に突き刺さったら失明するんでしょう!?」
「いやないって……そんな事故あったら、コンタクト自体がなくなってるって」
「絶対いやです!」
千春が断固拒否したため、コンタクトを買うのは無しになった。遥は指を立て、
「じゃあさ、買い物に行こうよ」
「買い物……ですか」
「うん。新しくできた駅前のショップ、行ったことある?」
千春はかぶりを振った。千春が買い物に行く場所といえば、近所のスーパーか、手芸屋くらいのものだ。
「じゃあ行こうよ。ね?」
遥はそう言って、にっこり笑った。
千春は遥に連れられ、駅前へと向かった。遥と歩くたびに、ちらちら視線が飛んでくる。男のひとに何回かナンパもされた。もちろん目当ては遥だ。
「ごめん、今日は気分じゃないから」
遥は手慣れた様子で断る。もしかして、よくナンパされるのだろうか……男に。
ショップにたどり着いた千春は、その店構えを見て固まった。
「──!」
横文字で書かれた店名(読めない)、ウインドウから見えるおしゃれな人々。マネキンが着ている服は、スカート丈がべらぼうに短い。
まさに未知の世界だ。千春は、ぎゅっと遥の服を掴んだ。顔を引きつらせた千春を見て、遥は笑う。
「そんな、おばけ屋敷に入るみたいな顔しなくても」
「む、無理です……ここは私にはハードルが高、わっ」
「大丈夫だって、おばけも怪物もいないから」
遥は千春の手を引いて、ひるむことなく店内に入っていく。長い髪をなびかせて歩く遥に、視線が注いだ。
「うわ、あの子超可愛いね〜」
「お人形みたい」
「隣のは……なに? あれ」
「こけしじゃね?」
こけし呼ばわりされた千春は、だらだらと汗をかく。遥は周りの視線をものともせず、いくつか服を手にした。かわるがわる、千春の身体に当てる。
「これ着てみて。千春はレモンイエローが似合うよ、絶対」
遥が渡してきたのは、鮮やかな黄色だ。こんな色をまとっていて許されるのは、紋黄蝶だけじゃないだろうか。
「そんな派手な色、無理です!」
「派手かなぁ。千春って、普段はどんな服着てるの?」
「近所のスーパーで買った服です。茶色とか、紺色とか、なるべく目立ちにくい色を選んで着てます」
「だからおばあちゃんって言われるんじゃない?」
遥の辛辣な言葉に、千春はうっ、と呻いた。
「着てみるだけならタダだし。ねっ」
押しつけられた服を手に、千春はよろよろと試着室へ向かった。
試着を終えた千春は、カーテンを掴んだまま、開けることができずにいた。似合わないと笑われたらどうしよう。いや、遥はそんな人じゃないと思うけど。カーテンの外から、遥の声が聞こえてくる。
「ねー、着たー?」
「は、はい。でもまだ心の準備が」
「なにそれ。開けるよ?」
「あ、だめ」
止める間も無く、シャッ、とカーテンが開いた。遥が、じっとこちらを見ている。千春はいたたまれなくなり、もじもじとスカートをいじった。
「あ、あの……へん、ですよね」
なにも言わない遥に、千春は不安を募らせた。まさか、二の句も告げられないくらいに変なんだろうか。
「脱ぎます、今すぐに!」
閉めようとしたカーテンを、遥が掴んだ。
「へんじゃないよ」
ふわっと甘い香りがして、背中に腕が回った。
「!」
「すっごく可愛いよ、千春」
至近距離に、遥の顔が迫る。きらきら輝く笑顔を目の当たりにして、千春は顔を熱くした。可愛いひとに可愛いと言われて、しかもこの人は本当は男で。こんなにも近づいて。くらくらして、変になる。店の照明が、突然チカチカ光って見える。
「だ……だめです。目眩が、しま、す」
「千春!?」
くたりと力を失った千春を、遥が抱きとめた。
数十分後、千春は、店の奥で遥に膝枕されていた。薄暗くて、ひんやりしていて気持ちいい。何より、祖母の家に雰囲気が似ていて落ち着く。遥は、千春の額に濡れタオルを乗せた。
「すいません、遥先輩……」
「ごめんね、無理やり着せたりして。嫌だった?」
「違います。遥先輩が眩しすぎて……」
千春の言葉に、遥は目を瞬いた。おかしそうにこちらを覗き込んでくる。
「それ、口説いてるの?」
「いえ、めっそうもありません」
千春は慌てて否定する。
「ただ、別次元の存在だな……と思って」
「別次元なんかじゃない。ちゃんと同じ空間にいるよ、俺と千春は」
遥はそう言って、千春の手を握りしめた。
「感じるでしょう? 俺の体温」
手の暖かさと、こちらを見つめる瞳に鼓動が鳴り出す。
「か、感じるので……離してください。また、のぼせます」
遥はあはは、と笑って、千春の手を離した。
「千春ってほんとに可愛いね」
柔らかい視線に心臓が跳ねる。千春は慌ててタオルで顔を隠した。こんなのダメだ。ドキドキして、変になってしまう。
店を出た遥と千春は、夕焼けの中を歩いた。
「綺麗な夕日。オレンジみたい」
遥は、色素の薄い瞳を夕陽に向ける。橙の光に照らされた遥も、やっぱり綺麗だった。
商店街のウインドウに、遥と千春の姿が映り込んでいる。足の長さ、肌の白さ、まつげの長さ。輝くような美しさ。同じ人間なのに、こんなにも違う。同じ次元にいても、世界が違う気がしてしまう。ぼんやりウインドウを見ていたら、遥が声をかけてきた。
「千春、どうしたの?」
「いえ、なんでも……」
「湯島!」
その声に、遥が振り返る。茶髪の女の子が、こちらに歩いてきた。
「松田」
「なにしてんの? 湯島」
「ちょっと買い物」
松田と呼ばれた女の子は、ちらりと千春を見る。その視線は、先ほど店で感じたものと同じだった。その視線を、言葉にするならこうだ。『どうしてこんな子が、遥と一緒にいるの?』そしてその無言の台詞は、千春の胸に突き刺さる。
「その子は?」
「後輩の千春。可愛いだろ?」
「座敷童子みたい」
「そんなこと言うなよ」
「褒めたつもりだけど?」
遥が眉をひそめた。千春はとっさに口を挟む。
「あの、私先に帰りますね」
「え? 送るよ。暗くなってきたし」
「大丈夫です。じゃあ」
千春は、足早に歩き出した。背中に、あんたあんなのと付き合ってんの? という声が聞こえた。それに対する遥の答えは、風にさらわれて聞こえなかった。
その夜、千春は自室で明日の用意をしていた。カバンから、遥が貸してくれたタオルが出てくる。
「あ、タオル、借りたままだった……」
明日、返さなきゃ。それで──もう、遥と仲良くするのはやめるんだ。千春はそう思い、ぎゅっとタオルを握りしめた。
★
翌日、千春は、二年生の教室へ向かった。他のクラスに来るのは緊張する。ましてや、ここは上級生の教室だ。室内に入ろうとした男子生徒がいたので、呼び止める。
「あの、湯島遥さんのクラスはここでしょうか」
「そうだけど?」
「これ、遥先輩に返してもらえませんか?」
タオルを差し出したら、彼は目を瞬いた。
「いいけど……自分で渡したほうがよくない?」
「私と遥先輩が一緒にいると、変な目で見られるから」
彼はじっと千春を見て、ちょっときて、と手招いた。階段の踊り場で立ち止まり、壁に背をつける。そうして、千春に尋ねた。
「一年だよな? 名前は?」
「坂崎千春です」
「俺、川瀬。あのさ、坂崎は、遥がなんで女装してるか知ってる?」
千春がかぶりを振ると、
「俺、遥と小学生の時から一緒なんだけど、あいつ中学のときめちゃくちゃ女にモテてたんだよね」
まあ今もかな。そう続けた彼は、
「普通に男の格好してた時は、女子の争いがすごかったからねえ。それでクラスがギスギスしたりとか、いじめが起きたりとか。多分、遥は男でいるのに嫌気がさしたんじゃないかな」
「そ、うなんですか」
「俺の勝手な想像だけどさ。ま、今はただの趣味なんじゃねーかと思うけど」
「あの……なんで私にその話を?」
「遥はさ、いじめられてた女の子のことが好きだったんだ。女って勘がいいだろ。多分、遥の気持ちを感じ取ったんだよ」
川瀬はこちらに視線をやった。
「あんた、その子に似てる」
「……え」
「そんだけ。じゃあ」
川瀬は、ひらひら手を振って歩いて行った。千春は彼の後ろ姿を見送り、ぎゅっと拳を握りしめた。携帯を取り出し、遥の番号を呼び出す。しばらくコール音がして、遥の声が聞こえた。
「はい」
「あの、千春です」
「どうかした?」
「今から会えませんか?」
「いいよ。俺ちょっと職員室にいるから……」
遥の声が途切れた、と思ったら、携帯を取り上げられた。ハッとして振り向いた千春の目に、上級生が三人映り込んだ。その中には、昨日会った松田もいる。彼女たちは携帯の電源を切り、こちらに放り投げた。
「ちょっと来て」
促され、千春は彼女たちと共に歩き出した。
どん、と背中が壁に着く。千春は、階段の踊り場で上級生たちに囲まれていた。わあ、漫画みたいだ。千春はそう思うことで、現実逃避しようとする。
「ねえ、あんた最近遥に馴れ馴れしくない?」
「……仲良く、してもらってるだけです」
「あのさ、あんた鏡見た? 遥とあんた、全然釣り合ってないから」
「遥って優しいからさ、あんたみたいなダサいやつに寄らないで、って言えないんだよね」
千春はきゅっ、と唇を噛んだ。
「釣り合ってないことなんか、わかってます」
「へー、わかってんだ。なら離れなさいよ」
「いやです」
「はあ?」
「だって、先輩たちには関係ないじゃないですか」
「ちょっとー、この子超むかつくんですけど」
松田が平坦な声で言い、壁を蹴った。びくりとした千春に囁く。
「ひどい目にあいたくなかったら、態度考えたほうがいいよ」
生徒たちが、ちらちらこちらを見ている。でも、だれも関わろうとはしない。千春だってそうだ。厄介なことには関わりたくない。大体、昨日思ったじゃないか。遥から離れたほうがいいって。だけどそれじゃ、遥を傷つけるんだ。千春は、ぐっと拳を握りしめた。
「……嫌です」
千春は叫んだ。
「釣り合わなくても、私は遥先輩が好きです、友達なんです!」
「あ、そう。じゃあ別の場所で話しよっか?」
さらり、と髪が揺れて、甘い匂いが漂った。覚えのある香りに、千春はハッとする。
「遥先輩……」
ほっそりしているのに、千春よりも広い背中が目前にある。遥が、千春をかばうようにして立っていた。
「その話し合い、長くなる?」
「っ遥!」
松田たちが動揺した声をあげた。遥はにこりと笑って、
「千春と大事な話があるんだ。連れてっていいかな?」
千春の手を握る。そのまま階段を降りだした。背後から、松田の声が飛んでくる。
「ちょっと遥! そんなダサい子のどこがいいのよ!」
遥はぴたりと立ち止まり、振り返った。美しい瞳で、女生徒たちを見上げる。
「教えてやんないよ、おまえらなんかに千春のよさは」
彼の低い声に、上級生たちがびくりと震える。
「は、遥、怒んないでよ」
「冗談じゃん、ねえ!」
「遥ってば!」
背後から焦った声が追いかけてくる。遥は振り向かず、千春の手を引いて歩いて行った。
渡り廊下にたどり着くと、遥はパッ、と千春の手を離した。それから頭を下げる。
「ごめん。俺のせいで嫌な思いさせた」
「は、遥先輩のせいじゃないです」
「いや、こういうの、昔もあったんだ。……女の格好でもこんなことが起こるなんて」
遥が瞳を揺らした。この人には、悩みなんか、苦しいことなんか、何にもないんだろうって思ってた。だけど違うんだ。遥だって、千春と同じように悩むことがある。
「……みんな、遥先輩のこと好きだから」
「好きってなんだろうね」
遥の髪が、ふわりと風になびいた。偽ものの髪に、桜の花びらがまとわりつく。女の子みたいに綺麗で可愛くて、でも男の子で。この人を独り占めしたいって、みんなが思うんだ。
「私は、先輩を見てるとキラキラで素敵で、こんな風になりたい、って思います」
「千春は、十分可愛いよ」
遥はそう言って、千春の髪を撫でた。彼の指に払われて、桜の花びらがひらりと落ちる。不思議だ。遥に触れられると、自分の髪が特別綺麗になったような気がする。可愛いって言われると、本当に自分が可愛くなったような気がするのだ。彼はあごに手を当て、
「……でもそうだな。言われっぱなしは癪に触るかも」
「え」
にっこり笑った遥の顔に、もう悩みの色はなかった。
翌朝、千春はスカートをぎゅっと握りしめ、門の前で立ち止まっていた。遥がぽん、とその肩を叩く。
「ねえ、早く行こうよ」
「こ、心の準備が」
「そんなのいらないよ、校門くぐるだけだし」
「せめて人という字を100回飲み込んでから……わっ」
遥がぐいと手を引いた。千春はつんのめるようにして校内に入る。ぼやけた視界でも視線を感じ、かっ、と首筋が熱くなった。
(お、落ち着いて。素数を数えよう。一、三、七、十一……)
生徒たちは、こちらに視線を送ってざわつく。
「遥先輩の男装──ッ! 麗しいわーッ!」
「いや、落ち着け。あれが普通だ」
「超かっこいい。写真撮らなきゃ」
そう、遥は男子生徒の制服を着ていたのだ。彼が歩くたびに人の波が動き、まるでハリウッドスターのようにフラッシュが焚かれる。千春は眩しさに目を細めながら、遥に尋ねた。
「な、なぜ遥先輩まで男装を? ものすごく目立っています」
「ちょうど、昨日男の格好しろって怒られたところだったんだよね」
遥がそう言って舌を出す。
「まあ、別に女装にこだわりがあるわけでもないし」
千春は自分の頭を手で覆った。ゆるく巻いた髪に、手作りの髪留めが付いている。いつもひざ下のスカート丈は、膝小僧よりも上だ。スースーして落ち着かない。
「やはり恥ずかしいです……。パーマ失敗したおばあちゃんみたいって絶対言われます」
「そんなことない。可愛いよ、千春」
遥が片目を瞑ると、きゃああ、と黄色い悲鳴があがる。誰かが倒れたような音がした。
(こんなに注目されても平然としているなんて、遥先輩はやっぱり常人じゃない……)
ふと、松田たちがこちらを見ているのに気づく。彼女たちは唖然とした表情で、千春と遥を見比べている。遥は笑みを浮かべ、
「ね? 千春はかわいいでしょ?」
松田たちは顔を見合わせ、悔しげに顔をそらした。
「えっ、あれ坂崎さん!?」
「うっそー! 別人じゃん!」
滅多に話さないクラスの女の子たちが寄ってきた。
「ねー、坂崎さん、その髪留めかわいいねー!」
「どこで買ったの?」
「あ、じ、自分で作りました」
「えー、作ってよ」
「あ、はい、リクエストがあればなんでも……」
メモ帳を開く千春を見て、遥は笑みを浮かべた。
★
翌日、千春はいつもの格好で家庭科室にいた。昨日の騒ぎはなんだったのかと思うくらいに、千春は再び地味な生徒に戻っていた。まさに魔法だ。
受けた注文はこなさねばならないと、メモ帳を片手にせっせと縫い物をする。
「あれ、戻ってる」
その声に顔をあげると、遥が入り口に立っていた。室内に入ってきた遥が、隣に座る。彼はいつも通りにウィッグをかぶり、女子生徒の制服を着ていた。さらりと髪を揺らし、
「かわいかったのに」
「や、やっぱりいつもの格好が落ち着くといいますか」
千春は針を動かしながら言った。眼鏡がないと前がよく見えないし、あのスカート丈では、おちおち階段も登れない。
「遥先輩も再び女装なんですね」
「みんなが写真撮りまくって授業にならないから、むしろ女装で来いって言われた」
「は、はあ」
遥はカバンから小さな袋を取り出し、千春に見せた。
「みてみて、春の新色リップグロス。ストロベリーラブリー」
「りっぷぐろす?」
「発音がおばあちゃんだな。要するに口紅だよ。つけてあげよっか?」
遥は指でリップグロスを掬い上げて、近づけてくる。千春は慌ててのけぞった。
「け、けけ結構ですっ!」
「えー、かわいいのに」
「ストロベリーラブリーはちょっと……なんかこう、もっとくすんだ、小豆色のような色が私に似合うかと」
「逆に難易度高いよ、その色」
彼は、自分の唇にグロスを乗せた。きらきら輝くリップは、遥によくにあっている。
「やっぱり、遥先輩は綺麗です」
「俺が男の格好してるより、女装の方がいい?」
「はい、そちらの方が落ち着くので」
「そう?」
なぜだか遥は不服げだった。
「しかし、格好が違うと周りのリアクションって変わりますね」
「そうだね。みんな最初は見た目で判断するから」
遥は千春の手元を見て、
「それは? ポーチにしては大きいね」
「筆箱です。話したこともないクラスの男子に頼まれまして……こういうの、男子でも使うんですかね?」
遥がぴく、と肩を揺らす。
「男子?」
「はい。色々尋ねられて、もうテンパって、汗をたくさんかきました」
「……馬鹿にされるのは癪に触るけど、千春が可愛いってことは、俺だけが知ってればいいかな」
「へ?」
きき返そうとした直後、ふ、と視界が暗くなって、甘い匂いが漂った。長い睫毛が頰にこすれ、男の子だとわかる骨ばった指先が顎に触れる。
遥の唇が、千春の唇に重なった。手に持っていた針が、音もなく机の上におちる。千春は、色の移った唇を手の甲で押さえた。
「……っ」
「まっか。イチゴみたい」
彼は、そう言って笑った。
かわいい君とキスしたい/end