愚者への報酬
「……子供ね」
僕の打ち明け話――アナスタシアとの婚約が破れたいきさつをあらまし聞き終えたところで、ニーナは一言、そういった。
「子供」
ひどく侮辱された気持ちになった。僕は貴族というのもおこがましいような身の上ではあるが、子供扱いされねばならないとは思いたくない。
「そのご令嬢の事よ。そんなににらまないで」
ニーナは僕から少し身を引き、苦笑しながら言った。つまり――僕は今よほど険しい顔になっているに違いなかった。
それにしても、アナスタシアが子供とは?
「どういう意味だい、それは」
「いろんな意味があるんだけど、そうね……彼女は結局、愛はおろか、結婚についても全然わかってないってことね。そして、自分が何を望んでいるか、何をすべきかすべきでないかもわかってなかった」
「君が言いたいことが、まだもう一つよくわからない」
彼女の謎めいた言葉に、僕は眉をしかめた。もしアナスタシアにそれが分かっていなかったというのなら、僕はどうだったか? わかっていたのだろうか?
「私が強く印象を受けたのは、中庭での一件よ。彼女はアーニス・カミルのことを切り出すとき、顔を背けた――あなたはそういったわね? これは推測だけど……彼女はその時、嘘をついたのだと思う。あなたに、そして、自分自身に対しても」
「アナスタシアが僕に嘘を――」
「ええ。顔を背けたのは、あなたの顔を見たくなかったとか、そういうことではないはず……今となっては手遅れのあと知恵だけど、あなたはその侍女の怪我を無視するか、神聖魔法で治療するべきだったと思うわ」
そういってニーナはため息をついた。
「神聖魔法って、そんなもの身につけてるわけないだろ……勇者シェイワースの時代じゃあるまいし」
かの輝かしい御代には、勇者のみならず騎士たちの多くが自分の信じる神の神殿で契約を交わし、その加護のもと様々な奇跡の技を行使したという。
今の時代、そんなものを目の当たりにすることはまずない。そうしたものは、伝説とおとぎ話の中に去ってしまったのだ――少なくとも、王国の中でも上流社会、世俗と常識の光が当たる世界においては。
「まあ、ないものねだりを言っても仕方がないのは同感ね。おそらく、アナスタシアは晩餐の後くらいに、アーニスの脚に施された添え木を見てしまったのよ。そして、事のいきさつを訊いて――事実を都合よくゆがめて利用することを思いついた。あるいは、侍女に対する嫉妬もあったのかも」
「なぜだ。どうしてそこまでしなきゃならなかったんだ。そりゃ、僕はアナスタシアと釣り合うような――」
言いかけたところに、ニーナが僕の口の端をつまんでひねり上げた。
「痛てっ!! 何すんだ」
「そういうことを言ってるからダメなのよ! 身分やお家の資産が劣るのは事実だから仕方ないわ、でも、なぜハンブロール子爵様があなたと娘を娶せたいと思ったのかわからない? 彼女はそれを理解せずにあなたを軽んじた。子爵が問題にしなかった身分や資産のためにあなたを捨てた。侍女を一人生贄にしてまでね。子供よ、それもたちの悪い子供。アナスタシアも、そしてあなたも、本当にバカよね」
「て、手厳しいな!?」
「だいたいね、自分が彼女に釣り合うだけの目方がなくて、立場が不安定だって思うなら、ご令嬢をもっとしっかり見ておくべきだったのよ。学院の講義が男女別だとしても、手段はあったはず。例えば――」
「例えば?」
「アナスタシア嬢の取り巻きと仲良くなっておいて、それとなく毎日様子を聞くとか」
あっ、と声を漏らしそうになった。確かに、僕はアナスタシアの身辺には何の情報源も持っていなかったのだ。
「やってなかったでしょう? 想像はつくわ、あなた潔癖そうだもの……婚約者以外の女の子に話しかけては良くない――どうせそんな風なことを考えてたんじゃない? 甘いわ。おそらく侯爵家のお坊ちゃんは、取り巻きを味方につけるところから始めたはず」
「くそう……確かに、君の言う通りだ。そんな風に考えてしまってた」
「……女ってね、男が思う以上に周りに影響されるし、周りに流されるの。そこに何のつても作らないなんて、犬を連れずに羊を放牧するようなものよ」
――つまり、狼がきて食べ放題。
「くっ……」
言い訳の材料はある。母上が早く亡くなり、我が家が男ばかりの三人兄弟だったせいだ。
僕の周りで女性と言えば記憶の中だけになった母と、あとは屋敷に出入りする身分の低い、それも年齢のいったご婦人ばかりだった――だが、そんなことを言っても何にもならない。
女性は憧れるだけの対象であるか、空気の様に無視するのが当然の存在。それゆえに、多分アナスタシアをあまりにも理想の女性として高く見過ぎてしまっていたのだ。
「間違いなく、彼女はそのお坊ちゃんの、一見こまめで情熱的な求愛に負けたのよ。そして、そこには打算が働いた……エッシーの侯爵領と言えば豊かなところですもの。ハンブロール子爵がなぜ彼女の心変わりを受け入れたのかは分からないけど……大方、娘可愛さに目が曇った、そんなところでしょうね」
「ちくしょう……」
やっぱり、僕だってわかっていない子供だったんじゃないか。そして、身分と立場の差に萎縮して、その立場を守るために必要な手も打てずにいた。
僕に、アナスタシアを責めたり意趣返しをするような資格なんてないってことだ。
打ちひしがれて座席の上で背中を丸め、うなだれたまま数秒が過ぎる。
その落とした視線、僕の足元にニーナの靴のつま先が見えた。栗色の染料でつややかに染め上げた、革製の優雅な細工品が。
しなやかな腕が僕の肩と背中に絡みつき、そのまま抱き寄せられた。飾りベルトのたくさんついたコルセットの下方にある、ふわりと膨らんだスカートが顔に押し付けられる。その布地の下にあるのは、ニーナのなめらかで柔らかな下腹――彼女の温かさが頬に伝わってきた。
「何を、してる……」
「私の好奇心で辛いことを思い出させたし、傷つけてしまったみたいね……しばらくこうしててあげる。だから、元気を出しなさい」
頭の上には彼女の形の良い胸が、コルセットを押し上げて息づいている。それを意識してしまったとたん、体の中心がカッと熱くなるような気がした。
「……あなたはお人好しで怠け者だったわ。だけど、長旅の後だってのに休息も取らずに友達を探しに行こうとするような、極め付きのバカよ。そして、嵌められ、貶められて、都合よく捨てられても――手に入れるはずだったもの、そう信じていたものを横から掻っさらわれても、まだ人を信じる、そして自分の努力で道を切り拓くこうとする、最高のバカよ」
「あの……ねえ、それ褒めてないよね?」
「たぶん褒めてはいないわね。でも私はそういう男、嫌いじゃないのよ。ああ、心配しないで。私は娼婦だけど、こうやって抱きしめるくらいのことはいつでもしてあげるから」
「……ありがたいけど、今はやめてくれ」
僕の声がさび付いたようにかすれて響き、鉄の箱の軋みと混ざり合った。今はまだ、彼女の優しさや気遣いにすら痛みを覚える。
きちんと説明できたわけではなかったが、ニーナは「ごめんなさい」と言いながら身を離した。多分、こういう反応にも慣れているのだ。
「……なにもなかったら、あなたはきっと子爵家にとって理想的な婿養子になったことでしょうね。アナスタシアには頭が上がらなくても、それでも平穏で満ち足りた人生を……」
「だがこうなった。それが僕の運命だったんだろうさ」
「自棄になるな、とは言わないわ。でも、もし慰めが欲しくなったら手を伸ばしなさい。あなたが失ったもの、アナスタシアとの結婚で手に入れるはずだったもの――その中の一つだけは、私も持ってるから」
そう言った後、彼女は優しげな声で一言、ため息交じりに付け加えた。
――そこからは、有料だけどね。