聖堂へ
およそ十分ほどあれこれと悪戦苦闘した結果として――
ジェイコブの部屋の戸は施錠されていて、壊す以外の方法ではどうしても開けることができそうになかった。宿の主人もあいにく留守。そんなわけで、僕はこの奇妙な美女のあとについて、またしてもエスティナの狭くて汚い往来に戻る羽目になった。
ニーナ・シェルテムショックは僕の方を振り向きもせず、数歩前をすたすたと歩いていく。
「なあ、そんなに早足で、いったいどこに行こうっていうんだ」
「地母神の聖堂よ。あそこの神官たちは癒しの術が使えるし、梯子への人の出入りを逐一記録してるから」
「……なるほど」
正直、彼女の言うことの意味が僕にはどうもつかめない。いい加減旅装を解いて一休みしたい気持ちでいっぱいだったが、もうしばらく我慢することにした。
ニーナの言葉が正しければ、ジェイコブはすでに三日戻っていないのだ。となると、彼の命に危険が迫っている可能性もある。
「……今までのところはそれなりに運に恵まれてたはずなんだ、ジェイクは。二年もの間ここと梯子との往復を続けてきたんだから」
気持ちが焦るせいか、つい繰り言めいたものが口をついてでた。
「そうでしょうね。私も何度か彼の持ち込んだものを鑑定したし、換金の相談にものったもの」
「ああ……真向かいが君の部屋なら、ジェイコブには随分とありがたかっただろうね」
「お役に立てたと思うわ……いえ、こんな物言いは良くないわね」
いつの間にか故人のことを語っているような調子になっていたことに気づいて、僕たちはぶるぶると首を振った。
* * * * * * *
エスティナの都が建設されてからかれこれ五百年がたつ。カゼイ山脈の北端に位置するユーレジエン丘陵を切り拓き、北の魔境に対する備えとしてその歴史は始まった。王国に併合される以前は、街と同じ名を冠する公国の首都だったこともある。
だが今ではまともな領主もおらず駐留する軍隊もない。治安もあまりよくないと聞いている。それというのも一つには、地下に横たわる迷宮『梯子』が、長きにわたって様々な怪異や呪いを周囲に吐き出し続けているためだ。
地母神の教団はそれらの災いを鎮めるという名目で、この地に聖堂を築き、長年にわたって神官団を駐在させているのだという。
聖堂に近づくにつれて、路地には仮小屋や天幕を掛けた種々雑多な商店が目立つようになってきていた。
「へえ、この辺りはずいぶんにぎやかだな」
「それ、あんまり笑えない冗談ね」
ニーナが苦笑した。実のところ界隈の様子はにぎやかさとは程遠い。
退屈そうに座り込んだ店番たちはまるで地下墓所の壁に収められた死者のように、膝を抱え込み身を縮こまらせて微動だにせず、ごくたまに誰かが自分の前を通る時だけ、報われそうにもない期待の視線を通行人に送っている。
そのテントの一つから、低くかすかなのに妙に耳につく声がニーナを呼んだ。
「……お、おお。シェルテムショックのお嬢ちゃんじゃあないか。珍しいね……まさか、自分で迷宮へ行こうとでもいうのかい?」
「お久しぶりね、モーブさん。そうね、迷宮に行くことになるかもしれないわ」
足を止めてこともなげにそう答えるニーナに、店番の男はひどくうろたえる風だった。
「本気なのかい? ……じゃあ、是非うちの触媒を買っていってくれ。磁鉄鉱はあそこじゃあんまり役に立たないかもしれないが、電気石も少しは在庫があるし――」
「じゃあ電気石を三つ。それと、やっぱり磁鉄鉱も一つ欲しいわね」
ニーナは男に勧められるままにいくつかの貴石や香草の束、あとなにやら昆虫の干物のようなものを買い込み、少なくない枚数のディアス銀貨をまとめて支払う様子だった。
聖堂の前まで来ると、何グループかの探索者たちが座り込み、思い思いに話に花を咲かせていた。
とはいえ、彼らの表情はいずれもあまり明るくはない。漏れ聞こえてくる会話の端々からすると、負傷者の治療が終わるのを待つ、不安と焦れったさに耐えている者も少なくないようだ。
そして、その中には僕の連れに対する無遠慮な言及もいくつかあった。
――や、ニーナ・シェルテムショックだ。どうした風の吹き回しだ?
――ははあ、あの坊ちゃんどうやら新しい金ヅルってとこだな……今後も鑑定を確実にやってくれるんなら、俺は一向にかまわんが。
とぎれとぎれに聞こえてくるそんな声を右から左へ聞き流しながら、僕たちは聖堂のアーチをくぐった。
吊るし香炉から立ち上る香りの良い煙がたなびく中に、頭巾からあふれる長い髪を肩に垂らした、初老の神官がたたずんでいた。
「地母神の家へようこそ、探索者の方でしょうか? 治癒の儀式はただいま三組が進行中で、少しお待ちいただいております。他の用件については何なりと」
「治療はまだいいわ。迷宮探索者の登録と、立ち入り記録の開示をお願いします。ジェイコブ・ハリントンさんが宿に戻らないの、これで三日目」
少しお待ちください、と言いのこして、神官は奥に通じる通路へと消えた。あとに残された僕たちのを見下ろすように、壁に掛けられた灯油ランプの炎が揺れている。
「『梯子』の入り口はここから近いのかい?」
ニーナはどうやら僕を探索者として登録させ、迷宮へ行かせるつもりらしいが、それ自体はとっくに予定していたことだから問題はない。むしろ、ここで時間をつぶす理由がよくわからなかった。
「実をいうとね、『梯子』はここの地下なのよ。正確には裏手の崩れた納骨堂から入るんだけど」
「なんだ、じゃあべつに記録を当たる必要はないじゃないか。早く登録を済ませて、ジェイクを迎えに行けば……」
途端に、ニーナがひどく冷ややかなまなざしで僕の顔を覗き込んだ。
「確かに、ハリントンさんは迷宮の中にいる可能性が高いわね。でも、ここはエスティナよ。前庭にたむろしてる連中を見たでしょ? あの中にはね、ちょっと甘い顔をすると同じ人間でも後ろからばっさり、物言わぬ死体に変えてからゆっくりお宝をかすめ取る、なんて手合いも少なくないの」
「なんだって? それじゃ、まさか」
「ハリントンさんは迷宮にいるかもしれない。でも、何か値打ちのあるものを持って帰った挙句に、さらわれてどこかに閉じ込められてるかもしれない。無駄足を踏まないためには、ありとあらゆる抜け道やわき道を、見落とさずにつぶさなきゃならないのよ……まあいいわ、あなた素人だもの。情報の大事さを理解するために、ちょっとした荒療治を体験させてあげるわね」
そういうと、彼女は唇の端を釣り上げていたずらっぽく笑った。
「テオドール・シュヴァリエ……あなたは多分ごく最近まで、自分より高貴な身分の女性と将来を誓い合っていた。そして、その約束は一方的に破られ、先方の家による引き立ても庇護も失ってこの街にやってきた――合ってるかしら?」
「なっ……」
僕は耳を疑った。なぜ、彼女がそれを知っているのだ――!?