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財布と手紙と

「いくら何でも重すぎるだろ、その荷物は」


 後ろから声がした。


 僕はそのとき、当座の着替えと学院で使った何冊かの書物、その内容を自分なりにまとめた大量の羊皮紙の束と、それらを収めたやたらとごつい造りのかばんを、十歩ほど抱えて歩いては地面におろし、何度も立ち止まって息をつきながら運んでいるところだった。


 振り向くと、そこにはエバーグリント卿がいた。学院から真っすぐ馬で走って来たらしく、彼自身もその乗馬も、汗で濡れ夕日を反射して光っていた。


「学院の教科書を抱えてタランツァまで帰るなんて、無茶だ。着替えだけにした方がいい」

 

 彼の言うことはもっともだった。これらの本はやたらと分厚い上に、表紙が鉄で装丁された頑丈この上ない代物なのだ。タランツァは僕の故郷、つまりシュヴァリエ家のささやかな所領がある土地だが、ここからはだいぶ遠い。早馬でも五日はかかる。


「そうはいっても……これを手放してしまったら、僕はこの二年足らずの間に学んだことを、振り返ることもできなくなってしまいます」


 弱小貴族の三男坊が王立学院で二年学ぶことができただけでも、大変な幸運なのだ。その成果を、どうして捨てられようか。



「そうか。まあ、お前ならきっとそういうと思った」


 彼は馬を降りて手綱を取ると、もう片方の手で胴着のポケットから分厚く膨らんだ財布を取り出した。その手が、僕に向かって差し出される。


「持って行けよ、テオドール。路銀もないんだろう? 仕送り前で少々目方が物足りないが、まあ勘弁してくれ。二十ソレイユは入ってるはずだ。」


 僕は肝をつぶした。二十ソレイユと言えば決して少なくない額だ。


 シュヴァリエ家の感覚で言えば、戦場へ持ちこんでもどうにか命を預けられる程度の――つまりそれなりに業物の剣が一振り、調達できる。そういう金である。


「エバーグリント卿、これは……」


 受け取れない――そう思った。だが、彼は僕の手首をつかみ、財布(それ)を手の中にねじ込んできた。



「噂を耳にするのが遅くてな。一部始終を知って慌てて追いかけてきたんだ。受け取ってくれ。今はこんなことしかしてやれないが、俺はお前の無実を信じてるよ。アナスタシア嬢はなにか魔が差しでもしたに違いない……いずれきっと、お前の名誉が回復される日が来る。俺もできるだけのことをする。だから、自棄(ヤケ)を起こさずに時を待つんだ」



 この日一日で掛けられた中で、唯一の、そして一番うれしい言葉だった。僕はもう迷うことなくその財布を受け取った。


「……エバ――いや、ロッド。ありがとう……」


 すると、彼は寂しそうに微笑んだ。


「初めて、そう呼んでくれたなあ。あと、もうひとつ。この道を行った先のボルスト通りから、タランツァ近くまでの乗合馬車が出る。先に行って御者に心づけを渡しておくから、それに乗って帰るといい。お前が来るまで待っておくようにさせるからな」


「何から何まで……でも、かばんは運んでくれないんですね?」


 無理に笑顔を作って笑いかける。彼もにやりと笑って見せた。


「お前、今の気分でそこまで甘やかされたいか? そんなことはあるまい。その重いやつを無理やりにでも馬車の駅まで運んで、やり遂げるんだ。そうすりゃちょっと空元気ぐらいは出るさ……安心しろ、心づけを渡した後はお前のとこに戻ってきて、荷物を蹴っ飛ばしたりするやつが出ないように横で見ててやるよ」


「……参ったなあ。一人にはしてもらえそうにないや」


 そのあと、駅から駆け戻ってきたロドニーとともに、僕はまた十歩進んではかばんをおろして、ゆっくりと、ゆっくりと、名残を惜しむように夕映えの道を歩いて行った。



        * * * * * * *



 タランツァ近くの駅までは乗合馬車で十日ほどかかった。最寄りの駅で馬車を降りた後は徒歩で半日。

 見晴らしのいい街道沿いを進むから物取りなどに遭う心配はなかったが、とにかく休む場所一つないのには閉口した。馬車の旅をいくらか楽しいものにしてくれたロドニーの財布も、これではまるで役に立たない。


 いや、かばんを運ぶのに使う小さな荷車を購入できたから、間違いなく役に立ってはいるか。だがそれでも荷物は重く、花房月の太陽は僕をへとへとにさせた。


 そのうえ、家に帰りついて僕を迎えたのは家令のハーディーだけだった。



「おかえりなさいませ、坊ちゃま。この度はその、なんとも……」


「なんだ、もう家には伝わってるのか……これはどうやらいろいろと覚悟しないと仕方ないらしいな」


 ため息が出る。多分学院あたりから早馬で報せが届いたのだろう、ご丁寧なことだ。これで実家も安息の場所ではなくなった、ということか。


「――で、父上はなんと?」


「それが、その……」


「……ハーディー」


 我が家に長年仕えるこの老人は、家令というよりは気のいい爺やといった感じの存在だが、僕はさすがに彼をたしなめた。

 板挟みで辛いだろうが、伝えるべきことはきちんと伝えてくれなくてはかえってこちらが困るのだ。


「お父上は、『テオドールの顔も見たくない』と仰せです……」


「……ああ、そりゃあそうだろうなぁ」


 ハンブロール子爵家から我が家に送られていた、いわば分割払いの婚資は年におよそ四百ソレイユ。

 僕の学資にいくらかを差し引いた残りは、領内の道路や水車小屋の維持管理、それに我が家のささやかな豊かさのために使われていた。

 それが今後なくなるとなれば、父の憤りもあながち身勝手とばかりは言えない。勘当などと言い出さないでくれればいいのだが。


「父上の前に出られないのでは、晩餐も抜きか。ハーディー、なにか食い物はあるかい? 簡単なものでいい」


「おいたわしや。少々お待ちください、今朝とった卵が残っております。オムレツを作らせましょう」


「ああ、『テオドールの鶏』か。ありがたいことだよ」


 『長く残り、それ自体が収益を生み出すものを一つくらいは』という次兄フレデリクの忠告を入れて、婚資の一部で屋敷の裏手に鶏小屋を建てたのは賢明なことだった。

 次兄は器用にも出入りのワイン商によしみを結び、商いのコツや帳簿のつけ方を習い覚えた挙句その商家の婿に収まった人だ。


 それらの家禽は『テオドールの鶏』と呼びならわされ、卵や肉で我が家の食卓を飾っていると、実家からの手紙でも何度か触れられていたものだった。


(いっそ、フレデリク兄上のところに転がり込むか……いやだめだ。兄上だって婿養子なんだからなあ)


 食事が運ばれてくるまでしばらくの間があるはずだったが、ハーディーは厨房を料理人に任せきりにして、すぐに僕の部屋に戻ってきた。


「どうした?」


「坊ちゃまあてに手紙が届いておったのを忘れておりました。ジェイコブ・ハリントン様からでございますよ」


 そういいながら、封蝋の施された三つ折りの羊皮紙を差し出す。


「ジェイクか……! 懐かしい名前を聞いたな」

 

 ハリントン家はタランツァのすぐ隣に在所のある、下級貴族だ。ジェイコブはそこの長男で僕より二つ年上。子供のころはしばしば互いに領地の境界まで出て行って落ち合い、付近の野山で遊んだものだ。手紙の封を切ってみると、そこにはこうあった――

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