令嬢、大いに恋路を往く(その二)
クロード様はとても熱心に、ルシア様に水泳を指導されておいででした。はじめは顔を水につける事すらおぼつかなかったというのに、しばらくしますと両手を引かれた状態で足をばたつかせ――最後にはゆったりとした横泳ぎで、少し離れた桟橋と岸の間を行き来できるほどになっておいででした。
といっても、ニロッドも進めば足をついてしまわれますから、ごく浅いところでしか泳げなかったのですけれど。
一時間ほども湖水に潜っては浮かび、水をかけあって戯れているうちに、みなさんすっかり疲れ、体が冷え切ってしまったようでございました。
こんな時には照り付ける日差しの下、岸辺の岩や、水浴び小屋の前にしつらえたデッキの上で、体を温めるのが何よりも気持ちがよいものなのです。
甲羅干しを始めてしばらくすると、お嬢さま方はうとうとと眠り始めてしまったようでした。私はと言えば、だいぶ離れた木立の際で、日傘を広げ小剣を膝の上に横たえて、古い切り株に腰を下ろしておりました。
すると、デッキの上で布張りの長椅子に寝そべっておられたクロード様が、やおら身を起こされました。そうして、波打ち際の大きな平たい石の上、イグサで編んだマットレスの上で眠るアナスタシア様のところまで、忍び足で歩いて行かれました。
これは面白くなってきた、と私はほくほくしておりました。
アナスタシア様は眠そうに目をこすりながら体を起こされますと、クロード様の腕に指を絡め、仲睦まじい恋人そのものといった様子で連れ立って何処へか向かい始めたのでした。
初め、お二人の足は水浴び小屋の方へと向くようでした。ですがクロード様が何やら首を振ると、お二人は急に方向を変えて、桟橋からもう少し回り込んだところの大きな岩のところへと歩いて行かれたのです。
これは、ええ。ひょっとするとひょっとするわけでございますね。見逃したり、聞き逃したりすることなどもってのほか――私はアナスタシア様のご学友として、そうした貴婦人の不名誉につながりかねない不測の事態をしっかりと見届け――いえいえ。
不測の事態が起こらぬよう、しっかりと監督しなくてはなりません。
傘はそのままそこに広げ、手ごろなハンカチを引き裂いて作った何本かの紐で木の枝に結わえ付けて、遠目には私がそこにいないことが分からないように細工をいたしました。
そのうえで、この水浴び場の周囲をぐるりと囲む松林の中を、柔らかく積もった落ち葉で靴音を殺しながら件の岩陰へと近づいていきました。
ああ。アナスタシア様のお声が聞こえます――
――クロード様、ルシア様にずいぶんとご執心でしたね……
――うん、彼女は筋がいいですね! どうして今まで誰も彼女に泳ぎを教えなかったんだろう?
――……すっかり疲れて眠っておりますわね、ルシア様も、マチルダ様もエリノア様も……ね。
――うん、うん。実に静かだ……あの、アナスタシア様、お顔が近くな――
おおっと。不意に途切れる二人のささやき。くぐもった喉声が甘やかに響いて、何が行われているかがありありと分かるようではありませんか。
足元に水があるのか、わずかにざぶざぶと波を立てる音も聞こえてまいります。
も、もう少しお近くへ!
「ぷ、はあっ……アナスタシア様、こんな……突然のことでびっくりしました」
「あら……クロード様はこの程度のこと、慣れっこではございませんの? でもご安心あそばせ。私の唇は、殿方に許すのは初めてですわ」
おほう。やりおったわ――ああ、失礼いたしました、つい昔おりました修道院での、院長先生の口調が。
「それはまあ……経験がないわけではありませんけれども……アナスタシア様、もしやこれ以上のこともお許しいただけるのでしょうか?」
おやおや。なにやら図々しい物言いが聞こえてまいります。
「ふふふ、どういたしましょうか……?」
「いけない方だ。でも、私はそんなあなたの誘惑に乗らずにはいられません」
「あっ……!」
むむ、この予期せぬことと予期したことが絶妙に入り混じった驚愕の、そして甘い吐息。これは間違いなく、クロード様がアナスタシア様のたわわなものに手を伸ばし、或いは顔をうずめるぐらいのことが行われているのに違いありません。
「ね、ねえ、クロード様。私にお近づきになったのはもちろん、けっ……その、私のエナメイル家とクロード様のル・ベル家が結びついてよしみを深める、そのご縁を結ぶためでございますわね? それであれば――」
「ああ、結婚のことですか。まだよいではありませんか、そのようなことを考えるのは。私たちはまだ若く青春の楽しみは汲めども尽きぬ泉のように、前途にあふれているのですから……!」
「クロード様?!」
「楽しみましょう、アナスタシア様」
「お、お待ちくださいま――」
「アナスタシア様!! もしやそのあたりにいらっしゃいますか? 日が陰って参りましたし、そろそろお着替えになりませんと!!」
もう少し聞いていたかったのですが、私は意を決してこの一番に水を差す一撃を加えました。今のところ、クロード様がアナスタシア様に近づいているのは、あまり真摯なお心からではないと見て取れたからです。
このまま傍観していては、アナスタシア様はむざむざと花を散らした挙句にうち捨てられるようなことにもなりかねません。
「あ、ああ、ベアトリス様……ええ、私たちはここにおりますわ」
お二人は身を離して、岩陰から出ておいでになりました。白けた表情を浮かべたクロード様の水着は少しばかり膨らみ過ぎておりましたし、アナスタシア様の水着は、胸にあてた三角形の布地が少々緩んでおります。
「よろしゅうございました。さあ、参りましょう」
私はアナスタシア様の手を取り、クロード様から少し距離をとるように速足に歩きました。
「あ、あの。ベアトリス様……もう少しその、ゆっくり」
(危のうございましたわね。クロード様は見たところ、こうした色事には長けたお方のようです。今のところはアナスタシア様がクロード様に『捕らえられて』いる、ということですわ。あなた様が彼を『捕らえる』には、もう少し別の方角から攻め込んで、油断なく立ち回らねば)
「……そうですね。ありがとうございます、ベアトリス様。気を付けましょう」
テオドール・シュヴァリエとの婚約を破棄したいきさつはすでに学院の中で知らぬものもなく、その真相もなんとなしに憶測として広まっておりました。
クロード様を滞りなく夫君として迎えるか或いは玉の輿に乗らねば、アナスタシア様は学院を卒業後、醜聞だけを手元に残して子爵家からの援助を打ち切られてしまうことでしょう。
……もちろん、それでは私も困るのです。
水浴を切り上げたお嬢さま方は、たっぷりのお菓子といれたてのお茶を楽しんだ後、再び四輪馬車で寄宿舎へと戻りました。その道すがら、すれ違った郵便馬車の御者からもたらされた噂にアナスタシア様が顔を真っ青にして俯かれた、ということだけはあの方の名誉のために申し添えておきましょう。
曰く――子爵領の北東の境に隣接する二ーガスの村が、山賊に襲われて焼き討ちに遭い、年頃の娘たちがさらわれた、と。
アナスタシア様は震えておられました。小さな声で懺悔の言葉をつぶやいておられました。聞いたのは多分、私だけでしょう。
――アーニス……アーニス……ごめんなさい、まさかこんなことになるなんて。私のせいで、あなたを大変な災難に放り込んでしまった――




